与謝野 晶子は、1942年(昭和17年)のこの日(5月29日)に満63歳で死去しました。
本名は、与謝野志よう(しよう)、ペンネームの“晶子”の“晶”は、本名の“しょう”から取った
そうです。 旧姓は“鳳(ほう)”といい、実兄の鳳秀太郎(1872年明治5年生)は、電気工学者で、
東京帝国大学教授、電気学会第8代会長を務めた学者です。1921年(大正10年)に、夫・鉄幹と共に
文化学院を創設しています。
また、孫には、あの政治家、与謝野薫(第74代内閣官房長官)がいます。
鳳志ようは、大阪堺市で営む老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれました。家業は没落しかけて
いましたが、9歳で漢学塾に入り、琴・三味線なども習い、高校に入学する頃には『源氏物語』などを
読み始め古典に親しんだといいます。『めざまし草』、『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を
読むのが一番の楽しみであったそうです。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになり、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で
行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に
短歌を発表。 翌年東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し、当時、
古い道徳に対する反旗として大きな反響を呼んだそうです。浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した
のでした。 後に鉄幹と結婚し12人の子供をもうけています。
与謝野晶子 みだれ髪(表紙)
(ウイキペディアより) (ウイキペディアより)
また、日露戦争に際し、旅順包囲軍にある弟をしのんで、『君死にたまふことなかれ』を発表
(1904年明治37年)。 その後も次々と活動を続ける中、鉄幹の後を追って、パリに行き、イギリス
ほかを歴訪した後、帰国後 女性教育の必要性を説き、1921年(大正10年)に、夫らの協力者と共に、
お茶の水駿河台に文化学院を創設します。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させた
とのことです。
子だくさんで、おまけに鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで
夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘したそうです。多忙なやりくりの間も、創作を続け、
残した歌は5万首にも及ぶとか。『新訳源氏物語』など古典についても多くの業績を残しました。
また、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した
女傑の一人です。
今から73年前に亡くなっているのですね。お墓は、多磨霊園にあるそうです。
今日から、今年2度目の蓼科農園、“大合宿”に行ってきまぁ~す。
4月下旬の春合宿では、畝つくり、じゃがいも、さといもなどの植え付けをしました。
今回は、八ヶ岳の雪がなくなった・・ので、霜の心配がなくなり、ナス、キャベツ、カボチャ、
スイカ、ピーマン、バジル・・などの苗ものを どっさりと植えつける予定になっています。
これらの苗は、東京練馬のpookyが、丁度この時期に良い背丈になるように逆算して種まきをして、
丹精込めて育苗したものです。(今年、気温が高く伸び過ぎのキライありとのこと です。)
お天気も良いようで、作業もはかどることでしょう。