物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

京都 河原院界隈

2021-11-01 | 行った所

嵯峨天皇と云う人は桓武の次男であり、兄平城が投げ出すように退位した後、即位した。平城の復権と平城京への還都を画策した薬子の乱を押さえ、次の天皇の時代となっても権勢を持ち続けた。嵯峨天皇には30人を超える子女がいたという。こんなにたくさんの皇族は養いきれないと片っ端から臣籍に下すことになる。与えた姓は源、嵯峨源氏と云われ武家源氏とは別の流れだ。
源融もその中の一人だ。多くの兄弟姉妹の中の何番目かは知らないが、あまり初めの方ではないのだろう。
「みちのくのしのぶもじずりたれゆえに みだれそめにしわれならなくに」百人一首のこの歌で知られる歌人でもあり風流貴公子だ。百人一首には作者名として「河原左大臣」となっている。河原院という広大な庭のある邸を持ち風雅に暮らしたことからそう呼ばれた。その風流ぶりは些か常軌を逸し、陸奥の塩釜の風景を模した庭の池に賀茂川から船で持ち込んだ海水を入れ、塩焼きをしていたという。融は出羽按察使をしたことがあったようなので塩釜の景色は自分が見た風景だったかもしれないが、さぞメンテナンスが大変だったことだろう。果たして子孫は保ちきれず、宇多天皇に献上してしまう。宇多は愛妾を住まわせ通う。そんな折、融の幽霊が出てきたという話が今昔物語にある。巻27の第2話である。宇多の前に出てきた人影が融と名乗る。この館の主人だという。宇多が、お前の子に献上されたのだから今は私の館だというと消えたという。

陽成帝が急遽退位が決まり、次帝候補でもめた時、融は嵯峨邸の皇子であると立候補したが、藤原基経は融が臣籍にあることを理由に一蹴する。ところが陽成を継いだ光孝天皇の死後、光孝の皇子ではあるが、臣籍にあった源定省(さだみ)が即位する。宇多天皇である。融の立候補が事実であったなら、融は宇多に一言いいたいことがあったかもしれない。

宇多の死後、河原院はさらに荒れる。今昔物語24巻代46話に荒れ庭に紀貫之以下の歌人たちが訪れては歌を詠む話がある。その中にはないのだが、百人一首に恵慶法師の「やへむぐらしげれるやどのさびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」の歌の舞台も河原院だそうだ。ひとこそみえねの「ひと」は融のことだという。


そして何より「源氏物語」は源融をモデルとし、源氏の風雅な館六条院を河原院に模している。光源氏はいくたりかの人物のイメージを重ね合わせ創造されたのだろうが、融は有力なモデル候補だったろう。また「夕顔」で源氏が夕顔を連れ込み、夕顔が急死する荒れ屋敷も河原院だという。盛時の風流で広大な館、荒れ果てて後の姿、どちらも作者のイマジネーションを刺激したのだろうか。但し光は塩焼きなどはしていない。紫式部には児戯に見えたろうか。

 河原院址と云われるのは、現五条通の南、鴨川の西、方4町とも8町ともいわれる敷地だが、碑は賀茂川と高瀬川に挟まれた所にある。高瀬川は江戸時代の開削だし、鴨川の川筋も一定であったはずもない。ただこの辺だったのか、と思いながら歩いていく。

 

 

鴨川沿いに南下すると正面橋がある。 

正面橋の袂に何故か鐘がある

西に向かうと高瀬川にかかる正面橋 

そのまま西に行くと河原町通越しに渉成園の塀が見える 
おそらくは河原院の敷地の南西部に接するか、敷地内に取り込まれるかという位置に渉成園がある。

 本願寺の別邸だが入場料を払えば入れる。立派なパンフもくれる。

 渉成園の紫式部


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