KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

心の冬と春のあしおと~死を生きる《追記あり》

2012-02-02 | KOFUKU日記
昨日、今日と日本列島は寒波で寒さがすごいですね。
南の我が故郷も類にもれず、夕方からぐっと冷え込んできました。
もしかしたら今夜あたりは雪かもしれません。

でも、暦の上ではあと二日で冬も終わりです。
まだまだとっても寒いけれど、それでも我が家では
あちこちで僅かながら春のあしおとが聞こえています。




《爺ちゃんの植えてくれた梅のつぼみが膨らんできました。丸くて可愛いデス♪》


 

《このところ、ちびっ子たちはお日様がでると日向ぼっこもできる位の陽気になりました。》

やっぱり毎日、季節は春に向かっているのですね~。


でも、さすがに今夜はかなり寒いです~。
風は強いし、雨もぱらぱらで、雪降りそうです。
あんまり寒いので今夜はおでんにいたしました。

我が家の寒がりちびっ子たちはといいますと…

 

《ふかふかおふとんの上であったかぽこぽこになってます(^^)》

 

《しかも、こんな格好で爆睡中(笑)》


自然の中、まっすぐに時間を生きている
このちいさい方たちの無邪気さを見ていますと癒されます。
いま、この子たちのイノチの輝きが私の大きな支えです。

時間は冬から春へと進んで、上手に巡っているのに
なかなか私は前に進むことが出来ずにいます(-_-;)

せっかく恵まれて、この南の地に戻ってこれたというのに
いまだ動くこともできず、関東や被災地から脱出したくても
出られずにいる方に申し訳ないと思ってしまいますが…(・。・;


相方さんの一周忌からこちら、プチ引きこもり中です。
今は病院にいく事すら難しいのです。
ほおんと、ココロって難しいものですねぇ。

早く元気になりたくて、引っ越してからこちら、
足しげく通院したりしてたんですが…今はどうしても難しくて。

私は見た目元気なんですが、結構、立ち直るのが難しい方です。
10年前、以前のパートナーさんを亡くした時もそうでした。

パートナーさんと過ごした思い出のある場所に住むこともできず
音楽やTVや映画もまったく見られなくなりました。
思い出の品や写真も見ることが出来ませんでした。

自分が命より大切にしていた世界(演劇と言う世界)で彼は逝ってしまったので
それを作る仲間の近くにも、劇場にも、その世界にもいられなくなりました。
それだけパートナーさんは自分の一体になっていたのですね。
それが何よりも一番つらかったですね。

それで、ぴーちゃんと二人、しばらく南の国に戻り、
数か月後、全く未知の世界だった北海道に渡ったのです。

でも、そこまで、本当に密接な仲間と世界の中で暮らしてきた私には
全くその片鱗のない世界にいるのは難しくなってしまったのです。
一年後、つてと北海道の友人たちの助けを借りて東京に戻りました。

元の世界に戻りたい、とは思いませんでした。
悲しみが深く、どうしても近寄れなかったからです。
でも、関わらなくても、大事な世界のある場所のそばに居たい、と思いました。

もちろん、逝ってしまった人を悲しませたくないから
その人と暮らしていた時以上に一生懸命生きようと思うのですが…。


愛した人の死は本当につらいものです。
突然の別れは特に。
思い出は消えないものです。と言うか、消せません。

時間が経てばたつほど、ああもしてあげたかった、
こうもしてあげたかったな、と思いが高まるのです。
自分の覚悟したことや、決めたことなら、思い切りもつくし、後悔もありません。
事実、わたしは自分で決めた道で後悔したことは一度もありません。
でも突然起きた愛する人への不可抗力の出来事は、
いつまでも思いはさめやらないものだと知りました。

すると長くて短く、短くて長いような時間が始まります。
相手が生きていたのか、それとも夢だったのかと思ったり
自分が生きてるのか死んでるのかわからなくなったりします。
色も、音も、何もない世界が訪れます。
感情というものは消えてしまったのだと思っていました。
でも、私の心の中の世界でのことなので誰にもわかってもらえません。

10年前、そんな孤独の中から、元の世界に戻そうとしてくれたのが相方さんでした。
嬉しかったですね。自分の心が動くという事が。

とはいっても、なかなか完全に元気になるという事は難しくて
やっぱり亡くなったパートナーさんと見た映画やTVは見れなかったし
一緒に聞いた音楽もお芝居も見られませんでした。
劇場で亡くなったから、今でも一人で劇場にも入れません。
思いでのある場所には足が全く向きません。
いまだにそれらは自分の中で乗り越えられないものとしてあるのです。

それでも、相方さんが付き添ってくれることで、
彼の為の公演や、そのお友達の公演に参加できるようになり、
相方さんの好きな場所や、音楽や、絵や、お芝居を
一緒に見られるようになりました。
失った以上に沢山の新しい世界が自分の中に生まれました。
一緒に新しい人生を歩むことで、私はこの十年生きてこれたのです。


でも、また大切なものがまっすぐ見られないものになってしまいました。
それは、本当に大きくて、なかなかその向こうに行けない。
ただでさえ、痛みはあったのに、しんどいもんです(-_-;)

ある時、親しい人にいろいろと言葉をかけてもらった事があります。
私は親しかったので、その事が過去の悲しみと繋がってしまう
と言うことを正直にお話したのですが、その方から
「福ちゃんは何を話しても悲しい思い出になるんだね」
静かに批難するように言われてしまったのです。
言っている意味はなんとなく理解できましたが
私にとって、それを繋げて考えないことはとても難しい事なのです。
でも理解はしてもらえなかったのです。
親しかっただけに、ちょっとショックでしたね。
その方には素直なお話は出来なくなってしまいました。

良く、多くの方は、死んだ人が悲しむから元気にならないとダメだ、とか
過去を引きずっていてもだめだ、とか、おっしゃって下さるのですが
(もちろん、それが愛からであることも十分理解していますが)
それが簡単に出来たらPTSDなんて病気はなくなるんじゃないかと思いますね。

それが難しい人も中にはいるのですが、常日頃から元気を唱える方や
前向き思考の方には特に理解してもらえないことが多いです。


死を通して、人が見えてきます。
いろんな人がいます。
びっくりするほど立ち直りの早い方がいるのも事実です。
そういう人は、上記に書いたようにすぐに前向きにご自身でも思えます。

でも、そうじゃない方もいます。
グリーフワーク(死別を乗り越える作業)の中にいる人には
私の様に痛みの大きく、前に進みづらい人もいるのです。
突然死や、震災や災害の様な衝撃の大きい死はPTSDを引き起こします。

PTSDになると、起きてしまった悲劇を意識の中で現実として繰り返し体験します。
永遠にその悲劇は続くのです。
さらにPTSDは鬱やパニックや多くの病を併発し苦しいものなのです。
簡単に癒えるものではありません。
私は10年の間、このPTSDと暮らしています。

そういう人にとっては元気にならないとダメだとか
死んだ人が可哀想だとか、くよくよするな、前向きになれ、なんて、
ただ心が深く傷つく言葉でしかなかったりします。

なぜなら、その人の中で相手の死は過去ではなく「現在に在る」からです。
現在進行形のものを、過去のものとして、全否定されたら
その人はそれこそ生きている場所を失ってしまうのです。

多くの方は単純に「死」はすべて過去のものであると思っているので
それをうまく理解することが出来ないのでしょうけれど。

でも、そうではないのです。
生や死はもっと複雑で繊細なものです。
肉体における事実だけでは定義できないものです。

でも人は目の前から死によって人が消えると、
その人によほどの感情をもっていなければ過去の者として定義づけるのです。

家族で会っても、友であっても、そうかもしれません。
でも、愛したもの、真実、共に生きた人にとっては違います。
死はただの過去ではありません。

だから、今もそういう無理解の中でひどく苦しんでおられる
被災者の方も多いのだろうなと思いますと胸が痛みます。

それらを理解するには同じように永遠の真実の愛を突然に失ってみるほかはありませんが、
でも、悲しみが理解できなくても、添う事は出来ると思います。
思いやることはでき、それは苦しんでいる人にも必ず伝わります。
もちろん、受け取る方の心の癒され具合で伝わり方は変わってしまいますが
決してまったくわからないなんてことはないと私は思います。
私自身、多くの方の愛を感じて、そう思います。

とは言っても、どちらの立場にしても難しいですよね(^_^;)

PHP文庫などで著書の多い、シスターの渡辺和子さんは
非常に自立心の強い方で頑張る前向きな方でした。
だから、多くの方に「前向きに頑張れ」と言い続けていたそうです。
弱い心になる人が悪いのだと思っていたそうです。

あるとき50歳を過ぎてから重篤な鬱になりました。
自死に向かう人の心を卑下していた自分が自死を望む立場になりました。
そして、身長が7センチも小さくなるような大病を通して
気持ちはあっても出来ない日々があることを知りました。

初めて「弱さ」の真実を知り、自分がどれだけ傲慢で
弱い人に向かって暴言を吐いていたかを知り
弱気を訴える人の気持ちを心で理解できるようになり
やっと弱い心の人に添えるようになったのだそうです。

そんな聖職者の神様に近い方でもそうなんですから、
普通に理解されなくても仕方ないのでしょうね。

死別と言う悲しみは、家族や愛する人や友がいれば誰にでも訪れますが
お医者様が言いますにも、やはり、愛し方やつながりや別れ方によって
癒えるのには何十年もの長い長い時間がかかることもあるのだそうです。


瀬戸内寂聴さんは、死別の悲しみの中にあるとき
なんでもいいのです、生きる理由を見つけなさい、
とおっしゃっていました。

傷みを忘れる必要や、自分の為に生きることを頑張らなくていい、と。
例えば、家族の世話でも、犬の世話でも、
ただ、その子のために生きなさい、それでいいのだ、と。
自分を弱い人間だ、ダメなどと思う必要はない、
大切な人の死を知らない人には、真実、人に愛を傾けられない、
死の痛みを知る人は深い愛を知る人なのだ、と。

また、大好きな先輩は、数年前に亡くなったお父様の事を上げて
「傷は決して消えないが、でもいつかかさぶたになる。」
そういってくれました。

私は10年前、一番つらいときに、それらの言葉にとても救われました。
今も、その言葉たちが、私を支えてくれています。


一年前、天国に行った相方さんは、常日頃こう言っていました。

「人は誰かを愛すると、その人が頑張っていれば自分も頑張れる。
相手の痛みも悲しみも喜びも自分の物になる。
そうして、いつしか自然に溶け合っていくものだ。」


劇団○季にいる時、ナルニア国を書いたルイスが主人公の
「シャドウランド」と言うお芝居についたことがあります。
(映画もあります。邦題は「永遠の愛に生きて」アンソニー・ホプキンス主演)
ルイスの妻、ジョイとの愛の日々のお話です。
ジョイは癌で死んでしまうのですがルイスにこう言います、
「私の死は神様との契約書の一部なのよ」と。

相方さんの言葉とジョイの言葉は同義語だと私は思っています。
生と死が一つのセットであるように。

溶け合ったものであるならば、この悲しみは相手の悲しみでもあるのです。
そしてその悲しみとは幸せとセットなのです。
ジョイの言う契約書に寄れば。

だから私は
「痛みを感じつくさねば決して本当の明日はやってこない。」
と、思っています。

そう、私は死と共に生きているのです。
なんだそれ?と思われてもいい。私はそこに大きな意味を持っています。

私は自分の経験からも、それを真実だと知ることが出来たし
だからこそ、落ち込んだ中にも喜びを見つけることが出来るし、
弱い心を自分から追い出さなくてもいいのだとわかります。
それは、生きるために、とても大切なことだと思っています。

だから人間、冬の時期はあっていいと思っています。
弱いときもあっていいと思っています。
ただ感じつくし、自分のちからで考えることはとても大事。
人智で越えられないものを手放すことも大事。
とにかく、今の私は冬。冬真っ盛りなのです。


そんな感じで、センシティヴになっているココロは
10年前から本当にいろんな事にへこみやすくなりました。
ここにきて、また更にさらに、それが深まった気がしてます。

今は相方さんを失ってしまった病院と言う場所に行くのがしんどくて。
人にも本当に会いたくない。会話をしたくないんです。
話すととっても疲れてしまうんです。
そうなると不安が募って悲しみがいっぱいになってしまったり。

急に老け込んで、目も悪くなったせいなのか大好きな本も読めず
いつもなら打てるメールも打てない。書ける手紙も書けない。
気持ちはあるのに、身体が動かず。

身体は緩んで順調に大きくなったものの(^_^;)
抵抗力は落ちているのか、風邪をひいては熱を出すの繰り返し、
そんなんで、プチ引きこもりな冬なんですわ。


それでも、家族が居るから、やることがあるし、
ちいさいさん達がいるから、お世話もしなくちゃならないし、
自然の中で生きているイノチたちは日々成長してくれているし、
友達はそれでもメールや手紙を書いてくれるから、
私はこうして喜びを捨てずに生きていられるのです。

それらは素直に嬉しい。
とても有難いことだって思います。

それが嬉しい、ありがたいと思えることが今は嬉しい。
以前、パートナーの死を経験したときには
今の時期にはもっと悲しい中に居て、そうは思えていなかった。
これは大切な人が命と引き換えに教えてくれたことなのデス。
とても大事な人生の学びです。

それらがいつか私の完全な春のあしおとになってくれるといいなぁ。
私は気長にそう思っています。


いまの日本には大切な方を突然に失って、
悲しみの中にいらっしゃる方が多いと思います。
私も「突然」に衝撃的な死の瞬間に立ち会い、
この世でもっとも愛する人を二人も続けて失いました。
だからこそ解ることもあります。

今でも目が覚めて、なぜ、私はここにいるのだろう?と思う事があります。
愛する人と幸せの中にいたとき、この未来は予定していなかったからです。
その様に愛する人の死とは、いまを生きている人の過去と現在と未来を奪うものです。

そこから立ち直っていくには自分の心を使って
また新しい未来を築いていくしかありませんが
その作業をするのには、それぞれの時間と力で
それぞれの目の前にある壁を越えていく事が必要なのです。

簡単じゃありません。人生を全く新しく変えるのだから。
そんな難しいことを、他人に簡単だとは言ってほしくないです。
くよくよしちゃいけない、なんて言葉でくくらないでほしいと思う。

周りの人には誰かが欠けたようにしか見えていなくても
その人失った人にとっては、それがすべてであることを
多くの方が知ってくれたら、感じてくれたらいいなぁと思います。

元気出せとか、明日に向かって頑張れとか素敵な言葉だけれど
それをしたくてもできず、なんとか違う方法で明日を探している
そんな人たちがいることも忘れずにいてほしいです。

そして、そんな人に出会ったら、話しを聞いてあげてください。
ただ、頷きながら、そっと聞いてあげるだけでいいんです。
それだけで、明日の音が、春のあしおとが心に響きます。


もし、ここに同じように悲しい思いをしている方がいたら
どうか、正しいという周りの言葉や気持ちに負けないでください。

周りの人には、なかなかわからないだけなのです。
だって、PTSDって現実離れした恐怖や悲しみを体験しないとならないんですから。
ある意味、解るはずがありません。

悲しんでいるあなたは、いまを生きているあなたは、絶対に間違ってません。
周りの言葉に自分を無理して、見えない未来を歩くより、
今日の現実(悲しみ)をまっすぐ生きていることの方が自然なのです。
それは忘れないでいてほしいです。

そして、自然やちいさな魂たちがそういう方を癒してくれますように。
無垢な生き物たちの生は、「今」に立ち止まり続ける魂の中に
そっと新しい風を吹き込んでくれ、新しい時間を教えてくれるから。
ちいさいけれど、何よりも大きな愛で包んでくれるから。
過去も現在も未来も失った人には、大きな大きな存在なのです。

私は被災されたり、この世で大切な方を失われた沢山の方のお心が
少しでも癒されることを祈っています。
すこしずつ、かさぶたになっていくのを一緒に待ちましょう。

そして
皆さんにも春の幸せなあしおとがきこえてきますように。