物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

東山道(中山道 武佐~守山)

2022-01-12 | 行った所

 大津歴史博物館の展示パネルから

壬申の乱における大海人皇子(天武)軍の進軍路は、吉野をでて伊賀伊勢を通り美濃に入る。不破の関を突破し、息長横河、鳥籠山、犬上浜と戦いを勝利し、近江を西南方向へと概ね東山道(中山道)を通って行き、更に安河浜、栗太、瀬田と近江朝廷軍を蹴散らしていく。

近江八幡と市辺の間くらいに武佐がある。旧街道は国道8号線と付かず離れず並行に走る。武佐の宿の入口のようなところにはそれなりの看板があったのだが、あまり宿場の雰囲気はない。歩けば街道の面影も探せたかもしれないが、そのまま行き過ぎる。8号線に合流してはまた別れ、と進んだが、旧街道は日野川でいったん途切れる。

渡し場があったのであって橋がないからだ。堤防の上に案内板があった。

 
木が生い茂り枯れ草がぼうぼうの河川敷で川が見えない。100メートルほど右手に草木の途切れるところがあり、河川敷へ降りれる小道もある。石碑のようなものも見えたので、てっきり渡し場の碑かと思い降りてみる。

 石碑の文字は南無阿弥陀仏、辺りは墓地だった。墓標は木製だが卒塔婆のようなものではなく角柱のてっぺんに屋根上のものをつけている。笠塔婆といわれるものだろうが、墓域が長方形で棺を埋めたらこんな感じではないかというサイズなのだ。古い時代のものならともかく、墓標には平成二十年代の日付が記され墓主誰それと読み取れるものがある。あのようなものは見たことがなく、荒涼たる風景あいまり非常に不気味であった。

8号線に戻り日野川を渡る。鏡の里、大篠原と国道を進み、小堤という交差点の先でまた細い道を行く。
野洲市市街地で新幹線の高架をくぐり進む。行事神社の近くで朝鮮人街道の標識を見た。朝鮮人街道は近江八幡の方へ行く。
野洲川は安河だ。野洲川橋を渡る。川筋は変わっているかもしれないが、この野洲川の西に近江朝廷軍は陣を敷く。何とか立て直し、ここで食い止めたい。その陣からは三上山の端正な姿が見えたことだろう。この戦いも大海人皇子の勝ち戦となり近江軍は瀬田を目指し敗走する。栗太の戦いは旧栗太郡のどこであったかわからないようだ。現代の栗東市より広い範囲となる。大津市歴史博物館には瀬田唐橋とその上で戦う兵士の人形の模型がある。

野洲川を渡ると守山市だ。市街地で旧東海道が西から東への一方通行になっていたこともあり、この辺でおしまいにした。

中仙道六十九次は守山の次は68番目の草津で東海道と合流する。その次は大津で、逢坂の関を経て、次の京都三条で上がりだ。

瀬田唐橋での最後の戦いに敗れた大友皇子は山前(やまざき)で自害したという。この山前を普通名詞か固有名詞かどちらに考えるかで場所は変わる。一般的には普通名詞とし、大津の長柄山付近で死んだとするようだが、固有名詞とし、大山崎の山崎、西国街道、摂津と山城の境、明智光秀と秀吉の天王山の戦いのあったあたりとする説もある。倉本一宏は天王山説だ。字句の解釈はともかく、大友皇子の性格にもかかわってくるような気がする。

 

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市辺之忍歯(いちのべのおしば)皇子墓伝承地

2022-01-12 | 行った所

池澤夏樹の「ワカタケル」を読んだ。素晴らしかった! 池澤夏樹は小説家で詩人で翻訳家で書評家だそうだ。余程古事記を読み込んだのだろうと思ったが、古事記の現代語訳までしている人だった。そして恐ろしく間口が広い。ホメロスを読むように古事記を読んだかもしれない。

ワカタケルは大泊瀬幼武、後に雄略と諡号される。埼玉県の稲荷山古墳・熊本県江田船山古墳出土の鉄剣の銘文、中国南朝の宋の歴史書にある「倭王武の上表文」と呼ばれる文書により、実際に関東から九州まで、日本の広い地域を実際に支配下に置いた可能性の高い大王である。

面倒なので以下諡号で書く。
雄略の前の大王は安康、雄略の兄であるが殺されている。雄略は兄の仇眉輪王(妃の連れ子)と庇った葛城の円王を殺し、ついでに他にもいた自分の兄二人も殺し、大王位をうかがう。ところがまだ候補者がいる。市辺之忍歯皇子、雄略の従兄弟である。古代の政権は基本的に豪族の連合政権だというが、大王たるもの豪族どもを従わせるだけの器量がいる。子供は論外で、若く経験不足も向かない。だから必然的に兄弟相続が多い。安康・雄略兄弟の父の世代も履中・反正・允恭の兄弟相続だ。だがそうすると次の世代は大王の息子たちが従弟の関係で犇めくことになる。雄略と市辺之忍歯皇子の関係もそうだ。
記紀によれば、雄略は市辺之忍歯を狩りに誘い出して殺すのだが、ほかの皇子を殺しまくっている雄略の誘いに乗ってのこのこやってきた市辺之忍歯も甘すぎる、と言わねばならないだろう。

狩りの場は、来田綿蚊屋野、近江国蒲生郡の「蒲生野」だという。

この図は大津の渡来人歴史館にあった滋賀県の渡来人分布図だが、蒲生郡というのは現在の近江八幡や日野町を含む相当広い範囲に見える。蒲生野は朝廷の薬猟場、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも」の舞台だともいう。
近江八幡市の加茂神社辺りは「御猟野の杜」という。
 近江八幡の加茂神社の境内

近江鉄道市辺駅から南東に1キロほど行くと道沿いに「履中天皇皇子磐坂市辺押羽皇子墓」と宮内庁の例のパターン化された形式の柵と標識がある。

中には小さめの円墳が二つ。

 

一つは王子が殺されたとき抱き上げて悲しんだ従者佐伯部仲子の墓だという。従者も殺され、二人一緒に埋められたが、後に探し出して墓を作ったときに骨が分けられず、同じような墓を二つ作ったというのが記紀の話だが、それに合わせて作ったかのような円墳二つなのだった。

後期古墳に分類されるようで、5世紀の皇子の墓かどうか・・・ただ石室などの調査はされていないようだ。


 近辺にある若宮神社

狩りの場所の蚊屋野はもっと南の日野町の方に比定されているようだ。丘陵地帯が、鹿の足が林のようだったという狩場にふさわしいようだ。そっちの方にも市辺之忍歯の墓と称する古墳がある。音羽西古墳という横穴式先室を持ち、6世紀末の須恵器が出ているようで、明確に市辺之忍歯の墓ではない。

 石室か

 

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御猟野乃杜加茂神社(近江八幡市)

2022-01-12 | 行った所

近江八幡市の観光地になっている八幡堀などより2キロ程西南に加茂神社がある。

 御神徳は5つ並べてあるが、第一はお馬さんに関すること。

 どの時代を想定しているのか?という格好だが、何やらかわいらしい馬さんの看板。
 境内に「御猟野乃杜加茂神社」の幟があるが、横に固定してある。

 本堂
境内の裏手は御猟野乃杜、

境内の南側に馬場がある
足伏走馬(あしふせそうめ)という競馬が行われるそうだ。

近くに馬の牧場があるということだったがよくわからなかった。

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五郎兵衛用水

2022-01-12 | 行った所

市川五郎兵衛真親というのはどういう人だったのか、いったいどうやって徳川家康から朱印状をもらう伝手を手に入れたのだろう。上野国甘楽郡の出身、信州や上州の武士団の多くがそうであったように、上杉、北条、武田と主を変え生き残る。武田滅亡後、信濃に移住し帰農する。文禄2年(1593年)徳川家康から分国内の山金、川金、芝間開発免許の朱印状を得る。というのがよくわからない。一介の武田浪人ではなかったのか?五郎兵衛記念館の説明はちときれいごとすぎる気がしてしまうのだけど。

初めはこの地にこんな大規模な用水を開く理由がわからなかった。すぐそこに川が流れているのだ、それも千曲川という大河が。恥ずかしながら説明されないとわからなかった。台地なのだ、千曲川は台地の下をめぐって流れ、水を引けないのだ。だから延々と山裾の方から引いてくる。

 

五郎兵衛用水は蓼科の山裾から延々20キロ、世界かんがい施設遺産登録の17世紀前半の遺跡であり、現在も機能している農業用水である。距離も長いが隧道もあり、工事・メインテナンス共に大変なものだった。とはいえ、地理地形に疎くかつ工法にも疎いとあっては、大変だったでしょうね、としか言いようもない。

目を引いたのは「人足札」だった。

 用水路の普請に出ると給金代わりに渡される。年末に金銭に引き換えられる。農村だから現金を手にできるのは一年に一度、その間をこの札でもって経済を回す。ということはこれは地域通貨ではないのか。
ミヒャエル・エンデで地域通貨を知ったが、提唱者とされるシルビオ・ゲゼルは19世紀から20世紀の人だ。信州の山の中、17世紀から江戸時代を通じて使われた人足札、信じられない思いであった。藩札などとは全く違うもののようだ。だが、収入を得るのが年1回という農村経済に貨幣経済が押し寄せたとき、自然発生的にできてきてもおかしくない気もしてくる。むしろ山の中の小さな村だからできたことかもしれない。

 五郎兵衛記念館の南西に甲州道の標識があった。

 甲州街道から北に浅間が見えた

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