マンデーの日記

Whatever Will Be, Will Be.

あれから一カ月

2011-04-12 | 地震
東日本大震災から一ヶ月。

各地ではもうすでに桜の散るニュースが流れていますが、宮城県では南部が今日開花宣言をしました。

待ちに待ったプロ野球も開幕し、東北の星楽天は、本日ディーゲームにて、昨年の日本一ロッテに大好きな岩隈ちゃんが勝ち星を治めました。

花粉症もピークを過ぎ、大分楽になって来ました。
いつもの年だとこれからが行楽シーズンとウキウキする時期ですが、今年は被害がなかったとはいえ私の生活も少し様変わりしそうです。
というのも、現在は休職中の身ですが、もうすぐ失業の憂き目に遭うかもしれないからです。
勤務するプールは老朽化が進み修理をしながら使用していましたが、今回の大地震によって傷んだ部分が多く、修理をして使うか、新しく建て替えるか、失くすかの選択に迫られていたようです。
財政不足と近隣の市町村に新しいプールがあることから廃止になる可能性が高いという。
考えると、子供達にお金のかかる時期に良い条件で働く事が出来たし、生活が出来ない訳でもないし、遠いし、そろそろと思っていたので、淋しいけれど潮時かな~とも思う。

実家もまた、元々の古い家に加え、2度の大きな揺れに大ダメージを受け、住めそうになくなってしまいました。
住む気でいた母も少し諦めてきたようで、当面は我が家に同居することになりそうです。

まだまだ大きな余震が多く恐い思いもありますが、ライフラインも復旧しつつあり、スーパーにも品物が陳列し、ATMも使えるようになりました。
何もかも失くして避難所に生活している人の事を思うと復興してきたなんて言えないかもしれませんが、桜前線と共に少しづつ前進したいものです。

今回の大震災では、日本は元より世界からたくさんの心温まる援助を頂き、人の優しさを知る事が出来ました。
また断水し、停電し、ガスが止まり、隣近所の方とはあいさつ程度で、あまり親しい付き合いはしていませんでしたが、情報を教えて頂きいたり、励ましあったり助け合う事が出来ました。

電車はまだ通っていません。
ゴミの収集もまだで、自宅の倉庫にはビールの空き缶が山になっています。
宅配便も受け付けない店舗が多く、ネットでの買い物はできません。
習っていた英会話も再開できるかどうか分からないそうです。
通っていたジムは温泉は復旧しましたが、トレーニングジムはまだ時間がかかりそうです。
いつもの飲み友達7人中4人の自宅が浸水し、1人は莫大な負債を抱えて倒産したそうで、可哀そうで胸が苦しくなって来ます。
飲み会の場所も浸水し土曜日の私の誕生会はキャンセルする事にしました。

また飲める日が来る事を信じて頑張って欲しい。

あれから一ヶ月。
もう一ヶ月。

余震

2011-04-08 | 地震
昨夜11時32分。

寝ている時に大きな揺れを感じて目が覚めました。
まるでモンスターの上に乗っているかのよう、強い揺れがまた来た、長い、恐い。
布団をかぶって収まるのを待ちました。
前回よりもずっと短いが、吐き気のようなものを感じました。
震度は6弱だというが、私的には6強だと思う。

揺れが収まると、防災無線のサイレンが鳴り‘津波が来るので沿岸の方は高台に避難するように、沿岸には近づかないように’という放送が流れました。
いつもは静かな住宅街ですが、外はもう車の走る音が聞こえます。
津波の恐ろしさがトラウマになっているのでしょう。

停電になっていました。
内心は大丈夫なんじゃないかと思ったが母に声をかけ念のため高台に避難する事にしました。

車はほぼ満タンにガソリンが入っている。
毛布2枚と500ccのペットボトル2本とバックを持って車に乗り込みました。
我が家から大通りに出ると、もうすでにすごい渋滞。
信号機の消えた幹線道路に注意深く右折し進入しました。

2キロ程走り、坂道の路肩に停まっていた数台の車の後ろに車を停め、エンジンをかけたままテレビを1時間ほど見ていましたが、津波警報が解除されたのを機に家に戻りました。

懐中電灯を手に家の中を点検してみる。
クローゼットの中は物が散乱していたが、今回は食器も何も壊れていない。
水をは出たので、とりあえず10リットルほど汲んで置いた。

興奮していたので初め眠れなかったが、いつの間にか眠っていたのでしょう、目が覚めたのはいつもの6時半。
ガスは来ていたが、断水と停電はまだ続いている。水をもう少し汲んでおけばよかった。

すぐ傍のコミュ二ティーセンターでペットボトルの水を配っていました。
家族の人数×5本(500cc)
母と二人だが明日夫が帰ってくるので3人と言い15本頂いて来ました。これももっともらってくれば良かった。

夜6時。電気が付いた。水はまだ出ない。

いつまで続くんだろう。



平成23年 東北地方太平洋沖地震④

2011-04-01 | 地震
千葉に避難していた叔母が、昨夜帰ってきて別の叔母の家にいると連絡が来ました。
家に行ってみたいので車に乗せてってくれないかと言うので今日は満を持してガソリンを入れる事にしました。

朝8時過ぎ、自転車で近くのGSを回ってみました。
一軒目はもうすでに終了。二件目はまだそんなに長蛇の列と言う訳ではなく、聞いてみると整理券はまだ配っていないと言う。
急いで家に戻って車を持って来ました。
並ぶ事3時間。47番目の整理券を貰って無事満タンにガソリンを入れる事が出来ました。

午後叔母を乗せて走る事20分。言葉になりません。津波の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。
↑母の実家の母屋を背に撮った写真です。
敷地内によその家の屋根が流れてきたそうです。
目の前は海なのですが、満潮時には潮が陸地だった所まで来てます。
叔母達家族はもう住めないと言っています。

この建物は明治38年建築の専売公社の建物だったそうです。
それを母の実家で買ったのですが、煉瓦造りの歴史的な建造物で従姉妹は壊したかったらしいのですが、残してほしいという地元住民、自治体の要望で残していたそうです。
水に浸っているもの、もう維持は出来ません。