《まろたんのりりしい横顔》
今日もちびさんたちはお元気でした。
私はちびさんたちのフォルムが大好きです。
特に横顔、すきですね~。
ムーミンに出てくる「めそめそ」ちゃん、知ってますか?
《めそめそちゃん》
横顔と言えば、私はめそめそちゃんです(笑)
可愛いです。
我が家のちびさんたちのめそめそフォルムもなかなかですよ。
さて、深夜です。
外はすごい風が吹いています。
今日は、親しいけれど、お忙しくてなかなか連絡を取れない方から
安否確認のメールをもらいました(^_^;)
何だか不思議なことが起きたからだそうで不安になったそうで
言われた方もびっくりしましたが、とてもうれしかったです(^^)
普段会わずとも、そうして日々の中で思い出してくれ、
安否を気遣ってくださる方がいるのは心から嬉しいものです。
優しいあの方に心から感謝デス♪ありがとうございました。
私は人と会うととても元気なんです。
本当は落ち込んでても落ち込むことができません。
だから、中には私がなにも悲しくないのだと思う人もいるでしょう。
悩みがないんだと思う人もいるでしょう。
でも、私は今はだれにも会えないくらい、外の世界の中に生きられてません。
ほんと、人間は不思議。
唯一、私の人生の中で本当に人前でダメだったのは、
10年前に突然死でパートナーを亡くした時と
一年前に相方さんを天国にお見送りした時だけです。
長女だからか、普通よりはちょいと苦労した人生だったせいかわかりませんが
先に落ち込む人が居るとさらに落ち込めません。
自分より人を慰める方が、落ち込むよりも
しっかり立っているのが、一番大事になります。
それでも、最初のパートナーを失ったときは
お母さんや周りがぼろぼろで私一人で動かなきゃいけなくて、
泣いている暇はなかったのです。
それに泣いている人を前に泣けなかった。
でも一年前の相方さんの時は泣いたなぁ。
ほんとボロボロに泣けて泣けて。
一生分くらい泣いたかもなぁ。
多分、ご家族が私が思うよりも泣いてなかったし、
葬儀なんかもすべてご家族がやってくれたからだと思う。
だから、自分が泣いてる余裕があったのだな。
泣けない性格の私にとっては本当に在り難いことでした。
10年前に亡くしたパートナーさんのお母さんは
長く一緒に暮らしたこともあるけど、大切な人で、
私は今でも自分のお母さんの一人だと思っています。
お母さんも今も変わらずに私をとてもかわいがってくれます。
だから隠し事も何もしないし、励ましあえる仲です。
亡くなった相方さんのことも最初からすべて伝えていて、
お母さんも二人の幸せを応援してくれて一緒に遊ぶ仲でした。
そりゃあ、一緒に居れば喧嘩もするし、いろいろあったのだけれど、
私が脇目も振らずにパートナーさんと必死に走ってた姿を、
新たにご縁をつないだ相方さんとの人生を
駆け引きなく、必死で走っていたことを、
誰よりも一番認めてくれていたのはお母さんでした。
そんなお母さんは相方さんの時もすぐに駆け付けてくれました。
そしてボロボロの私を見て
「うちの子が逝った時より全然悲しそうだった」
と皆に言ってたそうです(^_^;)
いやいや、お母さん、あの時はあなたがものすごく泣いてたからさ、
そんで私は全く泣けなかったんだよ。悲しみは変わりません。
私にはやることもあったし、本当に泣く暇がなかったのよ。
あなたは何もできなかったし、泣いてたら何もすすめられなかったし。
なんてね、この思い、いつか伝わるだろうか。
いや、きっともう心のどこかで知ってくれているね。
私は以前のパートナーさんにしても、最愛の相方さんにしても
一切妥協しないで走ってきたことを本当に善かったと思っているんです。
どこかで相手に対して手を抜いていたら後悔したけど
つたなくても、足りなくても、必死にやったなぁって思える。
それだけは相手に対しても善かったなぁって思っています。
たとえ、わたしの真実を知らない沢山の人が、
その人に見えない私の真実をどれだけ疑っていたとしても、
私の精一杯に嘘がないことを以前のパートナーのお母さんや
親友や友たちはよく解ってくれています。
そういう人が一人いてくれるだけで、
私は人生を安心して振り返ることができるのです。
そして、そうやって信じてくれる人が居るのは
自分が嘘をつかず、わき目も振らず一生懸命やってきて
その真実を生き様からちゃんと理解してくれているからでしょう。
人は見えないものは信じにくいものですが
そういう事実は見えない部分にも真実性を与えてくれます。
そういうことが大事だということは
今、ここにその信頼がない関係にしても
努力をしていくことで培っていけると信じられます。
だから、どんなに苦労しても、辛かったとしても、
一つの事をやりぬくってことは大切。
精一杯生きるってことは大事だと思う。
自分自身を、そして相手を一筋の疑いもなく
信じて生きるためにもとても大切だと思います。
私はいま、病気で、健康でもなく、お金もなく、
独りになってしまって未来は見えないし、不安で、
ひきこもりで誰に会う気持ちも全然芽生え来ないけど
それでも、できる限りの力でいいから
必死に生きるってことは大事だとなによりも思っています。
私自身、いつも100パーセントで頑張ろうとやってきたせいか、
(という、自覚は全然なかったけど、あたりまえでした)
周りも自分をしっかり持って、がんばって生きている人がたくさんいて、
ある時まで、あんまりいい加減な人というのを知りませんでした。
必死にならなければ生き残れない芸能界にいたせいもあるのかな。
10年前、以前のパートナーさんが天国に旅立って、
初めて芸能界以外の人の世界に行ったら、
いろんな基準がユルユルでびっくりしたことを覚えています。
業界に居たら自分自身が売り物だから、
自分が何かを身に着けないと生きていけませんが
世の中は自分が一生懸命やるというのではなくて
人や与えられるものに頼り切る人がすごく多いのにこれまたびっくり。
そして人は不完全だからか、できないこともある
できなくても仕方ないのが基準である事にも驚き。
うちらはできても出来なくてもまずやってみて
自分で出来る道を探さないとどうにもならなかったから
そういう感覚が驚きでありました。
ただ業界以外の世界の方とも沢山のつながりができて解ったことは
どんな世界でも「精一杯生きている人」は「自分をもっている」ってこと。
だから生き方が全然ブレない。それは変わらないって事でした。
でも、一般、というと、語弊があるかもしれないけれど、
普通と呼ばれる世界?ではそういう人とそうじゃない人の
ギャップっていうものがものすごく激しいと今も感じます。
「なんでそんなに必死にがんばれるんですか?」
と聞かれたことがあります。
必死にがんばらないなんて事がなかったので答えに困りました。
片や努力があたりまえ、片や楽をするのがあたりまえの現実。
このところ、身近でそういうギャップを感じていて
いま、ちょっと、それにへこたれています。
多分、ご本人もそういった部分に何かしらの違和感はあるのだろうけど
多分ですが、どうしたらいいのか全く分からないのかもしれない。
でも、私も何をどう手助けしたら、そこが突破できるものか難しく…(-_-;)
いろいろ立ち向かってみるものの、ガッカリ感に乗っ取られ
バッサリと一刀両断に蹴散らされてしまうのです。
それで今はそこにかかわることがかなりしんどくて、
本宅の街中のアパートに引きこもり逃走中なのでした(^_^;)
あ、仲が悪いとか、その人が嫌だとかじゃなくて
いろいろと自分が今はとろいので疲れちゃうから
敢えて手助けをしない手助けなんですけどね。
こんな身ですから、色々なことがトラウマになりやすくて。
ほんとにダメですなぁ。
もちろん、相手も頑張っているんです。
でも、なかなか本気が出せないのでしょうね。
お医者さんにそういうことを相談してみたら、
一人は「アスペルガーでしょう。今は多い」といい、
お一人は「否定型うつ病」があるのではないかとおっしゃっていました。
否定型うつ病っていうのは新型の欝なんだそうですね。
私の正反対の欝なのだと教えられました。
若い人にとても多いそうです。
『お天気屋うつ病』とも言われ、どんより沈み込んだ状態が続くものの、
よいことや楽しい出来事があると、それまでの不調がウソのように、
たちまち元気になります。しかし、長続きはせず、
また憂うつな気分に戻っていく、これが大きな特徴だそうです。
さらには過食に走って体重が増えたり、
いくらでも眠れるなどの特徴もあります。
非定型うつ病になりやすい人は、
他人からよく見てもらいたいという意識が強く、
自分に対する評価が気になるタイプだとか。
みっともない姿をさらしたくない気持ちが強いため、
人前に立つとかえって緊張してしまうんだそうです。
楽しいことをしてもなぜすぐ憂鬱に戻るかというと
自分自身が本当に大切なものや楽しいことを
ちゃんと理解していないからなんだそうです。
つらいのが辛いから、簡単に楽しいことに惹かれて
それをやってないと居られずにいて、
でもそれもずっとは続けられず、
もっと楽しいことを求めてしまう。
出来ないと、ひたすら食べたり、眠ったり。
現実から逃避していくんだそうです。
確かに、見ているとそんな感じなんですよね。
鬱の人は不安があるとどんどん眠れなくなりますが
悩んでる様でも寝ちゃうんですよね(^_^;)
しかも、泣くくらい真剣に話してても横目でテレビ見てたりするし。
食欲もなくならない。
だから余計に真剣にかかわっているまわりの人との
ギャップが出来てきちゃうんでしょうね。
私も人の事なんて言えないし、偉くもない自分ですが、
そういうの見てるとかわいそうになってきちゃったりするんですよ。
だって、相手も気持ちがないわけじゃないんですもん。
辛いと思うんですよ、出来ないって言うのも。
でも、その場その場を取り繕うことだとか
辛くても頑張るって自分の心にすぐ負けちゃうんですよね。
若い方、多いんじゃないかな~。
怒られたくない、変な風に思われたくない症候群みたいなね。
まずそこを考えちゃうから、大事なことを見落とすんでしょうね。
ちなみに私のような定型型はがんばるは禁物ですが
否定型うつは普通の欝と違って頑張った方がいいんだそうです。
なにかと叱咤激励が必要なんだそうですよ。
だって頑張る力さえ手に入れたらすぐなおるんだそうです。
多分、がんばる力ってのは
本当の「自分」を知ることです。
そこから目をそらさないことだと思います。
一以貫之
「一(いつ)以てこれを貫く」
と訓むこの言葉は、論語の里仁篇にあるそうです。
解釈は様々あるのだそうですが、簡単には
「一つのことを貫いてやり遂げる(やり続ける)。
立派な人間の道は真心のみである」
という意味だそうです。
小説家の浅田次郎さんは自分の母校に通う若い人に
この言葉を贈ったそうです。浅田さん曰く、
「一つのことをやり遂げるということは、とても大切なこと。
若いうちは、あれをやりたい、これをやりたい……と思っている。
それはいい。
ただ、結果的に人生で成功を収めるのは、一つのことをやり遂げた人。
これを早く見つけて、脇目も振らずに頑張る。これが人生のコツ」
だ、そうですよ。
浅田次郎さんはものすごく遅咲きの小説家さんですが
自分を信じて、わき目も振らずに書いてこられたので
生きてきたすべてが小説の為に生かされている方です。
彼の小説を読めば、それはもう一目瞭然です。
ただ生きているだけの人には、それはできないと思いますね。
だからやっぱり、必死に生きるってことは大事なんだなって思います。
どんな状態でも、自分をはっきりと以て必死に生きるってことが大事。
脇目を振らずに決めたことをやりぬく力が必要だなって思う。
そして、それは大きいことでなくていいと思うんです。
小さいことで言いから、きちんと向き合って乗り越える。
私自身、いろんなことがあったときも、常にそう思い、
そう生きていられるから、今も生きているんだと思います。
多分、そうじゃなかったら、生きていない気がしますから。
そのくらい、今日をしっかり生きることは大事なきがします。
しっかり生きる意識がないと、理解する力も生まれてこないんですよね。
それが生まれてこないうちは、言われていることしかわからないし、
ましてや、自分の知ってる範囲から抜け出すことなんてできないし。
想像力がないと、相手も思いやれないのですが、それもできないんです。
それができないっていう事は善悪とかも理解が薄いってことだし、
善し悪しもわからないんじゃないかと思うし、判断もできないでしょう。
周りの若い人見てても自分の判断力のなさは半端ないですもんね。
解らない上に、自分で決められないし。人の意見在りきですもんね。
結局、生き方のいい加減さは人生のすべてにつながってくるんだなって思います。
結局、今の人はいろんな意味で恵まれているんだなぁ、きっと。
それで麻痺しちゃってるし、知らないままに来てたりする。
もちろん、そこに悪気なんかないし。
そういう人がまた親になって、知らないものは教えられないから
それでまた連鎖しちゃったりもして。
そんな感じがしますね、世の中ね。難しいものですね。
でも、自分の力で考えること、がんばってほしいなぁと思います。
時間がかかってもあきらめずに歩んでほしいです。
究極、自分の事ですから。
簡単なことからでいいんですよね。
たとえば、冷蔵庫にいれるものと入れないものを
きちんと考えて入れる、とか、
捨てていいものといけないものを判断するとか、
そういうことがしっかり出来ていくことが
全部に繋がってくると思うんですよ。
そして、小さなことでもいいのです。
一つでいいから、やり遂げてほしい。
結果はどうであれ、これは精一杯やった、
ってひとつくらい思ってほしいなぁと心から思うのです。
だって、そう思えるって、すごい幸せだから。
その喜びを私は知ってる。
だから、大切な人たちにも幸せになってほしい。
昔、アメリカンの友人に教えてもらった大切な言葉があります。
Yesterday is history
Tomorrow is a mystery
Today is the golden age
between
昨日のことはもう済んでしまったこと
明日のことなんて分からない
今日とはその間に存在する輝かしい時間なのだ
今日を脇目も振らず精一杯生きろ、という意味ですね。
今日を生きる。
自分を生きる。
簡単で難しく、そして素敵なことだと思います。