福井市街地は1945年の戦災、1948年の大震災で破壊されつくし、それ以前の面影を残すところは多くはない。
城下町の面影を残すと言ったらやはり城址であろうか。
*石垣 堀は内堀で内堀以外は埋め立てられた。
石垣の中にあるのは県庁・県警といった建物だから普段行きたくなるところではない。だがお殿様やらお役人様のいたお城など、昔から庶民とは縁のないところだったのだろう。
石垣は1980年代前半に修復された。震災で崩れ、それまで放置状態だった。
藩主の別邸だったという養浩館(お泉水屋敷)庭園も修復されたのはその頃だろう。
それまで築地が破れ、庭は荒れ放題、水は淀み、ザリガニがたくさんいた。
修復されてみればなかなかいい庭だった。コンパクトな中に趣あり、街中であることも忘れられるようなところだ。建物が池に大きく乗り出すように作られているので、涼やかだ。
石垣や庭園だけでなく、あちこちの門や橋も復元され、案内板の設置も進んでいる。
復元された御廊下橋
橋を渡って左の石垣内との間が山里口御門でこれも復元されている。
堀脇の案内板の一つ
*舎人門は復元されている。外堀と城下の間の門だが、現在舎人門の南に郷土歴史博物館が建つ。東に養浩館がある。
加賀口門と桜木門は案内板だけだ。
*加賀口門は北陸道の城下への北の出入り口だ。
桜木門案内板はアオッサという建物の東側にある。この建物内の桜木図書館はこの門の名に因んでいる。
城下の飲料水を賄うため整備された芝原用水(福井市NHK前通、国際交流館前付近)↓
福井の城下の基本設計は柴田勝家の北の庄の街作りにあることは知られているが、北の庄がいきなり松平家の城下となったわけではない。
北の庄城址(柴田神社)
勝家滅亡後は丹羽家、次いで堀秀政、堀秀政死後は子へと渡ったが、その後、小早川氏、青木氏が領したという。彼らは越前全体どころか勝家の領地だったところ全部を領したというわけでもないようだ。越前国内に領地を持った武将で有名どころでは、敦賀の大谷刑部、大野の金森長近、府中の堀尾可晴などがいる。
彼らの痕跡を見つけるのは容易ではないが、堀秀政の墓は福井市街地にある。フェニックス通を南下、足羽川を渡り、しばらく行くと長慶寺という寺がある。墓はここにある。
長慶寺門 福井市西木田2丁目 フェニックス通西側
堀秀政墓
関が原合戦を経て、結城秀康が北の庄へ入る。以後北の庄は越前松平氏の城下町として存続することになる。
結城秀康は家康の次男として生まれるが、なかなか父子の対面もなされず、兄信康のとりなしで漸く対面がかなったという。人質同様に秀吉のもとへ養子に入り、秀吉が男児を得て後は結城家へ養子に出される。家康の跡は三男秀忠が取る。なかなかの生い立ちであるが、武将としての器量は一流であったという。
福井城石垣の中、県庁前にある秀康像。石造という材料の制約からか、秀康の脚や胴に埴輪のような硬さがある一方、馬には動きが見られ、どこかアンバランスな印象がある。
秀康の福井城は、勝家の北の庄城を大幅に改築したものだという。
*本丸復元図
*天守図
秀康の墓は足羽山下の運正寺にある。
秀康が34歳で死ぬと、わずか13才の忠直が越前68万石を引き継ぐ。菊池寛の「忠直卿行状記」でめちゃくちゃの暴君と描かれた忠直である。決して馬鹿ではなかったと思うが、家康の孫という意識が強すぎ、驕慢な言動があった。まさか本当に妊婦の腹を裂いて喜んだとも思われないが、越前騒動で家臣団を抑えられず、江戸幕府に付け込まれる隙があった。隠居を命じられ、大分に配流となった。北の庄へは忠直弟の忠昌が越後国高田移封した。忠直長男は高田藩へ移ったが、その子孫は美作津山へ移動している。
この忠直が福井にいたころ、一人の天才画家が畿内から福井へ移住した。卓越した技量を持ち「奇想」を描き、また浮世絵の祖と言われる岩佐又兵衛勝以(かつもち)である。信長に反抗した有岡城主荒木村重の遺児である。信長に攻められ籠城、村重自身は城から脱出したが、一族皆殺しの憂き目にあう。又兵衛は乳飲み子で乳母の機転で脱出したという。40代からの約20年を福井で過ごした。スポンサーであった可能性の高い忠直のもとには複数の又兵衛の絵があって不思議はないが、配流を経て散逸したのであろうか。
又兵衛の墓は福井市松本3丁目の興宗寺にある。又兵衛は江戸で死んだが、遺言により墓は福井にある。
*又兵衛墓、ただし移築されているらしい。
又兵衛の代表作とされる「洛中洛外図屏風(舟木本)」「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」などの顔料は大変高価なもののようである。また製作は工房を前提としているだろう。画家の移住と言っても会社の移転にも等しいものだっただろう。絵具・絵筆・画布・表装・・・そうしたものの入手・手配が困難であれば移転はかなわなかったろう。
古くから商工業が栄えたためか、老舗と呼ばれる店も多い。
これは2018年に福井県が作成した創業150年以上の老舗マップの一部である。
老舗チラシ.pdf (fukui150.jp) ←元のPDFファイルへ
ただ一部の例外を除くと江戸時代でも末期になってから以降のものが多い。しかし、幕末・維新を乗り越え、更に昭和の大戦・敗戦を乗り越えてきた老舗には敬意を払う。
幕末期の福井藩では、藩主松平春嶽(慶永)が幕政改革の道を探り、伊達宗城(宇和島)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)と共に幕末の四賢侯と呼ばれた。幕政改革に乗り出す以前に、藩政改革として優秀な若手の登用に努め、横井小南を招聘したりしている。
この頃活躍した人達に、鈴木主税・中根雪江・橋本左内・由利公正などがいる。
橋本左内住居跡は福井市春山2丁目にある。左内は春嶽の懐刀と言われた俊英だが、安政の大獄で死んだ。
坂本竜馬ゆかりの地などもあるがそれはまた別の話だろう。
幕末を生きた福井人で二人取り上げておく。
笠原白翁(良策)、彼は町医者である。藩医ではない。父も町医者であった。はじめ漢方を学んだ。江戸に遊学もして福井市木田で開業。その後蘭方を知り、京都でも学ぶ。天然痘の予防として牛痘を知り、藩主松平春嶽に入手を願う。最初の上申から4年後、長崎から京都に入った痘苗を福井へ持ってくる。当時は痘苗は人から人へと種痘を繰り返すのが最も安全な方法で、白翁は種痘した子供を連れていた。ルートは栃木峠越えであった。おりしも冬に向かい、峠道は雪に閉ざされていたという。一歩間違えれば全員遭難して無謀の誹りを免れなかったであろう峠越えを決行した一行は何とか福井城下にたどり着く。しかし、彼の困難はここで終わりではなかった。藩医たち(当然漢方中心)が民衆の無知をあおる形で、種痘を貶めた。笠原は必死で藩に嘆願する。松平春嶽はそれに応じた。そこにはコロナ禍の医系技官に爪の垢を煎じて飲ませたいほどの笠原の気迫があったのだろう。種痘、すなわちワクチンの接種であり、ワクチンは漢語で白神となり、白翁の名は白神に由来する。白翁は接種した一人一人にカルテのようなものを詳細に書いているらしい。彼は科学者であった。
笠原白翁とも親交があった橘曙覧は歌人である。1994年クリントン大統領が曙覧の歌を引用し、特に知られるようになった。山上憶良を彷彿させるような歌も詠むが、留学生で基本エリート官僚だった憶良よりはるかに年季の入った貧乏人であった。生家は商家だが嫌気を指して弟に譲る。趣味に生きたような曙覧も妻子とともにともかく生きることができたのだった。寺小屋の月謝、門弟の謝礼で細々と暮らす曙覧を春嶽は召し出そうとするが拒絶している。陋屋を黄金屋と称する諧謔を生きた。楽しみは・・で始まる「独楽吟」が知られる。クリントンが言及したのもこれである。
*愛宕坂 足羽山の登り口の一つ。途中に黄金屋の跡と共に記念館もある。
*曙覧生家跡 福井市つくも1丁目