大津歴史博物館の展示パネルから
壬申の乱における大海人皇子(天武)軍の進軍路は、吉野をでて伊賀伊勢を通り美濃に入る。不破の関を突破し、息長横河、鳥籠山、犬上浜と戦いを勝利し、近江を西南方向へと概ね東山道(中山道)を通って行き、更に安河浜、栗太、瀬田と近江朝廷軍を蹴散らしていく。
近江八幡と市辺の間くらいに武佐がある。旧街道は国道8号線と付かず離れず並行に走る。武佐の宿の入口のようなところにはそれなりの看板があったのだが、あまり宿場の雰囲気はない。歩けば街道の面影も探せたかもしれないが、そのまま行き過ぎる。8号線に合流してはまた別れ、と進んだが、旧街道は日野川でいったん途切れる。
渡し場があったのであって橋がないからだ。堤防の上に案内板があった。
木が生い茂り枯れ草がぼうぼうの河川敷で川が見えない。100メートルほど右手に草木の途切れるところがあり、河川敷へ降りれる小道もある。石碑のようなものも見えたので、てっきり渡し場の碑かと思い降りてみる。
石碑の文字は南無阿弥陀仏、辺りは墓地だった。墓標は木製だが卒塔婆のようなものではなく角柱のてっぺんに屋根上のものをつけている。笠塔婆といわれるものだろうが、墓域が長方形で棺を埋めたらこんな感じではないかというサイズなのだ。古い時代のものならともかく、墓標には平成二十年代の日付が記され墓主誰それと読み取れるものがある。あのようなものは見たことがなく、荒涼たる風景あいまり非常に不気味であった。
8号線に戻り日野川を渡る。鏡の里、大篠原と国道を進み、小堤という交差点の先でまた細い道を行く。
野洲市市街地で新幹線の高架をくぐり進む。行事神社の近くで朝鮮人街道の標識を見た。朝鮮人街道は近江八幡の方へ行く。
野洲川は安河だ。野洲川橋を渡る。川筋は変わっているかもしれないが、この野洲川の西に近江朝廷軍は陣を敷く。何とか立て直し、ここで食い止めたい。その陣からは三上山の端正な姿が見えたことだろう。この戦いも大海人皇子の勝ち戦となり近江軍は瀬田を目指し敗走する。栗太の戦いは旧栗太郡のどこであったかわからないようだ。現代の栗東市より広い範囲となる。大津市歴史博物館には瀬田唐橋とその上で戦う兵士の人形の模型がある。
野洲川を渡ると守山市だ。市街地で旧東海道が西から東への一方通行になっていたこともあり、この辺でおしまいにした。
中仙道六十九次は守山の次は68番目の草津で東海道と合流する。その次は大津で、逢坂の関を経て、次の京都三条で上がりだ。
瀬田唐橋での最後の戦いに敗れた大友皇子は山前(やまざき)で自害したという。この山前を普通名詞か固有名詞かどちらに考えるかで場所は変わる。一般的には普通名詞とし、大津の長柄山付近で死んだとするようだが、固有名詞とし、大山崎の山崎、西国街道、摂津と山城の境、明智光秀と秀吉の天王山の戦いのあったあたりとする説もある。倉本一宏は天王山説だ。字句の解釈はともかく、大友皇子の性格にもかかわってくるような気がする。