KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

近況報告

2014-06-30 | KOFUKU日記


〈心配しましたが、やっと元気な姿になってくれました~(;▽;)〉


5月の21日に原因不明の痛みで倒れ、そこからしばらく寝たきりでした。
外科、メンタル、両方で治療しつつリハビリ。
痛みがしびれに変わり、やっとひどい状況は抜けました。
PCの打ち込みや文字を書く事も難しかったため
ご連絡等なかなか出来ず、ご心配かけた方もいるかもしれません。
いま、まだリハビリ中で、不自由な中にありますので、
また元気になりましたら、お便りさせていただきます<(_ _)> 

18日の日からぴーちゃんが重い腸炎にかかりまして、
かなり重篤な状態を繰り返し、昨日やっと回復傾向に。
ただ、いつまた状態悪くなるかもの状況で看病中です。
お祈りください<(_ _)> 

そして、昨日、深夜、母が再び危篤状態に。
余談許さぬ状況になっており、現在経過観察中です。
お祈りいただけましたら嬉しいです。


そんな状況で、しばらく更新ができないかもしれません。
御用のあります方はメールやTwitterなどSNSなどでご連絡下さいませ<(_ _)> 
よろしくお願いいたします<(_ _)> 





愛~終わりの日を見つめながら生きる 6/15 24:50追記

2014-06-15 | KOFUKU日記




*詩編詩編36章6節*

主よ、あなたの慈しみは天に
あなたのまことは大空に満ちている
めぐみのみわざは神の山々のよう
あなたの裁きは、大いなる深淵(しんえん)

主よ あなたは人をも獣をもすくわれる
神よ いつくしみはいかにとうといか
あなたのつばさのかげに、人の子らは身を寄せ
あなたの家にしたたるめぐみにうるおい
あなたのかんびな流れにかわきをいやす
命の泉はあなたにあり、あなたの光に私たちは光を見る。



今朝9時頃、大切なお友達の愛犬ちゃんが帰天されました。
昨年も自分のお誕生日に大好きなお友達の愛犬ちゃんが虹の橋を渡ったばかり。
やっぱりさみしいなぁ。悲しいなぁ(´;ω;`)

大往生と言っても憚りない見事な犬生だったのだけど、
やっぱりやっぱり寂しくて、ちょっと気持ちが沈んでいます…(´;Д;`)


お友達の紛れも無きお子様でもあった愛犬(柴犬)ちゃんは、
このところずっと痴呆症状が出ていていました。

朝も夜も鳴いて鳴いて、一時期ご飯も食べられなくなり体重も3キロまで減って…。
それでも飼い主さんはお仕事やおうちのことでお忙しい中を、
毎日毎日病院に連れて行かれて、丁寧に丁寧に工夫しながらご飯を作って、
鳴き続けるお嬢ちゃまを夜中も起きて抱っこして添い寝してすごされて。
それはそれは尽くされていました。

最近、ご飯がまた一人で食べられるようになって、
みんなでよかったねって喜んでいた矢先でした。

今朝は亡くなる直前に、朝ごはんをペロリと食べて、
お母さんに向かって元気よく吠えていたそうですが、
鳴かなくなったと思って振り返ったら旅立っていたのだそうです。

私おもうのですよ。
痴呆症でわかっていないようで、きっと解っていたんだなぁ~って。

「お母さん、御飯美味しいよ。ありがとう。美味しいよ。」

そう心から言ってから逝ったのだろうなぁ、と思いました。
苦しむことなく、この世とあの世をすうっとまたぐようにして
旅立ってくれたことを、本当によかったなぁって思います。

愛犬ちゃんはきっときっと幸せな犬生であったことでしょう。
あんなに、あんなに、愛されて。幸せでないはずがありません。
本当に心と行いがぴったりとあった偽りのない愛の行為は、
相手がワンコだってちゃんとわかるはずです。
今頃はお母さんとご家族の愛に満たされて虹の橋の原っぱにいることでしょう。

でも、きっとそれは、マイちゃんが嘘偽りのない、まっさらな心で、
一生懸命に家族を愛して生きたからなんだろうな、って。
だからこそ、愛し、愛されて…。

そこは犬も人も同じですよね。
だって偽りのあるところに真実の愛は決して宿らないから。

きっと、お母さんもご家族様も、嘘偽りのない無垢な愛情を
愛犬ちゃんから与えてもらえて本当に幸せだったろうと思います。

食いしん坊さんだったって言うから、最後、ご飯食べてくれて良かったなぁ。
きっと今頃は虹の橋のたもとにある綺麗な広い原っぱで、
安心して美味しいもの食べて、お友達と元気よく駆け回りながら、
お母さんが来るのを待っているんだろうなぁ、って思います。

うちの相方さんやソウルメイトたち、本当に動物に優しい人たちが
心からのお世話してくれると思うから、向こうでの暮らしはあんまり心配していないけど。
我が子を失ったお母さんの寂しさを思うと、やっぱり涙が出ちゃいます。

私も13歳の高齢犬を家族として暮らしています。
犬ではなくて、やっぱり家族で子どもだから分かります。
犬であれ人であれ、愛する我が子が先に逝ってしまうのはわかっていても辛い。
そんなこんなで、今日はちょっとしんみりしていました。




〈愛〉



でも教えられます。無垢な魂や自然たちのイノチというものには。
愛とか幸せの本質というようなものを。

このところ、いろんなことが重なって、真剣に考えていたんです。
以前からそういうことにはある種の覚悟がありますが、
そこをもう一つ深くというか。

いま私の中の幸せってどういうものか?とか
愛ってどんなものと考えているのか?とか。
それを今から、今のこの私が、それらをどう持って、
どう使って、生きていくのが一番いいのか、とか。
さらに真剣に考えていたんですよね。


13年前、ソウルメイトが向こうの世界に旅立ってから、
「死」というものを考えるようになりました。
そして4年前、相方さんが逝ってしまってから
もっともっと身近に死を感じるようになりました。

それはきっと、身近に人でも、小さな魂でも、
先に送り出すべき魂たちがいること。
そして、大きな理由に年齢もあります。

言えば、みんな「そんな早いよ!」と笑うけれども、
正直、もう私には、今まで生きてきた時間よりは
絶対的に時間が残されていないと思うのですよ。

その上、私は基本的に一人だし、昨日も書きましたが、
どんどん体が不自由になっていくような持病もあるし、
心の病気もどうかな、今のままではあまり変わらないかもしれない。
私が死んだら、一緒に道連れになる小さな魂も預かっている。

そんな中で、私は当たり前ですが、どんどん年老いていくわけです。
できなくなっていくことがどんどん増えていくわけです。
日常的にも、相方さんのように手助けしてくれる人は今はもういません。
実際、そばにいる人たちは、いつそばから消えていくかなんて分らない。
そう考えた時、どうやって生きていくべきか考えなくては、って
今まで以上に真剣に思ったんですよね。

何よりも大事なことは、そんなモロモロを抱えている私が
「これから世界(すべてのヒトコトモノ)に対して何ができるか?」
と言うことだったりします。

これは全くの持論ですから、他の方の考えとは違うかもしれないんですけど、
私はこうありたいなって、最近とっても強く思ったんです。

やっぱり、私は今日まで一人で生きてこれたわけじゃないんですよね。
出逢ったすべてのヒトコトモノ、そういった方々から
愛を傾けてもらったからこそ今日があるんだって思うんですね。
人生後半に入って、それを少しでもいいから、どうお返ししていくか?
ってことは私にとってとっても重要なことなんです。

たとえコレまで、どんなにしんどい思いをして生きてきたとしても、
たとえコレまで、自分ではなく、人のために働いて、生きてきたとしても、です。

ぶっちゃけ、私の人生を一般的な解釈で客観的に見るなら上記の2行に尽きるでしょう。
じゃあ、私がそう思っているか?と言ったら違うんです。
苦労だらけで、報われもせず、不幸せか?と言ったらそれも違う。

だってね、自分がする分、してもらったなって思うんです。
決して一人だけが損してるなんてことはないって思うんですよね。

それにやっぱり、それらは全部自分発信だったはずって思うわけなんですよ。
日々そのことで迷ったにしても、自分がそれを選んでそうしたわけだから。
それは自分が望んでそうしたんだって思うんですよね。
そうじゃないというなら、それをした意味なんかないと思うんです。

私、思いと行動がリンクしないなら、してもらっても嬉しくない、って思う性質なんですよね。
だって、イヤイヤしてもらって、何か嬉しいですか?
そんなならしなくていいです、って思いません?

それを、なんていうんでしょう?
「人に選ばせられたんだ」とか、「あの時それを選んだからこうなった」
って言うような、人のせいにするってことだけはしたくないな、って。

人間だから、そりゃ、いろいろ迷うことはありますよね。
誰かが絡んでくることは、相手のことも考えて決めるわけだし。
確かに、自分ひとりの考えで決まってるわけじゃないです。
これ本当にいいのか?間違ってないのか?とか、思うこともあります。

でも思うんです。だからこそ、覚悟って大事だなって。
答えに迷う人間だからこそ、そこに自分が覚悟持つこと。
それが相手に対する誠実だって思うんですよ、わたし的には。
だって、何にしたって、相手はその私が決めたことを信じる努力をしてくださるわけですから。
それを変えたらやっぱり「嘘」つくことと同じだと思うんです。

それに、そのせいで自分が大変だとか、そのせいで幸せじゃなくなったとか
心の内で思ったりしながらやっているのなら、相手を恨んでるとの同じじゃないですか。
しかも善意を装いながら、相手を憎み、恨む行為をするわけです。
(やってる人は自分が被害者だと思ってるかもしれないけど)
逆恨みです。ハッキリ言って。私はそう思う。

だったら最初からしてくれなくていいよ…、って本当に思うんですよね。
そんなだったら、恨まれたって最初から自分を生きる覚悟して
好きなように生きてくれればいいのに、って思うんですよ。
だって、そんな偽ってる気持ちくらいわかるんですよね。
日々の行いとか、表情とかから、ものすごく伝わってくる。
そういうのを感じるとき、信じる側はめっちゃ悲しいっていうか。
ホントに残念な気持ちになるっていうか…。
腹立つとかより、悲しいしさみしい気持ちになります。

だって、そういう事がお互いの関係の中で起きるって、それだけ深い間柄って事でしょ?
と言うコトはですよ、何かを返さなきゃいけない状況になっているのなら、
それ以前に、それだけ相手が思いを、愛を傾けてくれていたってことです。

そして、それに対して、その時に相手に返すべきことに
自分がきちんと報いなかったからこそ、今そうなってるんじゃないの?って。
ちゃんと感謝して、やるべきをやっていれば起きなかったことじゃないのって。

それで自分の何かが削られたとしても、苦しかったとしても、
だからって、それって相手を恨む理由にならない、って思う。
そんな自分を卑下して生きる理由にはならないと思う。
それは自分が生みだした不幸です。


私は相手に対する誠実として、自分に起きるもろもろを不幸だなんて思いたくない。
自分が決めたことを「不幸」だなんて思いたくないし、相手にそう思わせたくない。
だから、それを「幸せ」や「喜び」に変える努力をしたいって思うんですよね。
そうやって自分のやってる事を、自分自身の人間としての価値みたいなモノを
自分で高めてあげないと、自分にも相手にも本当に申し訳ないじゃないか、って。

だから私は絶対に自分で自分の価値がないなんて思っちゃいけない、って思ってる。
評価は自分が付けるものじゃないし、最後まで分らないモノだし。
大体、そんなダメダメ言ってたら相手に失礼でしょ?
日々大変なことはある。だけど、それを決して人のせいにするまい。
自分の思いと行いを喜びに変えるような努力をしよう、って。
苦労を苦労で終わらせまい。って本当に思うんですよ。

残されている時間は多くない。
その中で一つでも、自分の生き様を喜びで埋めたいな、って。
一つでも真実を増やしていこうって。
多分、それが私流の一番の恩返しかな、って思ってるんです。

いろんな事ができないのなら、その自分ができることを考えよう、って。
何かをやるなら心からやりたい。自分の思いや行為を嘘にはしたくない。
その方法として、今の私に何ができるか、何をするのかを見つけるって重要。
そして、それを愛を持って喜びのうちに実行するって本当に大事。

私の人生を振り返ったとき、感謝すべき人は沢山いる。
ご迷惑をかけただけの方が沢山いる。
お返ししなければならない人は本当にたくさんいる。
あれだけの愛情や時間をかけてもらいながら、
未だに恩返しできている人は本当に少ない。

でも、それらはここでしか返せないって思う。
だって同じ時間はこの世界でしか流れていないから。
この世界でしてもらったのと同じように、私も返してゆきたい。

だって、今を逃せば、それが出来る時間はどんどん消えていゆく。
年を重ねれば、出来る体力も気力もどんどん消えてゆくから。

だから相手に対して、心の底からの感謝を持って生きたい。
愛をもらったのだから、愛をできるだけお返ししたい。
私がすることを、心の底から喜んで受け取って欲しい。
だからこそ、残る人生を心の底から喜びのうちに生きたい。


コレは決意。本当に決意。
私は人を信じられる人でありたいから、最後まで信じるって覚悟を持ちたいんです。
自分がされて嫌だったことは、決して人にはしたくない。
自分がされて嬉しかったことは、何倍にもして返したいし、シェアしたい。
私の羅針盤に従って、そう決めたんです。


今日、虹の橋の原っぱに行ってしまったワンコちゃん。
うちの小さい無垢なる魂たち。
空、大地、海、森、宇宙や自然を見ていると本当に教えられる。

彼らはちゃんと教えてくれてる。
人としてどう生きるべきか。どうあるべきか。
愛とは何か?幸せとは何か?
愛に生きるとはどういうことか?

彼らに魅せられることは多いけれど、それだけではダメなんだな。
それを自分が生きることに生かせなくては意味がないんだな。
私を通して体現すること。大事だって感じてる。

本や芸術や日常にあるあれこれも同じ。
それを汲み取れずにいては意味がないから。

今日まで出会った、あの人たちとの時間も同じ。
そこにすべての意味がある。それは全て大事なことだって思う。

だから今の自分でいい。足りない今の自分でいいから、
一つでも多く、大事な何かを感じれるように努力したい。
目を耳を心をこらしたい。

死を恐るより、その日を喜びで迎えられる努力を、
この世界の終わりの日を見つめて生きる事を選びたい。


カッコイイこと言ってますが、私は大したことはできません。
本当に出来ることしかできません。ダメな部類です、間違いなく。

でも、だからこそ頑張りたいって思うんです。
せめて、この思いを貫くことだけでも努力したいなーって。
せめてダメならダメなやつなりの頑張りってあると思うから。
最後まで、あがきたいんです。


今ね、本当に胸の中に感謝がいっぱいなんですよね。
いろいろ書いてますけど、誰かを怒ったり、馬鹿にしたりとかじゃないんですよ。
ホント、そういう人がいるからこそ、諦めたくないって思えるんですよね。
ある意味、力もらってるって思うくらいなんですよ。

だって、アタシ、本当に何か一つでも返したいもん。
そうじゃないと、生まれてきた意味ないもん。
産んでくれた親に申し訳ないし、すべての出会いに申し訳ないもん。

その為にならにくまれたっていいんです。
私には出逢ってきた人に対して責任があるのだから。
関わった中で、やるべきをやらねばならないと思う。
それをしないで生きることほど申し訳ないことないから。
そのために嫌われたり、憎まれたりするなら本望です。

それに、今ここに来て、持っている目標もあるから。
それを達成するには、本当に頑張りたいって思うんです。
本当に些細で個人的なことだけど。

だから今の私に出来ることは少ないけれど、できることを精一杯。
私を生かしてくれたモノたちのために。
やっぱり、どれだけ考えても、それが私の幸せだと感じるから。

私は愛から決して逃げない。
愛するモノのために。
自分のために。

たとえ、裏切られても。
たとえ、誤解されても。
たとえ、悪く思われても。
それでもいいのです。

でも私自身はやめない。
愛と共に生きてゆきたい。

今、こころからそう思うのです。







改めまして
虹の橋を渡ったマイちゃんに捧げます。


*死者のための祈り*

私の心のあたたかな命が
あなたの魂のもとへと流れます
霊なる世界の中で
あなたの寒さをあたためる為に
あなたの暑さをやわらげる為に
私の想いがあなたの想いの中に
そして、あなたの想いが 私の想いの中に生きますように

(シュタイナー)

心よりご冥福をお祈りいたします。 


左手

2014-06-14 | KOFUKU日記



〈ちびたちは愛の存在そのもの価値を教えてくれます〉


5月の10日くらいだったでしょうか。
一年に何度かある坐骨神経痛のような強い痛みに襲われ、
それは数日でなんとか痛みは和らいできたものの、
その痛みが右の背中と腕に移行して5月22日動けなくなりました…。

私は周りならず、医者も驚く程、痛みに強いのです。
なんせ骨折した時ですら、その足で立ち上がって歩いて帰ろうとした人だから。
その私が?と思うほどの激痛でした。
それでも2日間は家にある痛み止めを飲んでみたり、
薬局で強い薬を買って飲んでみたりしたけれど、一向に効かないのです。
その内、どんどん、どんどんひどくなってきて…。
痛みで救急車呼ぶか考えたのは本当に初めてでした(^_^;)

あまりのことに病院に駆け込ませていただいて調べたところ、
もともと良くない頚椎と腰椎の神経根症による神経疼痛が原因ではないかと。
そこから治療が始まりましたが、やはり薬が効かない。
そこで心因性の痛みもあるかもしれないとメンクリでも診療を受け、
お薬を両面から出してもらって、さらに治療。
この薬嫌いの私がたくさんの薬を飲むという事態に(;^ω^)
さすがに起き上がることもできないほどだと、家事も難しく…。
本気で寝たきりになるかもしれないと考えるほどでした。




〈澄んだ瞳で生きたい〉



そこから一週間、痛みに慣れてきたのと、痛みにムラがで初めて、
痛みが和らぐ瞬間を捉えて動けるようになりました。
今は当初の痛みも引いてきて、時々、瞬間的に強い痛みがぶり返すものの
なんとか日常の生活もできるには出来るというところまできました。

そんなこんなでやっと痛みからの解放にやっとホッとしたのですが、
痛かったところが今度は強いしびれに変わってしまいました。
特に肘から下の腕と手のひらのしびれが尋常じゃなく、
常に足のしびれが切れているようなジーンとしびれて痛いのです。
モノを握り離すと痺れと痛みが一層ひどくなって固まってしまいます。
当然、ものがギュッと握れないし、長時間作業ができません。

なかなか効果の出ない薬、しびれの薬も増え、治療も増え、
知らない人にはできるだけ接触したくない私には整形外科の治療はかなりの負担。
先生が仰るには、神経痛は長くかかるんだそうな…。
しかも悪化はするかもしれないが、治らないそうで…。
今の状況を軽くして、維持することが大事ですー、みたいな。
しかも私の場合、骨格自体に問題があって、普通に生活していても
ほかの人には比べ物にならない負担が体にかかるそうで…。
マッサージの先生曰く、
「(凝りすぎていて)異常です。こんな人めったにいない。一体仕事はなんですか?」
………(ーー;)は、俳優デス……
どうもね、若き日の無理がね、蓄積されていたのが、出てきているらしい。


それにしたって…、
引きこもりの今、僅かに庭仕事や家仕事とかしながら、
対外的には頭と手を使う仕事しかできず、
手しごとが主に日々の救いや人の手助けの手段だった私には
どんどん、どんどん、できなくなっていくことが増えてきて…。
死ぬまでこのままだったらどうしようかなぁと、ため息の日々。
モチベーションも気持ちもどんどん下がっていく。

そんな時に限って、悪いことは重なったりする。
甥っ子もヘルニアで入院の方向、父も神経痛がひどくなってきた…。
しばらく前から抱えている心配事もまだ解決してない。
せめて家の中や生活圏内だけでも穏やかに守られたいしリラックスを…
と思ったが、一番身近なところだというのに、
この状況を知りながらも思いやってもらえるわけでもなく、
逆に自分の中に残っていたり、必死に生み出した明るいものを
奪われるような現象に出くわしては落ち込む日々。
それでも、心身共に本気で病んでいる私の方が、
そうする相手にアレコレ気を遣わねばならない状況にあり…。

それが正直一番しんどかったりする。
だけど、それも相手の気持ちもあることだから仕方ないと思った。
きっと辛くて周りすら見えないのだろうから。
他の人にそうして、その人が嫌われたりするくらいなら
私にそうしてもらったほうがいいなって、思うから。




〈人生雨の日もあるけど…〉


そんなんで、さらに鬱々としたブルーな日々だったのだけど、
ありがたいことに私は人前で疲れたりすることなんてできないタイプ。
なんせ変に落ち込んだり、痛がったりして、そのオーラをガンガン出してる方が疲れる。
とはいえ今回は結構それでもだらだらしてたけども。
でもそんな風だから痛いときも出来る限り、やることはやった。
そういう性分でつくづく良かったよなーって今は思ってる。

そしてラッキーなことに私の周りには小さいイノチ達がいてくれる。
彼らは私に起きてるそんな痛みなんてことにはまったくお構いなしに
「抱っこして~」「なでて~」「遊んで~」とやってくる。

自分がどんな状態であれ、この子達は守ってやらねばならない。
自分がいる限りは世話をして、ご飯を食べさせねばならない。
もし私が倒れたら、家ネコ見たいに外でも生きられるニャンコさんと違って、
愛玩犬のこの子達は外では生きられない様に出来ている。
私がいなくなるということはシを意味する。

それだけは避けないと!そう思うとなんとか力が湧いてくるから不思議だ。
心から愛する存在って、本当に尊いんだなって思う。
たとえ自分が苦しみや悲しみの極限に居ても、
本当に愛を守る為なら、人は自分の限界すら超えるのだから。
おかげで私はどんな苦しい時にも自分の正気を保って生きてこられたんだろうな、って思う。

そうしみじみ思って、気づいた。
そうなんだ、私はいつも本気で愛してるヒト・コト・モノがあったんだな、って。
それがあったから、どんな辛い時もがんばれたし、生きてこれたんだな、って。
それって、なんて恵まれてて、有難いことなんだろう、って。
心から思った。





そう思いながら自分を振り返ってみる。
私が若い頃、どんなに辛い環境でも頑張ってこれたのは家族がいたからだ。
本当に極度の貧困家庭だったから、なんとかして父母を助けてあげたかった。
外に出れば大人も子供たちもが、貧しさゆえに私を馬鹿にし、いじめた。
自分に降りかかったそのことすらが「家族にはこんな思いをさせたくない」と言う思いになった。
だから小中学生から必死にバイトしていたし、
家では父の代わりに深夜まで自営業の作業をしたし、
販売で父と行商に行く母の代わりに家事をして働いた。
お金がなくて何でもすぐ買えなかったから、制服でも服でも何でもモノは大切にした。
自分のものは何一つ買えなかったし、買わなかった。
ちっとも苦にはならなかったし、それらを人が言うように不幸とも思わなかった。
そんな自分に起きているコトより、家族の方がずっと大切で愛していたから。


貧しくて、小銭を貯めてやっと見られる舞台。
たった一回しか見られない舞台だから、それは真剣に見つめた。
大人になって、演劇を目指した時も、そういう意識が自分を支えた。
他の人みたいにレッスンに通えないから、劇団での時間を惜しむようにして過ごせた。
何でも簡単にあるわけじゃないんだと思って大事にできた。
どんなに馬鹿にされても平気だった。
お芝居が出来るだけで良かった。それが本当に大切だった。命だった。
これがあるから生きているのだ、そのために生きていると思って、
芝居というものを、その世界を、心底愛してた。それは今も同じ。


母が博愛の人で、まず人を思いやる人だった。
それを尊敬していたから、どんなにひどいことをされても人を恨まずに済んだ。
人が環境や感情で良くも悪くもなることを体感してきたから
その人たちに気持ちを向けて共感しながら見つめることができたし、
人に対して、自分がされたようなことは人様には決してするまいと思えた。
母が人の悪口を決して口にせず、どんな辛い時も笑顔を絶やさず、
自分の感情で人を嫌な思いにさせることのない人だったから、
自分の気持ちで人を嫌な思いにさせることはできるだけするまいと、
私も母のようになりたいと、いまも努力することができている。
今でもまだまだきっと足りないんだけど、それでも母がいてくれたおかげで、
色んなことを自分から気づくことが大事なんだと思えるようになったのだと思う。


周りの人によってとても嫌な思いをしたからこそ、
人が優しくしてくれることは当たり前じゃない、と思える。
自分が嫌な思いをしたからこそ、人にはするまい、と思える。
でも、それら嫌な思いも、その人と出会わねばそうは思わなかった、
と思うと、どんな人にも大きな感謝が湧き上がる。
そんな人という物が、自分を愛してくれる、好いてくれるというのは凄いこと。
そして、そんな風に死んでもいいくらい好きになれる人たちがいるってなんて幸せ。
さらに言えば、そこまでじゃなくったって、周りにいる人の存在は大きい。
すれ違う人でさえ。色んなことを私に教えてくれる。それはもう奇跡だ。
そんな人たちをやっぱり愛さずにいられないじゃないか。
できたら、すべての人に自分の持ってるものを分け与えて感謝を表したい、って思う。




〈無垢なる魂に教えられる日々〉



ほら、考えれば考えるほど、私は愛するヒトコトモノにこんなにも囲まれている。
凄いな、なんてすごいことなんだろうか?
全ては本気の愛のなせる業。
私はそれで生きてこられてる。
愛って、本当にすごい魔法だなって思う。

だって周りを見ていると、私はホント最近までそれは当たり前と思ってたけど、
普通は本気で愛せるものがある人って本当に少ないらしい。
そういうものがないから、自分に降りかかるものの大変さに負けてしまう。
それに打ち勝てるだけの愛する守りたいものがないから頑張れない、ってことなのかもしれない。
それに比べたら、私はなんて恵まれていることだろう。


そんなことを思っては自分を奮い立たす。
だけど降りかかる現実。いや、でも!
…ここのところはそれの繰り返し。
人間らしいといえば、そうなのだけどね。

今日は通院日で、そんな複雑な思いを抱えてメンタルクリニックへ。
カウンセリングもだが、しびれる手を見てもらったりして、
先生と会話していたら、この先、万一右手が使えなくなったら…
と、かなり不安がる私を見ながら先生がおっしゃった。

「左手も使えるようになったらいいわね」

!!!( ゜д゜)ハッ!

目からウロコ、とはこのこと。
そうだよ、左手使えばいいんじゃん!
まだ左手、あるじゃない!
本気でそう思った。

今みたいに痛みが引いているときはまだいいが、
本当に痺れと痛みがひどいときはPCも全く打てない。
このひと月近く、右手首にタコができた。
腕を持ち上げることができないから、
PCに手首を引っ掛けて打ち込みをしていたら、すれてタコになった。
そんな状態なので、当然、ほかのことも同じように上手くできない。

でも、先生の言うとおりだ。
代わりに左手で作業(出来るように)すればいい。
気づかなかった~。
と言うことで、いま、左手の訓練絶賛実地中です~(^-^)
pcも左手だけで打ち込んだりしてます。

これ、先生に言われた時もつくづく思ったのだけれど、
こういう「気づき」って本当に与えられてるんだよなぁ、って。
自分が気づけるかどうかってことはあると思うけど、
本当に毎日こうやって与えられてるだなって。
本来はすべての人の言葉や相対する世界にあるものは、きっと全部そうなんだと思う。

なんて、なんて、広くて深い愛の海の中にいるんだろうね。
そうしみじみ思う。






〈自然も気づかなかった色んなことを教えてくれる〉




ココロやカラダがしんどい時、人っていつもよりもっと自分勝手になる。
それに囚われたらなかなか気づけないものかもしれない。
それがイイかワルイかって言ったら分からないし、
そんな時があって悪いとは思わない。

だけど。
それでもやっぱり。
悲しみとか苦しみって本来は個人的なものだから。
それで近しい人を、自分の大事な世界にいる人を苦しめるのはどうだかなって思う。
私は自分のためにも周りの人のためにもできるだけ踏ん張りたい。
やっぱり一つ一つのことを丁寧に考えたとき、
今まで生きてきて、やってきたことはこれで良かったんだって思った。

私は自分自身の悲しみや辛さに取り込まれて、
自分だけならず人にまで嫌な思いをさせるのだけはやっぱり嫌だ。
自分に起きていることを、世界や誰かのせいにするのもイヤだ。

それは自分が世界を愛してないって証明しているようなもの。
自分を取り巻くヒトコトモノを軽んじてるって教えているようなもの。
実際、そう出来てるってことは、そうなんだって思う。
だって本当に愛しているモノなら、自分が弱いと知っていたって、
悲しませることなんて決してしない、なんとか愛する相手を守ろうとする。
やっぱりそう出来るのは、自分自身のみを感じているからなんだなって思う。
私はそうはなりたくない。

そんなことをするくらいなら、もっと愛そう。
確かに愛しているものを自分の中に増やしていこう。
自分の持ってるすべてを。取り巻くすべてを、もっともっと確かなものにしたい。
そうすれば、今みたいな私だって、きっともっと頑張れるから。
だって、それこそが巡り巡って自分自身を守ってくれる。
そして愛を確かに生きることだしね。



 
〈イノチかけて守りたいもの〉



私が左手の存在に気付けなかったように近しい幸せや愛は見落としがち。
当たり前になって、感謝すら出来ず、軽んじがちになる。
でも実はそれってものすごく価値ある大きいもの。
それを忘れずにいたい。

そして、母のように自分より人の幸せを大事にできる人であろう。
父のように、自分の体が痛みでしんどくても、
自分がそうだから周りも…と自分の痛みを押してでも手助けしてあげられる、
そんな人でいたいなぁって心から思います。
(じいちゃん、いつもありがとう)




〈今日も自分がしんどいのに、私を送ってくれました〉


やっぱり、この世にある全てのヒトモノコトは本当に感謝すべきモノで間違いないな。
たとえ自分から見てマイナスなオーラを纏うものであっても、
それが本当にマイナスであるかなんて本当は分らない。
マイナスの中から与えられるものはとてつもなく多い。




〈全てに感謝〉


本当に私に与えられた全てに感謝します。
ありがとうございます<(_ _)> 


追伸:特に体が大変な時、親友や仲間たちのメールに励まされました。
一人だと、こういう時、本当に心細いし、
真剣にこのまま死んじゃうのかなと落ち込んだりします。
でもそういう言葉って本当に助けてくれるんです。
たくさんの愛をの言葉をありがとう<(_ _)> 
薬よりよっぽど効きました(*^_^*)

それから、やっと動けるようになって買い物に行けて
以前から陣中見舞いをしたいと思ってた仲間に贈り物できて嬉しかった~。
本当に体動かせるってありがたいなって思いましたし、
そうやってさせてもらえることで7、とっても気持ちが晴れました。

家でも洗い物を代わりにしてくれる人がいたり、
自分もしんどいのに送迎してくれたり、ホント感謝いたします。

ほんとうに皆様ありがとうございます<(_ _)> 


雨の月

2014-06-01 | KOFUKU日記




〈紫陽花濡れる六月になりました〉




北原白秋

  雨がふります、雨がふる。
  遊びに行きたし、傘はなし。
  紅緒のお下駄も緒が切れた。

  雨がふります、雨がふる。
  いやでもお家で遊びませう。
  千代紙折りませう、疊みませう。

  雨がふります、雨がふる。
  けんけん小雉子が今啼いた。
  小雉子も寒かろ、寂しかろ。

  雨がふります、雨がふる。
  お人形寢かせどまだ止まぬ。
  お線香花火もみな焚いた。

  雨がふります、雨がふる。
  晝もふるふる、夜もふる。
  雨がふります、雨がふる。




気がつけば今年も折り返しの月になりました。
早いものです。

実は5月の最期の10日くらいを原因不明の痛みに襲われて寝たきりで過ごしました。
こんなに痛みに強いあたしが…と思うほどの痛みで救急車を呼ぶか考えましたが
近くの病院に駆け込んで、何とかかんとか起き上がれるようになり、
やっとのことでお掃除とかもできるようになりました。
痛み止めが全く効かずに困りましたが、検査でもともと首が悪いこととか
そのせいで椎間板神経根症になってしまっていることなども分かり、
痛み止めが効かないことで、心因性のモノでもあることが分かり、
痛いながらもいろいろわかってよかったです(;^ω^)
どうやらこれもまた長くお付き合いせねばならぬようす。
頑張ります。





六月の雨
 
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく

たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠(はたけ)の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている

お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます

お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
櫺子(れんじ)の外に 雨が降る



梅雨時は心も体もしんみりしがち。
皆様もどうぞお体お大切に。
心晴れやかにお過ごしください。