Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2010年6月号  森は変わったが猿は変わらない

2010年11月17日 | オピニオン
これは、カクマの難民、クムサ・ケノがKANEREに投稿した怒りにあふれた意見である。世界難民の日のメッセージでもある。

人生に疑問はつきものだが、じっと耳を澄まし、その疑問を咀嚼すれば、必ず答えが見えてくる。ところが、人間は通常、次から次に人と会い、多忙を極めているうちに一日を終える。明日もまた同じことが繰り返されるはずだ。そのことにショックを受けている私を見て、人々は驚く! だが明日がくればまたすぐ、同じような日が巡ってくるようにと願う。同じことを繰り返すのは自然現象の摂理だ。しかし、こういう日常の“賑やかさ”は、私のコミュニティーや私が住むこの地には届かない。なぜなら、私たちは地球の一員ではないから。私たちが住んでいる場所も目指している場所も、私たちが世界の一員であることを許してくれない。驚くべきことだが、私たちにつけられた難民という呼び名が二重の足かせとなって、私たちは社会的に無視されている。世界のどの難民キャンプも状況は同じなのではないか。例えば、ケニア(カクマ、ダダーブ)、エチオピア(シェルコール、シマルバ)、ダルフールの人々を収容しているチャド、中近東諸国・・・・・・などなど。

私には、このような終わることのない賑やかさの中にいる感覚がない。毎日が自動的に繰り返されているという感覚しかない。私たちにとっての1年は、明らかに、世界の人々にとっての1か月にすぎない。これは終わりの始まりではない。終わることはない。これをなんと呼ぼうがかまわないが、私は同じ地球に住む人間の差別の現実と呼びたい。本来であれば、同じ地球に住む人は、隣に住む人とあまり違わないごく普通の変動の中で生活しているはずだ。ところが私のコミュニティーや私は、落ちる時は大変深く、上がるときは急勾配という大きな変動の中で暮らしている。

私は多くの時間を、自分のことを考えたり心配したりすることに使っている。あまりにも多くの時間を! なんとか眠ろうとしても眠る前に目が冴え、難民であるがための新たな難題と向き合わなくてはならない。私のコミュニティーや私にとって、眠れないのは珍しいことではない。根無し草のような私たちの社会では、貧しさに苦しめられ、皮肉なことだが、さらなる危険にさらされるのだ。自分の家という場所を持つことは、この地球に生きる人にとって当たり前のことだ。いっしょうけんめい努力すれば、希望に満ち満ちた輝かしい未来を築くことができるだろう。しかし、私たちには家がない。将来に希望を持つこともできない。むかついてくる。私は4年間、アカシアの木の下に座り、灼熱の中、希望を失った人たち、人間として打ちのめされた人たちを見てきた。皮膚の色が変わった人、早く老けこんだ人、精神病やHIVなど進行性の不治の病に冒された人。この過酷な天候の中で、多くの同じ世代の仲間が若くして亡くなった。生き残った私たちは、自分たちのことを語るために生きてきた。

「誰しも、怒ることは簡単だ。しかし、正しい理由で、正しい程度に、正しい時に、正しい目的のために、そして正しい方法で怒るのは簡単ではない」とは、アリストテレスの教えだ。私たちは誰に怒ればいいのか? いつ? どこで? なぜ? どのように?


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