桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
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あなたは、
「今、私は、お腹がすいている。」とか、
「今、私は、頭が痛い。」とか、
「今、私は、ムカついている。」とか、
考えたりしますか?
考えなくても、自然に感じていることと思います。
それに対して、他の人の、そのようなことについてはどうでしょうか。
あの人は今、お腹がすいているとか、頭痛がしてるとか…。
自然に感じることはないと思います。
しぐさや様子から、「そう見える」と判断しているのではないでしょうか。
つまり、他者のことより自分のことのほうが、
より「迅速」に、「敏感」に、そして「強く」感じている、
と言えると思います。
あなたが、無人島かどこかで独りきりで生きるのならともかく、
幸せになるのも、いい思いをするのも、お金を稼ぐのも、
全て「他の人たちの中において」のこととなります。
「自分のことのほうが考えなくとも自然に」そして「より強く感じる」わけですから、
例えば、仕事などの評価にしても、あなたが「あの人と私は同じくらい頑張っている」と感じているとしても、実際に客観的に見たら、実は「あの人」のほうが少し多く頑張っている、ということもあるかもしれません。
また「自分が今、立っている位置」というのも、見誤る可能性もあります。
「自分のことは自然に感じ」そして「他の人のことは意識しなければ解らない」のですから、多くの人々がいるこの世の中において「幸せ」を掴みたいと思うのならば、自分のことよりも先に、他の人のことを考えるくらいでちょうどいいのかもしれませんね。
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『不動Vで5年連続賞金女王 宮里は1打差の2位』 (共同通信)
「谷亮子選手は、1日に腕立て伏せを1000回やる。」(3000回説もあり)
こう聞いてあなたはどう思うでしょう。
「よ~し。私もがんばるぞ!」と思う人もいるかもしれませんが、
大半の人は、
「すごいと思うけど、ヤワラちゃんはスポーツ選手だからね。」
「私は一般人だから、そんな必要ないよ。」
というところでしょうか。
或いは、「へぇ~」「だから?」と思うかもしれない…。
冒頭の、女子プロゴルファーの不動選手は、
「サラリーマンの人は、1日8時間働く。だから、プロである私が8時間練習するのは当たり前。」
と言うそうです。
一般人は、「あの人は特別な人だから」と思い、そこにある「何か」を見習おうとはしない…。
特別な人は、「あの人は一般人だから」とは思わず、そこにある「何か」を見習おうとする…。
一般人である私たちが、スポーツ選手並みの運動量をこなす必要は確かにないでしょう。
しかし、それに匹敵する「何か」をしているのだろうか…。
私たちの「日常」は、その知名度は別にして、はたして谷選手や不動選手の「日常」に匹敵するほどのものなのだろうか…。
どこを見て生きようが、確かに自由でしょう。
しかし、自分より低い所ばかりに目をやって、「ムカついたり」「安心したり」してるのって、どうなんでしょう。
けっこう気付かぬうちに、日頃見てるほうに、自分自身も行ってしまうような気がします。
私は出来るだけ高い所を見つめていたい。
しっかりと、地に足はつけたまま…。
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「仕事」や「異性」に対する成功事例について。
一番いいのは、
適度に成功と失敗を経験すること。
最悪なのは、
過去に「偶然により」成功したことがあり、
それを自分の実力によるものと勘違いしていること。
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あなたの、自分の仕事に対する「不満の語尾」は、どのようなものなのでしょうか。
「~してくれない」「~してほしい」「~がそうすべきだ」というようなことですか?
それとも、
「~したいけどできない」「~させてくれない」「~させてほしい」というようなことですか?
昨今、どうも起業というのが「自分が幸せになるために選択する手段の1つ」ではなくて、それ自体が目的になっているような気がします。
何かで起業すれば幸せになれる、というような…。
会社勤めも、決して悪いことではないと思います。
また、サラリーマンでありながらでも、自分の行動次第でかなり「起業」に近い夢が実現することも或いは可能かもしれません。
それは、中小・零細企業なら尚更のことと思います。
上述の「不満の語尾」の質問について。
少なくとも答えが「前者」であるならば、起業などするべきではないでしょう。
単に現状がイヤで、そこから逃げようとしているに過ぎないのだと思います。
また「善し悪し」としてではなく、人の上に立ったり、人を引っ張っていくことにも不向きだと考えます。
独立することだけが幸せになる方法ではありません。
その人その人に合った方法というものが、あるのではないでしょうか。
「起業をすれば幸せになります」っていう「エサ」をぶらさげて、自分が肥え太ろうとする「新興起業家」もいることでしょうから…。
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「桐鳳柳雨(とうほうりゅうう)」と申します。
漢字だと面倒ですので、「リュウ」とお呼び下さい。
首都圏在住。 うお座。 A型。
いわゆる「新人類」と呼ばれた世代です。
私の特徴をいくつか挙げてみると、
「めんどうくさがり」
「エエかっこしい」
「あまのじゃく」
「ヒネクレモノ」
「群れるのがキライ」
そして、
「淋しがりやの孤独好き」です。
心の奥底になんとなく自己嫌悪感と劣等感があり、自分が存在しているということに対して「恥ずかしさ」を感じてしまう…。
そのため1人きりでいるほうが好きなのに、ずっと1人きりというのでは淋しい…。
自己中心的でありながら、そのくせ人には気を遣ってしまう…。
なんとも、ゼイタクかつ複雑な人間です。
そんな私は、自分の価値観を人に押し付けることも、また押し付けられることも好みません。
仮に私の価値観をある人に押し付け、その結果、その人が不幸な人生を歩むこととなってしまったら…。
「責任取れ」と言われても、どうしようもありません。
また、その逆もあるでしょう。
「多様な価値観、大いにあり」
「自分の幸せは、自分で考え、自分の責任において、自分の意志で掴むべき」
だと思います。
あなたが何かを考える・感じるキッカケとなるようなものを提供することができたなら…。
そしてそれが、あなたにとって少しでもプラスに作用するものであったとしたならば…。
こんなに嬉しいことはありません。
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*「トラックバック練習板:思い出に残った海外旅行は?」投稿文です。
何と言ってもグァムでの「どろんこクイズ」で、ドロに飛び込み帰国してきたことです。
昭和最後の年に初めて東京ドームで行われた、「史上最大! 第12回 アメリカ横断ウルトラクイズ」。
参加者約2万人の中から、「○×クイズ」「成田空港でのジャンケン」「飛行機内での400問ペーパークイズ」を勝ち残り、グァムまでたどりつきました。
この時点での残人数、約40人。
しかし運もそこまで…。
飛び込んだドロは顔料を溶いて作ったものらしく洗ってもなかなか落ちず、帰国後もしばらくの間、頭皮や耳の中などに残り続けました。
何ヶ月もの間、耳掃除をすると出てくる乾いたドロが、過ぎ去った悔しさを呼び起こしていたものでした。
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顔の各パーツの形状や配置は外科的な方法でしか変更出来ないかもしれませんが、「顔つき」というものは、個々人の平素の気の持ち方や行動により変わるものと考えます。
例えば同じ男でも、Hサイトを見ている時の姿形と、スポーツの試合等に真剣に取組んでいる姿形とは、全くその魅力が異なるものだと思います。
それを数年・十数年にわたり続けた結果の差には、見た目にもかなりの開きが生じてくるのではないでしょうか。
また、そうして生きてきた結果、発散されてくる「オーラ」というものもあるかと思います。
更に、いわゆる「ダイエット」についても。
「金を払って横になっているだけ」「特定の食品を摂るだけ」「何も食べないだけ」ということで理想の体型を得ようという発想そのものに既に魅力がないのでは、などとも感じます。
つまり「日頃どのように考え、生きているのか」ということが、容姿ということについてもかなり影響してくるのではないのでしょうか。
(←いま何位?)
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明日もまた、お会いできたら嬉しく思います…
AV(という呼称は古いのでしょうか?)等には、興味はありながらも疎い私ですが、女性をエクスタシーに導く技巧に長けた男優が登場したりするようです。
しかしああいう男優の「技術」って、生理的な現象としての「快感・絶頂感」はあったとしても、女性に「満足感」ってあるものなのでしょうか?
「笑う」という生理現象で例えると、何だか無理矢理押え付けてくすぐって笑わせているような…。
確かに「笑い」という生理現象は起きるのだけど、「また同じように笑わせて欲しい」とは思わないんじゃないかな、というような…。
女性にも、多様な嗜好の持ち主の方がいることでしょうから一概には言えないのでしょうけど、やっぱり、そのようにして乱れる女性の姿態を見たいという、男の側の願望からの行為だと思うんですけれどね。
因みに私自身の拙い経験では、指等による女性局部への愛撫等があまり執拗に過ぎると、肉体的な快感は発生するかもしれないけど女性の心情としては「もういい」という感じになるような、そんな印象を持ちますけれど…。
ぜひ女性の方の意見を聞いてみたいものですが…、難しいでしょうね。
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~妖惑書~
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「生きててもいいことないから」という理由で自殺しようとする人がいます。
逆を言えば「いいことがあるなら生きていたい」ということでしょうか。
そういう人を、すごく「ワガママ」「ゼイタク」と思ってしまうというのは、酷いですか?
とは言うものの、漠然と「死にたい」と思っている人にならともかく、本当に行動に移してしまう人には、そんなこと言っても無意味だということはよくわかっているつもりです。
そのような人を救うのは、私のような「シロート」ではなく、精神科医とかプロの方々の領域なんでしょうけれど。
それと、自殺した人について安易に「弱い」とか発言する人たち…。
アンタが好き勝手なこと言ったりしたりできるのは、そういう神経の細やかな人が傍にいてくれるからなんですよ。
ひょっとして、そうやって「弱い」で片付けてしまうような無神経な人が身近にいたから、その人は選ばずに済むかもしれなかった、そういう道を選んでしまったのかもしれないですよね。
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「容姿・人格、共に大人」である中に
「わずかに」子供っぽさが残っているから
それが魅力になるのであって、
ただ「外見オトナ・中身ガキ」ってだけじゃ
外見もガキってヤツの魅力に敵うはずがない。
失敗した時、自分が恥をかくのを恐れて告白できない人。
相手の気をひこうと、わざと冷たく振る舞ったり
わがままを言ったりする人。
あなたは、あなたのことよりも
自分のことのほうを大事に考えている人に
魅力を感じますか?
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人は 生きるために生きているのか。
もし そうこうすることにより
死を早むることになったとしても。
或いは 俺の中の本能が
それを止(と)めようとしても。
糞便 血漿 血清 血液
精液 髄液 骨髄液
個々の人間は
人類という名の
更に大きな人間の
個々の細胞。
今、
丁度、
オレが、
こうして、
ここに居る、
ということか。
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二昔(ふたむかし)程前の或る若者の話…。
彼は大志を抱いていた。
しかしその発露となった切掛けは、
学歴というレッテルを貼付して貰わんとする者たちへの細(ささ)やかな批判、及び抵抗。
平凡さの中に於いての優劣では敵わぬとのある種の逃避、そして諦(あきら)め。
そこに確たる才を見出した訳ではなく、あれもこれも嫌(いや)との消去法により生じた処世。
更には、頂(いただき)に到達するに、より安易と思われた道。
彼は結局、頂に至る山中に於ける幾多の道、悉(ことごと)くに挫折し、というより早々に見切り、他に頂に到達可能な道はあるまいかと、その山中を放浪し続けることとなってしまった。
そして、過去に自らが対比し意識した、平凡さの中に幸福を見出す術(すべ)を持つ人々よりも結果、遙か低層を徘徊することと相成った…。
これから夢に邁進せんとする者たちよ。
夢に向かい歩み出した後に、躊躇する必要も失敗を憂う必要も、全くない。
しかし、一歩踏み出す前に一度は自問すべきではあろう。
決意したその道は、如何なる過程に於いて歩むべしとの結論に至ったものなのか。
また、その道を歩むことそれ自体が夢なのか、或いは名声を得ることのみが目的なのか。
仮に名声のみが目的であるとするならば、そこに至る多様に過ぎる道全てを試行出来ぬままに、人生は終わりを告げることとなるであろう。
そして現に今、大志の道に迷いし者たちよ。
現在立脚したるその場が例え不本意なものであろうとも、眼前に在る労働、遊興、そして休息、全てに於いて全力を尽くすべきではあるまいか。
さすれば荊(いばら)の陰に、これまで見えざりし道があったのだということに気付くやも知れぬから…。
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マンションに囲まれし小さきグラウンド。
少年が一人、陽(ひ)は天に在り。
グラヴをはめ、ボールをコンクリートの壁に放る。
アンダースローで投げてみる。
スライダーを投げてみる。
松坂投手をマネてみる。
大人が一人、グラウンドに来たり。
曰く、ここではボールで遊ぶな、と。
危ないから、五月蝿いから、モノを壊すから、と。
少年の傍らには、太くて高くて黒い鉄柱。
かつてはこの鉄柱の上に、
籠球(ろうきゅう)用の籠(かご)と板とがあったとか。
早朝より籠球に興じる子供たちに
苦情が寄せられ外されたとか。
誰も居ない小さきグラウンド。
少年も居らず、陽はまだ天に在り。
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>距離 (na-co)
自分自身の心理状況によるのではないでしょうか。手が届かなくても幸せに感じられるときもあれば、近くにいても寂しいときがあるように思います。
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そうですね。
「自分がどうであるか」ということが大きいと、確かに思います。
「手が届く」というコトバには、「物理的な距離」だけでなく「精神的な距離」という意味合いもあるかと考えます。
自分が繋がっていたいと想う人や物事に、確かに繋がっているという確信。
または、こちらが望んだときにいつでもそれに届く、という確信。
あるいは、「孤独を望む時」っていうのもありますよね。
例えば、私なんかは「淋しがりやの孤独好き」なので、独りの時間っていうのは絶対必要ですし。
それらは全て、「自分が今、どう在るのか」ということなのでしょう。
「自分が今、どのようにして居るのか」ということではなく…。
人が「淋しい」と感じるのは、どんな時なんでしょうか。
「淋しい」って定義を、何か気の利いた「戯言(ぎげん)」で表現できないでしょうかね…。
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会社や学校で、何十・何百という人たちに囲まれ
家に帰れば家族もいるのに…
だけど、なぜか淋しい…
そんなことってありますよね。
逆に、1日ずっと1人きりで家に居るのに
淋しさなんて感じない日もあったりして…
不思議ですよね。
要するに
自分自身と、自分が求める人や物事との距離の問題
ということなのでしょうか。
自分が求める人や物事は
今、あなたの手の届く所にありますか?
淋しくないですか?
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