日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

「格差社会」など信じるな!!(後編)

2006年05月08日 01時17分20秒 | 社会と教育
 (注)一部記述を追加したところがあります。

  初めに断っておきますが、私は人間社会に「格差」が存在することを否定するつもりは全くありません。しかし、それが小泉政権の「改革」に伴った発生した現象だというのは、100%嘘だと断言できます。
  証拠として●こちらのサイトを挙げておきます。連合という労働組合ですら、貧富の格差を示す「ジニ係数」(0に近ければ近いほど格差がないと言われる)は、「80年代初頭から着実に上昇して」いると評価しているのです。
 しかも、日本のジニ係数は●こちらのPDF資料の70ページにあるように、2005年現在でも0.28足らずなのです。これは、先進国の平均より下であり、カナダやフランス、オーストラリアよりも低い数字です。これを「格差社会だ!」などと言ったら、カナダの人たちに失礼な気がするのは私だけでしょうか。

  そうは言っても、格差が増大していることは事実です。では、この「格差」とやらの原因は何なのでしょう。

  はっきり言えることは、現代がボーダーレス化の時代になったということです。
  ボーダーレス化については、以前●「卒業生に贈った言葉」でも触れましたが、簡単に言えばあらゆるものの垣根がなくなり、以前の常識では図れないところで競争を強いられるようになる、ということです。
  このボーダーレス化は、世界レベルで進んでいる現象です。我が国も、それに否応なしに巻き込まれてしまっているのが現状です。
  具体的に言えば、まず、工業製品の分野で中国と競争しなくてはならなくなったということです。
  簡単に言えば、今まで日本国内の企業が満たしていたあまり技術程度の高くない電化製品や石油化学製品、それに繊維製品といった製造業分野の国内需要に、中国製品が食い込んできたことです。もちろん、中国との貿易自体は、国交回復以降、絹糸や漢方薬などといった分野で活発に行われていました。それが、1990年代以降飛躍的に量が増えたのです。(いまや、日本の最大の輸入相手国はアメリカではなく中国)。
  そうなると、今まで、付加価値の低い製品を作っていた企業は、廃業するか、人件費の安い国に工場を移転せざるをえなくなるわけです。これが日本国内の雇用を減らすことはすぐに想像できます。
  ここで強調したいのは、中国が日本の「非熟練雇用」を代替したということです。
  独自の技術を持っている企業(例えば●こちら。必見です)や、技術者を囲い込んでいる大企業は、中国と戦う次元が違うので、怖がる必要はないのです。むしろ、「なんとなく」利益を上げてきた企業が冷や汗をかくことになったのです。今までは「なんとなく」他と同じことをやっていれば、親会社や得意先が「なんとなく」取引をしれくれた。それなのに、「中国から買うからいいや」と言われて断られる。途方に暮れてしまうのは無理がありません。

  もうひとつの具体例は、金融の世界でアメリカと競争しなくてはならなくなったことです。
  この前戸棚を整理していたら、私が高校3年生の頃(1993年)に書いていた日記が出てきました。ちょっと見てみると、証券会社が特定の顧客に対して損失補填をして問題になったという事件について、なにやら書いてあったのです。外国の投資家が、「日本の市場には透明性がない」とか「アンフェアな取引だ」とか、さんざん批判していたように記憶しています。
  それ以前でも日本の証券会社は損失補填をやってきていたのです。それなのに、なぜあのタイミングで問題視されるようになったのか。
  今ならはっきりと理解できます。なるほど、アメリカの金融界が、日本に宣戦布告してきたんだな、と。
  損失補填の問題化は、これからおまえたちの金融市場に殴り込みを仕掛けるぞ、不公正なルールというおまえたちの弱点を狙ってやるぞ、という、彼らのメッセージだったのではないかと思うのです。
  これは、別に妄想ではありません。アメリカは、すでに80年代の自動車交渉などを、Trade War (貿易戦争)と形容していたのです。向こうはやる気満々なのに、日本は全く気づいていなかったのです。
  そして、その後のクリントン政権は、日本の弱点が旧態依然とした金融業であるという点に攻撃を集中させました。金融ビッグバンによって日本の金融市場をこじ開け、外資企業が侵略し放題にしたのです。上に挙げた「なんとなく」利益を上げてきた企業の最たるものが銀行でした。基軸通貨をバックにして、政府が強力に後押しするアメリカの投資会社や金融グループに、勝てるわけがありません。
  同盟国に対して何てひどいことを・・・と思うかも知れませんが、それが現実です。アメリカも日本というシマになぐり込みをかけなくては生き残れない時代が、ボーダーレス化の時代なのです。だから、アメリカを一方的に断罪するのは間違いです。非難されるべきは無策だった我々(の政府)です。
  このボーダーレス化をもたらした最大の原因は、冷戦が終わったということです。
  冷戦時代というのは、簡単に言えば米ソが世界各国をそれぞれの陣営に囲い込み、軍事力や貿易をエサにして養っていた時代です。この時代の日本の製造業は、はっきり言ってしまえばアメリカと「だけ」競争していればよかったのです。いいものを作れば、とにかくアメリカという「親分」が買ってくれた時代だったのです。
  それが、「ソ連の弱体化」と「アメリカの貿易収支の悪化」(「プラザ合意」に顕著)をきっかけにして崩壊したのです。親分に子分を養う力がなくなったので、家から追い出されたようなものです。
  しかし、我々が1993年頃、アメリカ一家から追い出されて、一人で食って行けと言われていることに気づいていたでしょうか?
  結局、日本はあわてて「リストラ」に励まざるを得なくなったというのが、「失われた10年」とやらの正体だったというわけです。小泉政権がやってきたのも、日本という国のリストラだったという面があります(もちろん、全てではないが)。

  ここで言うリストラというのは、単に首を切ることだけを意味するのではありません(マスコミはやたらとそういう面ばかり吹聴しているが、あれこそ洗脳)。私は、「人間の配置替え」だと思っています。そして、その核心は、「使える人間はとことん使おう」という発想です。
  これは当然、収入にも反映されます。収入だけではなく、(正常な企業なら)上司からの扱いという面でも差が生じるでしょう。「使える」人材に逃げられてしまったら困るからです。
  当然、逆も言えます。代替が効くような仕事しかできない人間は、時給で雇っておけばいいのです。ものを作るなら中国の工場にやらせようか、ということもできます。それによって浮いた利益を、「使える」人間の方に回したり、競争力を高めるために使えばいいのです。
  よく言われる「格差」というのは、こういった「人間の配置換え」から生まれていると私は思います。つまり、使える人間にばかり仕事や金が集まっているのです。
  もちろん、個人レベルで見れば数々の悲哀があったでしょう。しかし、「配置換え」によって日本の企業が力を発揮できるようになったという面も、確かにあるのです。マイナス面ばかりを捉えてはいけません。
  それに、有名な●サイバーエージェントの藤田社長など、働きまくっています。「勝ち組」になるというのは、そういうことなのです。決して努力もせずにうまい汁を吸うことではありません
  
  そういうことを言っても、きっと民主党を支持されている方や、右肩上がりの時代に青春を過ごした「団塊の世代」及びその周辺世代の方々は納得が行かないでしょう。そこで、私が、「格差社会」をなくす方法をいくつか紹介します。

  一番簡単なのは、「中国と断交すること」です。
  上に挙げたように、日本の非熟練労働者は、中国の安い労働力に雇用を奪われているのです。それならば、いっそのこと全く付き合うのをやめてしまうというのはどうでしょうか。  
  もちろん、はっきり断交するなどと言わなくてもいいのです。交流事業をストップしたり、中国に進出している企業に税をかけたり、中国向けのODAや円借款を止めたり、少しずつやっていけばいいのです。

  なに?そんな極端なことを言うな?

  そういう人に言いたいのですが、それならあなたはどうやったら「格差」とやらがなくなると思っているのですか?格差が生じているのは、ボーダーレス化が原因なのです。それなら、「鎖国」をするしかないんじゃありませんか?
  「日中友好が」とおっしゃる方に言いたいのですが、中国の安い労働力を使って安い品物を買うというのは、本来日本が負担する環境破壊や資源調達に対するリスクを、中国に背負わせているということなのです。そこに、何も罪悪感は感じないのですか?
    
  他にも、格差をなくす方法はあります。それは「公共事業を思いっきり増やす」ことです。
  例えば、私は新しい公共事業のアイディアを持っています。詳しく紹介することはできませんが、かいつまんで言えば、建設業者の廃業を促進し、その受け皿として「スギ林などの針葉樹林を広葉樹林に転換する」公共事業を行うと同時に、農業や伝統工芸といった地方でも持続可能な業種の人材育成を行うのです。これなら、林床も豊かになり、陸や海の自然環境が改善させることができます。

  なに?税金の無駄遣いは出来ないって?

  じゃあ、地方にどうやって雇用を生み出すんですか?まさか、地方分権すればいいとか思っているんですか?かたまりのままだと小さなケーキが、切り分けた途端に大きくなるんですか?

  誤解を招くと面倒なのではっきり言っておきますが、私は上の二つの政策は本気で実行すべきだと思っています。しかし、もし私がポスト小泉(笑)だったとして、国会で上の二つの政策を公言したら、きっと国会で野党にけなされ、新聞の社説で叩かれる羽目になるでしょう。「アジアの友好を守れ」だとか「田中角栄型のばらまき政治は時代遅れ」などといった風にです。
  
  野党(特に社民党と共産党)や朝日新聞などのマスコミが言っている「格差社会の是正」などというのはその程度なのです。批判することが目的なのです。無責任も程々にしろ!!という気になります。
  
  わたしはちゃんと責任を持つ人間なので(笑)、最後に、お金もあまりかからず、しかも根本的な「格差社会」対策を紹介しましょう。

  それは、「教育」です。

  私は、能力開発だけの面を言っているのではありません。子どものメンタリティーを、「冷戦型」から「21世紀型」に変えていくだということです。

  「冷戦型」のメンタリティーを一言で表現すれば「努力すれば夢が叶う」ということです。言い換えれば、誰でも我欲の充足という形の自己実現ができるということです。
  冷戦型メンタリティーを支えていたのは、夢がもし叶わなくてもそこそこいい暮らしはできるだろうという楽観と、それを実現していた冷戦期の社会情勢です。日本が閉じていた、ボーダーがはっきりとしていた時代だからよかったのです。夢を本当に実現できる人間がほんの一握りだとしても、失敗を気にせず「夢」や「希望」などと言っていられたのです。日教組が平和だの人権だの気炎を上げて教育指導要領を守らなくても問題にならなかったのは、そういう時代だったからかもしれません。
  ところが、日本がボーダーレス化に巻き込まれて、その基盤が崩れてしまいました。夢ばかり追いかけていても、いつか「普通」の生活を、いつでも、さしたる努力もせずに(←ここが重要!!)実現できるだろうと思っていた若い人たちは、梯子を外されたような状態になってしまったというわけです。昔に戻してくれ、と言っても無駄です。ボーダーレス化は、日本だけがやっていることではないからです。
  そういう状況だから、「格差社会」になってしまうのです。冷戦型のメンタリティーが、21世紀のボーダーレス社会に適応していないだけです。少なくとも、日本には明らかに社会不安を巻き起こすような格差は存在していません。ぜいたくを言っているだけです。

  それなら、いっそのこと考え方を変えてみたらどうでしょうか?

  努力したい人は目一杯努力して、成功でも何でもすればいいのです。ただ、誰もがそういう生き方は出来ないということを、子供の頃からきちんと教えておかけばいいのです。
  そのとき、大きな軸になるのは、「人(社会)と関わること」と「利他精神」です。
  私たちは、中学の公民の授業で、いきなり「権利は大切だ。自由が一番だ」などと習います。これは、不幸なことだと言わざるを得ません。権利や自由というのは、他人の干渉を排除するという側面が必ずあります。権利や自由は、寂しいものなのです。
  それよりも、我々は必ず誰かを必要としていることを、そして、その誰かを助けることがまず第一なのだと教育する方が先です。

  これは、そんなに難しいことではありません。一つ、具体例を挙げましょう。

  よく、各界で成功した人が子どもに向かって講演する機会がありますが、あれを「他人のために一生懸命働いている人物」の話を聞くイベントにすればいいのです。
  消防士や、海上保安官、社会福祉事務所の職員といった職業の人でもいいですし、毎日欠かさず家の前の道路を掃除しているおじいさんでもいいのです。●こういう企業の社長さんを招いてもいいですね。
  大切なのは、そういう人が見えないところで社会を支える生き方に、確かな価値があるのだということを子どもに「植え付ける」ことです。
  そういう教育を受けて育った子どもであれば、多少年収が下がろうが、子どもが塾に行けなかろうが、学歴が低かろうが、司法試験のような難しい資格試験に落ち続けようが(笑)、人生が真っ暗になるようなことはないはずです(嫌なら、努力すればいいだけ)。なぜなら、人の役に立つというのは、誰でもできることだからです。そういう強さこそ「21世紀型」の日本人として必要なものなのです。

  教育基本法の改正が話題になっていますが、どうせなら第1条に「教育の目的は社会の一員であることを自覚し、利他精神を持った人間を育てることにある」とでも書けばいいのです。そういう人間なら、個人主義など吹聴しなくても、社会の中で自分がいるべき場所は見つけられるはずです。
  何よりも、ここを見ていらっしゃる方々一人一人が、「21世紀型」人間になることが重要です。子どもは、その姿を見て育つのですから。

  「格差社会」というのは、冷戦時代の精神構造を捨てきれない我々の「甘え」なのです。なんでも「格差」のせいにするのは、やめにしませんか?