・伊豆国分寺跡
伊豆は下国だ。律令制で下国とされるのは和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・壱岐国・対馬国だが、大半は島か半島、伊豆は半島だ、下国とされて不思議はない。畿内から見て遠国ではなく中国だが東隣の相模は遠国だから、伊豆もまた流刑地にもなったのだろう。源為朝が流された伊豆大島なら文字通り島流しだ。
しかし、駿河湾に面した三島の地は伊豆で最も豊かな地だったのだろう。そして国府が置かれた。立派な国分寺も造られた。ほとんど聖武天皇の妄想から生まれたのではないかと思われるような鎮護国家のための仏教寺院群は、本当に造られたのだ。
伊豆国分寺塔跡
礎石
現国分寺 国分寺塔礎石はこの中の奥にあった
・三島大社
国分寺跡から東へ行くと鎌倉古道という道がある。と言って変哲もない町中の道なのであるが。
東で大きめの道に突き当たり、三島大社だったが、正門の鳥居へ行くためには少し南に回る。大社の南を走る道が旧東海道になるのだろう。
一遍上人絵伝に三島大社を詣でる一遍の絵がある。
大社は何度か焼亡しているので違うところもあるが、鳥居をくぐり、橋を渡りまっすぐ本殿に向かう構造は変わっていないのだろう。
安達藤九郎盛長が三島大社に詣でる頼朝を警護した案内板がある。安達盛長は頼朝の乳母比企の尼の娘婿で流人時代から頼朝を支えた一人だ。
頼朝は治承4年(1180)8月、平家の目代山木兼隆の館を襲撃することで反平家の狼煙を上げる。襲撃の夜は三島大社の祭礼であったという。山木の手勢が祭礼に行っての留守を突いての決起だという。韮山の館と三島は離れている気がするが、同一地域なのだったか。
せせらぎの小道
三島は水の町、というより湧水の町というべきだろうか。
その台地のメカニズムを解き明かした図版等は、実は恐怖の対象のような気がする。今プレートが動いたら、富士が噴火したらいったいどうなるのだ?そんな危うい大地がもたらしたものを恵みと受け取るべきか。ここに住まい時を刻んできた史がある。
・楽寿園
楽寿園は明治の頃の皇族の別邸だが、三島市の公園として、小体の動物園、遊園地も備えた庭園だ。郷土資料館もある。
馬がいた。与那国馬だそうだ、小田原で見た馬よりよほど小さい。
資料館は、一般的な歴史資料、地質学的なもの・三島大社・頼朝・三島の宿関係などが展示品の主なものだが、目を引いたのはコンビナート反対運動。説明パネルには珍しい成功例、とあったが昭和30年代末、高度成長期をひた走るこの時代、誘致を止めた住民運動があったのか。
だがまた逆にここの人たちは漁業で、観光で食えていたのだ、とも思う。昭和30年代から40年代にかけて原発を受け入れた人々は、もうとても食えなかったのだ。受け入れ、そして依存した。丹後の久美浜の原発計画は撤回されたけれど、これは計画自体の発表が昭和50年(1975)と後発だ。それでも撤回が表明されたのは2016年、30年かかった。