前回予告した賤ヶ岳の戦いシリーズ。第一回は、山崎で勝利した後の旧織田勢力と秀吉の動向について。
天正十(1582)年六月十三日に山崎の地で明智光秀を破った羽柴秀吉は、瞬く間に近江を制圧、六月下旬には美濃・尾張まで兵を進めるという、当時の常識を超越した恐るべき早業を披露しています。
この秀吉の手腕は同僚達を圧倒。秀吉とほぼ同格の丹羽長秀は政治的自立性を失い、池田恒興は単なる追従者に転落、堀秀政は完全に家臣扱いのありさま。
光秀の滅亡から十四日後の六月二十七日に、これからの織田政権の運営を決める「清洲会談」が開催されました。出席したのは、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名。なんのことはない、旧織田家臣団の利益代表者である勝家と、仇討ちの功労者である秀吉方の連絡会議であり、信長の次男・信雄や、三男の信孝(長男・信忠は本能寺で死んでいます)は無視されました。単純にこの二人の仲が悪く同席できなかったというわけではなく、宿老達はこの二人に今後の口出しをさせるつもりはさらさらなく、逆に言えば、信長も生前はそれほど息子達を軽く扱っていた証左と言えるでしょう。
こんな状況で、織田家の家督相続と後の舵取りの方針が決められました。織田家の相続は秀吉の推す、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)が継ぎ、信雄と信孝はその後見役となること。また、織田家の意思決定は4人の宿老の合議で決定すること。
柴田勝家は相続人に織田信孝を推薦して失敗しましたが、一番の懸案事項であった明智勢の旧領の再分配で秀吉から譲歩を引き出せたことで満足していた節があります。実際秀吉は居城の近江長浜城を勝家に譲渡さえしました。
実はこれこそが秀吉にとっての絶好の隠れ蓑となります。清洲会談が終わってから、誰よりも早く決定事項を履行したのが秀吉でした。他の諸将も漸進的に処理をしていきますが、秀吉のように、全てを後回しにしてまで優先させてはいません。この対応を見た秀吉は、
「このグズども!貴様らがノロノロとしかできないんだったら、儂が全部取り仕切ってやる!」
という理由で、公然と独断専横を振るい始め、山崎の合戦で味方した諸将に恩賞をばら撒き始めます。
当然こうした秀吉の態度に疑いの目が向けられ始め、柴田勝家、滝川一益、織田信孝が反発し、「清洲体制」は崩壊していくこととなります。
そもそも秀吉と勝家を首班とする連合政権において、両者の利害を調整するはずの宿老会議が秀吉に一方的に有利な顔ぶれであったことから、派閥力学的に調整機能を発揮できないことは明らかでした。さらに宿老達と匹敵する要職であるはずの後見役は、ただの形式的な立場に過ぎず、それだけで後見役と宿老の間に亀裂が生じかねませんでした。
「清洲体勢」はすぐに破綻しても不思議は無い構造であり、その破綻を最も望んでいたのが誰あろう、秀吉でした。
天正十(1582)年六月十三日に山崎の地で明智光秀を破った羽柴秀吉は、瞬く間に近江を制圧、六月下旬には美濃・尾張まで兵を進めるという、当時の常識を超越した恐るべき早業を披露しています。
この秀吉の手腕は同僚達を圧倒。秀吉とほぼ同格の丹羽長秀は政治的自立性を失い、池田恒興は単なる追従者に転落、堀秀政は完全に家臣扱いのありさま。
光秀の滅亡から十四日後の六月二十七日に、これからの織田政権の運営を決める「清洲会談」が開催されました。出席したのは、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名。なんのことはない、旧織田家臣団の利益代表者である勝家と、仇討ちの功労者である秀吉方の連絡会議であり、信長の次男・信雄や、三男の信孝(長男・信忠は本能寺で死んでいます)は無視されました。単純にこの二人の仲が悪く同席できなかったというわけではなく、宿老達はこの二人に今後の口出しをさせるつもりはさらさらなく、逆に言えば、信長も生前はそれほど息子達を軽く扱っていた証左と言えるでしょう。
こんな状況で、織田家の家督相続と後の舵取りの方針が決められました。織田家の相続は秀吉の推す、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)が継ぎ、信雄と信孝はその後見役となること。また、織田家の意思決定は4人の宿老の合議で決定すること。
柴田勝家は相続人に織田信孝を推薦して失敗しましたが、一番の懸案事項であった明智勢の旧領の再分配で秀吉から譲歩を引き出せたことで満足していた節があります。実際秀吉は居城の近江長浜城を勝家に譲渡さえしました。
実はこれこそが秀吉にとっての絶好の隠れ蓑となります。清洲会談が終わってから、誰よりも早く決定事項を履行したのが秀吉でした。他の諸将も漸進的に処理をしていきますが、秀吉のように、全てを後回しにしてまで優先させてはいません。この対応を見た秀吉は、
「このグズども!貴様らがノロノロとしかできないんだったら、儂が全部取り仕切ってやる!」
という理由で、公然と独断専横を振るい始め、山崎の合戦で味方した諸将に恩賞をばら撒き始めます。
当然こうした秀吉の態度に疑いの目が向けられ始め、柴田勝家、滝川一益、織田信孝が反発し、「清洲体制」は崩壊していくこととなります。
そもそも秀吉と勝家を首班とする連合政権において、両者の利害を調整するはずの宿老会議が秀吉に一方的に有利な顔ぶれであったことから、派閥力学的に調整機能を発揮できないことは明らかでした。さらに宿老達と匹敵する要職であるはずの後見役は、ただの形式的な立場に過ぎず、それだけで後見役と宿老の間に亀裂が生じかねませんでした。
「清洲体勢」はすぐに破綻しても不思議は無い構造であり、その破綻を最も望んでいたのが誰あろう、秀吉でした。