KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

まなざしとハチドリのひとしずく

2012-02-23 | KOFUKU日記
夕べはすごい雨でした。
でもお日様が出てきて、今はすっかり晴れています。
気温も20度と高く、ヒーターもコタツもおやすみ。
ちび達は庭で日光浴中(^^)

 
《おひさま、きもちいー♪》



《はむちゃんもあったかいので気持ちよく砂浴び中♪》



《今日のおやつは先日送ってもらったメロン寒天ゼリー、
甥っ子ちび君のお手製デス!プリンを食べたあと取っておいた
可愛い瓶に入れてくれました。光をあびてキラキラ~!》

今日も皆、善い一日をスタートさせました。



《私はちいさないのちたちの純粋な瞳に動かされます》


「目は口ほどにものを言う」
とはこの日本に住んでると良く聞く言葉ですね。

いま一番気になる俳優さんが昨年ゴールデングローブ(アメリカの)の
助演男優賞を取った時、うん、これからもこの人は伸びるな、と感じたのは、
有名になっても目の輝きが強く、それがとても純粋であることでした。

彼は学生演劇の経験はあったもののキャリアがないままデビューしていますが
その演技っぷりは、エンターテイメントをやるものとしての感性が良くて
さらにとてもリアリティがあり、目を見張るものがありました。

キャリアを持ち、たくさんの力を持つ人の中で
ノンキャリアで活動することは大きな重圧もあったと思います。
でも彼は自分を良く知っていて、それをとても生かしていましたし
自分が夢を現実としていることをよく分かってたんだと思いますし、
何よりもそこに傾けているパッションが違ったんだと思います。
それらが彼を支えてくれたのかなと思うわけです。
いまはさらに飛躍されて、その才能を発揮しておられます。
これからも輝きを失ってほしくない方です。


いま、周りを見渡すと、そんな目を持っている人がとっても少ない気がするのです。
大人にしても、こどもにしても、そういう人が多い気がします。
自分で自分が支えられない人が多いとでもいうのかな~。
まず、そこからだと思うけど、自分と戦わない人が多い気がしています。

以前、知ってる若者で、なんというか生き方がふにゃっとしてる人が居て(^_^;)
その人と話をしてみたら、こういうんですね。
「お金がない生活をしたことがないから、お金が無くなるのが怖い。」

「生きる」って人間の本質にまっすぐといえば真っ直ぐなご意見とも思いましたが
この答えから、なぜこの人に芯がないのかわかる気がしました(-_-;)

ご自身が稼ぐお金に目的がないんでしょうね。
つまり生きる目的がはっきりしてないのでしょう。
裏を返せば、生きられれば適当でもOKなんですね。
だから、仕事なんか、自分が適当に出来る仕事だったらなんでもいい。
そして、その安定が壊れるのが何より嫌なんだと感じました。

でも、そういう人は今の状態を愚痴る人が多いです。
夢がかなわないとか、世の中つまらないとか、
そんなに簡単に夢なんて見つかるはずないとか
そんなのは夢持ってる人の優越感、って話をするんですね(^_^;)

いま夢をかなえてる人、意識を持って暮らしてる人のどれだけが
何の苦労も無しでそれを手に入れたと思ってんでしょうか?
そんな認識どうやってできたのか逆に聞きたくなりますが。

かといって、ご自身はそれを必死で探してるようにも見えない。
目の前に楽な幸運が落ちてないから怒ってる感じ。
その癖に持ってるものをなくすることには焦る。
当然、それらを分かち合うなんてことは損だと心の奥底で考えている気がする。

お金、美(若さ)、地位、権力、そういうものに縛られている人は
みな同じオーラが根本にある気がする…。
それがあるから安定しているわけで…。
今持ってる、それらがなくなったら大変だ~とか
今持ってるそれがあると楽だからもっと欲しい~とか
そういう事がそれを求めてる本当の理由のような気がします。

でもそれらは、たとえば311のような大きな出来事が起きたとき
なにも自分を支えてはくれません。
あの震災で皆、そう感じたはずです。
何もかもを失なったとき、自分やいのちや生き方を支えるのは
自分自身の心の中にしっかりと持っている輝く「何か」です。

その何かを見つけようとも、知ろうともしない人が多い気がしてます。
だから、眼が死ぬのかな、って。
輝きも出てこないのかな?って思います。

生き方は自由だし、それが悪いともいえないけど、
なんか私にはしっくりきませんのデス。
田舎に戻り、若いころの日々の事をおもうと余計です。

いま、お金がこれだけないと生活できない、
と言う若い人が多いですよね?
それは本当だろうかね?って思います。

私自身、もう世間がびっくりするくらいの貧しさの中にいたけれど
その渦中にいる時でも、自分が何をしたいか解っていたら
その為に貧乏であることを選ぶことには何も迷いませんでした。

だって、そのために今よりお金のない生活を選ぶだけの事ですよね?
でも、それを大変だって思う、って事の方が不思議なんです。
だって、自分が願う事をかなえるためにすることが「大変」なんですかね?
その為に頑張るって、充実感あるし、結構燃えるもんですけどね。
夢を現実にしてく楽しさ、今は違うのかなー?

たとえば、夢に近しくなろうとして10万しか得られないなら
10万の生活すればいいと思うんですよ。私はそうでした。
自分が工夫すればいいだけの事ですよね?

私の周りもそうですよ。
自分のしたいことをするために、みんなお金や時間を使ってます。
そして、それを必死にやることが、ほかの人のためにつながるのだと良く知っています。
だから、苦労を厭いません。
自分ができることで、いつか誰かに何かをできるようになるからです。
自分の事を真剣に考えれば考えるほど、他の人は自分から切り離せないと解ります。

だけど何をするにも自分の事しか考えていない人、
そういう人は、苦労することを嫌います。
人に何かすることは自分が損をするように感じるからだと思います。

その様に、今の歩みは、自分が自ら得ていくことではなくて、
歩む道にそれが置いてあるかどうか?になってる気がします。
人生において、まずそれらを手に入れられない事が問題になるんでしょうね。
つまりブランド品を買えないことは貧しかったり
人並みでなく、恥ずかしかったりすることになる。

そういう人の貧しさの基準ってなんだろかね。。。
あたしの言う貧乏は学費にもその日のごはんにも困る
命に直結レベルですけどね(^_^;)

確かに自分の心に妥協して時間を使えば、お金になり、生活は潤う、
でも自分の本来やるべき時間は少なくなり、心は満たされない。
なら、いま得られるもので楽しく暮らす力をつければいい。
10万で8万支払いがあったとしたら
2万で暮らす努力をしたらいいと思うんです。

私なんて初めて2人で生活をした時、家計は月6万しかありませんでした。
それでも家賃払って、光熱費はらって、生活費も食費も払って、
3食食べて、お弁当も作ってましたよ。
工夫に工夫を重ねれば出来るもんです。

実際、それだけしかないんだから、それでやるしかないでしょう?(笑)
そんなの無理でしょ、って思う人には永遠に無理でしょうが
やってやろう、やるしかない、と思う人には出来るんですよ。

だって私の尊敬する友人たちはみんなそうやって成功していますから。
朝早くからバイトに行ったり、本当に大変な生活をしているけど
だからって、やるべきことを辞めたりなんかしていませんでした。
少ない自分の時間を有効に使って、自分のやるべきこと
やりたいことを精一杯にやっています。
その努力がいつか実を結んで、自分のしたいことが出来る今を手に入れてます。

そういう人はものすごく一生懸命生きてますよ。
ものすごい覚悟の元に生きてますよ。
そして今あるものに感謝しています。
それで満たされることに喜んでいます。
だから自然と次の階段を上っていくんでしょうね。

それが困難の中でもできるのは、
やっぱり「目的」がきちんとあるから。
やりたいことを、自分の生き方を理解してるから
困難な道だって歩めるんだと思うんですよ。
自分の心がはっきりわかっているからだと思うんです。



そういう人の目はいつもキラキラしています。
嘘偽りのない、このちいさな者たちの様に。
真っ直ぐに自分の見るべきものを見ているのだとおもいます。
輝く何かをしっかり見ているからだと思います。
尊敬する相方さんやパートナーさんもそういう生き方を貫いた人でした。
そして、いつもとても輝いていました。

もちろん、そういう道を選ばなかった人も周りにいます。
昔は死んでるような瞳だった、そんな人の中には、
今生きている中から目標を見出して輝く瞳を手に入れた人もいます。
反面、今いる逃げた場所から、輝く瞳を持つ人を羨ましげに見ている人も多いです。


だから、思うんですよ。
まずは胸に手を当てて聞いてみてください。
あなたは本当に一生懸命生きてますか?
もし、そうじゃなくて、それで否定的な言葉が生まれているなら
ちょっと勇気をだして、一度必死に努力してみるのはどうなのかなーって。
苦労の向こうには絶対に意義あるものが手に入れられるから。
保証します。

人間、そんな簡単にはいかないから、失敗してもいいんですよ。
だって出来るまでやればいいんだから。
何よりも出来るようになることが大事なんだから。
何回できなかったかって事は大した問題じゃないと私は思います。

もし何回やってもできなかった結果になっても
それだけチャレンジし続けたんだから
きっと、そのことを喜べるようになるはずです。

「死ぬ気でやれよ、しなないから」
って言葉もあるんで、
死ぬ気ってやってみる価値あると思います。
あたしも死ぬ気でしたが今まで死んでませんし(笑)

確かにすべてを捨てる、捧げるってのは怖いですけどね。
でもあたしなんか、そういう意味じゃ、
何度自分のすべてを捨てた事か、捧げた事か(笑)

でも後悔は一切ないですよ。覚悟してやったことには。
しかも、やった以上にいろんなもの手に入れてます(^^)

度重なる逆境打破の経験者として思いますが、
自分のすべてかけるくらいの気持ちや覚悟がないなら
何をしたってうまくいかないと思います。
大事なことで気楽にできることなんてないですから。
自分にそういう思いが持てない人は何しても後悔しますし。
自分の決定には失敗や違う未来を受け止める勇気だって必要なんです。
目的を持って生きる、夢をかなえる、ってそういう事じゃないでしょうか。

事実ね、貧乏でどうにもならないのにカキコとかできる人は
その時間はあるのに、今までどういう努力をどれだけしてたんでしょう?
お金貸してください、って市役所とかに駆け込んでみたでしょうか?
誰かに頭こすり付けても頼んでみたりしたんでしょうかねー?

きっとやってませんよね。そう思うんですよ。
そういう人が言う気がするんですよ、貧乏だから仕方ないって。

だって、本当に貧乏な人は今日生きることに必死ですもん。
だって、躊躇してたら死んじゃいますからね。
わたしんちなんかそうでしたもん。
命に直結してますから、ほんとの貧乏は。
人にそんな事話してる時間なんてないって~。

今まで、いろいろ話すると大概軽く生きてる人がまず言いますよ、
「そんなにしてまで生きたくない」とか「あたしには出来ない」とか。
読んで字のごとく、やってないんですよね、そういう努力は。

とはいっても、人は動けないときもあります。
置かれている立場や環境や年齢で強く望んでも無理なこともあります。
でも、心だけはいつかを望み続けることができるんですよね。
今はだめでも、いつか実行できる日が来たらうごけばいいとおもう。
どんな人でも本当に貧乏でも何とかしたいって思うなら
いつかかならずアクション起こせますから。
本当に逃げたかったら恥も外聞もなく動けるはずです。
人間、そういうパワーはすごいものがあるんです。

あたしんちなんか、これまで家に一円もないなんて時はざらだったけど
これまでだって、こうやって生きてるし、なんとか暮らしてますよ。
それはどうしたって生きてかなきゃ、暮らしていかなきゃって
それはそれはものすごい強い意識があるからです。

だからって、こんな家だから、こんなことするのは無理、
なんて思うのはナンセンスです。
事実、実家はホームレス時代があったくらい極貧ですが
甥っ子は有名私立に通ってました。
そりゃ、家族は必死で学費作ってましたけどね。
でもそれも喜びでしょ。

状況では決定的に難しいこともあるかもしれないけど、
選ぶ道はそれだけじゃないし、望めば無限にあります。

だから、どんな状況でも、自分が何をしたくて、どうしたいのか
あきらめずに考えて考えて、思いを溜めて
そしてすこしでも動いてほしいなぁって思います。

原発非難したいけどできないという方も多いですね。
私も昨年夏の終わりに関東から、地震や原発恐怖で避難してきました。
お金はほとんどなかったし、立場的にも絶対無理って言われてたけど
こうやって最終的に自分の願いどおりに避難できました。

でも簡単にできたわけではありません。
私の場合、一般の人よりも、格段、生きている状況が困難です。
お金も借りられないし、保証人も居ないし、地元に帰るとはいえ、
家族は私の面倒を見られる環境にありません。
帰っても今後の金銭的な保証は何もなかったし、
それどころか、家族の借金を返していかなければならない状況もあり、
だからと言って誰かが助けてくれるわけではありません。
そんな中で帰れるともわからない状況なのに
それをお願いするためには先に家を探さねばならなかったり、
本当に本当に大変だったんですよ。

でも、それでも、一緒に暮らす小さい魂たちや
今までのいろいろな事、未来の事を考えて
私はどうしても帰りたいと思いました。
そうできるなら、苦労は構わない、と思いました。

だから何か月も何か月も、ダメを覚悟で必死に掛け合って
話し合いを繰り返したし、自分のできることをしたし、
恥を忍んで人様に何度も何度もお願いも繰り返しました。

でも私は何とかしたいと真剣でした。
だからこそ、協力してくれる人もいて、
私のために動いてくれる人も生まれて
こうして、今ここに私は居るのです。

今は手に入れた、この生活を大切に自分が生きることが
まずはみんなへの恩返しと思い、感謝しつつ暮らしています。
感謝して生きることが大事な気がします。

だから、今困難にあるかたにもあきらめずに
出来る働きかけをしていってほしいと思いますね。


私は本職は舞台俳優です。
今は自分が生きていること、そのものが
俳優業であるという感覚でいきていますが、
自分がオーディションを受ける側からプロになり、
教える側になり、オーディションで判断する側になって感じた事は
やはり、選ばれる人、出てくる人は「目が違う」って事でした。
明らかに輝きが違うんですよ。放つオーラが違うんです。
やる気や自信や思いの純粋さが目や身体にはっきり出てくるんです。
これは子どもでも大人でも同じです。
その輝きは人の心をひきつけます。


「あなた、絶対受かるわよ。目が違うから。」

これは、まったくのキャリアなしでオーディションを受けた
某ミュージカル劇団(オールシーズン・笑)の玄関受付で
受付担当の事務の方に試験前にかけられた言葉です。

突然、そんな事言われてびっくりしたわけですが、
驚いたことにそれはそのとおり現実となりました。
恐ろしいほどの倍率と技術を持つ人の中にポツンとほぼ素人でしたから
まあ、ミラクルと言ってもいいでしょうが(笑)

でもその前も、それから後のこれまでも、この目の輝きに助けられてきました。
いろんな考えに賛同してもらい、助けてもらいました。
バイトだって、仕事だって、あなたの目が真剣だから、
と言って聞いてもらえて、たくさん助けてもらったし、
人もこんな私についてきてくれた。
だからこそ、こんな若さで、一円の資金も持たないまま、
ショーカフェや劇場やカルチャースクールなんて作れたんです。
個人で公演をやったり、好きなこと・やりたいことを存分にさせて頂きました。
今振り返れば、それだけ真剣に生きてこれたんだな、って素直に思う。


私は対して才覚もなければ、借金はあれ、お金もまったくないけど
自分が自分の大事なことを、本当に大切にして生きていたから
皆がそれをする私の目を見て、その真剣さを感じ、
その輝きをみて皆が手を差し伸べてくれたのです。

その真剣さを証明してくれたのは、キャリアとか地位とかではなく
ただ真っ直ぐに真剣なまなざしだった、と今は確信しています。

そして、皆さんからの手助けを大切にして、
いつかお返ししたい、そう思って、
出来る努力をするようにしています。
同じように自分も相手を助ける人でありたいとおもいます。
今も、出来ることしかできないけど、続ける努力をしています。
その思いだけは心にいつも置いています。
感謝を忘れずに生きることは大切だと思います。

そして、それはまたつながって必ず自分に帰ってきます。
そんな上にわたしと友人との交流や絆があります。
家族とのつながりがあります。
それは私のかけがえのない宝です。

私が俳優になるとき願ったことは
今の自分の気持ちをいつまでも持ち続けること、でした。
事あるごとにそれを思いうかべながら生きてきましたが
いま持っている物質的なものでなく、
心に昔と同じ気持ちを持ってる自分がいることが
本当に自分にとって、祝福されたことだと思うのです。

だから、今恐れている人にも、なにか大切なもの
見つけてほしいな、と思うのです。
だから困難に立ち向かうのを恐れないで、
その眼を輝かせてほしいなぁ、と思うのです。

もしかしたら、すごく大変かもしれないけど、価値のある困難です。
今の世の中は何事も「ハッピーにいこう」という風潮があるけど、
苦難にまみれ、困難に立ち向かう人生もまたいいと私は思う。
気楽に生きるのも善し、重く歩くのも善しですよ。
その人に会った歩みで行けばいいと思います。

人生にはいろんなことがあるけど、
心の中で確かなものはいつまでも変わりません。

でもどんなに堅固な思いを持っていても
私の様に心の病で動きたくても動けなくなる時もあります。
したくてもできなくなる日もあるかもしれない。
人間ですから。
だから、人生お気楽派の方も、人生哲学な感じの方も
今、動ける時に動いておくことは、すごく大事だと思います。

私も昔、あれだけ頑張らなかったら、今を悲観したと思う。
でも頑張ってたおかげで、過ぎた人生には後悔がありません。
だからいま、動けなくても、少し休んだっていいや、って思えます。
それだけは、本当に善かったと思えます。

皆さんも実際に本当に大切なものを見つけたら、
なんにも困難と思わないだろうけど(^^)
そういう日が早く来ることを願っています。






「愛と思いやりがあれば、宗教も思想もいらない」

これは私の大好きな言葉で、ダライ・ラマのものです。


最近、原発関係のデモや座り込みが多いですね。
私も、よくそういう活動してるんですか?と聞かれますがNOです。

もともとそういう行為は好きじゃないのですが、
このところ特に荒ぶる気持ちや行いに抵抗が強くなってきました。
別にそういう人を非難するつもりもないですし、止める気もありません。
それはそれで必要な時もあるとおもうからですが、
出来ればそういう方法で解決は望みたくない方です。
自分はひっ迫しているからこそ、穏やかに行く方法もあるんじゃないか
戦うという方法はそういうあり方もあるんじゃないか?と思っています。

先日、原発コミュで海外の方が汚染された日本に帰りたくない
と言っておられることがつぶやかれてました。

私の友人たちは、日本人、外国人共に汚染された日本に対し
懸念よりも先に何かできることはないか?
と考え行動している人が多いです。
日本に居る人は、そんな日本で自分に何ができるか、
海外から来る人の心配をどう消してあげられるかを考えて、
そして実際に行動している人が多いのです。
そこから大きな愛情である思いやりを感じます。

思ってるけど、何も出来ない、という言葉も良く聞きます。
これには、それは本当だろうか?って思ったりもします。
本当に出来ることはないのでしょうか?
だって、私の友人みたいに、何か道を探す人は探すわけだし。

私も17,8年ほど前に自費で各地を巡って
招待公演するツアーをやっていましたが
行く先は自分で動いて探していました。
そういう事は出来ないのでしょうか?
たとえば、クリック募金だってなんだって
そこで出来ることをすればいい気がします。
大きな力じゃないか、って思いますが。

コミュにもやってる人、やってない人いろいろいるんでしょうね。
日本にも本当に事情がある人はいるし、
こちらから間違っていることに思えても
そこに意義をもって真剣でやってる人もいる。
だから、それぞれの意見を述べたくなるんでしょうね。

でも、私はやっぱり闘争はすきじゃないなぁ。
何とか和解を出来る形で解決していくように願いたいです。
だからだめなんだとか、だからこうなったんだ、とかって
言われている方にしたら辛いですよね。
じゃあこれ以上そうならないように、ダメだと思う人が
その人たちのために道を作れたらいいのになって思いますが
なんか世の中はそうはいかないんですかね~。


私が救われるのはそこの管理人さんが
ご自身で対策を重ねられ、常に啓発をなさり、
被ばく対策方法を国内、国外問わずに
惜しみなくシェアしておられることです。
そこには国や人に対する損得のない大きな思いやりを感じます。

私も常に参考にさせてもらっていまして、
家族や周りにこれと言って何も言わないけれど、
料理の中に取り入れたり生活の中に取り入れて、
活用させていただいています。

事実、個人がまず行動できることをしていくことでしか
今の現状を防ぐことも守ることもできないと思いますから。
すごく大切なことをやってくださっていると思いますね。

その方はお茶なども作ってお分けになっておられますが
余裕がないわたしには、手に入れられません。
でも、その方の話を聞いていれば、代わりになるものを
自分の範疇の中で探していくことや工夫が可能です。

大切なのはそこなんじゃないだろうか~。


友人の一人はいつもハチドリのネックレスをしています。
それは「ハチドリのひとしずく」という話から
オリジナルで作られたものです。

こんなお話です。

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げていきました

でもクリキンディという名の
ハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います

クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」


彼女のネックレスは
小さな一人の力でもその意思を貫くこと、
相手を思い、実行することの尊い精神を象徴しています。

彼女はだれかにネックレスの事を聞かれると、
その話を静かにしてくれます。
人はその話とその彼女の言動に動かされます。

行動するという事はすごく難しい。
心が思い、体を動かさねば、それはなしえないことです。

私には、行動している友人が多くいますが
その尊さと勇気と愛と思いやりに感謝しているし
その言動には心から尊敬しています。


マザーテレサがこう言っています。

「私たちの行いは、大海の一滴にすぎません。
 何もしなければ、その一滴も永遠に失われます。」


原発コミュのリーダーさんの尊い実践も
聞いている方が何もしなければそれだけです。
海外の方が、日本を思ってます、
と言うだけで何もしなければそれだけです。

それならば、私は出来ることを出来る範囲でやっていきたいと思う。
自分が動いた分だけ、今日の日本はきれいになる、強くなる。
海外の方の不安もそれだけ減るというものです。

私もハチドリの様に小さな働きを真剣にできるものでありたい。
自分の出来ることを大切にしながら、
心と体を動かし、行動に移せるものでありたいです。

それはきっと思いやりに満ちたものであり
永遠と言う結果を生むものになると信じています。