物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

三島(伊豆国分寺・三島大社・楽寿園)

2022-01-02 | 行った所

・伊豆国分寺跡

伊豆は下国だ。律令制で下国とされるのは和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・壱岐国・対馬国だが、大半は島か半島、伊豆は半島だ、下国とされて不思議はない。畿内から見て遠国ではなく中国だが東隣の相模は遠国だから、伊豆もまた流刑地にもなったのだろう。源為朝が流された伊豆大島なら文字通り島流しだ。
しかし、駿河湾に面した三島の地は伊豆で最も豊かな地だったのだろう。そして国府が置かれた。立派な国分寺も造られた。ほとんど聖武天皇の妄想から生まれたのではないかと思われるような鎮護国家のための仏教寺院群は、本当に造られたのだ。

 伊豆国分寺塔跡

 礎石

 

 現国分寺 国分寺塔礎石はこの中の奥にあった


・三島大社

国分寺跡から東へ行くと鎌倉古道という道がある。と言って変哲もない町中の道なのであるが。

東で大きめの道に突き当たり、三島大社だったが、正門の鳥居へ行くためには少し南に回る。大社の南を走る道が旧東海道になるのだろう。


一遍上人絵伝に三島大社を詣でる一遍の絵がある。

 大社は何度か焼亡しているので違うところもあるが、鳥居をくぐり、橋を渡りまっすぐ本殿に向かう構造は変わっていないのだろう。

 安達藤九郎盛長が三島大社に詣でる頼朝を警護した案内板がある。安達盛長は頼朝の乳母比企の尼の娘婿で流人時代から頼朝を支えた一人だ。


頼朝は治承4年(1180)8月、平家の目代山木兼隆の館を襲撃することで反平家の狼煙を上げる。襲撃の夜は三島大社の祭礼であったという。山木の手勢が祭礼に行っての留守を突いての決起だという。韮山の館と三島は離れている気がするが、同一地域なのだったか。

 

 せせらぎの小道

三島は水の町、というより湧水の町というべきだろうか。


その台地のメカニズムを解き明かした図版等は、実は恐怖の対象のような気がする。今プレートが動いたら、富士が噴火したらいったいどうなるのだ?そんな危うい大地がもたらしたものを恵みと受け取るべきか。ここに住まい時を刻んできた史がある。

 

・楽寿園

楽寿園は明治の頃の皇族の別邸だが、三島市の公園として、小体の動物園、遊園地も備えた庭園だ。郷土資料館もある。

 馬がいた。与那国馬だそうだ、小田原で見た馬よりよほど小さい。

資料館は、一般的な歴史資料、地質学的なもの・三島大社・頼朝・三島の宿関係などが展示品の主なものだが、目を引いたのはコンビナート反対運動。説明パネルには珍しい成功例、とあったが昭和30年代末、高度成長期をひた走るこの時代、誘致を止めた住民運動があったのか。

だがまた逆にここの人たちは漁業で、観光で食えていたのだ、とも思う。昭和30年代から40年代にかけて原発を受け入れた人々は、もうとても食えなかったのだ。受け入れ、そして依存した。丹後の久美浜の原発計画は撤回されたけれど、これは計画自体の発表が昭和50年(1975)と後発だ。それでも撤回が表明されたのは2016年、30年かかった。

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山中城址(箱根街道)

2022-01-02 | 行った所

小田原から西へ1号線で箱根を越える。

箱根の道路網は何やら複雑でよくわからないが、三島への道路標示を頼りに進む。山越えしてもう少し下ると三島だというところで、山中城址への案内を見つけた。いくらか戻るかっこうで山道をたどると駐車場がある。そこから箱根道に入る。

山中城は箱根街道を挟んで造築された街道の押さえだったのだ。
戦国時代、北条氏の時代にはこんなに整備された道ではなかったのだろうが。

山中城は北の足柄城、南の韮山城と並ぶ小田原を守る西の要だ。

山中城が一番新しく、それだけに堅固な山城だったらしい。しかし大軍をもってした秀吉軍の猛攻には耐えきれなかった。

 山中城堀跡 ここをたどって西の丸へ

 

 

 箱根街道と山中城出丸への入口

 出丸からは見事な富士が見えた

 目を転ずると海も見える。

出丸で扮装をして写真を撮っている人たちがいた。

 一枚撮らせてもらう。

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流鏑馬(小田原)

2022-01-02 | 行った所

流鏑馬(やぶさめ)は馬に乗り走りながら弓を射り的に当てるものだ。現在神事として行う神社がいくつかある。かつては武者であれば当たり前にできたかもしれない騎射だが、かなり難しそうだ。矢を射ることだけなら、たいていの人は少し練習すればできるだろう。弓道の射法八節の2番目は「胴作り」だ。腕力任せで弓弦を引き絞り、矢を放てばいいわけではない。下半身がぐらぐらでは矢は射れない。だからまず「足踏み」で射位を決め、「胴造り」で下肢を引き締め、腰を決める。「弓構え」「打起し」「引分け」「会」「離れ」「残身」と八節の最後まで胴構えは崩さない。それが馬に乗るとどうなるのだろう。鞍ごと馬体を腿で締め上げて自分の体を固定するのだというが、ともかく手放しで乗馬できるようになっていないと話にならないだろう。馬にも手綱なしでいうことを聞かせなければならない。相当馬に親しむことが肝心だ。

古墳時代後期、馬具の埋葬品が急激に増える。鏃も大量に出る。騎射はこのころから当然のようにあったあったのだろう。

小田原城へ入ったら、二の丸広場で流鏑馬をやっていた。

神事ではない、競技会のようなものだった。様々の和風の装束の騎手と馬が3組一


さらに注目すべきは馬が和種だ。サラブレット系の馬を目にすることはあっても、和種は珍しい。木曽馬だろうか、確かに小ぶりで背は高くないが、がっちりして足が太い。とてもたくましい感じがする。速く走ることだけに特化した脚ではない。和種の馬といってもそれぞれのようだ。大きめのも小さめのもいる。
馬市に行った武者は自分の懐具合も気にしながら、馬の見定めに必死になる。武者にとって馬の必要性は、地方に住む者にとっての乗用車に似ている。価格の感覚も似ているのではないか、中古の軽からフェラーリ・ポルシェの類まで。ただ武者にとってバスやタクシーという代替えはない。

 和式馬術の試技もやっていた。

 小田原城は後北条氏の本拠、北条早雲(当人はそう名乗ったことはないというが)から5代、ここに覇を唱えたが、秀吉の全国制覇の最後の仕上げとして攻められ落城した。

 

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