そして時の最果てへ・・・

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一益の奮闘

2008-08-24 22:02:36 | 歴史
賤ヶ岳の合戦シリーズ。前回の続きです。

天正十(1582)年十二月七日、和睦を反故にして秀吉は近江に出陣。勝家が降雪で身動き取れない隙を突いたものです。長浜城主で勝家の養子だった柴田勝豊は、勝家と仲が悪く、形ばかりの籠城をした後にアッサリと降伏。

長浜城攻囲の間に秀吉は美濃の調略を完成させます。西美濃をあらかた寝返らせ、岐阜城の織田信孝は孤立無援になります。こちらもアッサリ降伏。

不意を突かれたとしても、信孝はまったく不甲斐ないですね。離反した諸将の中にはこの時期まで去就を決めかねていた者も少なくありませんでした。特に滝川領に近い美濃南西部の諸将に関しては、一益の及ぼす影響力を利用して引きとめることも可能だったはずです。それを見事に仕損じた信孝は、所詮苦労知らずの若造だったということですね。

秀吉の調略の手は伊勢にも及びます。亀山の関盛信や家老の岡本良勝までもが秀吉陣営に寝返ってしまいます。

しかし北伊勢は美濃のように調略だけでは片付きませんでした。信孝の体たらくを見た一益は独自に行動を開始。関盛信が上洛中に亀山城を奪い、岡本良勝の峯城を攻略した上で国府、関の両城に素早く兵を送り込んで鈴鹿方面の防備を固めてしまいました。このあたりの手際の良さは、名人芸と呼ぶに相応しい!


一益の予想外の健闘を見せ付けられて秀吉も黙ってはいられません。土岐多良越え、大君ヶ畑越え、安楽越えの三方から北伊勢に一斉になだれ込みました。

が、そんな力技は一益には通用しませんでした。一益は秀吉の挑発をまったく相手にせず、城を固守して全く動揺しません。一益の家老・佐治新介が亀山を開城したのは約一ヵ月後のことになります。

この時既に行動を開始していた勝家が無事に近江進出を果たせたのは、一益と配下の諸将が羽柴方の大軍を釘付けにしていたからです。滝川勢の健闘は信孝の失点を補って余りあるものでした。

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