マンデーの日記

Whatever Will Be, Will Be.

復興の兆し

2011-03-30 | 地震
歩いて近くのイオンに行って見た。
地震以来初めて行くスーパーだ。

いつも行く理容店が浸水していつ空くか分からなかったので、敷地内にある美容院が空いていたら髪を切りたかった。

スーパーに二か所あった入口は一か所だけだったけれど、中の商品も前に比べて少ないけれど、思っていたより品数があって感激した。
バナナがあった。デコポンもあった。お寿司もあった。お肉もお惣菜もあった。なんとケーキもあっておもわず買ってしまった。
ケーキ屋さんのシェークが美味しいので買って帰りたかったが機械が故障しているそうで土曜日から売るそうだ。ヨシッ!
バナナ、デコポンと煮魚にする赤魚を買って、欲しかったホットレモンのパックはなかったけれど代わりに粉末のものを買って美容院に向かった。

やはり美容院は閉まっていた。ゲームセンターもラーメン店もしまっていたけれど、タイ焼き屋さんは明日から営業する由の張り紙がしてあった。
ドコモショップも、本屋さんも時間限定で空いているらしい。

もっとも欲しいのはガソリンだけれど、急ぎで行かなければならない所もないし我慢することにした。


平成23年 東北地方太平洋沖地震③

2011-03-29 | 地震
3・11の大地震から18日が過ぎました。

わが家は被災した方々に、申し訳ない位被害を受けずに済みました。
車も無事でしたし、食器を数枚割っただけでした。

妹の家は床上浸水し、我が家に泊まりながら自転車で毎日家の片付けに行っていましたが、電気と水が復旧したので昨日帰って行きました。
妹には「水に浸かっても家があるだけまだましだー、流された人も多いのだから」と慰めるしかありません。

少ないガソリンで実家のあと片付けに通っていますが、古い上に老人の一人暮らしの家は、物が多く汚れているのでなかなか思うように片付きません。
落ちてしまった壁や壊れた物を捨てる手段がないので今日はボランティアをお願いする事にしました。
津波で浸水した訳ではないので畳などの運び出しや泥のかき出し等の力仕事がないですが、申し訳ないような気がします。
現在100人待ちだそうだから、もしかしたら終わっているかもしれないが…

実家の被害で母と一緒に住むつもりでいましたが、母はやはり家が良いらしい。
無理なような気もしますが、言う事を聞く母ではないので好きにさせる事にしました。

私は金曜日はいつも3時5分前に家を出、甚大な被害を出した野蒜海岸を通って仕事に行きます。
あの地震があと20分遅く来たら、多分大津波に車ごと流され命を落としていたに違いありません。
大津波を目のあたりにしていないので実感はありませんが、後になって考えるとぞっとします。

平成23年 東北地方太平洋沖地震②

2011-03-25 | 地震
高校時代の友人の家は、津波を諸に受け、一面瓦礫と化した場所にありました。
地震・津波当初から、携帯、メールに何度も連絡を入れましたが返事が来ません。

先日、夫が行方不明者の中に彼女の名前があると教えてくれました。
それからしばらくして別の友人から避難所にいるらしいとの連絡が入りました。
避難所に行って見ると、旦那さんと息子さんらしい人が別の場所に移ったらしいと言う事でした。
彼女の珍しい名字をたよりに電話帳で探して実家に電話をかけてみると、やはり彼女は行方不明でした。
地震からすでに2週間が過ぎ厳しい状況になって来ました。
心配していた事が現実となってしまいました。

独身時代、休みの日は毎週彼女といつも一緒でした。

京都・金沢、北海道に旅行した事が思い出されます。
旦那さんと独身時代、スキー場にてドッキリテレビにはまりテレビ出演して会場を笑わせていました。
体育祭の時、全校生徒の前で“どうにもとまらない”を踊った彼女。
活発で度胸があって面白くて、ジムに通って人一倍体を鍛え、人一倍しっかりしていた彼女は誰よりも長生きすると思っていました。
どんな事情があったのでしょう?
何故すぐに逃げなかったのでしょうか?
「大丈夫だー、まさかここまでは津波が来ないー。」と言ったのか、荷物をまとめていて逃げ遅れたのか?
それとも逃げ切れなかったのか?

今となっては想像するしかできませんが(何でー)と言う思いです


二次災害

2011-03-24 | 地震
3日後。被害の状況を見ながら親戚の家に寄ってみようと自転車で出かけました。
親戚の安否を確認し、友人宅へ向かいました。たいして遠い距離ではないはずなのに、坂道で動悸がして来ました。
その時は‘アレッ’と言う感じだけでしたが、少し走ったり、動いたりすると動悸がします。
そんな状態が4,5日続きました。これは地震のストレスなのかもしれない。

地震5日後。
七輪が不安定な入れ物にあったので、安定感のある入れ物に移しました。
しばらくすると七輪の周りからかすかに煙が見える。何だろう?
答えは↑。茶の間の床が焦げてしまいました。

19日。娘夫婦が一馬と次女を連れて水や食料品・乾電池・懐中電灯などを沢山持ってきてくれました。
茶の間前の濡れ縁から品物を受け取ろうと一歩踏み出した時、足を踏み外してしまいおもいっきり婿さんの目の前で30センチ下に顔面から落ちてしまいました。
芝生の上に寝たまましばし動けません。
頭・手首・膝・右頬のどこか骨折したに違いないと思いました。
よりによって、何でこんな時に…病院にも行けないのに。
芝生の上で膝を立て、仰向けになったまま、まずメガネを外してみた。
このメガネ屋さんが開いていない時期、ましてやガソリンもないのに買いにも行けない。
幸いメガネには傷があったが壊れてはいない
膝・頬・手首は打ったが折ってはいないようだ。


今月25日開催予定だった、プロ野球初めてのホーム開幕戦。
2月14日。やっとのことで取ったチケットも幻になってしまいました。
開幕戦は、大阪で行われる事になりました。悲しい。

今月31日出発のアンコールワットも、とても行ける状態ではないのでキャンセルしました。
まず、ANAの特典チケットをキャンセルするため電話をしました。
なんと、キャンセルに必要な3000マイルの手数料は被災地だと言う事で免除されました。

次は阪急交通社に電話をかけました。
3日前までは20%のキャンセル料がかかるはずなのですが、被災地だと言う事でこちらも取られませんでした。

旅行は健康ならいつでも行けます。

行方不明者になっていた、友人が避難所にいたらしい。
ホッとしました。

平成23年 東北地方太平洋沖地震

2011-03-23 | 地震
3月11日2時46分。
仕事に行こうと準備をしていると、長くて激しい揺れに襲われました。

前回の地震で、ひっくり返ったテレビを抑えに、這うようにして寝室に行きました。
あまりに長くて、気持ち悪くなるようでした。
震えながら「お願い、もう止んで」と言うような事を何度も口走っていたと思います。

どの位の長さだったでしょうか?有に3分は経ったように感じました。
5分後。揺れが止んで、かすかに震えながら家の中をサッと見回し、実家に車を走らせました。
古い実家はあの揺れでは多分家はつぶれただろう。母は下敷きになったのではないだろうか?
心臓がドキドキしていました。

玄関の前に置いてあった大きな水ガメが、ひっくり返っていました。
実家はかろうじて建っていましたが、壁は落ち、家の中は箪笥や何もかもがひっくり返ってゴチャゴチャ。
母は平然として、こぼれたマッチ箱を拾っていました。
「ここは危ないから車に乗って」と連れて行こうとしたら、全財産が入ったバックが見つかりません。
何処を捜しても見つかりません。
仕方がないのでそのまま行こうとしたら、寝室の枕元にあったのを思い出したようです。

家に帰ると、娘から「津波が来るから逃げて」と電話が来ました。
まさかと思っていましたら、今度は夫から同じ内容のメールが届き(夫はメールが出来ませんが、電話が繋がらないので同僚にメールして貰ったようだ)我が家は、まさか津波が来るはずがない場所にありますが、二人からの情報に避難する事にしました。

3時半。途中で娘を拾い、毛布と飲み物、551の豚マンを3つチンして、なるべく海から離れるように車を走らせました。
小高い場所に車を停めるスペースに見つけ、エンジンを付けたまま映りの悪いナビのテレビで地震のニュースを見ていました。
近くに住む方が家の駐車場に車を停めるように言って下さり移動しました。
どの位経ったかは覚えていませんが、車の中で夕食代わりの豚マンを食べ、家に帰る事にした頃、外は真っ暗になっていました。
地震後は勿論停電です。空は星がとっても綺麗で、しばし娘と見とれてしまいました。

数十メートル先まで水が来ましたが、家は無事でした。
テレビもPCも使えないし本も読めない暮らしなんて何をしていいか分からず寝るしかありません。

9時過ぎ。玄関をトントン叩く音がして出て見ると、妹と姪が津波の為家に入れず泊まりました。

翌日。ガス・電話・電気・水道は全て止まり、ラジオから聞こえてくる情報は津波のすさまじさばかりです。
驚きの声しか出ません。

母の実家は海のすぐ前にあります。
叔母二人と従姉妹が住んでいます。前日から我が家に来るようにメールを入れていましたが連絡が取れません。
後になって知ったのですが、従姉妹の車で天神様に避難し一夜を過ごし、翌日知り合いの家に泊めて貰っていたそうです。
千葉に住む従姉妹が夫と捜しに来たのだが見つからず、流されたと思っていたらしい。
一週間後、キャンピングカーに物資をたくさん積み込み再び入り、歩いて捜しあてたそうだ。
この時点で親戚家族の安否が全員確認できました。
義理の母に一馬を預けて金土だけ仕事している娘は、交通手段がなく帰れず、2泊した後夫が迎えに来て、家が浸水したので夫の実家に帰って行きました。
初めて二晩も離れた一馬は最初、ママをじっと見つめ躊躇し、「一馬おいで」と言われ抱っこされたらしい。
それ以来ママにベッタリだそうで一時もママから離れないそうだ。

さて水と食料と火を確保しなければなりません。
水は叔母の安否を確認しに行った時にたまたま30リットル確保できました。
又家の中にも4リットルありますし、お風呂の水がたっぷり張ってあったのでとりあえず安心です。
食料は親戚や友人が届けてくれた分と家にあった物で我が家は援助の物資を受けずに間に合う事が出来ました。
燃料は我が家にあった七輪と豆炭と炭を使いました。
常に電気ケトルを使っているためヤカンはありません。
七輪は暖は取れませんが、食事を作るには重宝しました。一家にひとつ、お勧めです。ただ、一酸化炭素中毒に気を付けなければなりません。
買い物しなくても何とかなるものです。
おかげで賞味期限切れ食品がほとんど処分出来ました。

4,5日経って、頭が痒くててっぺんにカサブタが出来ました。何やら頭から汁が出始めたようだ。
妹と姪とお湯を沸かして頭だけ洗う事にしました。リンスはなしです。

まだまだ大きな余震があります。
現在我が家には母と妹が避難しています。
夫とは仕事のため地震以来まだ会っていません。

19日ガスが使えるようになり、20日携帯が繋がり、21日電気と水が使えるようになりました。
PCはヤフーがNTTから借りている回線に不具合が生じ使えず昨夜やっと繋がりました。
我が家は早い方でまだまだ電気もガスも水も電話も使えない家庭が多くあります。

続きます…