秋の大雨が過ぎ去って光が差した道でこういう場面に出会いました。
わたしの家は渋谷から急行電車で30分くらいのところ、
むかしのある有名なドラマで舞台になったという、
いわゆる「セレブ」な人々が集う場所でもあったりします。
わたしん家はそこの駅から二分の有名マンション、ペット可で住所もみんな一桁よ~というと大体の人は「ええっ!すごい高いでしょう?15万?20万?」と聞きます。
実は実は大家さんのご好意でとってもとってもとーっても安いので本当のことは言えません(笑)
そういう場所ですからお隣のマンションとか見てもふつーにジャガーとかすごいお車とか止まってたりなんかして、ついでに言うと近所のスーパーは成城石井と紀伊国屋しかないので極高。(おかげでわたしは遠い道のりを買い物に行く)
駅周りはデパートでフツーにおばあちゃんがスターバックスでコーヒー飲んでるし(^。^;)そんなところです。
考えれば考えるほどなんでわたしがいるのか分からない場所だったりして(^^;)
そんなセレブな街の道端ではこんな事が起きるのです。
うちの家から一分のところ、窓から見えるところに、いわゆる「マクロビオティック」の高級レストランがあります。
そりゃあ素敵な店構えで(フランスの田舎風建物)看板をみると有機農法や無農薬のお野菜のみを使った素朴な料理が高価な値段で並んでます。
そこから3人のマダム(あえておばちゃんと言わず、マダムと言おう)が出て参りました。
お二人はこの街特有のブランド系の素敵なお洋服に身を包み、きらきらのアクセサリー。
もう一方は明らかにナチュラルスタイル、そうよくシュタイナー学校とかヒッピー系のお金持ち自由人とか良く着てるアジアン系の手織りホームスパンなお洋服に身を包んでおります。
そのマダムが言いました。
「おいしかったわね。やっぱりマクロビよね」
(お連れのマダムうなずく。)
「あたくし、出来るだけ自然の物を頂いて、エコロジーに気を配ってるの」
「○さん、ロハスでいらっしゃるから」
「そうね、わたしはこのスタイルもう昔からだけど、やっぱりどんなにお金があっても自然とともに共存していかないとね」
(マダム達うなずく)
「ねえ、ここの近くにリースの材料になる実のなる木がありますのよ。
ちょっと寄ってもいいかしら」
「○さん、リースとか染色とか手作りもなさるのよね」
「ええ、自然からめぐみを頂いて楽しんでるのよ」
マダム達、そこから20メートルほど先の木の下で止まる。
「ほら、これがその木。ちょうど今、実がなるのよ」
「まあーさすが詳しいわ~」
「リース用に少し頂いていこうかしら」
おりしも午前中までの雨で道にはたくさんの実が落ちている。
ああ、拾って帰るんだと私はほほえましく見ていた。
ところがおばちゃんは(あえてここからはマダムとは呼ぶまい)想像つかない行動にでた。
なんと手に持った傘をがしっ!と木の枝にひっかけてぶら下がり木を揺らしたのだ!
木の実は落ちる、まだ落ちる時期じゃないものまで。
ちいさな木の枝は揺らされて折れて落ちた。
そしておばちゃんは当たり前みたいに落ちた中からきれいなものだけを拾った。
他の木の実を踏んづけながら。
そして笑顔で言った。
「やっぱり自然とともに生きる姿勢は大事よね。
人間それを忘れちゃいけないわ。」
わたしはその暴挙に呆然としながら思った。
自然と共に生きる事を考える前に、その木が生きてる事を思い出せ!
思わず、その「おばちゃん」の後ろで声が出てしまった。
「可哀想に。これから種になったのに」
3人は振り向いた。お連れの二人は少し困った顔をした。
自称ロハスおばちゃんはわたしの横をさっさと通り過ぎながら連れの二人に言った。
「わたしはね、残った木の実はそのまま土に返して自然に返すようにしているの」
木の実は痛々しい姿でコンクリートの道路に散らばっていた。
きっとあの人たちはご近所のお金持ちさんだろう。
この辺は豪邸か高級マンションばっかりだ。
でもなぜかそういうところには自然食品や自然派の店がたくさんある。
そしてなぜかその「商品」は一様にどこも高い。
きっとそういうところに集っている人だ。
あの人たちはきっとこの木が雨に濡れている事も風に吹かれてることも
お日様に照らされていることも知らないに違いない。
知ってるのはリースに使う木の実だってことだ。
きっとリースに使うつるや枝も同じようにぶっちぎってくるんだろう。
自然食品の店で書いてある育った場所と人だけ見て素材を知った気持ちになり、
きっとそれが自然の中に生きてる姿なんてイメージしないのだ。
じゃなかったら、生きている木にあんな事出来ない。
ロハスは素敵だ。でもこんな勘違いはかなしい。
シュタイナー学校に関わってるときも同じような事があった。
幼稚園児のお母さんとお子さんが遊んでた。北海道の草原で。
花が咲いていた。お母さんはぶちぶちと花を摘んでは花輪を作った。
出来上がった花輪を「ほらきれいでしょう」と子供にかぶせた。
でも、その人は出来上がった花輪をきれいと言ったけど、そこに咲いている花をきれいとは言わなかった。
そうしてこういった。「こういうきれいなもの作るのがすきなの」
わたしは母がとても好きだった。優しい人だった。
花を摘むとき「簡単に取っては駄目。花も生きているんだよ。折られたら痛いのよ」と言った。
草花や木々でおもちゃを作ってくれるとき、何か話をしていた。
わたしの子供のところに来てください、とお願いをしているのだと聞いた。
花を生けるとき、母はその花弁の一片まで飾った。
枯れた葉を一つ一つ丁寧に取っていって、土に返し、水に浮かべたり、ちいさな器に入れたり、命が消え行くときを愛でた。
物を大切にし、毛糸は何度も編み返し、いろんな人の身体を温めた。
食べ物も生活も彼女のアイデアと工夫で彩られてた。
雨の日、母はわたし達に花模様のはぎれをわたし、切り抜かせた。
どうするの?と聞いたら、そとは雨で暗いから、これをカーテンにはって花畑を作りましょう!と笑った。
そして母は笑ってカーテンの上のほうに黄色い大きな太陽をはり付けた。
おかげで私はむやみに花や葉をちぎらない人にそだった。
貧乏でも工夫して生活を楽しむ事も手仕事が生活を明るくする事も教わった。
父は生活力がなく、とても困った人だったが心は純な人だった。
風景画を描くとき、はじめにキャンバスいっぱいの水色で染めた。
どうして?と聞くと「俺たちは空の中に生きてるから」と言った。
花の色の作り方を教えてというとそれは無理という。
なんで?と聞くと「絵の具は鉱物、石で出来てる。だから花の色はだせない」って言った。
蓮華畑を見て、わたしの肩を叩き「きれいだな。俺が死んだらこの花の下に埋めてくれ」と言った。
虹が出ると仕事そっちのけで車を走らせ、あの下をくぐるんだ!と追いかけた。
自分達も食べられないのに捨てられた犬も猫も動物も全部拾って面倒を見た。
「だってこいつらは自分で生きていけないだろ。だから人間がいるんじゃないか」って父は言った。
駄菓子屋さんをして、乞食と変わんないようなその日暮らしの苦しい生活のとき、
「俺は幸せだ。なんてったって夢を売っている」と言った。
おかげで私は貧乏も平気、お金よりも自分の大切な事を一番に出来る人になった。
私の兄弟は猫が捨ててあるとかばんの中身を捨てて体操服に猫を包んで入れて家に帰ってきた。
家族はだれも怒らなかった。だまって笑ってみんなで猫をあたためた。
生活に困った人がいると何キロも歩いて学校に通い、電車賃を浮かせてパンを買い届けた。
上のお兄ちゃんは大人になってからどんなに理不尽に人にいじわるされても、決して笑顔を忘れない人だ。動物や見えない世界の人にもとことん優しい。
今も「どんな悲しいことにも辛い事にも感謝があるんだよ。それを探しなさい。感謝を忘れちゃいけないよ。」と笑顔でいう。
下のお兄ちゃんはぶっきらぼうだけど、心のなかは柔らかくてあったかい。
「人にはそれぞれ神様がいるんだ。その神さまはね、本当は一つなんだよ。だから神さまは誰かが心から誰かを思ったり、何かをしようとするときに相手のことも助けてくれる。だから自分を信じて、ただ相手のことだけを思ってご覧。そうしたら見えてくる。なにも心配しなくていい。いつかとけてくるよ」って真っ直ぐの眼をして言う。
動物達はそんな兄ちゃんの事を仲間のように慕って寄り添ってくる。
うちのぴーちゃんは誘拐や人の死を体験して不治の病になった。
歩くな、走らせるなと医者は言った。
けれど兄ちゃんは「ふうん。そんなの俺が元にもどす」と言って毎日毎日ぴーちゃんを抱いて、なでて、話しかけ、一緒に散歩をし、風になって走った。
ぴーちゃんは知らない間に元気になって、毛も生え変わりふさふさになり、何より顔が変わった。可愛くなって笑うようになった。
ぴーちゃんはお兄ちゃんが大好きで、いつもついて歩く。寄り添って眠っている。お兄ちゃんがいないとき、彼の服の上でまあるくなって眠る。
兄ちゃんは同じようにしてバイト先の犬も面倒見てる。
向こうの世界に一足早く帰ったソウルメイトは神さまの世界と深くつながる素晴らしいスピリチュアリストだった。
この世の真理を分かりやすい言葉で教えてくれた。
彼は闇と光は裏表ではなく一つ。ここにあるものはすべて必要だからある、是も否もないのだと教えてくれた。
今も時折現れては話をしてくれたりする。だから向こうの世界があって、また私たちは時をつむぐ事を知っている。
親友達はとことんきれいで優しい。たとえ人に騙されても「騙された」なんて思わない人たちだ。素直でただひたすらに信じる。
大親友の一人、まりちゃんが長野の自然のなかで笑顔でいう。
「ご飯がおいしい、空気が美味しい、生きてる、あたし生きてる、すてきーって。
かみさま、てんしさま、ありがとうございます、って思うのよ」
彼女はわずかな収入のなか、長野でロハスな生き方をしている。
命と人とのかかわりをとても大切にしながら。
もう一人の親友soraくんは自然と共にゆったり生きている。
たぶん今日も野菜を作って、空と雲を眺めて、長い時間をかけて自分の足で歩き散歩をしてるだろう。
人や文字が語りかけることに素直に笑って涙し心を震わす。
彼は兄ちゃんと私と三人で暮らしてるとき、精神的に揺れる私を心配しては助けてくれた。
そうして周りに家族がいない私を安心させるようにこう言った。
「俺たちは家族。うん、もう家族だね」って。その言葉は本物だった。
そしてふたりはことあるごとに言ってくれる「私はここにいるよ」って。
そういう人に囲まれているから、私は馬鹿でも人をあんまり疑わないですむ。
なにかあったとき、人を恨まずにすむ。
ロハスとは、自然と生きるとはそういうことを言うんじゃないかと思う。
命が生きていると知る事だと思う。それは全部につながっている気がする。
あのおばちゃんに連れて行かれた木の実がせめて美しいリースになりますように
わたしの家は渋谷から急行電車で30分くらいのところ、
むかしのある有名なドラマで舞台になったという、
いわゆる「セレブ」な人々が集う場所でもあったりします。
わたしん家はそこの駅から二分の有名マンション、ペット可で住所もみんな一桁よ~というと大体の人は「ええっ!すごい高いでしょう?15万?20万?」と聞きます。
実は実は大家さんのご好意でとってもとってもとーっても安いので本当のことは言えません(笑)
そういう場所ですからお隣のマンションとか見てもふつーにジャガーとかすごいお車とか止まってたりなんかして、ついでに言うと近所のスーパーは成城石井と紀伊国屋しかないので極高。(おかげでわたしは遠い道のりを買い物に行く)
駅周りはデパートでフツーにおばあちゃんがスターバックスでコーヒー飲んでるし(^。^;)そんなところです。
考えれば考えるほどなんでわたしがいるのか分からない場所だったりして(^^;)
そんなセレブな街の道端ではこんな事が起きるのです。
うちの家から一分のところ、窓から見えるところに、いわゆる「マクロビオティック」の高級レストランがあります。
そりゃあ素敵な店構えで(フランスの田舎風建物)看板をみると有機農法や無農薬のお野菜のみを使った素朴な料理が高価な値段で並んでます。
そこから3人のマダム(あえておばちゃんと言わず、マダムと言おう)が出て参りました。
お二人はこの街特有のブランド系の素敵なお洋服に身を包み、きらきらのアクセサリー。
もう一方は明らかにナチュラルスタイル、そうよくシュタイナー学校とかヒッピー系のお金持ち自由人とか良く着てるアジアン系の手織りホームスパンなお洋服に身を包んでおります。
そのマダムが言いました。
「おいしかったわね。やっぱりマクロビよね」
(お連れのマダムうなずく。)
「あたくし、出来るだけ自然の物を頂いて、エコロジーに気を配ってるの」
「○さん、ロハスでいらっしゃるから」
「そうね、わたしはこのスタイルもう昔からだけど、やっぱりどんなにお金があっても自然とともに共存していかないとね」
(マダム達うなずく)
「ねえ、ここの近くにリースの材料になる実のなる木がありますのよ。
ちょっと寄ってもいいかしら」
「○さん、リースとか染色とか手作りもなさるのよね」
「ええ、自然からめぐみを頂いて楽しんでるのよ」
マダム達、そこから20メートルほど先の木の下で止まる。
「ほら、これがその木。ちょうど今、実がなるのよ」
「まあーさすが詳しいわ~」
「リース用に少し頂いていこうかしら」
おりしも午前中までの雨で道にはたくさんの実が落ちている。
ああ、拾って帰るんだと私はほほえましく見ていた。
ところがおばちゃんは(あえてここからはマダムとは呼ぶまい)想像つかない行動にでた。
なんと手に持った傘をがしっ!と木の枝にひっかけてぶら下がり木を揺らしたのだ!
木の実は落ちる、まだ落ちる時期じゃないものまで。
ちいさな木の枝は揺らされて折れて落ちた。
そしておばちゃんは当たり前みたいに落ちた中からきれいなものだけを拾った。
他の木の実を踏んづけながら。
そして笑顔で言った。
「やっぱり自然とともに生きる姿勢は大事よね。
人間それを忘れちゃいけないわ。」
わたしはその暴挙に呆然としながら思った。
自然と共に生きる事を考える前に、その木が生きてる事を思い出せ!
思わず、その「おばちゃん」の後ろで声が出てしまった。
「可哀想に。これから種になったのに」
3人は振り向いた。お連れの二人は少し困った顔をした。
自称ロハスおばちゃんはわたしの横をさっさと通り過ぎながら連れの二人に言った。
「わたしはね、残った木の実はそのまま土に返して自然に返すようにしているの」
木の実は痛々しい姿でコンクリートの道路に散らばっていた。
きっとあの人たちはご近所のお金持ちさんだろう。
この辺は豪邸か高級マンションばっかりだ。
でもなぜかそういうところには自然食品や自然派の店がたくさんある。
そしてなぜかその「商品」は一様にどこも高い。
きっとそういうところに集っている人だ。
あの人たちはきっとこの木が雨に濡れている事も風に吹かれてることも
お日様に照らされていることも知らないに違いない。
知ってるのはリースに使う木の実だってことだ。
きっとリースに使うつるや枝も同じようにぶっちぎってくるんだろう。
自然食品の店で書いてある育った場所と人だけ見て素材を知った気持ちになり、
きっとそれが自然の中に生きてる姿なんてイメージしないのだ。
じゃなかったら、生きている木にあんな事出来ない。
ロハスは素敵だ。でもこんな勘違いはかなしい。
シュタイナー学校に関わってるときも同じような事があった。
幼稚園児のお母さんとお子さんが遊んでた。北海道の草原で。
花が咲いていた。お母さんはぶちぶちと花を摘んでは花輪を作った。
出来上がった花輪を「ほらきれいでしょう」と子供にかぶせた。
でも、その人は出来上がった花輪をきれいと言ったけど、そこに咲いている花をきれいとは言わなかった。
そうしてこういった。「こういうきれいなもの作るのがすきなの」
わたしは母がとても好きだった。優しい人だった。
花を摘むとき「簡単に取っては駄目。花も生きているんだよ。折られたら痛いのよ」と言った。
草花や木々でおもちゃを作ってくれるとき、何か話をしていた。
わたしの子供のところに来てください、とお願いをしているのだと聞いた。
花を生けるとき、母はその花弁の一片まで飾った。
枯れた葉を一つ一つ丁寧に取っていって、土に返し、水に浮かべたり、ちいさな器に入れたり、命が消え行くときを愛でた。
物を大切にし、毛糸は何度も編み返し、いろんな人の身体を温めた。
食べ物も生活も彼女のアイデアと工夫で彩られてた。
雨の日、母はわたし達に花模様のはぎれをわたし、切り抜かせた。
どうするの?と聞いたら、そとは雨で暗いから、これをカーテンにはって花畑を作りましょう!と笑った。
そして母は笑ってカーテンの上のほうに黄色い大きな太陽をはり付けた。
おかげで私はむやみに花や葉をちぎらない人にそだった。
貧乏でも工夫して生活を楽しむ事も手仕事が生活を明るくする事も教わった。
父は生活力がなく、とても困った人だったが心は純な人だった。
風景画を描くとき、はじめにキャンバスいっぱいの水色で染めた。
どうして?と聞くと「俺たちは空の中に生きてるから」と言った。
花の色の作り方を教えてというとそれは無理という。
なんで?と聞くと「絵の具は鉱物、石で出来てる。だから花の色はだせない」って言った。
蓮華畑を見て、わたしの肩を叩き「きれいだな。俺が死んだらこの花の下に埋めてくれ」と言った。
虹が出ると仕事そっちのけで車を走らせ、あの下をくぐるんだ!と追いかけた。
自分達も食べられないのに捨てられた犬も猫も動物も全部拾って面倒を見た。
「だってこいつらは自分で生きていけないだろ。だから人間がいるんじゃないか」って父は言った。
駄菓子屋さんをして、乞食と変わんないようなその日暮らしの苦しい生活のとき、
「俺は幸せだ。なんてったって夢を売っている」と言った。
おかげで私は貧乏も平気、お金よりも自分の大切な事を一番に出来る人になった。
私の兄弟は猫が捨ててあるとかばんの中身を捨てて体操服に猫を包んで入れて家に帰ってきた。
家族はだれも怒らなかった。だまって笑ってみんなで猫をあたためた。
生活に困った人がいると何キロも歩いて学校に通い、電車賃を浮かせてパンを買い届けた。
上のお兄ちゃんは大人になってからどんなに理不尽に人にいじわるされても、決して笑顔を忘れない人だ。動物や見えない世界の人にもとことん優しい。
今も「どんな悲しいことにも辛い事にも感謝があるんだよ。それを探しなさい。感謝を忘れちゃいけないよ。」と笑顔でいう。
下のお兄ちゃんはぶっきらぼうだけど、心のなかは柔らかくてあったかい。
「人にはそれぞれ神様がいるんだ。その神さまはね、本当は一つなんだよ。だから神さまは誰かが心から誰かを思ったり、何かをしようとするときに相手のことも助けてくれる。だから自分を信じて、ただ相手のことだけを思ってご覧。そうしたら見えてくる。なにも心配しなくていい。いつかとけてくるよ」って真っ直ぐの眼をして言う。
動物達はそんな兄ちゃんの事を仲間のように慕って寄り添ってくる。
うちのぴーちゃんは誘拐や人の死を体験して不治の病になった。
歩くな、走らせるなと医者は言った。
けれど兄ちゃんは「ふうん。そんなの俺が元にもどす」と言って毎日毎日ぴーちゃんを抱いて、なでて、話しかけ、一緒に散歩をし、風になって走った。
ぴーちゃんは知らない間に元気になって、毛も生え変わりふさふさになり、何より顔が変わった。可愛くなって笑うようになった。
ぴーちゃんはお兄ちゃんが大好きで、いつもついて歩く。寄り添って眠っている。お兄ちゃんがいないとき、彼の服の上でまあるくなって眠る。
兄ちゃんは同じようにしてバイト先の犬も面倒見てる。
向こうの世界に一足早く帰ったソウルメイトは神さまの世界と深くつながる素晴らしいスピリチュアリストだった。
この世の真理を分かりやすい言葉で教えてくれた。
彼は闇と光は裏表ではなく一つ。ここにあるものはすべて必要だからある、是も否もないのだと教えてくれた。
今も時折現れては話をしてくれたりする。だから向こうの世界があって、また私たちは時をつむぐ事を知っている。
親友達はとことんきれいで優しい。たとえ人に騙されても「騙された」なんて思わない人たちだ。素直でただひたすらに信じる。
大親友の一人、まりちゃんが長野の自然のなかで笑顔でいう。
「ご飯がおいしい、空気が美味しい、生きてる、あたし生きてる、すてきーって。
かみさま、てんしさま、ありがとうございます、って思うのよ」
彼女はわずかな収入のなか、長野でロハスな生き方をしている。
命と人とのかかわりをとても大切にしながら。
もう一人の親友soraくんは自然と共にゆったり生きている。
たぶん今日も野菜を作って、空と雲を眺めて、長い時間をかけて自分の足で歩き散歩をしてるだろう。
人や文字が語りかけることに素直に笑って涙し心を震わす。
彼は兄ちゃんと私と三人で暮らしてるとき、精神的に揺れる私を心配しては助けてくれた。
そうして周りに家族がいない私を安心させるようにこう言った。
「俺たちは家族。うん、もう家族だね」って。その言葉は本物だった。
そしてふたりはことあるごとに言ってくれる「私はここにいるよ」って。
そういう人に囲まれているから、私は馬鹿でも人をあんまり疑わないですむ。
なにかあったとき、人を恨まずにすむ。
ロハスとは、自然と生きるとはそういうことを言うんじゃないかと思う。
命が生きていると知る事だと思う。それは全部につながっている気がする。
あのおばちゃんに連れて行かれた木の実がせめて美しいリースになりますように