物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

信濃 依田城(上田市)

2022-01-06 | 行った所

平家物語第7巻「清水冠者」 寿永2年3月、頼朝との関係が悪くなった義仲は嫡子義重を鎌倉に行かせる。頼朝の娘大姫の婿としてだが、実際上の人質だ。この少年に海野や望月の少年たちが付き従う。
この時、義仲は依田の城にいた。頼朝が木曾追討として信濃に発向、それを知った義仲は依田を出て、越後国境まで北上する。頼朝は善光寺に入る。
どうしても首をかしげてしまう。依田にあって、周りには義仲与党が滋野氏の武者がひしめく。その中で義仲は何故逃げ出したのだろう。そうしてやすやすと頼朝を善光寺まで行かせたのだろう。白鳥河原で勢揃いした連中はどうしたのか。義仲と一緒に北へ行ったのか。本当に頼朝は善光寺まで来たのか?ともかく頼朝と手打ちをし、向後の憂いなく北陸路の戦いに赴くのはいい。ただどうも釈然としないのだ。

丸子郷土博物館の史料から

岩波ワイド文庫版「平家物語」では依田・丸子は探せなかった。「木曽殿の家の子」と名乗る長瀬判官代重綱は宇治川の合戦に畠山重忠と組合い、壮絶な最期を遂げる。

  依田城入口

山の麓の岩屋観音には義仲ゆかりの伝承がおおい。

義仲のみならず、悪七兵衛景清までいたのには驚いた。

 川は千曲川の支流の依田川

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信濃 根井氏館跡(佐久市)

2022-01-06 | 行った所

根井氏も滋野氏の一族であり、望月氏の流れで、義仲を擁した勢力の一つである。義仲の四天王は今井兼平・樋口兼光・根井行親・楯親忠の4人だが、今井と樋口はともに中原兼遠の息子であり、義仲の乳母子という関係になる。楯六郎親忠は根井行親の6男だから、四天王の半ばを中原兄弟と分け合っているのが根井氏だ。根井行親の代わりにもう一人の息子を四天王に入れることがあるようだが、比率は変わらない。そのまま義仲軍の中枢だったのだろう。
根井大弥太行親は保元物語上巻21「天皇方軍勢発向」に義朝の手勢として「信濃国、下根の井の大野太」として出てくる。(ソフィア文庫版)
6男が一家を構え活躍していることからも、当時の武者としては高齢だろう。それだけに歴戦の者として頼りになったかもしれない。おそらく斎藤実盛と同年代だろう。

行親と楯六郎らは宇治川の戦いに赴く。押し寄せる万を数える鎌倉勢の前に300騎はあまりに無勢であった。
義仲とともに京都で梟首されている。

佐久の田畑が広がる中に屋敷跡があった。

 北に浅間が見えた。

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