そして時の最果てへ・・・

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アンチ秀吉サイドの状況

2008-08-15 14:46:49 | 歴史
前回お話した清州会談を経て専横を振るうようになった秀吉に対して、反発し始めたのが織田信孝、滝川一益、柴田勝家などです。

もともと織田信孝は、秀吉方の宣伝文章である「天正記」でさえ「智勇人に越えたり」と高い評価をされ、信忠の居城であった岐阜城を宛がわれ、安土城の修復の間、三法師を預けられるなど、秀吉から好意的に扱われていました。そこから秀吉は、信孝が自分の野望を容認するものと考えていたようなんですが、信孝が反発するようになると、あっさりと担ぐ神輿を信雄に切り替え、事あるごとに信雄を支持する側に回り、信孝を挑発する方向に豹変しました。

また滝川一益は本能寺の変の際に上野の厩橋城(群馬県前橋)におり、変の報に触れた北条軍の猛攻の前に敗北(神流川の戦い)。居城の長嶋に逃げ帰っていました。このことに秀吉は「敵前逃亡」とレッテルを貼り、一益の所領加増の求めを蹴飛ばしました。この屈辱的な扱いが一益を勝家・信孝側に押しやったのは間違いありませんが、秀吉にとってはそうなっても構わないと思われるほど、一益の価値は暴落していたのです。

そしてアンチ秀吉サイドの事実上の総大将が柴田勝家・・・なんですが、秀吉に戦争の口実にされるのを恐れるあまり、勝家は自陣営の強化を怠り、信孝を助けるでもなく、所領が隣接している丹羽長秀や堀秀政が秀吉に籠絡されるのを阻止するでもなく、ただただ「清州体制」の維持に努めています。結果的に、勝家は貴重な3か月を無駄にしたばかりか、清州体制の背後に潜んでいた秀吉の野望の完成を見過ごすこととなります。

勝家の発想は信長存命時代から脱却することができず、どこまでも現状維持的であっただけでなく、秀吉の野望とその実行力を見極められずにいました。

そんな対抗勢力を尻目に、秀吉は京都にて信長の葬儀を大々的に執り行います。アンチ秀吉勢力への挑発と同時に、出席した大名の秀吉側への傾斜を強くさせ、自陣営の地盤を固めることに成功しています。

そんなこんなで、勝家が気づいた時には、秀吉の影響力は中国地方東部を含む畿内全域の14カ国以上に及んでいました。

こんな有様では勝てないことぐらい、老練な勝家や一益はもちろん、さすがに信孝も承知していました。が、上杉と常に対峙していた勝家はともかく、盟主である信孝は戦争準備もその心構えもできていない状態。各個撃破されてしまう危険性を孕んでいました。

そこで反秀吉勢力は、勝家と秀吉の和睦交渉に乗り出します。一益の方はこの和睦をあくまでも時間稼ぎと考えていたようなんですが、勝家はと言うと、旧体制への未練を断ち切れなかったらしく、この和睦に並々ならぬ意欲を見せました。本交渉の使者に、自分の配下の中から秀吉と親しい前田利家、不破直光、金森長近を選んだのです。

十一月二日、彼らと秀吉との和睦交渉は成立しましたが、秀吉は誓書(契約書)の交換に応じず、和睦からわずか1か月後には近江への兵力集中を開始しています。

さらにこの和睦交渉は、勝家サイドに思わぬ副作用をもたらしていました。秀吉の飛ぶ鳥を落とすほどの勢いを見せつけられた前田、不破、金森の三名が、対羽柴戦に悲観的かつ消極的になってしまったのです。

この動揺は時とともに大きくなり、その後の勝家の動きを鈍らせ、最終的には戦争の帰趨をも左右するまでになっていきます。

第一不完全性定理

2008-08-15 13:14:14 | 雑感
前回のお話のおさらいです。何度でも書いておきますが、直観主義者は
「非可算無限を認めるとパラドックスが発生する。だから『非可算無限』という概念は排除すべきだ」
と主張しました。それに対して形式主義者は
「それだと排中律や一部の背理法も使えなくなってしまう。ならば非可算無限がちゃんと機能することを、可算無限の範囲内で証明できるよう、数学のシステムを構築しなおそうじゃないか」
と答えました。

少し補足しておきますと、「可算無限の範囲内での証明」というのは、基本的な式変形を有限回繰り返すこと、もう少し専門的に言うと、数学的帰納法の適用できる範囲での証明です。

こんな数学システムの構築を目指したヒルベルトに対して、若き天才・ゲーデルはこう言いました。
「可算無限の範囲内での証明って、それ、自然数論そのものじゃね?」

濃度の考え方を説明しましたとき、1対1でペアリングできるかどうかを調べる方法を紹介しましたが、ヒルベルトのこだわっている「可算無限の範囲内での証明」で使われる道具立て、すなわち基本的な式変形(と、それを延々と繰り返す操作)は、可算無限、つまり自然数の濃度にこだわり続ける限りにおいては、自然数と1対1にペアリングできるのではないか?

そう考えたゲーデルは、自然数論に出てくる式や証明を、全て数に変換する方法を見つけました。この「ゲーデル数化」という手順を踏むことで、自然数論の定理は全てある自然数として表現されることとなります。

例を挙げますと、
「4の倍数は必ず2で割り切れる」
という定理を表す自然数が必ず存在するのです。足し算や掛け算、等号や論理演算子(∧や∀など)、それらの式中での並び順、さらには数行にわたる式変形の過程までもが自然数に還元されてしまいます。

このようにして全てを自然数に還元しておいて、ゲーデルは「この定理は証明不可能だ」を表す自然数を表現してみせました。つまり、自然数論上の真理でありながら、自然数論という道具立てでは肯定も否定もできないような定理が存在することが証明され、さらには形式主義者が「可算無限の範囲での証明」にこだわり続ける限り、真理であるにもかかわらず、肯定も否定もできない定理が存在することが数学的に証明されてしまったのです。

真理であるにもかかわらず、その定理が証明できないような論理のシステム(公理系)のことを、「不完全な公理系」と呼びます。ゲーデルは自然数論や形式主義者の目指す公理系が不完全にならざるを得ないことを証明してみせたのです。