KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

いちめんのなのはな

2013-02-17 | KOFUKU日記
 


【指宿方面から菜の花畑の向こうの開聞岳を望む】


風 景
山村暮鳥

 
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 かすかなるむぎぶえ
 
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 ひばりのおしゃべり
 いちめんのなのはな
 
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 やめるはひるのつき
 いちめんのなのはな





父の話によれば
「昔は知覧の町の麓から開聞岳の麓まで、ずーっとの菜の花畑じゃった」
そうな。

12月の半ばになると、鹿児島の南の方は菜の花が満開になる。
それから順に開花は北にのぼってゆく。
指宿の沿道や、観光名所のあたりは2月の半ばには見頃が終わってしまうけれど、
それから3月くらいまでは、あちこちの畑で満開の菜の花を見ることができる。

一反とか二反とかって量ではなくて、本当に一面の菜の花になる。
見渡す限りの菜の花。黄色い絨毯が続くのだ。
鹿児島の陽の光は本当に金色に降り注ぐ。
すべてを金色に染める。
陽の光降り注ぐ菜の花畑では目が開けられないほど眩しい。

いちめんの
いちめんのなのはな

それでも父はみんなお茶になってしまって、
このあたりの菜の花畑はだいぶ減ってしまったと言う。
できることなら、延々と続く菜の花畑をこの目で見たかった~。


ココに戻ってきて一年半。私は未だ家の中に潜んでいる。
どうにもこうにも、動き出すことができない。
なので、仕方ない、待つしかないか、という気持ちに
やっとなってきた今日この頃(笑)
でも、あまり動かなさすぎて、ヤバい( ̄▽ ̄;)

というわけで(どういうわけだ?笑)
たまにチワワンずと一緒に父の車の乗せてもらって買い物や南の方に下る。
車に揺られて風景を眺めることは、私にとって特別だ。
ココの風景は私の全ての根っこの部分に大きく作用する。


今や恰幅のいい立派な中年女子になったわけだが(笑)
私は生まれたとき超未熟児で息のない状態で生まれ、
息を吹き返した瞬間に今夜持つかどうか…と言われ、
なんとか生き延びたものの20歳まで生きられないかもと言われていた。

なんせ、胎盤と合わせても1600gしかなかったので、
あんまりちっさすぎて、おくるみの代わりに薄い座布団で包まれていたし、
退院の日にかぶせてもらった帽子は抱き人形にもかぶらないほど小さかった。
今も頭は小学生の甥っ子の手のひらに収まる(笑)
小学校5年生までは、5歳の頃に作ったドレスを着ることができたし、
3000人も生徒がいる日本一大きな小学校で一番小さかった。
入学時はランドセルが背負えず、2年生になるまで母が持ってくれて一緒に登校した。

3歳くらいから大人とかわらない本を読んで育ったせいか、
知能指数だけは当時なぜか飛び抜けていたようで、
実験みたいな知能テストばっかりやらされたり、
ちょっと不思議な子供時代を過ごした。
ほかの子どもと全く会話噛み合わず( ̄▽ ̄;)大人とも合わず( ̄▽ ̄;)
テストだけはオール満点で一匹狼のへんちくりんな子供だった。
でも3年生の時、交通事故に遭ってしまい、一年入院したら、
すっかり何もできないただの変わりものになった(笑)

そんな私が入院するまで、私はとにかく夜に眠れない子だった。
今もあまり眠らないで済むけれども、当時は寝たくなかった。
なぜかはワカラナイが、強いて言うならば、
目をつぶって次に開けたらこの世が無くなるような気がして…だろうか。

一歳半くらい、歩けるようになると、私が何をしたかというと、
夜、先に寝てしまう大人たちを見て、生きてるか確かめることだった。
布団から抜け出して、親のところに行って、口に手を当てて息をしているか確かめる。
眠りがものすごく浅かったんだけど、それはもう結構長いあいだ続いた。

そんな私を心配したか、父と母は私を毎晩車に乗せてドライブに出た。
まず本屋に行って本を買ってもらい、その次にその近くの水族館に行き、
その前に広がる芝生の上で夜食を食べて、遊ぶ。
それから、港に船を見に行って、時には父が近くの一杯飲み屋に入り、
外国船の外人船乗りさんたちの膝の上で過ごした。
下戸の父はサイダーを飲み、私はチーズを食べるのが決まりだった。

それでも眠れないと、父は海岸線を南に向かって走る。
下手すると2時、3時まで眠らないこともあるので、
途中パトロールの警官に職務質問されたことも数え切れないくらいある( ̄▽ ̄;)
そのうち、父はスポーツカータイプの車をワゴンに買い換えて
フランスベッドのベッドマットと布団を積んで走ってくれるようになった。
余計に止められて職質の回数が増えたのは言うまでもない(;・∀・)

体が弱かったので、雨に濡れると熱が出て(今もだが)
咳をすると止まらなくなり、血を吐くこともあった。
そんなこんなであんまり学校にも行ってない(行けてない)
いつも3ヶ月くらいは休んでたので、進級で必ず問題になった(^_^;)
そんなだったので、平日の昼間も、仕事で九州中を車で走る
父の仕事について歩き(自営で母はいつも連れ歩かれていた)
夜だけでなく、昼間も車に乗って過ごすことが多かった。
朝日の昇る中をおにぎりを食べながら車で走ったり、
雨が上がったあとの大きな虹をくぐろう!と追いかけたり楽しかった。

我が家では100キロなんて走ったうちに入らない(笑)
そんなだから、何時間車に乗っていても平気だし、
家族の運転する車が一番安心する空間だったりする。
中で本を読もうが、縫い物しようが、具合が悪くなることはない。

そんな生い立ちだからだろうか、車の方が自分に近寄ってきて、
なぜか車で延々と走って歩く生活を続けている。
東京からも荷物を積んでトラックで帰ってきた。
11年前になくなったソウルメイトとは日本住を車で回ってチャリティ公演をしてたし
2年前になくなった相方さんとは、ジープで毎週何百キロも走って遠出をした。
休みの日々、公演準備の日々、車に乗らない日はなかったかも。
闘病中ですら、一時退院の度に、彼は車で小さな旅に出た。
今も月に1度くらいだけど、父にくっついては100キロは軽く車に乗っている。

その走る車窓から覗く風景は私にとってものすごく特別だ。
夜の月に輝く海も、昼の光に眩しい花畑も車の窓から見てきた。
そしてそこに、いわゆる〈忘れえぬ風景〉と言うのがある。


4つくらいの時だった。春の日のこと。
父の車は知覧の方から川辺峠を鹿児島の街に向かって下っていた。

左手が山を削った壁、右手には道路の向こう、
崖になっている向こう側に延々と山や畑が広がり、
その向こうは青い海で、その先に桜島が見えている。

道路に沿って生えている大きな木たちが、いきなりひらけて風景が目に飛び込んできた。
延々と続く畑と田んぼがどこまでも広がっている。
植えられたばかりの苗の緑。れんげ草の濃いピンク。菜の花畑のお日様の色。
それがまるで金色の光の中にパッチワークをしたみたいに広がっているのだ。
ああ、なんて綺麗なんだろう、そう思ったとき、声が聞こえた。
自分の声だった。

「そうだ、これを見たくてここに来たんだった」

その時、私は瞬間的に、はっきりとそう思ったのだ。
あまりにもはっきり、そう思ったので、今でもくっきりと覚えている。

そして、次の瞬間に
「やっぱりここにしてよかった、ここに生まれてよかった」と思ったのだ。


こう言った瞬間はこれが一度ではなく、数回あって、その度に同じことを思った。
そして、その風景と気持ちを昨日のことのようにはっきりと覚えている。
多分…多分だが、私はここに来る前にそれを見てきたことは間違いないと思う。

自分の人生は、予定や予測と違いすぎて戸惑うが
いつも思うことは、居るべき場所に居るなと感じること。


ココに帰る流れになることも、実は不思議だったりしたんだけど、
思えば、全然不思議じゃない。

だって、私はこの風景を見るために生まれてきたんだもんねぇ。
多分、それは間違いない。
だとしたら、いま、ここにいるのこそが必然なんだろう。

なのはなを見るたびにそうしみじみと、
しみじみとおもうのだ。