賤ヶ岳の合戦シリーズ。
前回お話しましたように、美濃の織田信孝は撃破され、北伊勢の滝川一益は雪崩込んだ秀吉の大軍に攻め立てられ、戦況は一見すると絵に描いたような各個撃破になりつつありました。劣勢の側がここまで分断され追い詰められていては、北陸の柴田勝家までが戦わずして秀吉の膝下に屈することになりかねません。
しかし一益の健闘によって、雪解けの時期、つまり勝家の出陣まで時間を稼ぐことに成功しました。柴田勢の先発隊・佐久間盛政が3月8日に近江の柳ヶ瀬に入ります。
柳ヶ瀬は近江と北陸を結ぶ交通の要衝で、北国街道と敦賀街道の分岐点に当たります。越前から近江に入る街道の結節点であり、同時に隘路の近江側の出口でもあります。ここを抑えられると、越前から琵琶湖東岸に兵を進めることも、その逆も事実上不可能となります。
12 kmほど南の木之本もほぼ同じ性質の緊要地で、琵琶湖沿いに南進する北国街道と、美濃に入る北国脇往還とが分岐し、木之本の制圧によって、北国街道を完全に遮断することが可能です。
唯一にして最大の欠陥は、この二つの要衝があまりにも至近の距離にあることです。つまり柳ヶ瀬と木之本は、どちらか一方を制圧しただけでは意味がないのです。
しかし佐久間盛政は柳ヶ瀬側の羽柴方防御拠点攻撃にこだわり、木之本の制圧に失敗してしまいます。確かに背後に敵の拠点を放置することはできませんが、その防御拠点(天神山砦)は北国街道を遮断するにはやや位置が悪く、すぐに脅威になることはありませんでした。羽柴勢が到着するまでの数日間、柴田勢はかなりの広範囲で猛威を揮いましたが、天神山砦にこだわって、肝心の回廊南端を占拠する唯一の機会を失ってしまいました。
一方、柴田勢の近江侵入を知らされた秀吉は、滝川方の城の攻囲を織田信雄にまかせ、伊勢攻めの兵力の大半を南近江に移動させました。17日には木之本まで進出し、周辺に兵力を展開すると同時に陣地構築を始めました。
第一陣が木之本の北方で、堀秀政や長浜衆が配置されました。第二陣は余呉湖・賤ヶ岳周辺で、中川清秀や高山重友、桑山重晴が守備に付きました。この時点での羽柴勢は5万未満で、その半数近くは少勢の寄せ集めで、秀吉が本当の意味でアテにできたのは3万未満と見ていいでしょう。
対する柴田勢は、2万から3万未満。陣形の厚みこそ無いものの、高所を選りすぐった陣取りで戦線の厚みの不足を地形でカバーする形になっています。
唯一の問題は、本陣をおいた内中尾山の位置。内中尾山は北国街道と敦賀街道を見下ろす要衝なんですが、第一線陣地からは約5 kmほども離れてまして、戦術的な状況の変化に即応しなければならない前線指揮所としては、あまりにも遠すぎました。このことが柴田勢の意思疎通にとって障害となり、機動力を鈍化させる原因ともなってしまったのです。
前回お話しましたように、美濃の織田信孝は撃破され、北伊勢の滝川一益は雪崩込んだ秀吉の大軍に攻め立てられ、戦況は一見すると絵に描いたような各個撃破になりつつありました。劣勢の側がここまで分断され追い詰められていては、北陸の柴田勝家までが戦わずして秀吉の膝下に屈することになりかねません。
しかし一益の健闘によって、雪解けの時期、つまり勝家の出陣まで時間を稼ぐことに成功しました。柴田勢の先発隊・佐久間盛政が3月8日に近江の柳ヶ瀬に入ります。
柳ヶ瀬は近江と北陸を結ぶ交通の要衝で、北国街道と敦賀街道の分岐点に当たります。越前から近江に入る街道の結節点であり、同時に隘路の近江側の出口でもあります。ここを抑えられると、越前から琵琶湖東岸に兵を進めることも、その逆も事実上不可能となります。
12 kmほど南の木之本もほぼ同じ性質の緊要地で、琵琶湖沿いに南進する北国街道と、美濃に入る北国脇往還とが分岐し、木之本の制圧によって、北国街道を完全に遮断することが可能です。
唯一にして最大の欠陥は、この二つの要衝があまりにも至近の距離にあることです。つまり柳ヶ瀬と木之本は、どちらか一方を制圧しただけでは意味がないのです。
しかし佐久間盛政は柳ヶ瀬側の羽柴方防御拠点攻撃にこだわり、木之本の制圧に失敗してしまいます。確かに背後に敵の拠点を放置することはできませんが、その防御拠点(天神山砦)は北国街道を遮断するにはやや位置が悪く、すぐに脅威になることはありませんでした。羽柴勢が到着するまでの数日間、柴田勢はかなりの広範囲で猛威を揮いましたが、天神山砦にこだわって、肝心の回廊南端を占拠する唯一の機会を失ってしまいました。
一方、柴田勢の近江侵入を知らされた秀吉は、滝川方の城の攻囲を織田信雄にまかせ、伊勢攻めの兵力の大半を南近江に移動させました。17日には木之本まで進出し、周辺に兵力を展開すると同時に陣地構築を始めました。
第一陣が木之本の北方で、堀秀政や長浜衆が配置されました。第二陣は余呉湖・賤ヶ岳周辺で、中川清秀や高山重友、桑山重晴が守備に付きました。この時点での羽柴勢は5万未満で、その半数近くは少勢の寄せ集めで、秀吉が本当の意味でアテにできたのは3万未満と見ていいでしょう。
対する柴田勢は、2万から3万未満。陣形の厚みこそ無いものの、高所を選りすぐった陣取りで戦線の厚みの不足を地形でカバーする形になっています。
唯一の問題は、本陣をおいた内中尾山の位置。内中尾山は北国街道と敦賀街道を見下ろす要衝なんですが、第一線陣地からは約5 kmほども離れてまして、戦術的な状況の変化に即応しなければならない前線指揮所としては、あまりにも遠すぎました。このことが柴田勢の意思疎通にとって障害となり、機動力を鈍化させる原因ともなってしまったのです。