幸せについての考察 【桐棺三寸】

桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
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寝てる間(あいだ)に心臓が、止まればいいなと願う夜

2005-02-05 | 戯言 Ⅰ

光も届かぬ 深い深い海の底
水の冷たさも しょっぱさも
暗さも 息苦しさも 水圧も 
何もかも感じさえしなければ
これほどの楽園はないのでは

誰も来ない真っ暗な深海の底に
背中を丸めて横たわる 静けさ
誰か 見当たらなくなった私を
探しに来る人はいるんだろうか

陸(おか)に上がっていても
海底に沈んでいても
何も変わりはしない


寝てる間に心臓が
止まればいいなと願う夜

しかし胸に手をやれば…
どくどく、どくどく、どくどく、どく、
…心臓が「生きる、生きる、」と
脈打っている。
弱々しくはあるけれど…

そして結局
また、朝が、やってくる…。




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世の親御様方へ

2005-01-29 | 戯言 Ⅰ

子は親の所有物ではない!
保護すべき義務はあっても
好きに扱う権限などがあるものではない!

この世に産まれた瞬間から、
親とは別の、
その子自身の年表が刻み始められている。
受精し着床した瞬間から、
親とは別の、
その子自身の人生が始まっている。

迫り来る恐怖や肉体の苦痛に
救いを求めて泣き叫ぶ子供たち…

欲望や快楽を自制する術(すべ)も知らず、
数多(あまた)貴き新しき生命・人生を無駄にせしめ、
子に、煉獄の猛火を浴びせし者どもよ。
貴様らこそ、地獄で業火に焼かれるがいい!!




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小部屋の中にて

2005-01-22 | 戯言 Ⅰ

外界とは隔絶された小部屋。
彼らは数匹のカエルと共に入る。
全く居心地が良いわけではなく、
適度な、しかし当人にとっては
けっこうなストレスもある。
特にこの部屋から外に出る理由もなく、
飛び出してしまいたいほど
イヤなことがあるわけでもなく、
深く考えることのないまま
ダラダラと居続ける。

彼らの入室した日は、とても良い天気だった。
室内に隠(こも)る彼らには、
外界の様子を伺い知ることはできない。
というより、進んで知ろうともしない。

何時(いつ)しか外は、豪雨暴風へと変わっている。
しかし、彼らの外界に対するイメージは、
入室した時の良い天気のまま。
これほど外界が変動しているというのに、
彼らは適度な、しかし当人にとっては
けっこうなストレスの中、
10年を1年ほどの感覚でもって
日々を過ごしている。

カエルたちも、ぬるま湯から
ほんの僅かずつ、その湯温が上がり
遂(つい)には、自らの体が知らぬ間に
茹で上がってしまうであろうことに、
まだ気付いていない。

彼らは、この小部屋が永遠でないことに、
そして、いずれ自分たちの居場所が
どこにもなくなってしまうということに
いつ気付くのだろう。




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夜道を歩かねばならない人々

2005-01-15 | 戯言 Ⅰ

夜雨(よさめ)に濡れた如くに暗く光る土瀝青(アスファルト)。
衣嚢(ポケット)に手を入れ、やや俯(うつむ)いて早足に歩く。

そうだ!
俺は、自転車に乗ることさえも許されずに歩いているんだ!
もし、自転車が見付かってしまったならば、
その自転車は忽(たちま)ちのうちに取り上げられ、
投げ壊され、そして、俺は罵られるだろう。

しかし見よ、彼等を!
彼等は、搾取されることのない富や権利を受けるばかりか、
自転車に乗ることまでもが許されている!
しかも、こんな夜道ではなく、陽の当る場所を。
堂々と!

もし今、この夜道で俺が狂人か誰かに襲われ、
そして、この身を切り裂かれるようなことがあったとしても、
俺は、笑みさえ浮べて喜んでそれに応じることだろう。
結果、こうしているこの事実が、
白日の下に曝(さら)け出されることになるならば!

彼等に対する恨み、嘲(あざけ)り、憤(いきどお)り、
そして、哀れみさえをも胸に秘めて。
さあ、誰か!
俺を、殺しに来てくれ!

夜雨に濡れた如くに暗く光る土瀝青は続く。
何事もなく、やや俯いて早足に歩き続ける。




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彼(か)の地の子供たち

2005-01-08 | 戯言 Ⅰ

年齢に、そして容姿にそぐわぬ
鋭く、冷たく、それでいて大きく見開かれた目。
その眼(まなこ)の輪郭は威圧感に満ち、
相手を射竦(いすく)めるかのような形状を成(な)しているものの、
瞳孔の奥の網膜に映る、
恐れ、脅(おび)え、戦(おのの)きも見え隠れしている。

僅か十余年の人生において、
何を見、何を経験すれば
このような目となるのだろうか。
或いは、生き延びるために、
本能が境遇に適合した結果の現れか。
または、ここで生き延びて行こうとせん、
決意の現れか。

この僅かな人生において、
彼らは一体、
如何程の人たちから銃を向けられ、
或いは、向け、
その命を奪われ、
または、奪ってきたのだろうか。
この時、ここに生まれてきたばかりに…

ある極東の島国では、
年同じ子供らが華美な装飾に身を固め、
甘やかされ、ちやほやされ、
その先に幾多の試練が待ち受けているかも教えられず、
自分だけがよければいいのだ、と吹き込まれている。
仮初めの平穏と幸せに包まれ、
荒れ狂う外界を見ようともせずに…

子は、生まれ来(きた)るとき、
その時と所を選ぶことはできない。
然るに、一足先にこの世に存在せし者たちには、
いつ天使が舞い降りてきてもいいようにしておくべき
義務がありはせぬだろうか?




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新・酒好道宣言

2005-01-01 | 戯言 Ⅰ

「酒好=酒量」

幾千年の永きにわたり
我々を呪縛し続けてきたこの公式。

永き歴史をこの一代のみにおいて
打破することは困難であろう。
しかし 今、
敢えてここに宣言したい。

たとえ、入浴後の一缶のビールが限度だとしても、
たとえ、就寝前の一含みのウィスキイが限度だとしても、
たとえ、恋人と傾ける一杯のワインが限度だとしても、
たとえ、仕事帰りに寛(くつろ)ぐ一本の徳利が限度だとしても、

その瞬間を比類なき至福と感じることが出来るのならば、
そして 何より
その酒をこの上なく美味いと感じることが出来るのならば、

酒量を誇ることが出来なくとも
薀蓄をひけらかすことが出来なくとも
臆することなく堂々と宣言しようではないか。

「私は、酒が、好きです!」と。

全ての酒好家に須(すべから)く酒を!


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実存

2004-12-29 | 戯言 Ⅰ


宇宙があり
仕事があり
世の中があり
たくさんの人々があり
そしてその中に ぽつねんと
自分自身たる自分が存在している。
しかし、それは、決して
自分が中心となるものではなく
様々な潮流に揉まれる
全ての中の一つにしか過ぎない。

人は人、私は私。
そうであることによってのみ
この世が成立しているという
この現実。
自立し、自覚しながらも
大衆の中に埋没してしまっているという
この事実。
それゆえ、支配しているものに対して
確固たる自分が在るべきはずであり
また実際、あるのではあるが
そこにはただ
荒涼たる人の世の
疲弊した心、満たされぬ心。
そして、
それを覆う憔悴した身体。


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アポトーシス

2004-11-20 | 戯言 Ⅰ

人は 生きるために生きているのか。
もし そうこうすることにより
死を早むることになったとしても。
或いは 俺の中の本能が
それを止(と)めようとしても。

糞便  血漿  血清  血液
精液  髄液  骨髄液

個々の人間は
人類という名の
更に大きな人間の
個々の細胞。

今、
丁度、
オレが、
こうして、
ここに居る、
ということか。

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「池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢」で終わらぬために

2004-11-19 | 戯言 Ⅰ

二昔(ふたむかし)程前の或る若者の話…。

彼は大志を抱いていた。
しかしその発露となった切掛けは、
学歴というレッテルを貼付して貰わんとする者たちへの細(ささ)やかな批判、及び抵抗。
平凡さの中に於いての優劣では敵わぬとのある種の逃避、そして諦(あきら)め。
そこに確たる才を見出した訳ではなく、あれもこれも嫌(いや)との消去法により生じた処世。
更には、頂(いただき)に到達するに、より安易と思われた道。

彼は結局、頂に至る山中に於ける幾多の道、悉(ことごと)くに挫折し、というより早々に見切り、他に頂に到達可能な道はあるまいかと、その山中を放浪し続けることとなってしまった。
そして、過去に自らが対比し意識した、平凡さの中に幸福を見出す術(すべ)を持つ人々よりも結果、遙か低層を徘徊することと相成った…。

これから夢に邁進せんとする者たちよ。
夢に向かい歩み出した後に、躊躇する必要も失敗を憂う必要も、全くない。
しかし、一歩踏み出す前に一度は自問すべきではあろう。
決意したその道は、如何なる過程に於いて歩むべしとの結論に至ったものなのか。
また、その道を歩むことそれ自体が夢なのか、或いは名声を得ることのみが目的なのか。
仮に名声のみが目的であるとするならば、そこに至る多様に過ぎる道全てを試行出来ぬままに、人生は終わりを告げることとなるであろう。

そして現に今、大志の道に迷いし者たちよ。
現在立脚したるその場が例え不本意なものであろうとも、眼前に在る労働、遊興、そして休息、全てに於いて全力を尽くすべきではあるまいか。
さすれば荊(いばら)の陰に、これまで見えざりし道があったのだということに気付くやも知れぬから…。

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誰も居ないグラウンド

2004-11-18 | 戯言 Ⅰ

マンションに囲まれし小さきグラウンド。
少年が一人、陽(ひ)は天に在り。

グラヴをはめ、ボールをコンクリートの壁に放る。
アンダースローで投げてみる。
スライダーを投げてみる。
松坂投手をマネてみる。

大人が一人、グラウンドに来たり。
曰く、ここではボールで遊ぶな、と。
危ないから、五月蝿いから、モノを壊すから、と。

少年の傍らには、太くて高くて黒い鉄柱。
かつてはこの鉄柱の上に、
籠球(ろうきゅう)用の籠(かご)と板とがあったとか。
早朝より籠球に興じる子供たちに
苦情が寄せられ外されたとか。

誰も居ない小さきグラウンド。
少年も居らず、陽はまだ天に在り。

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日常

2004-11-15 | 戯言 Ⅰ

鳩が一羽こつこつと、
土瀝青(アスファルト)の上を歩き、
土瀝青を啄ばむ。
小石を啄ばんでは嚥下する。
小石が欲しいのか?
それだけではあるまい。
あるかもしれない食物をもまた
望んでいるのだろう。

小石を要する時には小石を拾い、
食物を欲する時には小石を嫌う。

もし食物を望むというのであるならば、
胸を張り、顔を上げて歩けば
そこに、たわわに実る果実が
ぶら下がっているのが分かろうというものを。

青い空。雲一つない青い空。
今日も変わらぬ青い空。
しかし、よくよく見たならば
澄んだ青、暗い青、濃い青…
その日によって、色々な青がある。

当たり前のことを
当たり前じゃないことのように見て、
当たり前じゃないことのように思う。
当たり前じゃないことを
当たり前のことのように見て、
当たり前のことのように思う。

鳩の集団が青い空に飛んでゆく。
弧となりきれず、劣弧を描いて…。

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戯言家宣言(ぎげんかせんげん)

2004-11-11 | 戯言 Ⅰ

人生を旅する途上での、
時として道標となり、
時として慰安をもたらす沃地となり、
また時として荊門(けいもん)とも成り得る詩(うた)を詠(うた)う
偉大なる詩人たちよ。

古(いにしえ)よりの人々が携えし詩々(うたうた)を
極く狭き部屋に幽閉し、
その青白き手指(しゅし)にて
自涜行為を繰り返すが如き末成(うらな)りどもよ。

必ずしも大衆に迎合せずともよかろう。
しかし、
宏大なる世間に言の葉を解き放つべきではあろうことに、
今こそ気付く。

芳しい香草の葉々が触れ合うかのように、
また、潤沢なる源泉から沸き出ずる清流のように、
遠い虚空に於いて言葉に遊ぶ詩人たちよ。

乾ききった心の襞が擦れ合うかのように、
また、裂けし皮肉から滲み滴(したた)る悪血(おけつ)のように、
地に根幹をしっかと張り下ろし、
俺は戯言(ざれごと)を吐(ぬ)かすだろう。

日々の繁劇に揉まれ、
疲れ、悩み、苦しみ乍ら、
俺は戯言を吐かす!

今、ここに、戯言家(ぎげんか)を宣言す!

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「価値観」及び「協調性」についての私的概観

2004-11-07 | 戯言 Ⅰ

私は自らの価値観を他者に強要することも、そして強要されることも好まぬ。

「多様な価値観、あって然るべし」というよりも寧ろ、
「多様な価値観、もし無かりせば」とさえ思う。

天地開闢以来の世の価値基準が、仮に全て己がものと同一であったとするならば、確かに戦争は激減しているやも知れぬし、またともすれば、ある一カテゴリーのみ特化した発達を為し遂げていた可能性も無きにしもあらず、である。
しかし、人類全体の文化・文明の発展という見地で言うとするならば、今ほどの進化は遂げていなかったであろうことは明白である。
取分け身に纏う衣服などに至っては、未だに「イチジクのハッパ」であるやも知れぬ。
多様な価値観が存するが故に、「争い」という不幸を伴いつつも、人類は現在、そして未来に向けて邁進し続けてきたのであろう。
(その帰結が「繁栄」であるか「滅亡」であるかは別の機会に譲る)

この「諸刃の剣」とも言うべき「多様な価値観」を有用なものとするために、「協調性」というものが必要となってくるものと思料する。
「協調性」というと「他者と仲良く出来る能力」と思われるかもしれないが、私はこれを「自分の欲望・要求と他者のそれとを共存させることが出来る能力」と捉えている。
自分の要求を押し通すのではなく、また勿論、自分のそれを押し殺すこともなく、例え共に「完全」たる満足は得られずとも、出来うる限り双方にとって「完全」に近い地点に望みを着地させ得る能力、とでも言うべきか。

上述の私感、無論、賛否両論あって然りであろうし、また決して当方から共感を求めるものでもない。
寧ろ己が「戯言(ぎげん)」が、貴方に何かを考える起爆剤となり得たとするならば存外の幸いである。

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