臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(022:でたらめ・其のⅠ・まつたうとでたらめの差)

2011年12月23日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  まつたうとでたらめの差の思ふほど大ならざるを知るぞかなしき

 この人にしてこの悩み有り、という感じの作品である。 
 髭彦さんともあろう訳知りが、今更、こと改めてこんなことを仰ろうとは?などと格好付けてはみたものの、「まつたうとでたらめの差の思ふほど大ならざるを知る」ことは、私にとってもやはり大変哀しいことです。

 〔返〕  前原は真っ当なのかでたらめか「決定したら従う」と言う    鳥羽省三
      声上げぬ山の樹さえも想うだろう八つ場ダムなど必要ないと
 二首とも、八つ場ダム問題についての民主党内のごたごたについて詠んだものであるが、前原氏には、ここ一番、もう少し頑張ってもらいたいところである。
 ところで、「声上げぬ山の樹さえも」は、当代人気の小島なお氏の歌集『サリンジャーは死んでしまった』より、その結構や言葉をお借りして詠んだものである。
 以下、本日、私が草する、それぞれの作品に対する返歌の大半は、昨夜、眠れないままに読ませていただいた、小島なお氏の御著からお言葉をお借りしたものである。
 私ごとき老耄の魂魄をこんなにまで揺り動かして下さった小島なお氏には、この機会に、篤く篤く御礼申し上げます。
                [注] 声もたぬ樹ならばもっときみのこと想うだろうか葉を繁らせて(小島なお) 

(船坂圭之介)
○  肌冷ゆる身を弾ませつわれや在るでたらめの生間なく終らむ

 本作の作者・船坂圭之介さんは、総合誌にも作品が掲載される著名な歌人ではありますが、評者としては、この一首の語法については疑問を抱かざるを得ません。
 即ち、作者の意図としての本作の意は、「私は病身であり、この寒さの中で私の『肌』は冷えて行くに任せるしかないのであるが、それでも尚且つ、私は病『身を弾ませ』ながら、『でたらめ』に生きてきた私の一生も間も無く終末を告げることになろう、と、自分自身で達観しているのである」といったところでありましょうか?
 私の推測が見当違いなもので無いとすると、作者の船坂圭之介さんは、完了の助動詞「つ」を、二つの動作の並行を表す接続助詞「つつ」と混同なさってお使いになって居る、ということになりましょう。
 私のこうした指摘が本作の評言として適切なものであるかどうかは、作者の船坂圭之介さんに、そのご本心をお訊ねしてからでなければ判りませんが、一応は名の知れた歌人たちの中でも、助動詞「つ」と接続助詞「つつ」とを、混同なさっている方が多いので、この際、敢えて一言に及んだ次第である。
 〔返〕  重ね着をしても震える今朝の冷えサリンジャーはとっくに死んだ   鳥羽省三
                  [注] 春風のなかの鳩らか呟けりサリンジャーは死んでしまった(小島なお) 

(夏実麦太朗)
○  でたらめにつくる私の歌たちに総じて私のにおいあるらし

 そうです。
 その通りですよ。
 「でたらめにつくる私の歌たち」と仰るのは、夏実麦太朗さん一流の皮肉な表現と解釈させていただきますが、どのような機会に、どのようなお気持ちでお詠みになったとしても、夏実麦太朗さんの「歌たち」には、「総じて」夏実麦太朗さんの「におい」が「あるらし」いとのご指摘は、決して「でたらめ」で“的外れ”なご指摘ではありません。
 また、御作ばかりでは無く、他の方々の作品をお選びになる場合も、夏実麦太朗さんは、ご自身の「におい」に染まったような作品ばかりをお選びになって居るようである。
 〔返〕  ありふれた出会いであるが素晴らしい夏実麦太朗氏の御作を読む   鳥羽省三
                [注] ありふれた出会いはきっとすばらしい遺伝子学の教科書閉じる(小島なお)


(浅草大将)
○  雪やめば月こそはやも出でたらめ梅の花影窓に差しつつ

 お題「でたらめ」を、「(月が)出ているだろう」という意味で「出でたらめ」として、お使いになった作品ではあるが、係助詞の「こそ」に対応して、結びの助動詞「む」を終止形のままで使わないで、已然形の「め」となさるなど、推敲と工夫の跡が見られる作品である。
 〔返〕  雪と月 梅の花まで詠み込んででたらめ乍らもなかなかの出来   鳥羽省三
      雪と月どちらが先に消えるだろう梅の花も亦競いて散るか
                  [注] いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三月(小島なお)


(紫苑)
○  でたらめに置きしと思ふ色柄の相響きあふカンディンスキー

 カンディンスキーの図形や「色柄」は、一見した時、本作の作者の紫苑さんならずとも、誰しも、「でたらめに」置いたのではないか、と「思ふ」のであるが、それでも尚且つ、彼の作品の前に立つ鑑賞者は、その作品から、一定の調和を感じるばかりではなく、「相響きあふ」音楽さえ感じるのである。
 〔返〕  目や耳や爪の形のものも見ゆカンディンスキーの前衛絵画   鳥羽省三
                    [注] 目や耳や爪先からも咲いてはこぼれるばかり花の流動(小島なお) 

(西中眞二郎)
○  「でたらめ」はいかがわしいが「ランダム」と呼べばいささかもっともらしき

 私ならともかく、西中眞次郎さんさえも、未だに英語コンプレックスから解放されていないのてぜありましょうか?
 とは申せ、本作は「いささかもっともらしき」ことをお詠みになって居られるのである。
 〔返〕  神の為すランダムなのか我が庭にパンジーの花でたらめに咲く   鳥羽省三
                [注] 宇宙時間思えば一瞬にも満たずわたしの記憶にパンジーは咲く(小島なお) 

(こはぎ)
○  騙されたふりしてあげる でたらめな言い訳並べる君の唇

 「君」のその魅力的な「唇」から零れ落ちるものであるから、「でたらめな言い訳」を「並べ」立てているのだと感じて居ながらも、「騙されたふりしてあげる」という訳でありましょう。
 とは申せ、こうしたことが、本当に騙されていることなのである。
 〔返〕  いつの日か貴方の赤ちゃん生みたいの誕生祝にみんな集めて   鳥羽省三
                    [注] いつの日か建築物を造りたい春には人が集まるような(小島なお) 

(みずき)
○  でたらめな政治に壊れゆく街へ冬の木の実の熟しゆくなり

 被災地の「街」が「壊れ」たのは、決して「でたらめな政治」のせいではありませんよ。
 それも少しは関係するかも知れませんが、その大半は、自然災害と、それが想定されるのにも関わらず、そのまま放置していた、政権交代前の政治に在る、と言うべきでありましょう。
 と、そんなくだらないことを書いている間にも、我が家の前の石段沿いに植えられている「冬の木の実」、即ち“梅擬き”の実が、折からの風に吹かれてはらはらと散っているのである。

 〔返〕  梅擬き見上げてしばし筆を擱く我は嘘吐く梅擬きなど無い   鳥羽省三
 我が家の石段沿いに植えられた木は“梅擬き”ではなく“花水木”である。
 それと知っていて、「梅擬き見上げてしばし筆を擱く」などと詠んだのは、少しは呆けのせいもありましょうが、“花水木”よりは“梅擬き”の方が「冬の木の実」と呼ぶに相応しいと思ったからである。
 詰まるところ、私は返歌のみずきさんの御作についての鑑賞文の中で嘘を吐いたのである。
                   [注] 飛行船見上げてしばし立ち止まるわれら嘘つく春の小魚(小島なお) 

(アンタレス)
○  娘等二人昔語りしでたらめの童話ききおり今も忘れず

 アンタレスさんの御作は、相も変わらず推敲不足である。
 詠い出しの句は「こらふたり」と読むのでありましょうが、作品をそのまま解釈すると、「昔語り」をしていたのは「二人」の「娘」さんたちである、ということになる。
 この「二人」の「娘」さんたちは、ご自身で「昔語り」をしながら、その「昔語り」の内容である「でたらめの童話」を、ご自身で聴いていたのでありましょうか?
 だとしたら、アンタレスさんの「二人」の「娘」さんは、自作自演の「昔語り」を自分自身で聴いている、という離れ業をしていることになりましょう?
 仮に、それが出来たとしたら、アンタレスさんのご息女様に相応しく、真に器用で、真に頭脳明晰なご息女様である。
 〔返〕  娘ら二人昔語りに興じゐきでたらめな我が法螺話に笑ひ転げて   鳥羽省三
      正月を迎える準備はできている餅も搗いたし煤払いもした
                   [注] 太陽を迎える準備はできている菜の花畑に仁王立ちする(小島なお) 

(おちゃこ)
○  でたらめな唄ばかり歌ってた君の隣がただ嬉しくて

 「でたらめな唄ばかり歌ってた」のは、作中の「君」でありましょうか?
 それとも、“おちゃこ”さんご自身でありましょうか?
 〔返〕  我が唄うでたらめばかりの春歌さえ君との夜を彩る一部   鳥羽省三
                 [注] 救急車のサイレン遠ざかることもあたたかきこの春夜の一部(小島なお)


(ほたる)
○  でたらめに君を選んだわけじゃない僕らの出会いは必然なんだ

 「遊び慣れない男性なら、誰しもそう思う」ということである。
 〔返〕  スーパーの外で奥さんを待つ君よ彼女の秘密を君は知ってる?   鳥羽省三
                  [注] スーパーの外で主人を待つ犬よお前はなにを隠しているか(小島なお)


(伊倉ほたる)
○  でたらめな色を重ねる指先を誰かのために正しく使う

 「フーゾクにお勤めの御嬢さんが、ご出勤前のひと時、ネイルケァ専門のお店にお立ち寄りになられ、店員の差し出す姿見を前にして、悲愴なご決意をなさって居られるような内容」の作品である。
 だとすれば、貴女の「指先」ならぬ“爪先”が、「でたらめな色」を塗り「重ねる」ために存在するものであるとしても、その“爪先”ならぬ「指先」を「誰かのために正しく」使おうと、固くご決意なさったとしても、それは所詮無駄なご決意というものでありましょう。
 そもそも、「指先」を「正しく使う」とはどんな使い方を指して言うのですか?
 一体、どんな使い方をすれば、正しい使い方をしたことになるんですか?
 〔返〕  受験する我が子の肩を揉むときはこの指先を正しく使う   鳥羽省三
                 [注] 留学する友を乗せたる飛行機の加速するときわれは消えゆく(小島なお)


○  赤・緑・白いお髭のサンタさんやって来るのは“クリスマス・ウィヴ”   鳥羽省三

  即興昨、つまり、でたらめな作品である。
 “投げ売り”とでも言うべき価格で人手に渡してきた我が家には、どんなメタボなサンタさんでも潜り抜けられるような、赤くて大きくて立派な煉瓦造りの煙突がありました。
 数年前の年末に、長男夫婦が二人の孫娘を連れて遊びに来たので、私は、サンタクロースからのプレゼントだと言って、二人の孫娘の枕元にプレゼントの品を置いておきました。
 その翌朝、二人の孫娘は、その煙突に視線を向けて、「あの煙突からサンタさんが入って来たんだね。煙突が大きくて良かったね」と言い合って居りました。
 〔返〕  この爺が白いお髭のサンタさん箱橇に乗ってやって来たんだ   鳥羽省三


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