幸せについての考察 【桐棺三寸】

桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
Googleディレクトリ公認サイトです。

「池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢」で終わらぬために

2004-11-19 | 戯言 Ⅰ

二昔(ふたむかし)程前の或る若者の話…。

彼は大志を抱いていた。
しかしその発露となった切掛けは、
学歴というレッテルを貼付して貰わんとする者たちへの細(ささ)やかな批判、及び抵抗。
平凡さの中に於いての優劣では敵わぬとのある種の逃避、そして諦(あきら)め。
そこに確たる才を見出した訳ではなく、あれもこれも嫌(いや)との消去法により生じた処世。
更には、頂(いただき)に到達するに、より安易と思われた道。

彼は結局、頂に至る山中に於ける幾多の道、悉(ことごと)くに挫折し、というより早々に見切り、他に頂に到達可能な道はあるまいかと、その山中を放浪し続けることとなってしまった。
そして、過去に自らが対比し意識した、平凡さの中に幸福を見出す術(すべ)を持つ人々よりも結果、遙か低層を徘徊することと相成った…。

これから夢に邁進せんとする者たちよ。
夢に向かい歩み出した後に、躊躇する必要も失敗を憂う必要も、全くない。
しかし、一歩踏み出す前に一度は自問すべきではあろう。
決意したその道は、如何なる過程に於いて歩むべしとの結論に至ったものなのか。
また、その道を歩むことそれ自体が夢なのか、或いは名声を得ることのみが目的なのか。
仮に名声のみが目的であるとするならば、そこに至る多様に過ぎる道全てを試行出来ぬままに、人生は終わりを告げることとなるであろう。

そして現に今、大志の道に迷いし者たちよ。
現在立脚したるその場が例え不本意なものであろうとも、眼前に在る労働、遊興、そして休息、全てに於いて全力を尽くすべきではあるまいか。
さすれば荊(いばら)の陰に、これまで見えざりし道があったのだということに気付くやも知れぬから…。

人気blogランキングへ
「もくじ」へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 誰も居ないグラウンド | トップ | アポトーシス »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

戯言 Ⅰ」カテゴリの最新記事