桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
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私は典型的な、いわゆる「淋しがりやの孤独好き」です。
自分のテリトリーというものが、或いは他の人よりもより強固なのかもしれません。
1人でいる時間が必ずなくてはならない。しかしそれでいて、ずっと1人というのも寂しいという、極めて贅沢な性格のようです。
おまけに感情的でもあり、そのため人の好き嫌いも激しい…。
そんな私は、ごく身内を除く周囲の人からは「クールな人」と思われているようです。
そんな姿勢でいるのは、おそらく周囲と程よい距離を保って自他共に不快な思いをしないようにせんがための、「本能的な自己防衛術」なのでしょう。
ですから、世に言われるような「成功事例」…
例えば、たくさんの人と出会い人脈を作ったり、組織を立ち上げたり、会社を興して人を雇ったり、スケジュールに余裕がないほど予定がいっぱいだったり、とか…。
そういう生活にあまり憧れを感じないのは、そうした性格だからなのでしょう。
私のようなタイプは、「お金持ち」とは無縁なのかもしれませんね。
自分のスタイルに合った「幸せな人生」というものを見つけたいと思います。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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「哲学者」というと、何かとても難しいことを書いたり考えたりしているというイメージがあります。
実際その通りだと思うのですが、その基(もと)となる部分は極めて日常的、現実的な所から生じてきているように思います。
例えば、キルケゴールの哲学の基(もと)は、恋に破れた相手の女性に対する想いだったりとか、ソクラテスの場合なら、妻に対する苦悩だったりとか…。
そういった、誰にでもある想いや悩みをつきつめて考え抜いていって、人類全てに共通するような「哲学」にまで昇華させたのではないかと思います。
私たちも、身の周りに生じる様々な「想い・悩み」をただそれだけのこととして捉えるのではなく、一般論、或いは世の中全てに共通する「何か」を見出す基(もと)として考えてゆくといいのかもしれませんね。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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何も考えずに生きてられてるっていうことは、必死で何かを考えてくれてる人が他にいて、その人のおかげで好きなことができてる、ってことじゃないでしょうか。
自分でしっかりと「何か」を考えていないと、「為政者」や「お金持ち」の考え一つで、気付いた時には思いもしない所に流されているハメになりはしないでしょうか。
確かに、何も考えずに無責任にグチをこぼすだけの人たちもいるでしょう。
しかし、そういう人に限って、イザとなったら「アイツが悪い。会社が悪い。国が悪い。世の中が悪い」と、自分以外の何かのせいにするだけなんじゃないでしょうか?
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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「幸せ」っていうのは、どういう状態をいうのでしょう?
今この瞬間、楽しく、不安も無く、気楽っていう状態でしょうか?
例えば今日、仕事をサボって好きなことをしてたとします。
それって、幸せな状態でしょうか?
明日、職場行ったら怒られるな、とか、もうあそこには行けないな、とか、必ずしも幸せな状態とは言えないと思います。
と、言うことは「幸せ」っていうのは、今この瞬間だけのことではないのでしょう。
他の例え話も。
私たちが選んだ、或いは棄権することによって決まった政治家が、他国へ武力侵攻することを決めたとします。
で、その軍隊が、遠くの知らない国へ行って人をいっぱい殺してるとします。
しかし、私たちはそんなことを知ろうともせず、ただ「幸せだ~」と言ってるとする…。
それって本当に幸せな状態でしょうか?
更には、水虫の足を掻いてると気持ちいいでしょうけど、それも幸せな状態でしょうか?
「自分だけ」が「今この瞬間のみ」幸せならそれで「幸せ」、なのでしょうか…。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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どのような人を「カッコいい」というのか条件を挙げればキリがありませんが、個人的な価値観に基づき強引に集約するとしたならば、下記の4条件ということになりましょうか。
・自らを律していること
・自分を客観視できること
・「マスロウの5段階の欲求」を征していること
・欲望に対する動作が緩慢であること
(これは、落語の立川談志師匠の言(げん)でしたか…?)
エラそうに書いてはいますが、私は勿論この条件を満たしてはいません。
自分が持ち得ず、それを渇望するからこそ「憧れ」となるのでしょう。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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「幸せ」には、「主観的なもの」と「客観的なもの」があるように思いませんか?
自分はとても幸せだと思ってるんだけど、周りから見るとヘンだとか。
逆に、周りから見るととても羨ましく思えるんだけど、実際にはとても不幸だとか…。
自分で感じる「幸せ」と、周りから見える「幸せ」と。
その両方を満たせたら素晴らしいと思うんですけど、いかがですか?。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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どうしようもなく手詰まりになってしまって
もう、どちらに進んでいいかも分からなくて
なにも新しいことなんか起こりそうもないとき。
それでも自分自身で
できるかぎりのことを「ずーっ」とやっていると
ふしぎと目の前に「すーっ」と蜘蛛の糸が下りてくる。
だからといって上ばかり見上げていても
なにも起こりはしない。
それは
期待するものではなく
切望するものでもなく
そう、信じるもの…。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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前回の続きです。
幽霊や宇宙人、UFO、UMAなどの、いわゆる「超常現象」については、「信じる」「信じない」と意見が真っ二つに分かれるようです。
私個人の考えとしては、世に言われている「超常現象」のうちの約8割方が、科学的に解釈可能なことなんじゃないだろうか、と思っています。
そして、あとの2割…。
これについては、「わからない」というのが本当のところじゃないのかな、という感じでしょうか。
「ある」とも「ない」とも言えない、断言はできない、という…。
例えば、前回の話。
内容通りに受け取れば、「心霊現象」と言えると思います。
しかし、以下のような「科学的解釈」もできるかな、と…。
・ 私は、実は以前にその男の子の写真を見ていた。
・ しかし、「見た」という「行為」についてはすっかり忘れてしまっていて、「記憶の深層」にその「画像」のみが残っていた。
・ そして、その「画像」は「顕在的な意識」としては認知されていない。
・ 「金縛り」については既に科学的な解釈があるので、それに従うこととする。
・ 金縛りに遭うという、一種不安、且つ恐怖とも言える「超常的な心理状態」、及び「顕在」と「潜在」の意識が混濁するという中において、深層に潜(ひそ)んでいた「画像」が「顕在」となって現状況と結びついた。
・ 中年男性も同様に、意識が混濁するさなかにおける、いわゆる「幽霊の正体見たり枯尾花」的な状態であった。
… あなたは、どう思いますか?
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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*この季節にそぐわないのですが、私が過去に体験したちょっと怖い話です。
この手の話が苦手な方は、読まないで下さい。
20年ほど前に居たアパートでの話です。
そこはアパートといっても、雑貨屋2階の空部屋を貸しているという感じで、2階の奥には、その雑貨屋を営む母娘2人が住んでいました。
入居時から、部屋の柱の上部に“おふだ”のようなものが貼ってあるのが気になっていたのですが、そこに越して来てからというもの、頻繁に金縛りにあうようになりました。
ある夜、いつものように金縛り状態となった時、ふと足元のほうを見ると、灰色のスーツを着た、疲れた感じの中年の男性が立っていました。
そしてまた別の夜は、上半身だけ金縛りとなり、横をみると、白シャツに黒い半ズボン姿のぼっちゃん刈りの男の子が、両手で私の胸のあたりを押さえつけていました。
そんなある日、いつもは締め切ってある母娘の住む奥の部屋の扉が開いていたのです。
何気なしに中をのぞくと、黒い額縁に飾られてある写真が目に入りました。
そして、その時こう思ったのです。
…
…
「あの時の男の子だ…」
見かけることのない父親は、足元に立っていた男性だったのでしょうか…。
詳細は怖くて聞く気になれませんでした。
…
この話、どのように感じたでしょうか。
いわゆる心霊現象だと思いますか?
或いは、科学的に解釈できることだと思いますか?
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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「責任者じゃないから」
「正社員じゃないから」
「その立場にないから」
「自分にはその権限がないからできない、しない」という意味のことを言う人がいます。
しかし、それではその「権限」が与えられた時、急に魔法のようにその立場にあった「しかるべきこと」ができるようになるのでしょうか。
何でも決められそうな社長だって大統領だって、例えその範囲は広いとしても、決められた「権限」というものがあります。
そして、その範疇において、自分の「要求・欲求」を満たすべく、行動しているものと思います。
例え、一社員・一バイトだったとしても、そして「権限」の範疇に差があったとしても、行動できる範囲というものはあると思います。
今の権限の範疇において、自分の「要求・欲求」をできる限り満たすべく行動できない人は、どんなに権限が与えられたとしても、やはり自分の意志で動くことなどできないのではないでしょうか。
一生どこかの組織の最下層にへばりついて生き続ける、というのなら別ですが、それならば文句を言わず、何でもハイハイ聞いているべきでしょう。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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例えばここに、ある「考え方」があるとします。
そして、自分がそれを知った時、「なるほど、そのとおりだ!」と、感銘を受けたとする…。
それと関係のない他の文献や他の人の話ともつじつまが合うような気がするし、何よりも自分自身が「そうとしか思えない」という感覚となる…。
私個人はこうなった場合、この「考え方」と少し距離を置くようにします。
私自身が、欠点だらけの未熟人間です。
その私という人間の心情とピッタリくるという所に、「作為的」な何かを感じてしまうのです。
本当にそれが「真理」なら、自分自身の触れられたくない部分も見せつけられてしまうような気がして…。
そして、その未熟である自分が、「どう考えてもこれが本当だ、こうとしか思えない」という結論に至らざるを得ない、という部分にも疑問符が生じます。
「オレは、この世で一番頭がいい」と思っているのならともかく、そうではない人が「これが真実」と思えてしまう、という怖さ…。
つまり、「ウソか、ホントか」ということではなく、それを鵜呑みにすることなく、自分自身の力で考えるキッカケとして活用したい、ということです。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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「子どもは親を選んで産まれてくる」という概念もあるようです。
或いは、単に知識不足だと言われるかもしれない。
しかし、私はあえてこう言いたい。
「子どもは親を選べない」、と。
もちろん、冒頭のような価値観を持つ方を否定するものではありません。
そしてこれは、もしかしたら「善いか悪いか」「真実か否か」ということではない、個人的な「好き嫌い」という感情からくる考え方かもしれない…。
しかし、虐待されて苦しんでいる、または死んでゆく子どもに対して、
「きみは、その親を選んで産まれてきたんだからね。」
などとは、私には言うことはできない…。
子どもには、「どこの子どもとして産まれてこよう」という選択はできないのだから、少なくともオトナには、産まれてきた子どもが、
「ここに産まれてきて、よかったな」
と、思えるような環境を整えておく責任があるように思います。
「子どもは親を選んで産まれてくる」とは、
「年齢的な意味でのオトナ」に対する「なぐさめ」
だと言ってしまっては、言い過ぎでしょうか。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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私は「意識する」女性を目の前にすると、どうも言動が「ギクシャク」してしまいます。
自意識過剰になってしまうのでしょうか。
そんな私の自己暗示が、
「縁があんなら、なんかあんだろ」
です。
何とか話すキッカケをつかもうとしたり、
何とかデートに誘おうとしたり、
何とか…、
など、意識が過剰に働きそうになるとき、
この言葉で意識を抑制させるのです。
縁があるなら、話すキッカケくらいあるだろう。
縁があるなら、食事する機会くらいあるだろう。
縁があるなら、…。
と、いうわけです。
実際、もし相手のほうも多少なりとも私のことを「意識」していてくれたとしたら、また、互いに話すキッカケを欲していたとしたら、自然とそういう機会も生じてくるでしょう。
逆に、キッカケも何もなければ縁もない…。
私には、そんなくらいの意識でちょうどいいようです。
そして、「縁がある」との判断に至れば、あとは、
タイミングと、
スピードと、
ちょっとの勇気、
でしょうか。
「結果」…?
それは聞かないで下さい…(苦笑)
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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よい上司に恵まれると、とてもラクです。
自分の目の前にある仕事にだけ集中していれば自然と結果が出るように、段取りを組んでくれる。
「悪いことは自分のせい、いいことは部下のおかげ」にしてくれるので、普通に仕事をしているだけでよい評価を得られる。
頼りがいがあるので、いざというときには助けてくれる、など…。
その点、悪い上司にあたると、大変です。
状況をよく把握していないと思わぬ所からとんでもない課題が降りかかってくるので、段取りや仕事の流れを自分で作らないといけない。
「いいことは自分のおかげ、悪いことは部下のせい」だから、常にミスのない完璧な仕事をこなせるようにならなければならない。
頼りにならないので、自己防衛のためにあらゆる能力を向上させておかなくてはならない、など…。
…?
自分にとって、本当にプラスになるのはどちらなんでしょうかね。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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常に、「他の人がどうしたら喜んでくれるか」という観点で思考・行動するとよいと、個人的には思います。
特に、私のように根本が「ジコチュー」な人間は、そのくらいでちょうどいいかもしれません。
そしてこれは、将来、独立・起業などを考えている人は尚更だと思います。
仮に、今の仕事に不満があって「ここはカネを稼ぐのだけが目的だ」などと思っている人が、独立したと同時に急に、「お客さんのため」という観点で物事を考えることなどできない、と考えるからです。
賛否両論ありましょうが、会社組織は現実的に言って「上司が客」です。
(ただし、これは「部下からの観点」であって、上司がこのような考えではいけませんが)
常日頃から、「ゴマすり」ではなく、本当に「客」が望んでいることは何か、という観点で思考・行動すれば、結果的に自分のスキルを高めることになりますし、独立した際、極めて有効な能力ともなるのではないでしょうか。
また、それは現職においても、昇進・昇給などにもつながるものだと考えます。
更には、自然と人間関係も良好になるでしょうから、そういう点での余計なストレスも軽減されてゆくでしょうし…。
そして、これはいけないことなのですが、「他の人がどうしたら喜んでくれるか」という発想を裏返すと、「どうしたらヤツをツブせるか」ということも分かるようになるかと思います。
しかも、周りは全てあなたの味方です。
いざというときに、身を護(まも)る術(すべ)にもなるでしょう。
それならば、いつも「どうしたら他をひきずりおろせるか」「どうしたら自分だけいい思いができるか」という観点でいる人は、その発想を裏返せば「他の人のために」ということも分かりそうに思いますが、なぜか不思議とそれはできないようです。
ただし、「ボクは他の人のことを優先して考えてる」と思っていても、本当のところは「保身目的」でそうしているのにそれに気付いていない、という人もいますので、その点注意が必要だと思います。
今日も最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…。
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