緊急事態宣言は解除されたものの、今度は東京アラートなどと言うものが出て、第2波が、、という以前に、まだ第1波が収まらないところでの緊急事態宣言解除で、また感染者が増えているという見解もある。
自粛期間中はとにかく時間があり、否が応でもあれこれ考える時間が出来てしまった。その中でも「数学」に向き合う時間が一番多かったと思う。
まぁ、仕事で数学を教えなきゃいけないからなぁ、という多少後ろ向きな気持ちと、今教えてる子供たちに合うような数学の授業って何だろうという、純粋な興味とが半々で、数学に関する本をあれこれ読んでみた。
とは言え、僕自身数学が苦手だし、いきなり超絶複雑難解な数学書なんて読んでも何も頭に入らないだろうし、それを今受け持っている子供達に面白く伝えられるはずがない。
それでだいたい、「数学が苦手な人のための」みたいな本をあれこれ読んだり、数年前買って読んだけど、ピンと来なかったものを読み返したり、「数学が苦手な人でも、これ一冊で高校数学がわかる!」みたいな本も読んで勉強したりした。
中でも「これ一冊で、高校数学がわかる!」という本は、誰でも知ってるような定理の証明を丁寧に書いてくれていて、その証明を見るのが面白かった。
高校時代は、定理の証明なんてどうでもいいから、その定理をとにかく暗記して、いろんな問題を解いていた。わからなかったら答えを見て解法を暗記した。そんな勉強法では数学の力など身につくはずもなく、どんどん数学が嫌いになってしまった。
数学の力というか魅力というかは、論理的な考え方という事もあるけど、わからない事に対してどれだけ考え続ける事が出来るか、という思考の粘り強さみたいなとこもある気がして
それが本当に自分には無いなぁ、と思うのです。高校時代、問題集をやってて、わからなかったらすぐに解答見ちゃったなぁ、、とか。。それがこのアラフォーになって数学的素質を高めようと言うのは、なかなかに無理があると思うのです。
小学校に入り、勉強というものに触れて、3年生4年生くらいから、「わかる」「わからない」において、他人との差を感じはじめ、そこからとにかく詰め込み教育で、何を学ぶかではなく、他人との競争が教育になっていった。
そして中学になり、中学生なら高校受験、高校になったら今度は大学受験と、詰め込み教育と競争の渦にどんどん沈んでいった。
そして大学になって目標がなくなった。中学時代は高校受験がラスボスで、高校時代は大学受験がラスボスだった。
大学になったら、何がラスボスなんだろう。。
就職??どこに??研究??何を??なにもわからない。。なにをしたいのかもわからない。
何も考えずにここまできてしまった。
大学に入ると、中学高校ほどハッキリしたゴールが無いから、勉強もより抽象的になり、今までの詰め込み教育では対応できなくなる。
そんな人間が今、高校生に数学を教えようというのだ。恐ろし状況である。
しかし、唯一救いとなるのは、特別支援学校で教えるという事である。
普通校で、普通に数学ⅠAⅡBⅢを教えてください、、となったら、泡を吹いて逃げ出すかもしれない。
でも特別支援学校で、今年度は大学を受ける生徒はいないから自由に授業が出来る。
もちろん指定の教科書はあるので、ある程度はそれに添ってだけど、
それでも普通校よりは自由度が高い。僕が僕なりに、感動したことを伝えられたらいいなと思う。
結局、何かを伝えるには、自分が感動したことじゃないと伝えられないのです。
ゼロから生み出すにしても、これは他の人がどう思うかわからんけど、自分はとにかく大好きだ!!と思えるものじゃないと伝えられないじゃないですか。
そんな感じで、数学の勉強をし直しつつも、僕なりの大好きを探していく作業でした。
あれこれ読んでいく本の中で、面白い部分があったし、以前読んだだけでは気づかなかった面白さにも気づけたりもした。
そして今回、すんごい面白かった本が以下の本です。
「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン著)
これは、17世紀のフェルマーという人物が、「こういうことがあるよ!」と言ったことを、その後、それを証明するために350年かかった、という信じられないノンフィクションである。
これが本当に面白かった、、という話はまた次回にします。長くなりそうなので。
自粛期間中はとにかく時間があり、否が応でもあれこれ考える時間が出来てしまった。その中でも「数学」に向き合う時間が一番多かったと思う。
まぁ、仕事で数学を教えなきゃいけないからなぁ、という多少後ろ向きな気持ちと、今教えてる子供たちに合うような数学の授業って何だろうという、純粋な興味とが半々で、数学に関する本をあれこれ読んでみた。
とは言え、僕自身数学が苦手だし、いきなり超絶複雑難解な数学書なんて読んでも何も頭に入らないだろうし、それを今受け持っている子供達に面白く伝えられるはずがない。
それでだいたい、「数学が苦手な人のための」みたいな本をあれこれ読んだり、数年前買って読んだけど、ピンと来なかったものを読み返したり、「数学が苦手な人でも、これ一冊で高校数学がわかる!」みたいな本も読んで勉強したりした。
中でも「これ一冊で、高校数学がわかる!」という本は、誰でも知ってるような定理の証明を丁寧に書いてくれていて、その証明を見るのが面白かった。
高校時代は、定理の証明なんてどうでもいいから、その定理をとにかく暗記して、いろんな問題を解いていた。わからなかったら答えを見て解法を暗記した。そんな勉強法では数学の力など身につくはずもなく、どんどん数学が嫌いになってしまった。
数学の力というか魅力というかは、論理的な考え方という事もあるけど、わからない事に対してどれだけ考え続ける事が出来るか、という思考の粘り強さみたいなとこもある気がして
それが本当に自分には無いなぁ、と思うのです。高校時代、問題集をやってて、わからなかったらすぐに解答見ちゃったなぁ、、とか。。それがこのアラフォーになって数学的素質を高めようと言うのは、なかなかに無理があると思うのです。
小学校に入り、勉強というものに触れて、3年生4年生くらいから、「わかる」「わからない」において、他人との差を感じはじめ、そこからとにかく詰め込み教育で、何を学ぶかではなく、他人との競争が教育になっていった。
そして中学になり、中学生なら高校受験、高校になったら今度は大学受験と、詰め込み教育と競争の渦にどんどん沈んでいった。
そして大学になって目標がなくなった。中学時代は高校受験がラスボスで、高校時代は大学受験がラスボスだった。
大学になったら、何がラスボスなんだろう。。
就職??どこに??研究??何を??なにもわからない。。なにをしたいのかもわからない。
何も考えずにここまできてしまった。
大学に入ると、中学高校ほどハッキリしたゴールが無いから、勉強もより抽象的になり、今までの詰め込み教育では対応できなくなる。
そんな人間が今、高校生に数学を教えようというのだ。恐ろし状況である。
しかし、唯一救いとなるのは、特別支援学校で教えるという事である。
普通校で、普通に数学ⅠAⅡBⅢを教えてください、、となったら、泡を吹いて逃げ出すかもしれない。
でも特別支援学校で、今年度は大学を受ける生徒はいないから自由に授業が出来る。
もちろん指定の教科書はあるので、ある程度はそれに添ってだけど、
それでも普通校よりは自由度が高い。僕が僕なりに、感動したことを伝えられたらいいなと思う。
結局、何かを伝えるには、自分が感動したことじゃないと伝えられないのです。
ゼロから生み出すにしても、これは他の人がどう思うかわからんけど、自分はとにかく大好きだ!!と思えるものじゃないと伝えられないじゃないですか。
そんな感じで、数学の勉強をし直しつつも、僕なりの大好きを探していく作業でした。
あれこれ読んでいく本の中で、面白い部分があったし、以前読んだだけでは気づかなかった面白さにも気づけたりもした。
そして今回、すんごい面白かった本が以下の本です。
「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン著)
これは、17世紀のフェルマーという人物が、「こういうことがあるよ!」と言ったことを、その後、それを証明するために350年かかった、という信じられないノンフィクションである。
これが本当に面白かった、、という話はまた次回にします。長くなりそうなので。