マンデーの日記

Whatever Will Be, Will Be.

苦役列車

2011-08-02 | 読書
震災前に予約した本の順番が来たと、やっと開館した図書館から連絡があり取りに行って来た。

図書館の隣は災害ボランティアセンターになっていて、キャンピングカーやテント、他県ナンバーの車もたくさん停まっていて、洗濯物なんかも干してある。
以前の宮城県地震の時は仮設住宅があった場所だ。
カメラを持ってくればよかったけど、ウォーキングも兼ねての歩きだったから仕方ない。
震災と言えば、3月11日から我が家に避難していた母が今日やっと、家に戻った。
もうすぐお盆が来るのと、大工さんが入るので帰る事にしたのだ。
これで私の生活もほぼ前に戻ったけれど、5ヶ月近くも一緒に暮らしていたので、なんか気が抜けてしまったナ。

さーて本は何を予約していたんだろう?
すっかり忘れてしまっていたけれど、西村賢太の芥川賞作品“苦駅列車”だった。
思っていたよりページ数は少ないようだけど、芥川賞作品はその面白さが理解出来難いので、最後まで読めるかどうかが問題だ。


まほろ駅前多田便利軒

2011-06-17 | 読書
三浦しおんの‘まほろ駅前多田便利軒’を読みました。
第135回直木賞作品です。
まほろ駅近くで便利屋を営む男と、男の同級生のお話です。
まほろ駅は作者が在住している町田市がモデルで、町田市はずーっと昔兄が住んでいて私も何度か訪れた街で、少し懐かしい。

難しい‘沈まぬ太陽’を読んだ後、のんびり少しづつ読むのには丁度良い、読んだ後にホッとするような作品でした。


沈まぬ太陽 感想

2011-05-26 | 読書
そういえば、『沈まぬ太陽』を読んだら感想を書くはずだった事をすっかり忘れていました。
本はとっくに読み終えましたが、そろそろ忘れそうです。
作品は「アフリカ編」「御巣鷹山編」「会長室篇」からなり、単行本5冊の長編です。
専門的な用語や内容が多く理解できない所はとばして読みました。

私など,短い文章を書くのでさえ四苦八苦するというのに、山崎豊子の頭の中はどうなっているのでしょうか?見事な取材と豊富な知識に驚きと尊敬の念を抱きます。

そんな訳で感想文を書くのは苦手です、これ位でご勘弁を…。

☆みっつとっても面白いお勧めの本でした。

沈まぬ太陽

2011-05-08 | 読書
GW最終日。
震災の影響で何処にも出かけないまま、家で山崎豊子の傑作“沈まぬ太陽”を読んでいます。
映画は見ていませんが、本は読みたいと思っていたところ、たまたま兄が単行本5冊を持っていたので借りる事にしました。

全巻読んでからの投稿にしようと思いましたが、長いのと面白いのでとりあえずお勧めしようかな…と。

作品は乗員乗客520名の死者を出した、航空史上最大最悪とされた日航機墜落事故を題材にしたフィクションで、作品については賛否両論あったそうだが、本としては大変面白い。
もし読まれる方は、基礎知識を入れないまま読んだ方が楽しめるのではないでしょうか。

作品は「アフリカ編」「御巣鷹山編」「会長室篇」からなり、現在私は御巣鷹山編を読んでいます。
アフリカ編は、アフリカの野生動物の描写が素晴らしく、又主人公・恩地元のモデルとされた小倉寛太郎氏がアフリカ研究家、動物写真家として活躍した事もうなずけ、恩地の荒んだ心が痛いほど感じられる表現が多いが、いつか東アフリカに是非行ってみたいと強く思わされるようにアフリカの光景を見事に表しています。

御巣鷹山編は、実際とはかけ離れているかもしれませんが、随所に航空機事故の悲惨さが、不謹慎かもしれませんが東日本大震災と被ってしまう。
「たとえ神であろうと、そこまで過酷な試練は許されない」5人家族の妻と子供を失った瀬川の言葉が被災地とダブってしまうのは、まだ被災地が凄惨な姿を未だに残し、同じようにやりきれない悲しい話を聞いているからかもしれません。

場面は会長室篇上下になってどんなラストが待っているのでしょうか?
続きは読み終えたら書きます。

北政所ねね

2011-03-08 | 読書
‘江㊤㊦’を読み終えて、歴史繋がりの伝記物でも読もうと思い、図書館に行きました。
私が思うには、戦国時代の主人公と言えばなんと言っても秀吉です。
歴史で一番面白いのは秀吉、と言う夫の勧めもあり、秀吉の伝記物を捜しましたが、難しくてつまらなそうなものばっかりだったので、秀吉の正室“北政所ねね”を借りて来ました。

ねねに関する資料は多いように思えてそうではなく、そのほとんどが秀吉の背後に隠れてしまっていますが、賢い女性である事には間違いないようです。
ねねは庶民の出としては考えられないような高い地位に登りましたが、貧しい微禄の武士の娘で他家に養われて教養もなかったにもかかわらず、権力を少しも笠に着ず、終始身をつつしみ、人柄もおおらかであたたかい女性であったとされます。

その一方ねねは、何人もの側室を持った秀吉への嫉妬も深く、長浜城にいた時に、安土城の信長のもとへたびたびご機嫌伺いに参上したと言われ、信長からねねへの嫉妬をたしなめた手紙も残っています。(見てみたいものだ)

石女(うまずめ)・鎌倉初期、日本最初の史論書、愚管抄に「北の政所にておはしましけれど、つひに石女にて、御子の出来ざりければ」
ねねには子供がいなかった。

秀吉の子として侍女や茶々に生まれた子供達は、秀吉の子ではなかったとされ、ねねは石女でなく、秀吉には子胤はなかったとされる諸説が今なお根強く残っています。

しかしながら石女という宿命を身に、豊臣家の滅亡に手をかしたねね。
一介の貧しい足軽から関白太政大臣へときわめた男と生涯をともにしながら、自らも北の政所となったねねは戦国という波乱にみちた権力の渦の中を生きぬいた強い女性でした。