物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

対面八幡神社(静岡県清水町)

2022-01-03 | 行った所

三島大社から西南西に3キロばかりのところに対面八幡神社という大きくはない神社がある。あと数百メートル西へ行けば黄瀬川が流れている、といえば誰と誰との対面かは知れてこよう。


もっともらしい対面石などがある。

治承4年(1180)山木館襲撃で反平家の狼煙を上げた頼朝だが、石橋山の戦いは勝負にならない負け戦。ここで死ななかったのが頼朝の強運、安房に逃れ、房総半島を北上、三浦・千葉・上総等らの一党を味方に、さらに武蔵・相模の武者が加わり、鎌倉に入る。平維盛を頭とする平家軍は甲斐源氏に蹴散らされ、大軍と聞いた頼朝軍と対峙する前にほぼ崩壊した。頼朝は黄瀬川東岸に陣を敷いたが、戦わずして勝利を手にした。
そこへ駆けつけた一人の若武者、末弟義経と知り涙の対面となったわけだが、感激のあまり手を取り涙を流さんばかり、というのは頼朝のお家芸だったらしい。北条は言うに及ばず、三浦や土肥・佐々木などにも手を取り、おぬしだけが頼りじゃ、と言い言いしていたらしい。千葉常胤には父と思う、とまで言ったらしい。きっと範頼や全成、義円、義経より前に現れた弟たちにも涙を流して見せたのだろう。
例外は上総広常だ。石橋山に惨敗し安房へ渡って再起を期す頼朝は三浦・千葉を従え北上する時、広常は2万の大軍を率いて現れる。この広常が敵に回ったら頼朝もこれまでというところだ。その広常を協力が遅いとしかりつけ、広常は感じ入って頼朝の旗下に入る。この話が本当なら、傲岸な広常の態度に、下手に出るのはまずいとの判断だったのだろうか。しっかり相手を見て臨機応変に態度を変えれる。頼朝の才能のひとつかもしれない。
しかし、相手によって態度を変える上司は部下から信頼されるものだろうか。身近にいればそれなりにわかるだろう。「そなただけが頼り」の「だけ」は自分だけではないことを。それもまた鎌倉殿としての権威を身に着けるまでのことであったか。
上総広常の傲岸さは余程不快であったのか、結局殺してしまうのだけれど。
頼朝・義経兄弟の行く末は、誰もがよく知ってる通りだ。

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