KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

一生ぶん

2012-11-24 | KOFUKU日記



【寒くなってきたから、モフモフ毛布の上であそぶのだ!byまろたん】


2年前、この季節に相方さんとこの世で最後のお別れをしました。
私にとっては、その日は昨日と変わらない感覚ですが、
現実的な時間のことだけ考えると「2年なんて短いものだな」とも思うし、
「決して終わらない」そんな長い時間にも思えたりします。

誰かがいて、その人がいないとダメで、空虚になってしまうなんて
「ただの共依存じゃないの?」と言われれば其れまでですけれども(^_^;)

ヒネクレ者の私には、そういったことでショックを受けて
日常生活ができなくなってしまったりする、愛情があればこそ当たり前なことを
「それは共依存の関係だからイケナイ」なんて問題視されること自体が、
今の人間の悲しい部分じゃないのかいな?なんて思うことが多いです。
人が自分が空っぽになるまで愛せるって事が本当に少ないから
そういう風に思う人が多いだけなんじゃないんですかね?なんてね(笑)

うん、一言で言えば、それのなにが悪いねん?的な?
悔しかったら、そんな気持ちになれるくらい、人を愛してみなされや~、みたいな?
(アタシは大概、世間に挑戦的な人間です)

まあ病状的には、そこが危険な状態なのかもですが( ̄▽ ̄;)
いいんです、私はそれで。
(開き直りキタ━(゜∀゜)━!笑)


そんなこんなで、私、2年前に(も?)イロイロあって、
今は南の地におリまするが、家の中に独りでおりますと、
時間があるせいかアレコレと思ったりするものです。




【しゃむくなってくりゅとさぁ~、やっぱり日向ぼっこがいいよねぇ byふうたん】
【あったかいでちゅ……(=-ω-)zzZZ乙乙 byろまたん】




【ハムたんも一緒に日向ぼっこしますのよ(^ω^)】





時に、みなさまは、

「一生ぶんやったなぁ」

なんて思うことはありますか?

私は結構ありますのデス。
いわゆる「共依存的」(しつこい・笑)性質なせいでしょうか、
大概、一緒に生きてる人とどう幸せに過ごすのか?
どう、相手に幸せになってもらうのか?に尽きる生き方をするタイプなので、
ライフスタイルが自然とその人よりになる訳です。

オイラ、まじで自分が好きなものを食べるよりも、
その人が好きなものを食べて嬉しい方が嬉しいし、
自分が行きたい所に行くよりも、
その人が行きたい所に行ける方が嬉しいのです。

中には、そういう私に「自分のしたいことをしないなんて幸せじゃないよ」
という人もいますがううん、それが幸せなのよー、だってそれがしたいんだもん。
そんな感じですね(笑)

そんなの嫌だ、ウザイ、重い、という人もいるのでしょうけれども、
それが、自分の幸せで一番楽しいわけだから、仕方ないのです(^_^;)
無理してるわけでもないし、楽しくてやってるんだし。
逆にそれを否定されたら、それこそ、自分を消さなきゃいけなくなります。

まあ何より、それを良しとしてくれる人が隣にいるわけなので
相互でそれが「メリットなわけですからして、一体なんの問題が?

と、なるわけでーーー(ーー゛)

あ、脱線した(⌒-⌒; )

いや、もちろんね。人様にしてもらうことももちろん嬉しいのですよ。
してもらうことは、するより全然好きではないのは本当ですが…( ̄▽ ̄;)
それでも、やっぱり嬉しいものです(^ω^)



【ピロシキとスパイスコーヒー。最高の組み合わせです!ヽ(*´∀`)ノ】



先日も実家のシェアメイトさんがお休みで、お食事作ってもてなしてくれました。
私の好きなパン(ピロシキ)とクラムチャウダー。
こう言うひと様の愛情には、もちろん常に深く感謝しています(´∀`)




【ひなたぼっこだいしゅき~ by南国チワワンず】



ということで~
その人と居るからこその出来事が多く起きやすいタイプでしてね。
過去を振り返ると、必然的に自分一人でいたら絶対にやらないだろうな、
っていうようなことを、たーくさんさせてもらったな、と思うのです。

私は基本的に、自分の好きな事、というのがガッツリと決まってる人間です。
ぶっちゃけて言えば、一人で生きるのであれば、それだけあればいいのです。
それ以外は必要なし。マジで?って言われるけどマヂです(`・ω・´)

だから、一人で生きてる時は特にですが、自分の身の周りには、
自分の好きなもの、大切なものしかなかったですね。
だって、好きなことは、全くよそ見しなくてイイくらい好きだから。

だから、テレビとか、娯楽とか、全くいらなかったのです。
その時間に自分の好きなことやりたいから、一分でも惜しかった。

だから単純に好きなことの為に働いて、その為にご飯食べて、その為に生きていました。
好きなことの為に生きない人生って、生きてるっていうのか?的な感覚でしたね~。
そのくらい、好きがガッツリ決まってるってことです。

そのせいでしょうか、いろいろ周りを見渡して気づいたんですが、
私は他の人より「好き」を自分で精査することに長けている気はしますのデス。

そりゃあ、世の中には天が二物も三物をも与えた方もおられますんですが
大抵の方は、良いも悪いも得手も不得手も同時に持っていますので、
「アタシこれが好き!」っつっても、それが全部できるわけじゃゴザイマセンよね。
私も全くもって類にもれずでゴザイマス(⌒-⌒; )

そうなんですけれども、どうやら私は、その「好き」の中から、
自分に確実に出来ることは何かを探すのが人様より上手いんでしょうね。
後は、自分にどうやったらそれが出来るようになるか、その方法を探すのも得意。
ついでにそれをやる事が楽しいと思えるこの性格が幸いしています。

まあ、究極のMと親友をして言わせる人間ですから、
逆境にたてばたつほど、燃えるし、頑張れるのも確かかも。
そういうものを見つけて、まっすぐ突き進むので、
あんまり失敗することもないのが大きいのかもしれないです。




【ここが(*´∀`*)アッタカーイ byまろ】




ここまで読むと、結局は自分の本当にやりたいことを我慢して、
自分の出来ることだけ選んでるってことでしょ?
と、捉える方もいらしゃるかもしれませんが、それは違います。
これは、全然、やりたいことを諦めてるとかじゃないですよ。
なんてったって、前提が「自分が好きなこと・やりたいこと」ですから。

好きだけど、できないものを諦めるのではなく、
好きだから、如何にして自分の目標を叶えるのか?の探求そのものです。
だから、生活の中に、自分の大事なもの以外のものが少ないのだと思います。

そんなですから、外の風が自分に吹き込むと言うことは、
多分において、自分以外の存在のそばにある時が多くなります。
その風の吹き込み口は相方さんだったり、心友や仲間たちだったり
仕事先や生きる先々で出会う人々の存在です。

私は基本的に自分の許容できるものは、ほとんど否定しません。
許容できない…と思うものはお相手してくださる方々にも
大変に失礼になるので最初から手を付けませんタイプです。

そんな中でも、やはり隣に生きる人とは調和する事が何よりも大切ですし、
大切な人の、大切なものは、やはり自分の大切にしたい、
というのが、ワタクシの切なる心情でゴザイマスんですよ。

私の隣や周りにいる方々は、とっても自分のある人たちです。
なので、好き嫌いがとってもはっきりしているので、
一緒にいると、その人の世界観をものすごく身近に感じられます。
信念、生き方、食、趣味、どれもシッカリした世界があります。

そう言う人は、誰かと居るからといって、そういうものを消したりしませんし、
共有できるものはしてくれるし、自分が好きだからといって他人に強要もしませんし。
本当の世界観のある人は、その世界を大切にしますから、
他人との距離感も良く良くわかってるのだと思います。

なのでそういう方に「一緒にどう?」って言ってもらえる大抵のことは、
一緒にやらせてもらったり、食べさせてもらったり、経験させてもらいます。

私は基本、必要な物以外はいらないな、と判断する人ですし、
家庭が金銭的に厳しかったので、ほかの方が普通してきた事を
やりたいとも思わなかったり、状況的にやってなかったりします。
カラダ的な問題や、金銭的な問題で遠足とか修学旅行とか殆どいけませんでしたし。
なので、もう結構長きを生きてきてますが、知らない事がいっぱいでゴザイマス。


 

【ぬくぬくだよ byピピ&ろま】



先日、ネガティヴモデルと言われてらっしゃる栗原類さんのトークを聞いていましたら
若き日の私、現在の私と同じような感覚の持ち主でいらっしゃいました。
ゴーイングマイウェイつーか、人から見たら「強引にマイウェイ」なのか?(⌒-⌒; )

まあ、アタクシ、見た目からは驚かれるほど、人当たりは良いらしく
実際、知らない人とも、絡むのは3秒あればOKな人なんでございますが、
実はこれは表向きな性格というんでございましょうか、
確かに自分でもあるんですが、本当は人と絡むのが非常に苦手です。
うん、人見知り、そういう事かもしれないですね。

まず人と話すのが苦手。会うのも苦手だし。
相手に心許すまでには、相当な時間がかかります。
信じるところから始めていくんで、そこまでに到達するのがね。
一緒に行動できるのは家族かパートナーか心友か本当に親しい仲間のみなんです。
ですから、ソウルメイトを天国に送って、三十代半ば過ぎて、北海道に行くまで、
私、友人の車に乗ったことすらございませんでしたし、
ドライブも、旅行もしたことありませんでした。

自分の仕事が生きがいだし、趣味でも遊びでもあるので、
それに関係することをすることがとても大事で、それに時間を使いたいから
友人とどこか行こうと思ったこともないし、
仕事を辞めて、どこか遊びに行きたいと思ったこともないのです。

仕事で全国公演とかしてますと、どうしたってみんなと一緒になりますが
大概、一人で座って、移動中は本を読んだり、手仕事をしたりしていましたし、
飲めないので飲みにもいかないし、一人で別路で移動することもありました。
(でも、カンパニーのみんなとは仲いいんですけどね^^)
だからといって、敢えて一人で喫茶店や食事に行くこともしません。
どこか、一人で出かけるという事もまずありません。
どっちかって言えば、家にこもって好きな事をしていたいのです。
完全にインドア派な人ですね。

そんな人ですから、パートナーの見せてくれる世界は驚く程に新鮮な世界です。
そして、基本、その人の流れに乗るという形が幸せになるので
その人の好きなものが生活の大半を占めてきます。

食べ物とか特にそうだったりするものですね。
相手がこの世から居なくなりますとね、つくづく感じるものなのです。
ああ、あれを食べたかったのは、あの人が食べたかったからなんだなぁ、って。

もともと、そういう欲求が薄いから余計なのかもしれません。
私はいろんなものを知ることや追求する事、分析する事がものすごく好きなんですが、
だからといって、自分の為にそれをする、という人では無いようです。

そう言う感覚で、これまでの人生がありましたので、
隣にいた人が不意に消えてしまったりしますとね、
この先、もうやらないだろうなぁ、って事が多いんですよ。
そんな事が2回もあったので、ものすごく多いですね。
もうやらない、っていうよりも「一生分やったなー」って思うことが多いですね。

18で東京に出てからも、それまでに増して波乱万丈な人生でしたが
とにかく、俳優になったので、それまでに全く経験したことがなかった、
旅と引越しのとにかく多い人生になりました。

相方さんとは毎週と言っていいほど車で自然の中に出かけました。
生活の中ではお芝居と二人のあいだのぴーちゃん存在がとても大きかったですね。
それを真ん中に据えた生活でした。

実は相方さんとまだハッキリと未来を決めていなかった頃、
私は人生の基本生活を「祈りの生活にしたい」と考えていました。
将来の選択の中で、出家とか修道院に入るとか、
もしくはどこかで自然と共に暮らすとかいろいろあって、
俗世を捨てるという様な道を真剣に考えていたのです(⌒-⌒; )
実際に信者でない私を受け入れてくださるという修道院もありました。

でもですね、親しくしていただいたおばあちゃんシスターのお友達がですね、
「あなたはもう一度、現世で頑張って見られた方がいい」
と、いろんな方面から考えてみての未来を
真剣に相談に乗ってくださって言ってくださってですね。

いろいろ考えました。簡単な選択ではなかったので。
実家のようなバックグラウンドがあり、それに沿った過去もあれば、
自分のことだけではない、超えていかねばならないものもあります。
そういう自分には、人といるってのは、そう言う事を真剣に考えねばなりません。
単に自分たちのことではないからです。
人と歩むということは、本当に覚悟が必要なことですから。

それから葛藤の末、相方さんとの人生に踏み出す決心をしたのです。
ですから、道の途中の選択というよりは、永遠の選択と思って選んだし、
永遠であるからには精一杯のチカラで生きなくてはと思い過ごしました。

そんな気持ちで暮らしていたので、一つ一つが大切な日々でした。
出来事の一つ一つが大切な時間でした。

多分ですが、このままでいけば、よっぽどのことがない限りは
今まであったようなことは、もうあまり経験しないと思います。
実際に今も本当に完全引きこもりといっていいほど人には合わないし。
(マヂで実家の家族と、買い物先ですれ違う人と、役所の人と医者だけ^_^;)

多分、独りでは、どうしても行かなければならない時だけしか
行ける範囲のお店にしかいかないだろうし(徒歩五分以内)

電車もバスも乗れないし、知らない人の人のいる乗り物に乗りたくもないし
父か本当に親しい友人の車にしか同乗できないから、
父の年齢では、もう長距離ドライブもしないだろうし、
うちは私を始め、誰も免許を持ってないし、運転向いてないし、
他に男手もないから、あと数年で車にも乗らなくなるんじゃないかな、と思う。

一人だと、食事もチビ達の分だけ気にしていればいいし、
あまり、食に強い欲求がないので、なになにを食べてみたい、
とかって気持ちにもならないだろうなぁ、と思う。
目の前にあるものを、おいしく食べようとは思うと思うけど(^-^)

第一、相方さんといるときに、いろんなものを一生分食べたな、とも思う。
一人だったら、きっとそういうものは食べてない。
だから全然、そういうものに未練がない。

家族がいれば、誘ってくれるし、行きたがったりもするので
一緒にファミレスとか、ショッピングモールとかイベントにも行くことはある。
だけど実際、実家の事情で家族全員と合わなくなってから2ヶ月、
私は外食にも全く出かけていないし、何か出前を取ることもない。
週に一度くらいのペースで買出しに連れて行ってもらって終わり。
でも、何も困らないし、嫌だな、おかしくなっちゃいそうとかも思わない。
淋しいからって誰かと特別会いたいとも思わないから出かけていくこともないだろうな。
でも、そう言った事は無ければないで、それでいいと本気で思える。
いろんな事を一生分堪能したな、やり尽くしたのだな、と思うのだよね。

もともと私は家の中にいることが、なによりの幸せなので
家の中で、好きなことできたら、ほんと、それで良かったり。
今までだって、アタシが外で何かをすると言うのは、
自分のチカラが誰かの役に立てると思うからだし。
そう言う意味では、人様の役に立てることならば
外で何かお手伝いすることもあるかもわからないけれど。

それでもこれまでは、仕事が仕事だし、生きていかねばならないし、
後半には人の後ろで支える役目でもあったから、必死に頑張ってました。
傷ついても、ボロボロになっても、周りに守るものがあったから。

そう思うにはまだ早いだろ、と言われるとは思うのだけど( ̄▽ ̄;)
今は自分でも、既にやりたいことは「人生一生分」やったのではないか、
と素直に感じたりするのです。
周りにも度々「10年で人の50年分」「濃い人生」とか言われるけど
確かに、何事も精一杯やってたからかもしれないけど。
おかげで、その人なしには成し得ない世界ということにかけては、
やりきった感が強くて後悔がないからかもしれないです。

しかも、今は少し、人と関わって暮らしていく生活に疲れてしまったので、
人と関わる気力がね、全然起きてこないのですわね…(⌒-⌒; )
それで、こんな感じになっちゃってるわけなんですが…。

こういう状態はきっと世間的にはまずいんだろうな~とは思うんですよ。
だから、いろいろ考えるし、なんとかしなきゃと思うのだし。
でも正直、何がまずいのか、自分にはよくわかんないと言うのが本音かもしれない。

多分だけど、今までしてきた仕事以外でしたかった事というのが
「今のような暮らし」であって、究極、仕事と生活のその先に
自分たちが目標としておいていたのが、こう言う生き方だったので
今はそういう道を思ったよりも早く歩んでいると言った所なのかもしれない。

なんというのかな、一生分、自分には思いがけないことをさせてもらった、と思う。
とても楽しかったし、有意義だったなとココロから思う。
そして、多分、もうきっとないな、と思う。
あれらは、彼らとともにいたからこそ、在ったものなのだと思う。

今は満ち足りた後の、また満ちていく時間。
ゆっくりと時を過ごしていく時間に入った気がする。
多分、人よりも全速力で走った時間が早く、そして長かった分、そうなのかもしれない。

でも、いま現在の年齢が非常に微妙な年齢だけに、
この生き方はまだ早いと言われてしまうのだよね(⌒-⌒; )
あと10年遅かったら、多分、こうは言われてなかったろうなって思うのだけど。
確かに、これからなんとか、一人で生きてゆかねばならない。
それらが今はちょっと苦しかったりする。




【ろまたんは自分でフードをかぶってアザラシになります。今日は茶色アザラシ(笑)】


病院の先生は、会うたびに「何も残ってませんか?」というのだが
本当に具体的に「これ」というやりたいことは「無い」のよね。

本当に今は会える人にしか会えないと思うし、
誰ともふれあいたいと思わないのだもの、仕方ない。
そう言う付き合いが大切だとも思えない。
相方さんがいれば、人とも触れ合ったのかもしれないけど。
相方さんの、という訳でなく、友達とか仲間とか
いろんな意味での別れには、もうちょっと出会いたくない。
もうそれも一生分体験した気がする。
だから、思いが生まれる様な人との付き合いが今はとても嫌なんだと思う。

将来は孤独死ではなく、自然死でいいじゃないか、と思うが、
あとが大変なので、そこだけは迷惑かけないようなシステムを
自分で抑えておかねばならないのだろうな、とは思うけどね。

希望的なものがあるとしたら、未来に予定していたような、
自然と向き合い、自分のできる事をしながら生きていく
という様な生き方なんだろうな、とは思う。
事実、そう思ってるから、悔いのない毎日なんだろうと思うし。

私の目標とする生き方は日々を丁寧に重ねていくことが全てだから、
特にこれをしなくちゃというのはない。
まあ、今はその入口的な感じだろうか?

社会に後ろ向きであることは確かなのかもしれない。
否定的なわけでなく、そばに居たくないだけなのだが。

だってねぇ、相方さんが天国に行ったから、とはいえ、
住んでる場所が変わったから、友達と遠く離れてしまったから、とはいえ
あたしの中の「好き」はまったくもって変わらないし、
そこに向かう意識も信念も何ら変わることは無いし。
ただ、歩み方が、予定していたものと違うだけで。

誰かに会いたくないのも、単純に人に会いたくない、ってそれだけの理由。
ぜんぜん、全くもって、相手が嫌いだとかではない。
多分、大好きな人に対して、私はどこにいても、
愛情も友情も、これっぽっちも変わらない人間だと思う。

10年前に亡くなったソウルメイトの鎧くんが、よく言ってくれたことだが、

「福ちゃんは相手が思うより、強く強くその人を愛して思ってる。
だけど、ほとんどの人はそれを知らない。それが本当に切なく思う時がある」

(ガイちゃんはマッチョでアクションミュージカル俳優だったけど
童謡で涙する人ような繊細な男でしたゆえのう。
あ、それは「ざわわ」で泣く相方さんも同じか・笑)

私はこれを「褒め言葉」と受け取ってます。
一度、決めた人への気持ちは変わりません。

ただ今はこちらから会いにいくのが本当に嫌なだけ。
会えばあったで、楽しく過ごせるのだとおもうが、
多分、そのあとに疲れてしまって熱が出ちゃったりすると思うし。
それに、なんというか、切なく、悲しくなるのだ、別れたあとに。
だから今は親しい人にも、こちらから会いにいく気もしない。
私には何もかも、ただそれだけのことなんだよなぁ。


多分、いま、お金でも降ってきて、すべてが自由になるならば、
私は家族と住むこともなく、独りで生きていくというのならば、
多分、もっともっと人と触れ合うことのない田舎に行くだろうなぁ。

周りを家に囲まれていない、庭のできるだけ広い、緑の見える家を借りて
チビ達を自由に駆け回らせて、その隣でボケっとして過すのだろうな。
仕事は、そうねぇ、何か家でできる事を考えるかな。
多分、これ以上、外では無理でしょうな。
おうちで店でも始めない限りはね。
そうなれば、またガッツリ動いて働くとは思うけどね。
まあ、基本は「家」だね(笑)


正直な話、今は近所の人と顔を合わせるのが苦痛。嫌いなわけでなく嫌なだけ。
コンビニに行くのに、人とすれ違うのすら、嫌だし、変な緊張がある。
そのくらい、今は一人でいたいと思う。
まあ、実際、それが実生活を脅かしているということなのだから問題なのだろうけど。
まともな社会生活を遅れてないのは確かだし、その気持ちにもならないわけだし。

ただ理由はわからないけれど、今は静かなところから、そっと世界を見ていたい感じ。
ストイックに自然とともに他者の幸せを祈る生活でも全然いいと思ったりしてます。

自分でもわからないけど、これから一体どうなっていくものなんだろねー(⌒-⌒; )
10年先はどうなっているだろうか?

多分、私のことだから10年後も人生を振り返りながら
「一生分やったなぁ」と思うような気がしていますが(笑)

まあ、蓋は開けてみんとわからんわね

またここまで書くのに5日もかかりました。
まあ、これからは、そんなペースで行くってことは確かだな。




皆さま、ありがとうございました

2012-11-20 | 相方さん(米澤観児氏について)




【カンナちゃんが相方さんぽいと買ってきてくれた、ミニチュアの椅子】
【相方さんの演じたトリートドールのそばに置いてみました】



今年も11月19日が過ぎてゆきました。
皆様のお祈りとお心遣いで、暖かい一日を過ごすことができました。
心より深く、感謝と御礼申し上げますm(__)m


今日は沢山の方がメールやグリーティングカードをお届けくださり、
相方さんの幼馴染さんはお墓参りをしてくださって
相方さんの居る場所から、お電話くださいました。
そうすれば、遠くにいても、一緒にいられるでしょう、と。
ありがとうございます。

相方さんの愛した、親しいお芝居仲間の方は集まりを開いて下さり、
その場所から電話をかけてくださいました。

尊敬する先生からもご病気の中、ご連絡を頂きました。

下北沢の飲み仲間の方々からもメールをいただきました。

文学座からご一緒だった劇団四季にいらっしゃる仲間の方からもメールいただきました。

四季時代からのファンの方もご連絡下さいました。

親しくしていただいたお母さんからもお便りをいただきました。

ミクシィのお友達の皆様も心合わせて祈ってくださいました。

カンナちゃんも素敵な贈り物を買ってきてくれました。

ちわわンずたちは、相方さんの好きなお肉を一生懸命食べてくれました。

きっと、連絡は取れなくても、相方さんを思って下さった方は沢山いるに違いありません。

まだまだ、たくさんの、たくさんの愛をいただきました。



ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
心より、ココロより、御礼申し上げます。

何より、相方さんが喜んでいるに違いありません。
ほんとうにありがとうございました。


そして、かなりの引きこもりの私も、久しぶりに皆様のお声を聞けました。
とても嬉しかったです。

皆様に感謝、相方さんに感謝しています。





【ふうたんをペロちてあげるでちゅよ。byろまたん】



さあ、明日から、3年目の時間が回り始めます。
私は未だに全然スローリィですが、それでも自分らしく歩んでいこうと思います。
相方さんが私に託していってくれたものを抱きしめながら、私の時間で歩みます。

チワワちびさんたちと、無理しないで、これからはただひたすら、
ゆっくりまったり、自由に時を刻みたいです。
愛を心に。真実を心に。
そうすれば、自ずと何をすべきかは与えられるはずだから。


それで、いつかまた、自分のペースで自分から動けるようになって
みんなのお役に立てるような善い働きができるようになったらいいな、
とココロからそう願っています。


ありがとうございました。

皆さまの愛が、相方さんの今を暖かく包みますように。



メモリアルディ

2012-11-19 | 相方さん(米澤観児氏について)


『幸せ』 画・米澤観児 


この絵はある人に依頼されて
「なんでも好きなものを描いてくれ」
と言われて描いた絵です。

彼は頼まれて絵を描ける人ではなかったのですが
自由でいいと言われて、それなら、と描いたモノ。

これはピーちゃんと私だそうです。
抱っこされてるのがぴーちゃん。
ぴーちゃんは人間に売られて(相方さん談)ドナドナ(笑)だったので
独りぼっちなのが、彼にはとても可哀想だったらしくて、家族を描いたんだそうです。
目の前にいるのはお父さんとお母さんで、兄弟やお友達が周りにいるの。

相方さんの自分の心を反映させている絵には
大好きなモチーフ「月」「窓」「塔」「銀河鉄道」などが出てきます。
こびとやピエロも出てきますが、実は私しか知らないけど、
彼はそれを「天使」として描いているのです。

彼の中で「銀河鉄道の夜」のお話は特別なものでした。
今頃は銀河鉄道に乗って「ほんとうの幸い」に出会っている事と思います。




【原宿シアター夢の街を建設中の一枚 ひとり考え事をしています。】
【彼の専用劇場は相方さんのセルフビルドでした】
【シアター夢の街は劇場であり、心癒すカフェであり】
【ロハス系エンタメスクールであり、子どもの遊び場出会った場所】
【デザインもすべて彼の手によるものです。板を一枚一枚削り、3ヶ月かけて造り上げました】
【内装もすべて、電気の配線、水回りに至るまで、全て彼の手によるもの】
【建設も解体も全て彼の手一つで行いました】
※ブログのサイドバーにある夢の街のフォトブックで完成された姿をぜひご覧ください。

 

【芝居をしてるか、何かを創っているか、ぴーちゃんといるか、ひたすらストイックに生きた人】





【相方さんは毎日ピーちゃんの写真を撮るのが日課でした】
【彼の写真の中のピーちゃんは笑ってるか、とても愛らしい顔をしています】
【彼のココロのあらはれ】







今日はそんな相方さんのメモリアルディです。
2年目の朝です。

あの日の事は辛いので思い出すのはやめにします。
その代わり、今日は一日、相方さんの好きなものを食べて、好きな事をして
彼を愛してくれた人に感謝しながら過ごそう、と思っています。
一日を大切に生きようと思います。

皆様も善き一日を

ガツン!~11・18日大幅に追記(^_^;)

2012-11-18 | KOFUKU日記
約束 雪村いづみ 1964年 フルバージョン


「約束」
  作詞:藤田敏雄
  作曲:前田憲男
  歌 :雪村いづみ

その日 ぼくが石けりしてると パパが家から出て来ていった
「坊や いそいで帰ってくるんだ ママがお前に会いたいそうだよ」
ぼくはパパに小声で尋ねた
「そいじゃ ママはもう死んじゃうの」
するとパパは静かにいった
「そうだ坊や ママは死ぬんだ だけど坊や 泣くんじゃないぞ
みんな誰でもいつかは死ぬんだ 坊やわかるな お前は男だ
歯をくいしばり 耐えて行くんだ どんなときでも弱音を吐くな
男らしくやるんだ頼むぞ いいか坊や 約束してくれ」
ぼくはパパに約束をした

ぼくが走って帰るとママは 白い顔してベッドに寝てたが
ぼくに やさしく笑ってみせた
「坊や 元気で大きくなるのよ」
ぼくもママに笑ってみせた

だけどぼくは見たんだ そのとき ママの瞳にうかんだ涙を
ママはママは泣いているんだ
そうさ ママは考えてるんだ ぼくのことを心配してんだ
自分が死ぬということよりも ぼくのことだけ考えてるんだ

ぼくは思わず神に祈った
「どうかママを助けておくれよ ママが死んだらぼくも死んじゃう
どうかママを殺さないでよ
どうか神さま お願い 神さま どんなことでも ぼくはするから
夜ねる前に歯をみがくから ごはんの前に手も洗うから」

だけどママはその夜おそく そっと淋しくこの世を去った
ずっとぼくの手をにぎりしめ 涙うかべてこの世を去った

ムリさムリだよ 泣くなっていったって
ダメだ そんなの そんなの絶対ダメだよ
だって だってママが死んだんだ
ぼくは泣いた やっぱり泣いた ママ

だけどぼくは ぼくは男さ そのあくる年 あの戦争で
パパが死んだと聞いたときは ぼくはそのとき 涙をこらえた
ぼくはそのとき約束まもった





これは尊敬するエンターテイナー雪村いづみさんの名唱です。
魂を鷲掴みにされるような歌詞、そして熱唱。

今日これをご紹介したのは、他でもありません。
この曲を、夜、真っ暗にした部屋のベッドの中で
目を瞑り、独り聞いて欲しい、と思う人たちがいるからです。

歌唱力に酔って欲しいのではありません。
この歌をリアルに感じて欲しいのです。
事実、これは誰の人生にも起こり得ることですから。

そして、こういった人生の上に、自分が歩いていることをもう一度考えて欲しい。
「生きている」という事実があるという事を、
もっと、もっと、もっと、リアルに感じて欲しいと思うからです。

ガツンと魂を殴られるような感覚を体験して欲しいからです。


(今日の記事は、ある意味で「愚痴」であり、「魂の叫び」です。
そういった内容がご不快な方は、どうぞここで迂回してくださいね_(._.)_)


私は役者(主にミュージカルですが)という職業を使命と受け取り、
自分で選び、プロになるために努力の日々を経て、プロとして役者になりました。
そして約20年ほど前から、教えたり、指導したりもするようになりましたが、
その長い中で、いろんな方に出会いました。

教えるという形で出会う人は、やはり若い方が多くて
当然ながら「役者になる」という大志を抱いている人が殆どです。
またクリエイターになりたい、表現者となりたい、という人も多くいます。
そんで、今もちょくちょくそんな若者と出会います。
そんでもって、時々、相談にのったり、手助けもしたりします。

でも、残念ながら、このところ出会う若者は、
相当、残念な人が多くて、心の底からガッカリしています(´・ω・`)

もちろん、私にしてみればの話で、みなさんがそう思うとは限らなのですが。
でもたぶん、同業の仲間たちから見ても、ほとんどが同じ様な感想を持つのではないかと思います。

(ここからは魂の叫びデス(^_^;)


あのね、すべての若者がそうだとは全然思わないけどさ、
あんたら人生を舐めすぎだ。

私はそう言いたい。
直接、そう言ってやりたいが、残念過ぎて、その気力すら生まれません。


先日、私は立て続けに
「夢はあるけど、辛いのが嫌、努力はしたくないから、色んなことが出来ないままの人」
「夢はあるけど、悩むばかりで自分で決めて動けないから、最後は人に決めてもらおうと頼る人」
というのに出会いました。

まあ、努力して今日まで来てる人間は「バカヤロウ」と一喝して終わりでしょうね。
一刀両断ですよ。何を甘いこと言ってんだよ、なめんなよ、ってそれだけデス。

私たちの認識からすれば、そんな人間が何かを表現するなんて、できるわけが無いからです。
だって自分もないのに、努力すらしないのに、一体何を表現するというのでしょう?

それは、表現ではなくて、その人の「これやりたい」って、ただの欲求です。
それを形にしただけのもので、芸術でも、お仕事でも、なんでもないです。
食べて出しただけ。いわば、魂のカスです。

しかも、それを人の上に勝手に落としていく。
自分の「やりたい」ってエゴを満たすためだけに。
誰かが、「それは私の命です、と本気で人生をかけている」
表現とか、アートとか、クリエイトって世界を使って飾って。
でも、周りにすれば「カス」ですから、結果、迷惑です。

どうやら、今の人は特に、欲求(本能が求める楽しみ)と
夢(人生の目標)の区別が、いつまでたってもつかない様なんです。

どこでどう間違って教育されてくるものやら、
もうね、「物事はとりあえず一生懸命だけやってればいいものだ」とかねー、
好きなこと=やってみたいこと=将来の夢、デス。。。。

ところがそれが自分にむずかしいとなると、
今度は短絡的に出来ることをすればいいと簡単に「目標」を変えたりできる。
…( -д-)
彼らの夢はそんな風に軽い。
自分の痛みには立ち向かわない。


夢は現実。
なのに、リアルにする努力をしないのです。
その努力をかっ飛ばして夢だけを手に入れようとするのです。

真剣になって、頭を使わないし、心を使わないから、
次から次に生まれてくる本能的な欲求のままに動くのです。
それがいいことだ、間違っていない、と信じてる。
だから、自分の否定的な部分は見ないし、探ろうとしない。

辛いことがあれば、世の中のせいだ、育ちのせいだ、
昔、お母さんや大人があたしの気持ちを閉じ込めたからこうなった…etc

だって、辛いんだもん。苦しいんだもん。
苦しくて辛いのはしんどいんだもん。
だからしたくないし、できないの。
習慣とか嫌なんだもん。
できないけど、それがあたしだからしょうがない。


「オレ、役者じゃなくて、俳優になりたいんです。」
…( ̄▽ ̄;)
何もしたことのない、テレビしか見たことない人間が区別がつくんですかね?

「本気なんです。やってみたいんです。人生かけてみたいんです。」
じゃあさ、いついつオーディションあるよ?チャレンジしてみる?
そう言えば、

「その日はバイトが」「学校が…」「ほかの日じゃダメですか?」
…(-д-メ)(-д-メ)(-д-メ)

お前さんの人生にかける意気込みってバイトに負けるわけ?
どんだけ軽い人生の選択やねん。

一事が万事
そんな感じ(-д-メ)


「それじゃ、君たち、夢は見るな。」


私は言いたい。
だって夢は現実にするものだよ?

私は言いたい。
いい加減、自分の道くらい、自分の頭で考えろ。
いつまでも憧れと夢をごっちゃにしてんなよ。

本気で夢に向かって、命削って生きてる人間もいるんだよ。
本気でやりたくても、才能がどんなにあっても、
現実の世界で、いろんな理由で諦めないといけない人もいるんだよ。
やりたくてやりたくて願っても、どうしたってできない人いるんだよ。

大震災で逝った人になんて言うんだ?
病気で志半ばで逝った人になんていうんだ?
そんなものすら与えられない環境にいる人は?
戦地で暮らす若者になんていうんだ?

そんな人たちに対して、夢に対して、君たちの生き方はものすごく失礼だ。
やる気がないなら、夢に失礼だから夢は見るな。
夢を見ても、まず間違いなくかなわないから。

だって、自分の才能を探ろうとすらしようとしていないじゃない?
だって、自分の才能を育てる努力すら自分でできないじゃない?
それを選ぶことすらできてないのに、君たち、一体、どこに行って何をするというの?
人が必死に生きてる世界ではね、そんな君たちを懐広げて入れてくれるほど
お馬鹿でも、お人好しでもありませんよ?
みんな、ちゃんと見てるんです。


いいですか?
本当に才能ある人は、今の君たちの位置にはいません。
既にどこかで拾われているんです。それが才能ってものです。
君たちは、あれこれ言ってたって、現実、そこにいるんでしょ?
本気で道を歩くつもりなら、自分の立ち位置、確認しなさい。
地図も見ないで、目的地がわかんないのは当たり前です。

いい加減、夢を自分の欲求に合わせようとする浅はかさに気づきなさい。
選ぶとは、自分がそこに向かって歩いていくことです。
自分がそれに合わせていくことです。
例え、それが受け取ることであっても、それは自分が受け取ると決めて受け取るんです。
なんの努力もしない人間に、夢が歩んで来てくれることはまずありえません。

「ありのままのあなたでいい。」
よく言いますよね?
でも、それは「そのままでずっといい」って意味ではありませんよ。
ありのままでいいのは、ありのままを受け入れられる人だけに与えられる人だけです。

「しんどいのがいや」「努力したくない」「自分で決められない」

そんな、ありのままの自分から逃げている奴に
「ありのままでいい」なんて言葉は当てはまらない。

人間、ありのままでいるのは、とっても、とっても大変な事なんです。
人の目もある、自分の心の声もある、いろんな事があるけど、
そこに立ち向かうことが「ありのまま」でいることなんですよ?
それすら受け入れられないのに、勘違いも程々にしなさい。

人生は回転寿司じゃありませんからね。
都合よく、好きなお寿司だけは回ってきませんよ。
それにね、勝手に回る回転寿司屋だって、気に入ったネタは、
自分で選んでタッチパネル押さなきゃ出てこないでしょ?

回転寿司屋に行ったって、自分が何もしなきゃ、
好きなネタが回ってこなきゃ、ただ座って終わりなんです。
どんなに楽な世の中になったって、努力はいるんです。
人生を自分で選ぶというのなら、せめて、せめてそれくらいは気づこうよ。

だから、自分たちを見てごらんなさいよ。
自分を知ろうと努力しないから、目先のものばかり拾って
延々とやりたい事が変わってくの。簡単に自分が変わっちゃうの。
結局、それは自分が何をしたらいいかわからないって言っているのと同じです。

本来、自分とは、変わらないひとつの魂なのに。
あなたの魂、どこに手放しちゃったわけ?


なんで、そう思うのかって?
そんなに長くない人生だけど、それでも多くを見てきたからですよ。

少なくても、私は、今まで表現の世界で、なんの努力もしない人で成功した人を知りません。
人間は何かしら努力しなくては、欲しいものは手には入らないものです。

過去にも同じ様なことを言って、自分の「楽」な道を選び、
それに意義を唱える人を拒否して、結局自分自身を捨てた人々を見ましたが、
どの人も自分で道を閉ざした末に消えていきましたよ。

「それができないと死ぬんですか?」
「何が問題なんですか?自分のことなんでほっといてください」

そう言い切った人、たくさんいるけど、誰ひとり残ってません。
だって、そんな人の表現するものなんて、誰が観るんですか?

夢を叶える努力したくないなんて、努力しないなんて、
夢を、つまりは自分自身の魂を捨ててるのと同じです。
自分を捨てるということは、人との関わりも捨ててるということです。

確かにそれをしなくても、例えできなくても、あなたのカラダは死なないでしょう。
でも、あなたの存在はその世界から否定されるでしょうね。
だって、誰でもない、ご自分が自分の世界を否定してるんだもの。

第一、人に見てもらったり、関わる中で生まれるもの、交わされるものが、
表現や仕事というものなのに、周りにいる人の聞く耳持たないってどういうこと?
世界を見つめないで、自分が見えるはずなんて、これっぽっちもないっつの。

そんでもって、表現と銘打って自分がやることは、自分が「やりたいこと」だけ。
自分がそれを出来るもできないも全く関係なし。
自分の気持ちがよいか悪いかが、魂の仕事の原点だと大勘違い。


あのね、仕事はね、自分がやりたいことができるのが善い仕事じゃないのデス。
第一ですよ、仕事と名が付いた時点で、それは受け取る人様のものでもあるの。
その人様のものを、これは人様にわたすものだと理解して、
そこに精一杯、自分の命をかけるから、自然とそこに自分の姿が現れるの。
それが私らの「自由」であって「個性」なの。
その命をかけられる信念がなくては個性も生まれないんだよ。

やりたいことを、やりたい放題やるのは、夢でもなんでもないぞ?
それで人を巻き込むのは、アタシに言わせれば、どっちかつったら「罪」に近い。

その自由を作る過程を、自分で否定してるって、
自分の目指す世界を自分で否定してるってことでしょ?

第一、自分のことしか見ない人間となんて、誰も交流してくれません。

「別に、自分はそうじゃないからいいんです」
「別に自分は選ばないから構わない」

いまはそんな人ばっかり。どんだけ、自分中心なんですか?
それは一人の世界でいる限りは許されるかもしれない。
でも表現を仕事にするなら、それはね、難しいよ。
だってさ、自分も愛さず、人も愛さない、
愛をいらないっていう人に、誰か近づくわけ?

それに、仕事とは周りを幸せにするものなの。
だから、自分もそれで幸せになるの。
自分のことだけ考えてて、周りが幸せになるわけないでしょ。
自己中に波のように引くだけだわ。

自分のエゴに、人の心を使うなー。
そんな人の表現なんか、何を見ても感動しない。
そのことに気づいたほうがいい。


自分の目指す世界で生きる努力をしない人に未来はないです。
これは言い切れる。

なぜならね、この世に命のないものはないからです。
生きていないものはないからです。
全ては命の上に作られているんです。
自然も、歴史も、文化も、人も、全て。
命がないと言われる物質でさえ、誰かの思い(命)の結晶なんです。

表現とは生きることそのものです。イノチ、そのものなんです。
そういう生きている命のあるものの上にしか現れないものなんです。

生きる努力しないものは当然「生の世界」で生きられません。

「アタシはどうせダメなんだ」
「できないから仕方ない」
「辛いことは嫌だ」
「自分で決められない」

自分で、自分のイノチを止めてる人に、
その世界を否定してる人にできるわけなかろ?
その生きているイノチの上を、自分の命をもって、歩く覚悟のない人間に、
命を表現する資格なんかはこれっぽっちもありません。


あなたがた、そのまま歩いたら人を恨む人になりますよ。
まちがいなく、永遠に自分を卑下する人間になります。
そして、その思いを次の世代に引き継いでしまいます。

なぜなら、あなたたちはいつまでも、ただ欲求のままに生きてるからです。
そう言う人のココロはね、満たされません。永遠に。
夢を欲求で測ってる人は永遠に満たされない。
なぜなら本能は永遠に欲求を生み出すからです。

自分のできなさを、性格や人や環境や、
いろんなモノのせいにしていれば、それはいつまでも続きます。
反面教師で自分の力となるように消化していければ良いけど、
たとえば、親がこうだったと恨みを持って生きれば、将来は
「私は親にこうされたから、あなたにはこうしない」
とそれを自慢げにいう人間になって、結局、次の世代に自分の恨みを繋ぐんです。

「その時その時の気持ちの良さが夢の正体なんだよね!
そこが大事なんだよね!」

なんて寝ぼけたことを中心に据えて、ただ天に手を広げたまま
なにか飛び込んできるのを待ってて生きてるとそうなります。

いくつになっても、本能がやりたいことは減っていかないのだから。
その時、その時はやり過ごせても、努力して自分の物にしなければ
それは、どこまで行っても、自分の外にあるものです。
だから、結果、あれもしたかったのにできなかった、
あたしの人生、何もできてない、つまんない、ってなる。


あなたの周りにそんな大人はいませんか?いるでしょ?
「面白いことねぇかなぁ?人生、つまんない」とか言ってる人?
「あたしだけが貧乏くじ」、とか言ってる人。

違うからね。
どれもこれも、究極、そこを選んでるのはその人だからね。
努力もせず、欲望だけで生きてるとそうなるんだよ。

でも、夢(目標)に覚悟をもって向かい、精査しながら努力して、
一つ一つ答えを見つけようと歩んできた人は違うんです。
結果、答えを見つけられなくても歩んできた道を誇りに思えるんです。
そこに何かを見いだせるようになるんです。

何度も言いますが、自分のしたいことからだけ、自分の未来を見てたってダメだから。
あなたが楽な事からだけ、自分の未来見てたってダメだから。
それは、その時が楽なだけで、なんの解決にもなりません。

大切なのは、そのしたいことに自分がどれだけ賭けられるか?だから。
その賭けたもので、自分自身が、人様が、どれだけ幸せになれるのか?だから。
本当の「タノシイ」「キモチイイ」は「楽」とは違うから。

言っとくけど、「努力できるのにしない」のと、
「努力したいのにできない」のは違うからね?
努力したいのにできない人は、努力しようという努力してるのだから。
決して、あなたたちの「したくない」と一緒にしないでよ。
あなたがたは「努力しない」のを選んでるだけだから。


きっと若い方たち、ガラパゴスな私たちと違ってスマホでしょ?
音楽だって聞けるし、動画も気楽に見れるでしょ?
機会があったら、「約束」この歌をひとり暗闇の中で聞いて欲しい。
そして、歌われていることを自分の人生だと思って聞いて欲しい。
そこから、もう一度、自分の人生を考えて欲しい。


これが正しいとは言わないデス。
受け止め方も考え方も、究極、人の数だけあります。
何かをどう選ぶかは、その人の選びです。


でも一つだけ、はっきりアドバイスできることがあります。

それは時間は何があっても進んでいくということ。
そして、この時間は絶対に取り戻せないってこと。
それだけは確実で、誰にも平等ってこと。



残念な若者たちに、こんなふうに言ってやりたいが、
本当に残念すぎて、本当に本当に言う気力がもてない(´-ω-`)
それでも、こうやって書いてる自分はお人好しだと思うけど。

自分ができる努力もしないでいて、自分の夢がかなわなかった、
なんて未来は想像しただけでも恐ろしいもんだと思うけど。

あたしの時代は風邪をひいて一日休んでもクビでした。
自己管理ができないのは、それをやる資格がないって事で。
皆、捧げて生きてる人ばかりでした。
何かを表現するって事を、本当に大切に考えていました。

今は一体、どうしちゃったって言うんでしょう?
努力したくないって、自分で選べない、辛いのが嫌とかって、
私にはもう話にもなんにもなりません。

オイラ言いたいよ。

ここまで来た夢に謝れー。
ここまで応援してきた人に謝れー。
ここまでの日々に謝れー。
何よりも自分に謝れー。
あなたに関わってきたすべての人や物事を、
ここまで自分のエゴのために利用してきたことを謝りなさーい。
そんな自分にしても、気づかないできてまった事を自分に謝ってください。
誰でもない、自分をダメな奴にしてるのは、間違いなくアナタです。

私はそう思うのです。

だれか、あいつらをガツンとやってやってくれっ!
いっそのこと、本気でガツンと一発やってくれ!

そしたら、せめて努力ぐらいはするようになるんじゃないかな…
をう思う今日このごろ。


…なんてね、こんな風に強く思ったのかは、
相方さんの命日が近いせいもあるかもしれません。

相方さんは39歳で、志半ばで亡くなりました。
死にたかったわけではありません。
生きたかったんです。やりたい事はまだまだいっぱいあったんです。
だけど、死は容赦なく、彼を次の世界へと連れて行ってしまいました。
彼自身も驚いたことでしょう。

彼はストイックに夢に生きた人でした。
それを叶えるために100%の力で走っていた人でした。
その為にいろんな犠牲も厭わず、努力し続けた人でした。
人になんと言われようと、貫いた人でした。

それは自分のため、
そして、それを受け止めてくれる人のため、
究極、この世界のすべてのためです。

夢を生きるとは、そういうことです。

そして、相方さんはなくなるギリギリまで、
今日ここに書いた若者たちに力を貸してました。
それは、彼らの中にある「真実」を信じていたからだと思います。

だからかな。彼らの言葉や行いが本当に本当に残念でならないのです。
しかも「頑張ってもできない」訳じゃないんですよ?
「頑張るのが嫌」なんです。
「自分で決められない」からなんです。
それが、本当に残念で…(*´д`;)…

伝えたいものすら、自分の中に探そうとしないのに、一体何を伝えようというのか?

きっと「努力のいらない、出来る範囲で見つけよう」としていれば
いつまでも、いつまでも、見つからないでしょうねー。
そう思ってしまいます。

「表現する」
自分の表現したものを受け止めて生きる人がいる、世界がある、ということ。
それがどういうことか、もう一回考えて欲しい。
夢を生きる、それがどういうことか、考えて欲しい。
夢を語る前に、夢に向かっている自分をみつめてほしい。


野村萬斎さんのお子さんが八つか九つくらいの時に聞いたそうです。
「お父さん、僕は何故、狂言をやらなくちゃいけないの?」

萬斎さんはこう答えたそうです。
「お父さんもずっとそう思いながら狂言をやっているんだよ。
その答えを探しながら、今日まで生きてきたよ」

決められた世界に立ち、歩み続けなくては道を作れない人もいる。
その人が努力しているにもかかわらず、ステージママとか
七光り、という言葉の下で自分の努力を評価されない人もいます。
それでも、そこしか歩む道はないのです。

生きる道は人の上にある、世界の上にある。
それを知ることは自分でしかできません。
自分の歩いた足跡は自分にしか付けられない。

あなたは生きていますか?
ちゃんと生きようとしてますか?
自分の足で歩いてますか?

今頑張んないで、いつ頑張るの?
人生は今の連続ですよ。
だから、自分の手で、自分を捨てたりしないでほしい。

自分を助けるのは、自分しかいないのに、
自分で自分をダメだとか言わないであげて欲しい。
君のいっときの感情はダメでも、
心は、魂は本当に頑張りたいかもしれないじゃないか!

頼むから、自分で自分をダメだって言うのやめてよ。
そんなダメな人が作ったものを、どうして人に渡そうとするんだよー(´;Д;`)

それじゃ放射能とおんなじだぞ。
汚染されてるものを自分のエゴで作って売っているのと同じ。
汚染を広げてどうするんだよ。

心は伝わるんだよ。
伝染するんだよ。
どうせ伝えるのなら、あなたの大切なものを伝えてよ。


怒ってばっかでもなんなので、ココロのスクランブルで
わがまま(笑)ばっか言ってる人に一つ曲をプレゼントしたいです。

これはウエディングソングで有名ですが、この僕と彼女の関係は、
仕事や夢や人やいろんな人に置き換えられると思います。
ぜひ、自分が大事にしたいものに置き換えて聞いてくださいね。


BOKUMAMA~もうひとつの誕生日~【完全版】/JAMIL



BOKUMAMA~もうひとつの誕生日~

作詞:太志・JAMIL
作曲:太志・JAMIL

「僕のままでいいですか」
「君のままでいいですよ」
彼にはなれない 誰にもなれない
それなのに僕は 愛されることを知った
今日は僕の誕生日

ママ、もう心配なんてしないで
「まだ恋人はいないの?」なんて
電話 もうしなくたってさ
パパ、僕やっとみつけたんだ
ただ遠回りをしてきたんじゃないよ
会わせたい人がいる

「強がること」と「強くあること」の
違いにも気付かないで
ここまで歩いてきたけど

「僕のままでいいですか」
「君のままでいいですよ」
果てしない旅の 終わりと始まりを知る
「僕のままでいいですか」
「君のままでいいですよ」
彼にはなれない 誰にもなれない
それなのに僕は 愛されることを知った
今日は僕の誕生日


雨宿りはもうやめにしたんだ
駆け出すまでどれだけの時間が
流れて いくつの夜が過ぎたのだろう

どしゃ降りの朝 目をつぶりただ
言葉にならぬ想いを まぶたの裏に焼き付けた

空っぽになるくらいに 人を好きになりました
これはこれでまた 素晴らしい日々なのです
片方の翼だけでは 空をつかまえられない
こんなに素敵な 悲しみを連れて
ひとり歩く道… いつか羽ばたけますように

生きててよかったと思った時に はじめて
生まれてきてよかったと思いました
命を照らしてもらって はじめて
命のはじまりに感謝しました

自分の力だけでは 咲かせられぬ花もある
喜びだけでは たどりつけぬ愛もある
ただ日々を過ごすだけでは
見つけられなかったもの
あの独りの日々 この命の意味
あなたと二人で 過ごす僕の誕生日
もう一つの誕生日





お仕事でご一緒だった岩崎宏美さんのお歌から。
さだまさしさんの作られた歌です。
最後の日々、私もこう歌って逝きたい。



虹~Singer~

作詞:さだまさし
作曲:さだまさし

こんなにも長い間 何故歌って来たのだろう
ちいさなしあわせや 伝説の向こう側に
逃げ込むチャンスは いくらもあったのに
まだ 歌ってる
控室の窓辺の かすみ草の向こうを
あなたの横顔に よく似た思い出がとおり過ぎてゆく 
開演のベルが鳴るまで
あと 15分

全てを手に入れたり 全て失くしたり
あなたまで ひきかえにして
歌い手は 虹のように
悲しみの雨の向こうで 咲くものかしら

I'm a singer 虹になりたい
ひとときの主役(ヒロイン)演じてそして
I'm a singer +*振り返ったら
幻のように 消え去るもの
誰かのしあわせと 入れ違いに

時々ふとラジオから 先に逝った友達の
なつかしい唄が 流れることがある
そうだね永遠に 歌い続けてる

しあわせ? ふしあわせ?
誰に負けてもいいの 自分に負けたくないの
だってそれがいつか 思い出に変わった時
目をそむけないで いたいでしょ
私はまだ旅の途中

誰かの心の 扉を叩き続けて
何もかも ひきかえにして
可笑しくて哀しくて 美しき人生
さあ 幕が降りる迄

Yes I'm a singer 虹になりたい
ひとときの主役(ヒロイン) 演じてそして
I'm a singer あなたの空を
ひとときでも 私の色に
染められたら それでいい

I'm a singer 虹になりたい
ひとときの主役(ヒロイン) 演じてそして
I'm a singer 振り返ったら
幻のように 消え去るもの
誰かのしあわせと 入れ違いに


つくる たべる いきる

2012-11-12 | KOFUKU日記



【くもの糸にぶら下がっている枯葉さんと秋の空】



秋風が吹いている。

秋の風は銀の風。
風は吹いて、すすきの穂を翻す。
すすきは銀の風にそよいで銀色の波になる。

秋の風は金の風。
風は吹いて、稲穂を揺らす。
稲穂は金の風に揺られて金色の波になる。

銀の風と金の風
木の葉は唄う 秋の歌
銀の波と金の波
光の波がすべてを包む

わたしの秋はうつくしい。


ある検索をしていたら、ナントなんと!偶然に自分の記事にヒットしました(笑)
今から7年前の今と同じような状態でいた時期の
少しづつ元気を取り戻しつつあった頃の日記の冒頭に書いた文です。
つくづく思うけど、中身変わんないな~自分って(笑)
でも、それでいい、それがいいな、としみじみ思う今日このごろです。


 

【サムイでちゅ。赤アザラシな末っ子ろま君とカーディガンに包まるまろたん】



11月に入ってすぐに、ひと月の流れの中で体が一番しんどい時期に入ったので、
常日頃休んでる状態の私ですが…( ̄▽ ̄;)更にいろんなことを一休み中でした。
この記事も11月に入ってすぐに書き始めたのに、既に10日が経過…(;´∀`)
でもなぁ、どうしても、気持ちが上がらないのですよね…
やらないといけないことはいっぱいなんだけど、
気持ちがついていかないので、動けないままで…困ったものです。

でも、こうして文章を書くという事が気持ちを上げる手伝いをしてくれてるのも本当です。
手書きなら、こう簡単にはいかなかったろうけど、PCがあるってありがたいことですね。

そういう中でも体内浄化の時期は敢えてゆったりまったりと過ごすようにしています。
自分のカラダからいろいろなものは排出されてゆく浄化の時期は
できるだけ「やりたい(やらなくちゃ)」という事をせずに、
自分の為にだけ意識を向ける様に行動するのです。
結局、それは人を想う事につながるから不思議なんデスが。
究極、私が《在る》と言うことは、人も《在る》という事なんだろうな。




【こたつに布団をかけてみました。それだけで暖かい感じ(*^_^*)】


さて先週末は午後から外は冷たい雨が降ってきて、
窓から忍び寄る冷たさが秋の深まりを教えてくれていました。
今週末も雨から始まった土曜日であります。
南国のこちらも秋が深まってきた感じがありますが、
実家では秋に入ってから咲き始めた森の朝顔がどんどん花を増やしていて
まわりの秋の風景と相まって不思議な感じがします。

ちわわンずのみなさんも毛布にくるまったり、
ニットやフリースにくるまっておネンネしたり。
ここ南国も冬が近いのだなぁ、って感じです。



【お外は寒いけどちわわンずは元気だよ♪】


ワタクシ基本はひとり暮らしとは言え、サポートが必要な身の上の為に、
(不安症だからバスや電車に乗れないのさ…、
家から5分以上遠いところに出かけられないのさ…)
ちわわンず共々、頻繁に実家にお世話になっているのですが
そんな私がみんなにお返しできることといえば家事くらいです。
それに、何もしないでいるのは心身の為にも良くないので
寄せてもらったり、留守番中にできるだけ家の用事をさせてもらっています。

私はもともと家事をすることが好きな方ですが(得意とかではないけど)
やはり手仕事や家仕事を愛していた母の影響が大きいなぁ、と思います。

そのおかげか、とても忙しく動かなくてはならず、
物理的に自分の時間がかなり少ない仕事を選びましたが、
心を込めて自分の時間で丁寧に生きる事を学んできたので、
時間がないと困ることもなく、とても充実した時間を過ごしてこれました。

もちろん、生き方やこの世の在り方に関しては、それぞれの受け取り方があり
その活かし方も使い方も、人によって全然違うと思っています。
なので、それぞれの「善い」という感覚を大切にすればいいと思ってるんですけどね。

そんな中で私はわたし個人の感じるところや意見というものがあって
その意識で世の中を見て、その意識をこうして文章にしていますが
時にそれは人様に対して、世界に対して、批判だと捉えられることがあります。
それはあくまでも私はどう考えるか、福ちゃんはそ~思うのよ、ってことです。
他者に対して「そうしなさい、そうするべき」という事ではありませんし、
馬鹿にしているつもりも、見下しているつもりもありませんので、
皆様どうかご理解くださいまし…(>人<;)


私は普段の言動から、よく間違われておりますようですが(;´∀`)、
極端なナチュラリストやエコロジストでもないし、マクロビアンでもございません。
ヴィーガンでなければ、オーガニック信奉者でもございません。
確かにシュタイナー学校で教えていたし、その思想や在り方にも共感するけど
アンチ・シュタイナーを学ぶ大人(もちろん、一部の人ね)です。
そんななので、もちろんアントロポゾーフ(人智学徒)でもございません。

確かに神様と名のつくものに幼い頃から感じるところが有り興味があるし、
自分の中にそういう存在や体験がはっきりとあります。
自分自身から見て善なる言葉や、愛に溢れた行為に共感します。
マリア様も観音様も天使もマザーテレサも聖フランシスも好き。
聖なる存在と言われる人々の生き方が好きです。

だけどキリスト教徒でも仏教徒でもないし、
ニューエイジとかでもないです…。
特定の宗教も持っていないし、何かのコアな活動もしてません。

こういう意見を言えばムカつく方もいるだろうなとは思いますが
ネトウヨ的な発言を聴いたり見たりするのが好きではありません。
かと言って日本至上主義でもないし、世界至上主義でもありません。

いろいろなバックボーンがあって、いろんな意見にたどり着くと思うので、
どういう意見に対しても否定する気はありませんが共感もしないです。

私自身はネトウヨ的発言を見聞きすると、ちいさい戦争起こしているのと変わらないなと感じるし、
それらが未来に良いものを残したり、生み出せるとは全く持って思えないのです。
何にしても、その人々の正義が違う以上、どちらが何をどう正しいと語ろうとも
反対の側から見れば相手が「差別をするもの」にしかならないと思えます。

だから、そういう会話の中に入りたくないし、そういう意識を持つのがまず嫌です。
いろんな事実から沢山の意見があるのでしょうが、
その「事実」の中に関係ない人を、国籍や人種や仕事と言う理由だけで
全部一緒くたにして話を取られてしまうような行為が好きじゃないのです。

人生を生きていくにあたって、どんなに小さかろうと意味のある部分を無視して、
十把一絡げにして語ったり、考えたりはしたくないと思っています。
そこにいるひとりひとりの立場に目を向けられる人になりたいと思っています。

わたしは日本大好きです。日本人ですから(*^_^*)
でも世界も大好きです。地球に住んでる地球人ですから。
行ったことなくても、この世に生きている以上、
この星に存在する国はどこも全て愛すべき場所であり人と感じます。
それぞれの歴史や民族性を大切にすることって大切だなって思っています。

そして何よりも、それぞれの国での歴史や教育の在り方、
感覚や言葉などにおける知識から構築されていく概念はあっても、
日本人として生きる誇り、そして世界に対する想いなど、
自分の中でその知識を超えて、考えて、判断し、
自分の意志としての答えを、この世に生み出しながら
自分の足でしっかり生きる事が何よりも大事だと思っています。

日本の良いところ、世界の良い所、地球上全てで共有したいです。
日本の良くないところ、世界のよくないところ、
苦しみ悲しみも皆で添って生きていきたい人です。

もちろん、出来ることならば、どんな思いを持つ方とも
心通わせていくことができればと心から願っています(´∀`)
まあ、人生、目指せ「アンパンマンマーチ」な人なのです(笑)

ということで、この名曲を知らない人のために。

「アンパンマンマーチ」

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為


何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を 零さないで涙
だから君は飛ぶんだ何処までも

そうだ!恐れないでみんなの為に
愛と勇気だけが友達さ

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

時は早く過ぎる 光る星は消える
だから君は行くんだ微笑んで

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえどんな敵が相手でも

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為



私は目指すぜ、心はアンパンマン!ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
ぬるいと言われようが、平和ボケと言われようがいいのだ。
危機感も自己の正義も自分の中に持つべきものだから。
ということで私にとって、こういう意識はとても大切な事です。
そんな認識の人だと思ってくださいましね。

でも違う認識の人を悪いとは思いません。
人はそれぞれ違って当然だと思いますから(´∀`)


以前はけっこう自然の傍に住み、TVなども見ない生活も長くしてました。
ただ、それは単純に傍になかったし、見なくても生きていけてただけです(笑)
決してナチュラリストとかだからじゃないです。

今は家に在るので普通にTVも観ますし、ジャンクフードも美味しくいただくし、
同じように自然なものも好きだし、オーガニックも美味しくいただきます。
生活の色んなことも、そこそこ適当な部分いっぱいでございます(^_^;)

ただ心に一つの想いを持って生きています。
「自分の様々な面における美観に従って、この世と私なりの調和をして生きる」
という心持ちをいつも生き方の軸に据えています。
大きく言えば「愛と真実」と言うものをとても大事にしています。

だから物事の最後は、すべて自分で判断し、決めています。
なぜなら、大切な自分のためにも、大切な周りの人のためにも、
自分の歩みを人のせいや環境のせいにはしたくないからです。

また、私は母からの魂の受け継ぎでもある
「丁寧に生きる」と言う感覚をとても大切にしています。
「人は一年はしっかりお付き合いしてみないと本当はわかりません」
という、母の感覚を受け継いで幸せだなぁと感じています。
とても素敵な感覚だと感じて生きているのでアリマス(^-^)

つぶやいたり、ブログを書く事で、いろんな意見をもらうことがあるし、
自分でも自分自身の心を確認する為に敢えて自分の立ち方を書いてみました。

このブログはそんな人間の書いている長い独り言、つぶやきなのです。
そんなワタクシでよろしければ、またお付き合いくださいねヽ(*´∀`)ノ





【ひざまくらでネンネするんでしゅよ。甘えん坊さんのピピちゃん】



さて、私のカラダは越してからこっち、特に重くなりまして、
今は重量感たっぷりのただのおばちゃんでございます(^_^;)
でも実は生まれつき体があまり強くないんでございますよ。
そんな弱いところがあるせいか、今も時々不具合が置きたりします。

たとえば、月に一度の女性にとって大切な繰り返しも
それそのものをカラダに起こすのに、相当な体力が必要で、
食が細すぎたりすると、予定日が来ても訪れてくれません。
しかも抵抗力だけが弱っていき、大変なことになります。
大概、相当に抵抗力が落ちるので、風邪をひいたり熱が出たりします。
ということで、その兆候を察知したら、がっつりと食べます。
食べなくては心身に大切な浄化が始まらないからです。

と言うことを今月もやっておりましたらで、
ふとココロが「食べること」と「いのち」に動いてゆきました。



話はちょっと戻りますが、私は先に書いたように、
本当に素晴らしい出会いに恵まれているんです。
いろんなものを抱えつつ、人生を歩く中でいろんな人に出会いました。

出会いというそれは、本当にいろんな形で私の前に訪れます。
実際に人として出会うときもあるし、本や文章の時もあれば、
写真や映像や音や思いの中での出来事だったりします。

でも、どれも大きな出会いであると感じています。
出会いは世界を知ることであり、何より自分を知ることと思います。
そして、結果として良くも悪くも、出会いの全てに心から感謝しています。

そういう中で、普通に生きていたなら、なかなか出会えないような
著名な方がたとも出会わせていただくチャンスに多く恵まれました。

そんな中で、たまたま偶然になのですが、
「いのちのスープ」や「いのちのおむすび」でご存知の方もいると思いますが
有名なお料理家の辰巳芳子先生と佐藤初女先生に出会わせていただきました。

そして、お二方の有名なスープとおむすびを頂いたことがあります。
「滋味深い」と言う言葉をそのままにした様なお味であったことを覚えています。

その作られたもののあたたかさ、そして立ち居振る舞いから
お二人にとても深く興味を持った時期があります。
奇しくもお二人共クリスチャンでいらしたり、年齢がお近くであったりします。
そして、お二人共「食はいのちである」と説いておられる方々です。

私は先に書いたように生活や食については、自分らしさの中の自然のままで、
極端に何かにこだわったり傾倒しているわけではないので、
当然これはこうでなくてはならない、という決まりなどは持たないのですが、
この先生方の生き方や行動、活動やお言葉の中には、
私自身が大切にしたい、これは大事だな、と思っている部分に重なる事が多く、
以前から深く共感を持っているのです。

今日はそのおふたりの言葉を思い返しつつ、
皆さんにもシェアしてみようかな、と思います。


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【いのちのスープを作る辰巳芳子先生】


《辰巳芳子先生の言葉録》

食べるべきものを、料理すべきように料理をして、食べるべきように食べなさい。


人間は 食べなければ 命はそれで終わりになる。 
命をつなごうと思ったら、命をよく開花させようと思ったら、食べるべきように食べなければならない。


自分の命を尊敬しなければならない。尊敬の表れは、食べるべきものをきちんと食べていくこと。


安いもの、手近なものばかり買ってお腹を満たしている人たち。
百歩ゆずって、食べ物をなおざりにしているわけではないとしよう。
大事さをわかっていないわけではない。
でも、わかっていてもできない。どうにもならないのだ。
なぜかという問いに対しての答え。

「面倒と思う心の向こうにあるのは、認識の問題です。
食への認識は、命の認識と同義。食べることの『位置づけ』をきちんとしていないからなのね」

じゃ、なんのために食べるのだと思う?考えてください、
と問いかける辰巳さんの目はぜんぜん笑っていないのである。

「本気で考えてください。答えがないと、食環境を変えることができません。
答え? それはね、自分を自分たらしめるため。
自分の〝命〟に尽くす義務が人にはあるのですよ」



よすがという言葉があります。
万事、何事においてもの、
適切な手がかり、手段に属す
具体性を意味する。美しい日本語。

人類は生を享けた風土に決定づけられ生きねばなりません。
もののあわれの根源かもしれません。

発酵食品は、海に囲まれた島国の
高温多湿を生きてゆきやすく生きるため、
ほとんど自然発生的に勘考し、
仕上がった骨肉の一種、
生きてゆく上での仲間ともいえます。
酒・味噌・醤油・沢庵・糟漬け、
各種糀漬け、粕仕事の数々。
あって当たり前のゆえに、
粗略にしても失わぬと
勘違いしているところはないか、反省。
「もの」に見放されるのは、
「人」に見放されるよりおそろしい。
取り返しのつかぬこともあります。
いのちを守るのは、自分以外ありません。


自分は「知っている」「時が来たらやってみせる」と、暮らしをなめている方が多い。
しかし、手足に属することは、単なる知識に属することとは異なる。
音楽に置き換えれば当然です。曲をよく知っている、楽譜も読める、
それゆえ楽器にむかえば奏せると思う人はありますか。
歌ひとつ思うようにならぬことは、先刻ご存知のとおりです。


食に就いて
「いのち」の目指すところは
「ヒト」が「人になること」
「なろうとすること」

この命題に向けて、「ヒト」が心すること。
・いのち(神佛)の慈悲から、目をそらさぬこと。
・愛し愛されることを、存在の核にすえること。
・宇宙・地球 すなわち風土と一つになり、
その一環として生きること。
・「食べもの」をつくり食すということは、
 この在り方を尊厳するということである。


時間の使い方は、生命の使い方なのだ。
とすれば、・・・・・時間に愛をこめて生きることがたいせつになる。
皿並べのような単調な仕事も、台所でじゃが芋の皮をむくこと、
お手洗いの掃除といった″雑用″も、それに愛がこめられた時、
尊くも意味ある仕事になるということである。
この世の中に、雑用という用はないのであって、
私たちが用を雑にした時に、それは生まれる。



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【おむすびを握る佐藤初女先生】



森のイスキアを主宰する佐藤初女さんは、「奉仕のない人生は意味がない。
奉仕には犠牲が伴います。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない。」
という神父様の言葉に心を揺さぶられ、特別な能力も経済力もない自分に、
何ができるか?と考えながら歩いていた時、
「私には心がある。心だったら汲めども汲めども無尽蔵にある」と突然ひらめき、
この気づきから森のイスキアへと続く道の第一歩が始まりました。


「おむすびを作るときは、お米の一粒一粒が息ができるようにと思って握ります」

食事は「いのちといのちの移しかえ」

『たなごころ』に置いて、手のはらでね、『むすぶ』のよ。力はいらないの。

素材そのものを「いのち」としてとらえるか、
ただのものとしてとらえるかによって、味が違ってくるものです。

ゆがいている野菜が、すきとおったとき。
それが、そのいのちが私たちのからだに入るための準備ができたという合図です。

お料理をするときの心というのは、その人の生きる姿そのものだと思います。
急ぐ人はただ急ぐし、めんどくさい人は簡単に省略するし。

素材そのものを「いのち」としてとらえるか、
ただのものとしてとらえるかによって、味が違ってくるものです。

情報にふりまわされない力をつけましょう。
私は、自分で行動してわかったことでないと、人には伝えられません。

「めんどうくさい」という言葉は使わない。
『地球交響曲』の龍村仁監督は、
「めんどうくさいという気持ちが、地球を壊していく」
とおっしゃいました。本当にそうだと思います。

すべてのものにいのちが宿っている。服もタオルもお茶碗もすべて。
いのちを最後までまっとうさせたいので、修理したり、縫ったり接いだりします。

幸福はおすそわけしましょう。喜ぶ人が増えるのはうれしいことです。

自分のまわりの不思議に気づきましょう。
何事も「当たり前」と受け取らなければ、気づくことができます。

まさか自分の身にこれだけは起こるまい、と思っていることでも、
他人の身に起こることは自分にも起こるんです。

人の心はみな違い、それぞれ深いもの。

大きなことや立派なことをする必要はありません。
自分の身近にいる人が喜んでくれそうなことを、ひとつやってください。

気づいたことがあるなら、まず行動してみることです。
自分で行動してわかったわけでもないのに、「いい」とか「悪い」とか言わないこと。

大切なものは、今ここにあります。
ふだんの生活のなかにこそ、天国はあるのです


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突然話は変わりますが、歌手のさだまさしさんが
『おばあちゃんのおにぎり』という子ども向きの本を出されています。
ストーリーはこうです。

主人公の「ぼく」はお婆ちゃんのおにぎりが大好き。
何も入ってない、のりもまいてない、まっしろなおにぎり。
おばあちゃんは何でも注文どうりに握ってくれた。
そのぼくの誕生日会、友達をたくさん呼んで、有頂天のぼく。
お母さんの作ったたくさんのご馳走の中
おばあちゃんからのプレゼントは、ぼくの大好きないろんな形のおにぎりがたくさん。
いつもは食べられないご馳走でおなかが一杯になり
友達もぼくも、大好きなおばあちゃんのおにぎりには、手もつけなかった。
友達と遊びに出たぼく、だんだんおにぎりの事が気になって先に家に帰る。
おばあちゃんは手をつけられていないおにぎりをお茶漬けにして暗い台所で
ひとり食べてた。
ぼくはそこでおばあちゃんの優しさに胸が痛んで両手におにぎりを持って
泣きながら一度に食べ始める。
「いいの、いいの、気にしなくたって。今日はご馳走が一杯だったからね。
お前はもうおなか一杯なんだろう?ちっとも無理しなくていいんだよ。」
そのぼくの頭を、おばあちゃんは優しくなで続けた。

このおばあちゃんは、ロシアの大草原を馬で駆け抜けたりたくさんの仕事や
冒険をし、戦争も体験し、かなりすごい人生を歩んで来たらしい。
その彼女が持っていたもの、明るい性格・丈夫なからだ・おにぎりetc.
それらたくさんのことを人は次の代にバトンタッチして死んでいく。
そうやってずっとずっと命は繋がっていく。
「ぼく」が生きてる限りお婆ちゃんの深くて広い人生が、「ぼく」の心のなかで
ちゃんと生きている。



このお話は、さださん本人の実話にもとづいて書かれたものです。
そしておばあちゃんの語らなかった教えがそこに生きています。

さださんはあとがきにこう書かれています。

≪もともと生きることに意味はない≫

でもその意味を発見するための自分との戦いが人生ではないか。
生きることは自分自身との壮絶な戦いであることを忘れてはいけない。

『祖母の人生は、深くて広く、
 その計り知れない世界を生きた祖母が
 今は僕の心の中だけで生きている。
 心は、世界よりも広いのでしょうか。。』

厳しい戦いを生き抜いた人ほど、自分の戦いの壮絶さを他人に見せたがらない
と、さださんはおっしゃっています。


辰巳芳子さんも佐藤初女さんも、さだまさしさんのおばあちゃんと同じ、
そう言った難しい厳しい時代を生き抜いてこられた方です。
こういう方の生き方の中に人としての大切なものがあると感じます。




【冬はスープが美味しいですね】



さて、私は手軽な料理が悪いとは思いません。
今流行りのズボラ飯もアリだと思います。
手仕事をしないより、する方が絶対に良いと思うし、
問題はその方法ではない部分だと思うのです。
大切なのはココロ。そこだと思うんです。
要はそこに、どれだけ思いを込めたかだと思います。

ズボラ飯(簡単ごはん)だって、美味しいものを作ろう、
と思って作るのなら立派なお料理。
ただ料理なんか「どうでもいい」気持ちで作ったものなら、
それは食材にも食べる人にもとても失礼だと思う。
私はそんな感覚で受け止めています。


手は生きるための殆どを生み出す部位でとても祈りのある体の部分。
人はその手を使って人間はいろいろなものを造ります。
火は男性性のエネルギーであり、水は女性性のエネルギーと言うし

それらが合わさってお料理は生まれることはすごいことだと思う。
これらが合わさるとき、内なるバランスをとり、命に安定感を与えるのだそう。
それが食であり、料理であるなら、お料理は祈り。

たとえば、それぞれの調理法にはいろんな祈りの力が込められる。
例えば人間関係が上手く行かないときは油を使った揚げ物を作り食べるといいと言います。
油には素材を滑らかにし、きしみをなくす力があるから。

寂しいときや愛を感じ入られないときは蒸し物がいいのだそう。
霧に包まれた料理は天に守られているというパワーを与えてくれるらしい。

煮る料理は長い間火に愛される。
だから寂しいとき、辛いとき、悲しいときは煮込み料理がいいそう。
愛が味となってしみこんで、癒してくれるから。

パンやおうどんやクッキーのように手でこねるお料理は
作り手の深い祈りを伝える料理なんだそう。
しかも手でこねる料理は愛の力を相手に分けて上げられるそうです。
今が頑張りどきの人や、もう駄目だと手足が出なくなっている人、
今にも幸せを取り上げられようとしている人、そして自分にも、
そんなお料理を作りプレゼントをするだけで力を分けることができるそうです。



そう考えると料理も楽しい。
そう思いませんか?

実はこれ、ずいぶん前に書いた自分のブログからの引用。
でも本当に大切なことだと思うから大切にしています。


家仕事でも、なんでも、繰り返しの仕事っていうのは大変なもの。
人間は飽きっぽいから続けていくのは余計大変。
でも、その思いを乗り越えられるのも人だから。

人は本能的な好き嫌いを持ってるから、最初はそこで答えが出る。
でも、自分の意志でその答えをそこから育てていける。

「大変」
その言葉の当てはまる何かを、四苦八苦しながら乗り越える事が
人にとって大切なことだと私は思っています。

今日の話は、究極そういうコトです。





「一生おなじ歌を 歌い続けるのは」

一生おなじ歌を 歌い続けるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がやってくるたびに
おなじ歌しかうたわない あの鳥のように

岸田衿子