マンデーの日記

Whatever Will Be, Will Be.

悲しい別れがありました。

2014-05-21 | 日記
5月14日
入水中だった。
外に出て携帯を見ると「叔母が救急車で運ばれた」と従姉妹からメールがあった。
すぐに従姉妹の携帯に電話してみたが出ない。
ほどなくして返信があって連絡が付いた。

叔母は翌日の楽しみにしていた友人たちとのお食事会に備えて、今年初めての夏日の中、庭の木を切り、暑い中ストーブを焚いた部屋にいたらしい。
その後食事の支度をしに台所に立ったが具合が悪くなった。
医師の従姉妹が脈を取ったが貧脈で血圧が上がらない。
熱中症ではないかと判断し自分の医院に運んだが好転せず救急車で日赤病院に搬送。

妹に連絡。

私がかけつけた時は救命措置中。

MRIの検査中心臓が止まったと、聞かされた。
心臓は動いたが状況は厳しいと宣告された。

兄に連絡。
母に内緒にするよう念を押す。

救急室のドアが開くのが怖かった。
先生に説明を受けている時、又心臓が止まった。

祈りは天に届かず奇跡も起きなかった。
はっきりした原因は分からなかったが、死因は心筋梗塞。

享年85歳。
色白で洒落な綺麗な叔母でした。
5月11日に84歳の誕生日を迎えたばかりだった。
生涯独身の叔母は迷惑がかからないようにしたいと言うのが口癖だった。
まさか母より先に逝くとは思いもしなかった。

誰にも愛され面倒見の良かった叔母に大変お世話になりました。


神様の様な叔母は仏様になってしまいました。

葬儀の後叔母から頂いて来たカサブランカが我が家で綺麗に咲いている。

信州松本の旅

2014-05-06 | 旅行
GWに信州松本に行って来ました。

3日。南インターに入るまでに渋滞に巻き込まれ一泊目の宿泊地長岡に着いたのは4時半過ぎ。
ホテル近くの山本五十六記念館は5時までの開館時間の為見学は間に合わず…。

長岡はこの日成人式だったそうで駅近くの居酒屋はどこもいっぱい。ホテルの人に勧めて頂いた手作りのお店も予約でいっぱい。残念…。
この時期の成人式は初めて聞いた。

4日早朝一路安曇野に向った。
お天気も良く北アルプスをバックに‘安曇野ちひろ美術館’はありました。
入場料は800円。入館証の提示で一日出入り自由。
ちひろ没後40年記念展開催中でたくさんの人で賑わっていました。

蕎麦処で老舗のラーメンを食べ、出来れば大王わさび農場に寄りたかったが、電話をして見るとわさび農場への道路は渋滞中、駐車場も満杯との事で翌日早朝に来る事にした。

2時半ホテル着。
チェックインして歩いて国宝松本城に向う。

戦う為に黒い堅固な天守閣と、優雅な月見櫓を持った平城です。
チケット売り場に並ぶと、「天守閣まで行って帰るのに3時間かかるが良いか?」と聞かれた。
せっかく来たのだからと並んで見る事にしたのだが、後から考えると《そこまでして並ばなくても良かったな~》と言うのが見て来た感想。
お城に入るのに長蛇の列、入ってから天守閣までも並んで進まない。
その時、急いでいる人の為の出口に向かう振りして私を追い抜いて行った若いカップルがチャッカリ横入りしたのだ。
そのまま平然と並ぶのを見ていやーーな気分に…。
こういう事を出来る神経を疑う。

お城に着いたのは3時過ぎだったろうか、出たのはすでに暮れかかっていました。
急いで、旧開智小学校に向う。
綺麗で豪華でお洒落な建造物です。

すぐ隣に現在の開智小学校は旧を模して作ったんだね~素敵です。


松本の街は自然豊かで綺麗街でした。
街のど真ん中にお城があって北アルプスと良くマッチしています。
ハナミズキの木が今満開で、街路樹にも家の庭にも白やピンクの満開のハナミズキがいっぱい。

5日。
7時半ホテルを出発し8時頃に大王わさび農場に到着。

渋滞に巻き込まれずに済みました。
入場は無料だが店は9時から。

二つの川は水質が全く違います。
上が一般の河川の万水川。下が湧き水100%。一日70万トンも湧くそうだ。
二つの川は合流して犀川に入り千曲川となり日本海まで270キロの旅に出る。

わさびソフトクリーム。美味しい。

帰り道、歴史好き夫が川中島古戦場に寄りたいと言う。
武田信玄と上杉謙信一騎打ちの川中島の戦いの場所です。

古戦場八幡神社敷地内の横綱蕎麦屋にて美味しい信州蕎麦を頂きました。

第4次川中島の戦い。

2014-05-06 | 日記
武田信玄VS上杉謙信…キツツキ戦法。
(赤は武田軍、青が上杉軍)

軍師山本勘助が武田信玄に進言し採用された戦法。
 
武田軍を二つに分け一隊を、上杉軍が立てこもる妻女山を強襲し、上杉軍を妻女山から追い落とし、残る一隊が八幡原で待ち受け挟み撃ちにする戦法であったが海津城の夕げの支度の煙からいち早く上杉軍が海津城の武田軍に気付き妻女山を下山し待ちうけている武田軍に襲いかかった。
もう少しで武田軍に勝ちそうだったが、妻女山から戻って来た一隊が加わり上杉軍は敗走した。(この時、武田軍にも追う力はなかったのではないかとされる)

上杉軍が疲れ果てそろそろ越後に帰ろうと下山した時、たまたま武田軍に出会ってしまったという説もあると夫が言っていた。

この戦いで山本勘助は戦死。
武田信玄の弟も信玄の命の背いた信玄の息子が原因で戦死。