不破・鈴鹿・愛発の関を古代三関(さんげん)と呼ぶ。壬申の乱(672年)で大海人皇子が不破道を塞ぎ、大友皇子近江朝廷側が東国に出られないようにした場所が不破の関になったという。三関は8世紀には機能していたが、平安時代に入ると実効性を失い、形式だけのものとなる。特に愛発関は早く廃絶し、三関も不破・鈴鹿・逢坂山を指すことも多くなる。
愛発関の場所も諸説ある。
高島歴史博物館展示パネルの一部。
敦賀市公文名に芋粥発祥の地の看板を掲げる天満宮がある。
道真と共に、利仁将軍こと藤原利仁を祀っている。芥川龍之介の「芋粥」の主人公で元の話は「今昔物語」で敦賀の豪族の婿になっていた利仁が京都でのさえない五位の上司を敦賀に連れて行き大御馳走をする話だ。
この天満宮の付近が利仁が婿に入った敦賀の豪族藤原有仁の館跡らしい。神社の宮司さんが出てきていろいろ説明してくださったのだが、彼に言わせると利仁たちはマキノからまっすぐ北上する道を通って、敦賀に出たそうだ。愛発の関もあったという。高島の史料館の地図の真ん中の愛発関?に当たるのだろう。確かに公文名あたりに出るには最短距離ではある。近くを黒河川がほぼ南北に走り、川沿いの道があったのかもしれないが、地図をにらむ限り現在車で通れる道はありそうにない。松原駅が公文名あたりに比定されれば有力な候補地かもしれないが、今のところ松原駅・松原客院の場所はわかっていない。
西側の愛発関?の場所は若狭道で北陸道の関とは思えない。
結局東側の愛発関?が最有力だ。なんといっても地名に「愛発」を残すこと、現在に至る交通の要衝であることは大きい。また琵琶湖の水運によって塩津に至れば、自然、道は、塩津-深坂-愛発-敦賀になるであろう。
敦賀から国道8号線を南下していく。161号と重複しているようだが、疋田で8号線は東へ、木ノ本へ向かう。161号は南に、湖西道路へと道は分かれる。その付近に愛発の案内板があった。だいぶ傷んでいて見難いがだいたいのところはわかる。
*案内板
*案内板の前から東方向 手前の道が161号線、左奥が8号線になる。
愛発関がもっともその機能を発揮したのは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)でだろう。天平宝字8年(764年)のことである。孝謙天皇とその母光明子の信頼を得て台頭した仲麻呂だが、光明子の死、道鏡の登場により権力に陰りが出る。兵を集め軍事力で政権掌握を図る。反乱当初は太政官印も持ち、優勢とみられていたが逆転され殺される。
ウィキベディアから
奈良から宇治を経て近江国衙に入り、東国・北陸の兵も集めるつもりが、瀬田橋を落とされ、国衙に入れなくなる。越前に息子がいたので合流しようとするが、孝謙側は先んじて越前に兵を送り、息子を殺し、愛発の関を固める。北陸に向かった仲麻呂は関を突破できずに、湖西に戻り、三尾山に陣を敷くが、敗れ殺された。斬られたところを勝野の鬼江という。
勝野の鬼江(現在乙女が池という池になっている)、後ろが三尾山で壬申の乱でも戦場となっている。
愛発のイラストの案内板の後ろが愛発の集落となる。
*宿場らしい雰囲気がある。水路が舟川
愛発舟川の里展示室がある。
敦賀湾の最南端から琵琶湖の塩津の最北端まで、20キロ弱しかない。しかも両側ともほぼ南北に流れる川がある。
この川と川をつないだら船で大量輸送が可能になる。確かにそうなのだが、実現は実に困難なものであったというほかない。
愛発(あらち)」は荒地・荒路であろう。川と言っても渓流のようなもの、しかも間の山は険しい。
年表の最初は平安時代1666年ごろとあり、清盛が息子重盛に運が開削を命じたが困難で中止したとある。ここで清盛に会うとは思ってもいなかった。さすがに兵庫の港湾のようにはいかなかったようだ。大谷刑部や河村瑞賢も考えたという。物資の集積地敦賀の荷を一気に琵琶湖を通して大津まで、確かに魅力的に見えただろう。しかし瑞賢は運河開削の困難を見て取ると西回り航路の開拓の方へ動く。航路は長いが、日本海側の荷物を一気に大阪まで運べる。これでは太刀打ちできない。江戸時代を通して何度か運河開削の願いでがあったが、反対も多く立ち消えになっていく。反対は馬借などの陸運業社だったのだろう。
それでも幕末になってようやく異国船来襲に備える京都への糧道確保のためとオカミは腰を上げた。当時疋田の辺りは小浜藩で所管で奉行は小浜藩三浦勘解由左衛門がなり、敦賀から疋田への舟川が整備された。
資料館に加賀藩の高低差を示す測量図があった。何故加賀藩かというと湖北に飛び地を持っていた関係らしい。なかなかの高低差である。右は敦賀で左が塩津。県境の深坂峠で急激に高度が挙がっているのがわかる。それに琵琶湖面と敦賀湾の海面にもかなりの落差がある。二十八丈七尺四寸だろうか、80メートルを超える水面差を克服するには堰がいくつ要るのだろう。当然計画されてはいたと思われるが、この運河が琵琶湖側へ抜けることはなかった。
集落を流れる舟川の流れは驚くほど速い。
明治になると鉄道の時代がやってくる。長浜-敦賀間が開通したのは1882年(明治15年)のことだというから早い方だろう。柳ケ瀬トンネルが難工事で当初は徒歩の区間があったという。敦賀から船でロシア経由ヨーロッパまでの国際線があったという。福井までの延伸も難工事を極め、スイッチバックという手法で山を登る線だった。北陸トンネルができて廃線になったが、今庄から敦賀にかけて鉄道遺跡が随所にある。
疋田付近には現役の勾配緩和施設がある。鳩原ループだ。これは1964年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が走った年だ。
勾配の大きな土地で、線路をループ状に一周させて線路を敷き、勾配緩和をしているのである。
ゆりかもめは 芝浦ふ頭を出て、レインボーブリッジを経てお台場に向かうが、ブリッジに乗る直前ぐるりとループを回る。これを経験している人は多いだろう。ゆりかもめは窓から外を見れば、線路がループしているのが見える。北陸線ではうっかりしているとよくわからないが、車内で車掌さんが案内してくれることもあった。今はどうだろう。