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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『東京島』 桐野夏生

2010-05-19 21:47:35 | 小説(国内女性作家)

清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。救出の見込みは依然なく、夫・隆も喪った。だが、たったひとりの女には違いない。求められ争われ、清子は女王の悦びに震える―。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世紀。
谷崎潤一郎賞受賞作。
出版社:新潮社(新潮文庫)



桐野夏生らしい作品である。

心理描写は相変わらず巧みだし、その執拗な描写にはねっとりとしたものさえ感じられる。
しかしそのねっとり感のため、読んでいる間は、ぐいぐいと引き寄せられるように読み進むことができる。
筋運びも予期せぬ事態が起きたりして、牽引力があり力強い。
これはもう一つの芸である。


舞台は無人島で、30人以上の漂流者の中で、女が1人しかいないといういびつな状況の描いた作品だ。
当然そこには男性側からの性欲が生まれるわけだが、その女性が中年女性で、生存する島民の中では年長の部類に入るというところが、いびつな状況をさらにいびつなものにしている。

そのような状況下で生まれる女の側、男の側の心理を緻密にあぶりだしていておもしろい。

女である清子の側には、男たちが自分を求めていることに対する陶酔があり、自分だけがうまく生き残ってやろうという身勝手な欲求があり、いい位置を確保するために男たちへ媚をふりまくなど、数多くの自己中心的な打算が透けて見える。

だが男の側も身勝手な点は一緒で、巧妙に責任を回避したり、人を見下してバカにしたり、つらい状況から目をそむけたくて発狂するなど、自分の心の安寧や、立ち位置を確保するのに躍起になっている。

そんな男女双方の思惑を丁寧に追っていて読み応えがある。


それらの心理に読み応えがあるのは、無人島という閉鎖された環境だからという点も大きいだろう。
閉鎖された環境だから、人間のエゴがむき出しになり、ぶつかり合う。
加えて文明がなくなったために、自分を規制するものもなくなり、エゴはさらに助長される。

それらの状況は『蝿の王』とかで描かれていることで、古典的と言えば古典的だ。
しかしその状況を、女性的な視点で迫っている点が新しい。


難があるとすれば、それらの閉鎖された人間たちの状況を、ありのままに提示していることだろうか。

確かにこれらの心理描写は読み応えはあるものの、僕には各人の心理を、ただ紙面に投げ出しているだけのようにしか思えなかった。
物語的にはきっちりオチがついている。
だが、抽象的な言い方だが、各人の心理にきっちりした結末をつけているようには見えなかった。どうもまとまりに乏しい。

そのためいささか収まりが悪く、読後感がもやっとしている面もなくはない。
もちろんおもしろくはあるから全然いいのだけど、ちょっと惜しいかな、という気がする。


だが本作が桐野夏生らしさが出た力作であるということまではさすがに否定しない。
彼女の作品の中では個性的な仕事であり、個人の趣味はともかく、賞賛に値する作品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの桐野夏生作品感想
 『グロテスク』
 『残虐記』
 『リアルワールド』

『私の男』 桜庭一樹

2010-04-23 20:16:14 | 小説(国内女性作家)

落ちぶれた貴族のように、惨めでどこか優雅な男・淳悟は、腐野花の養父。孤児となった十歳の花を、若い淳悟が引き取り、親子となった。そして、物語は、アルバムを逆から捲るように、花の結婚から二人の過去へと遡る。内なる空虚を抱え、愛に飢えた親子が超えた禁忌を圧倒的な筆力で描く第138回直木賞受賞作。
出版社:文藝春秋(文春文庫)



えぐいな、というのが、この本を読んでいる間に感じたことだ。
そう感じたのは、主人公である腐野花と、その養父である淳悟の関係にあることは言うまでもない。


二人がどうやら近親相姦の関係にあることは、冒頭からほのめかされており、その二人の関係がどのようにして始まったかを、ときをさかのぼることによって、明かしていくというのが、本作のスタイルである。

物語の最初のうちは、二人の関係に対して、僕はどうこう思わなかった。
だが二人の関係が詳細に描かれていくにつれて、それを気持ち悪いと思っている自分がいた。

特に花が九歳から女子高生の間の二人の関係には、眉をひそめてしまう。
第三章のラストは、個人的にはいやだった。

そのシーンで花は、淳悟の指の付け根についた、乾いた体液の塩の結晶を指差し、これがわたし、と言い、愛しあっていたことを、忘れないで、とも言う。
多分これが一般的な男女を描いたものだったら、ああ、エロいなとでも思ったかもしれない。
だが二人が親子だという前提で読んでいることもあり、エロエロな僕でさえその場面に、生理的な拒否反応を覚えた。自分でも意外だったが、どうやら自分が思っている以上に、僕は倫理的な人間であるらしい。


そういうわけで、感性的には合わないのだけど、物語として見れば、本作が高いレベルにあることはまちがいない。
二人の過去を、ときをさかのぼりながら、描いているというスタイルもあり、プロットはミステリアスかつ、スリリングだ。そのため、快不快はともかく、非常に楽しく読み進むことができる。

2005年と2008年の二人は過去に対して、おびえていたが、その理由が何なのか。
いつ帰ってくるともしれない花の帰りを待つほどの、強い愛情を淳悟がもっているのはなぜなのか。
また大塩が明らかにした真実を、花もはじめから知っていたのに、なぜ淳悟をそこまで愛することができるのだろうか。
そして奪い合うように生きる二人の関係はどのようにして始まったのかなどなど、わからない部分が多くあり、それらに対して期待をもって読み進めることができる。この構成はさすがだ。


そしてその理由を、作者は決して語りすぎていない。
解説にもあった、淳悟の心理だけでなく、二人が互いに離れようと決意した理由なども語りすぎてない。
もちろんそれを説明できるだけの材料は大量にそろっているのだが、その判断をすべて読者の手に預けて、想像力にまかせている。このあたりは上手いよな、と感心してしまう。


しかしそこから読み取れる二人の関係は、いびつなものだよな、というのが正直なところだ。
娘を通して母性を求める淳悟も、育ててくれた家族と分かたれた花が、愛情を与えることに、そして自分という存在を求めてくれることに、心が満たされている姿も、読みながら、どうにもゆがんでいるな、と感じる。
それは共依存だが、決して好ましい形ではない。

だが困ったことに、二人の心はあまりに真摯で、あまりに強い愛情で結ばれているのだ。
親子だからゆがみは目立つけれど、これが恋人同士だったら、それはそれで非常に美しい関係だったのかもしれない。

そんな二人の強い感情には、嫌悪感を持ってしまうものの、心に響く面がないわけでもない。
生理的に嫌悪感を覚えるけれど、ここまで読み手の心をゆさぶる作品は少ないだろう。
僕はこの作品がきらいであり、同時に大好きでもある。
おぞましくもすばらしい作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの桜庭一樹作品感想
 『赤朽葉家の伝説』
 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
 『少女には向かない職業』

『パルタイ』 倉橋由美子

2010-03-10 20:59:38 | 小説(国内女性作家)

〈革命党〉に所属している〈あなた〉から入党をすすめられ、手続きのための〈経歴書〉を作成し、それが受理されると同時にパルタイから出るための手続きを、またはじめようと決心するまでの経過を、女子学生の目を通して描いた表題作。
ほかに『』『蛇』『密告』など。存在そのものに対する羞恥の感情を、明晰な文体で結晶させ、新しい文学的世界の出発を告げた記念すべき処女作品集。
出版社:新潮社(新潮文庫)



倉橋由美子は初めて読むのだけど、作風も豊かで、非常におもしろい世界観を持った人だな、という印象を受ける。
本作には五篇の作品が収められているけれど、それぞれが個性的な雰囲気を持っていて、興味深い。


たとえば表題作の『パルタイ』。
これはさながら心理小説の味わいさえあって、楽しく読むことができる。そこでつづられる主人公の、明晰で理知的な語りが心地よい。

ここで語られるのは主人公の「オント」に関する感覚だ。
「オント」とは、フランス語で恥・羞恥心を意味するものだ、と後で解説を読んで知った。
だが僕は、この語を、辞書で引いた結果、勝手にオントロジー(存在論)の略だと思い込んで読み進めてしまった。そのため作者の意図を誤解している面はあるような気がする。
だがそれを抜きにしても、非常に楽しく読むことができる作品だ。

これは誤読かもしれないけど、個人的に僕は『パルタイ』を、革命思想のように理では絡め取ることのできない、情念や衝動を理知的に捉えた作品だと受け取った。

「≪革命≫は必然的だからパルタイにはいるのではなく、わたしは≪革命≫を選びたいからはいるのだ」っていうセリフがあるけれど、そういった言葉を読むと、特にそう思う。
彼女が望むのは≪経歴書≫にあるような理路整然とした世界ではなく、内的情動を満たすための、何ものとも知られないエネルギーだと思うからだ。

だから彼女にとって、パルタイという存在には、決定的な違和感しか見いだせない。
『パルタイ』は理によって進む機関であり、革命という情熱を体現する機関ではないからだ。
その違和感が、「わたし」の中で、確かな存在となるまでの流れを明晰に描いている点に、僕は心を引かれる。


個人的にもっとも好きなのは、『貝の中』である。

やはり誤読かもしれないが、『貝の中』には、『パルタイ』に通じるものがあると感じた。
それは同じように、理では絡め取ることができない、人間の情動を描いている(という風に僕には感じられたのだけど)点にある。

ここで描かれているのは、「貝の中」と形容する、女性たちの集団生活だ。その様を、体臭すら感じられるほどねっとりと描いている。そのためいくらか重い。
そして、それらの重い描写を読んでいると、主人公は女性性がもつ、ある種のいやらしさ(同調しなければいけない雰囲気とでも言うべきか)を嫌悪しているのではないか、とさえ感じられる。

だがそんな女性性を嫌悪するということは、裏を返すと、その女性性をこそ、主人公は重視していると言えなくもない。
わかりやすく言うなら、主人公が大事にしているのは、理性ではなく、生理的な感覚にある、ということである。
それはもうどうしようもないくらいの誤読かもしれないけれど、そのため全体的に女性らしい作品という印象を受ける。

だから≪人民≫とか≪大衆≫といった、抽象的な理念を説く、革命党員の青年の考えに、主人公は共感をもてないのだろう。
実際、青年の抽象的な理念など、「あいしてる」という生理的で感情的な一語で崩壊するという、もろいものでしかないのだから。

そんな女性的な感覚から、当時の革命に対する雰囲気を捉えているように思える。
その点を興味深く読んだ。


ほかにもいい作品が多い。
カフカに通じる世界観と常識のずれが印象的で、奇妙な味わいのある『』。
カフカの『審判』を意識しているだろう点がおもしろく、蛇というメタファーがユニークな『蛇』。
背徳に惹かれている男の姿が印象的な『密告』。

それぞれに良さがあって、個性的な面も見られる。くせもあるが、なかなか悪くない短編集だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『源氏物語 巻八~巻十(竹河~夢浮橋)』 瀬戸内寂聴 訳

2010-02-03 20:26:27 | 小説(国内女性作家)

成長した薫の君は、宇治に隠棲した源氏の異母弟・八の宮の美しい姫宮二人を垣間見た。姉の大君に求愛するがどこまでも拒まれる一方で老女・弁の君から自らの出生の秘密を明かされる。匂宮と妹宮・中の君との愛の行方は…。
傑作「宇治十帖」の物語が華麗にその幕を開ける。
瀬戸内寂聴 訳
出版社:講談社(講談社文庫)



宇治十帖をけなす人もいる。そう瀬戸内寂聴は言っている。

確かに、宇治十帖は要るかと聞かれたら、要らないのは明白だ。
『源氏物語』というタイトルである以上、光源氏が死んだところで終わるのが、物語的には一番すっきりしているだろうし、宇治十帖の終わり方が、いかにも尻切れとんぼである点も、物語全体の印象を悪くしている。

だが、宇治十帖はおもしろいかと聞かれたら、困ったことにおもしろいのである。
親子四代の物語の締めとして見ると、否定的な印象しか湧いてこないが、宇治十帖を単品として見るなら、(問題点もあるけれど)好きな作品と言わざるをえない。


個人的に、特におもしろかったのは「総角」と「浮舟」の二帖だ。

「総角」で描かれているのは、八の宮の長女、大君と薫の恋である。
この二人が、すばらしいくらいに、イライラさせられるのだ。

この帖で、大君は薫の求婚を徹底的に拒むことになる。
大君がそんな行動に出たのは、父親である八の宮の、軽はずみに結婚するな、という言葉が呪縛のように働いていることが大きい。そのほかにも彼女なりのプライド、引け目、捨てられるのではないかという不安があることも大きいだろう。
そのため、自分は独身を通そうと、大君は頑なに決めている。

正直、彼女の論理を読んでいると、この人は男性不信なんじゃないか、と見えなくもない。
しかし徹底的に突っぱねながらも、彼女は薫を憎からず思ってもいるのだ。

一方の薫は、自分が不義の結果生まれた子という負い目もあってか、世の男のような強引な方法で、女を落とそうとはしない。あくまで相手の気持ちがなびくのを気長に待とうとする。
それは女とは強引に関係を結ぶ、という、当時の常識からすれば異質であろう。
「世間の常識とは異なった並外れた愚か者」と自嘲気味に言うだけのことはあるというものだ(もっとも「総角」以降は負い目よりも欲望を優先するようになるけれど)。

そんな薫の姿は、誠実と言えば、響きはいい。
だが、どっちかと言うと、優柔不断でうじうじとしているだけでもある。

そんな融通の利かない女と、優柔不断な男の恋が、読んでいてやきもきとさせられる。
なぜおまえらはくっつかないんだ、と読んでいて何度思ったことか。
しかしそれゆえに、物語的には楽しめるつくりになっているのだ。


一方の「浮舟」は、薫の愛人であった浮舟が、匂宮に犯されて関係を持つという話である。
この帖のいいところは、薫の愛人でありながら、浮舟がどんどん匂宮に惹かれていっている点だろう。

マジメな薫は、結構細かいところにも目が届いて、気配りもできるし、わりに面倒見もいい方だと思う。
少なくとも浮舟にとって、薫といれば、生活は安定するし、将来も安心して暮らすことはできる。彼女は薫に捨てられるわけにはいかない。
にもかかわらず、浮舟自身は、どんどん匂宮に惹かれていく。そこがおもしろい。

確かに匂宮は女の扱いは上手いし、薫とちがって情熱的に愛を訴えるなど、口説くのも上手い。
女のためなら、遠い道のりをやってくるような行動力はあるし、読む分には性的にも魅力なのだろう(この帖が、『源氏物語』の中で、一番エロティックと思う)。
中の君の妹ということを考えても、浮舟がねちっこい薫より、匂宮に惚れるのは納得できるというものだ。

しかしそれがゆえに、浮舟は悩まざるをえない。
薫には匂宮との関係を隠し続けなくてはいけないけれど、匂宮を好きという気持ちは否定できない。その匂宮が姉の夫とあっては、悩みもひとしおだ。
彼女が精神的に追い詰められていく様は、物語的には非常におもしろい。何ともメロドラマティックである。


このほかにもいろいろ楽しめるポイントはあるが、以上の二つが、宇治十帖のおもしろさを凝縮していると思う。
欠点もあるし、ラストも気に入らないが、個人的に宇治十帖は好きである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの『源氏物語』の感想
 『源氏物語 巻一~巻五(桐壺~藤裏葉)』
 『源氏物語 巻六・巻七(若菜上~紅梅)』



●追記(あるいはキャラクター論)

宇治十帖のメインキャラクターは基本的にろくでもないやつばかりだ、と僕個人は思う。


たとえば、主人公の薫。
彼は確かに誠実で、細かい気配りができる人なのかもしれない。
だが大君が死んでから、彼の行動はちょっとおかしくなっているとしか思えないのだ。

基本的に彼の行動の基準は、好きだった大君の代わりを求めるということにあるのだろう。
その結果、人妻である中の君を口説いたりもする。その行動を見ていると、何をやっているんだよ、なんて思ってしまう。
浮舟を手に入れたのも、結局は大君の代わりでしかないのだろう。
誰かの代わりに、ちがう女を求めようとする。そんな薫の行動は、どこが誠実? と思ってしまう。

また薫が浮舟を最初に手に入れる場面も、個人的には気に入らなかった。
大君や中の君を口説いているとき、薫は彼女らを抱くチャンスもあった。だが結局抱かず、積極的な行動を差し控える場面は多かったと思う。
しかし浮舟を抱くとき、薫は何のためらいもなく、行動に移している。

この理由は、多分、大君と中の君が八の宮の正妻の子であり、浮舟が妾腹という点が大きいと思う。
薫は身分が低い人には、尊大な態度を取る。
実際、薫は浮舟に関して、愛人として囲うという以上の考えを起こしていない。
彼の誠実は、その程度でしかないのだろう。

そのほかにも陰湿で、煮え切らないなど、欠点ばかりがやたら目に付く(あまり人のことは言えんが)。
前半はいい奴っぽく見えただけに、後半の彼にはがっかりである。


匂宮も結構ダメダメだと思うのだ。

匂宮は確かに情熱的で、女の扱いも上手い。誰が読んでも、まぎれもないプレイボーイである。
それ自体は問題ではない。ただ、いただけないのは、親友である薫の愛人を自分で奪っておきながら、親友を裏切ってしまった、恥ずかしい、と臆面もなく考えていることだ。

言うにことかいて、何言ってんの?バカなの? とそれを読むと、思ってしまう。
匂宮は、浮舟が薫の愛人とわかっていて、行動したはずだ。
恥ずかしいと思うのなら、じゃあ、やんなよ、とどうしてもつっこみたくなる。

ほかにも匂宮に関しては、アホなの?と問いかけたくなる部分が多い。
基本的に考えなしで、節操もないという点がすべてなのだろう。
こんな奴が東宮候補って、このときの朝廷は大丈夫だったのか、と他人事ながら、少し不安になってしまう。


男ばかりけなしているが、女性である浮舟も、ダメな人と思うのだ。

個人的に強くそう思ったのは、小野にかくまわれているときの浮舟の行動にある。
そこでの彼女は命を助けてくれ、かくまってもくれている尼たちとは決して打ち解けようとせず、引きこもっている始末。そこに住んでいるときに言い寄ってきた中将に対する対応だって、それはどうよ、と思うようなまずい対応をとっている。

確かに浮舟には、同情すべき余地が大量にある。
うじうじしたくもなり、引きこもりたくなる気持ちもわかる。何も決定したくない気持ちだってわかる。
記憶喪失になるほどのショックを受けていることからして、ひょっとしたら、彼女はPTSD、というか適応障害を患ったのかもしれない、とちょっと思ったりする。
薫や匂宮のように安易に責めるのも酷だ。

でも、彼女の対応を見ていると、この人は、自分自身のことをかわいそうだと思い、かわいそうな自分に酔っているだけなんじゃないか、という風に読んでいる間、思ってしまった。
ちょっとでもそんなことを思ってしまったために、浮舟の印象は個人的には悪い。

『更級日記』の少女は夕顔と、この浮舟に憧れていた。
それは身分が近いゆえのシンパシーだろうが、僕には『更級日記』の少女のような気分にはなれなかった。

だがそんな彼女も、出家を決意するときだけは能動的に動いている。
その行動は、浮舟が普段うじうじしているだけに、光るものがある。
それが彼女にとっても、物語にとっても、唯一であり、大きな意味のある光明なのだろう。読後にちょっと、そう思った。

『源氏物語 巻六・巻七(若菜上~紅梅)』 瀬戸内寂聴 訳

2010-02-02 20:51:55 | 小説(国内女性作家)

四十の賀を盛大に祝った源氏に兄である朱雀院の愛娘・女三の宮が降嫁し、絢爛を誇った六条の院に思わぬ波乱が生じはじめる。愛情の揺らぎを感じた紫の上は苦悩の末に倒れ、柏木は垣間見た女三の宮に恋慕を募らせるがその密通は源氏の知るところとなり…。
瀬戸内寂聴 訳
出版社:講談社(講談社文庫)



「若菜」の帖を誉める人は多いらしい。
確かに「若菜」では女三の宮の降嫁、それに伴う紫の上の苦悩、柏木と女三の宮の密通、不義の子の妊娠とドラマチックな要素はたくさんある。

しかし何でだろう。僕はそこまで「若菜」を含む光源氏の後半生の物語を、前半生や宇治十帖ほど楽しむことができなかった。
これは趣味の問題なのだろうか。読んだときの環境がよくなかったのだろうか。


だがつまらないというわけでは決してないのだ。
何よりドラマチックな要素が多いので、それなりではあるけれどおもしろい、と思うし、登場人物の心理が重きに沈んでいくところもよい。

特に紫の上の苦悩の描写はすばらしい。
彼女はこれまで光源氏が浮気をするたびに嫉妬してきたが、女三の宮に関しては、相手が院の娘ということで嫉妬することもできず、悩むこととなる。
しかも残酷なことに、お嬢様ゆえに女三の宮は、そんな紫の上の心情を忖度して気を回したりすることがない。紫の上はそんな苦悩から逃れるため、出家を望むけれど、光源氏は決して許そうとしない。
そのため、彼女の苦悩はどんどんと増していく結果となってしまう。
この状況設定と人物の造形、配置は絶妙だろう。


個人的にはメインの話ではないけれど、「夕霧」がおもしろかった。

夕霧は、幼いときからはぐくんできた雲居の雁との恋を成就させて、ついに結婚に至った。
だが、芸術を理解せず、どんどん所帯じみてきている雲居の雁との長い結婚生活に、ちょっと倦んできている。
その結果、あんなにマジメだった夕霧は浮気に走ってしまう。

個人的には、浮気相手の母親から送られた手紙を、嫁である雲居の雁に奪われるシーンがおもしろかった。つうか笑ってしまった。
そこでの夕霧は自分の浮気を決して認めようとしない。あくまですっとぼけるが、それがいかにも白々しいし、言い訳がましい。
本当に男ってやつはダメだよな、とこういう場面を読むとつくづく思ってしまう。

この場面は、五島美術館にある、源氏物語絵巻の夕霧の絵でもある。
あの絵を最初に見たときは、男女の微笑ましい姿を描いたものなのかな、と勝手に思っていた。実はこんなにも情けないエピソードを描いたものとは思いもしなかった。
おかげで絵の見方が大きく変わる。そういう新しい発見ができた点も個人的には良かった。


中だるみしてるな、と思ったし、第一部や第三部と比較すると、いくらか落ちる、と個人的にはだが、思う。
だけど、良い面も多々見られ、それなりにおもしろく仕上がっていることは確かだ。佳品といったところである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの『源氏物語』の感想
 『源氏物語 巻一~巻五(桐壺~藤裏葉)』
 『源氏物語 巻八~巻十(竹河~夢浮橋)』

『源氏物語 巻一~巻五(桐壺~藤裏葉)』 瀬戸内寂聴 訳

2010-02-01 21:16:27 | 小説(国内女性作家)

誰もが憧れる源氏物語の世界を、気品あふれる現代語に訳した「瀬戸内源氏」。文学史に残る不朽の名訳で読む華麗なる王朝絵巻。巻一では、光源氏の誕生から、夕顔とのはかない逢瀬、若紫との出会いまでを収録。すべての恋する人に贈る最高のラブストーリー。
瀬戸内寂聴 訳
出版社:講談社(講談社文庫)



源氏物語が成立してから千年が経つわけだが、なぜ千年経っても、この作品が読み続けられているか、読んでみて納得することができる。
それは単純におもしろいからにほかならない。

物語の展開はドラマチックだし、登場人物の心理描写は精緻で、その苦しみや悩み、打算などが読み取れ、ときに共感を、ときに反発を呼び起こしてもくれる。
個人的には「帚木」~「夕顔」までの空蝉の心理描写には惹かれたし、「若紫」「葵」「須磨」「明石」「蓬生」あたりは物語としておもしろい。「末摘花」は末摘花のあまりの扱いのひどさに、ちょっと泣けてくる。

キャラクターの描き分けもできていて、どの登場人物も、好悪は別として、個性を感じさせる人たちばかり。
王朝物語ということもあり、当時の雰囲気がよく出ているし、さすがに格調も高い。


もちろん合わない部分もあることはある。
当時の、通い婚というか、夜這い婚というか、その風習が馴染めないし、半ば強姦で女と関係を結ぶという方法に違和感を覚える。
男に強姦された後の、女たちのショック状態の心理は、かなり生々しく感じられ(特に「葵」での若紫)、正直読んでいてつらい。

また物語の展開も、ここはよけいだなと感じる部分があったり、間延びしているな、と思う部分もなくはない。
もっと率直に言うなら、少し長すぎる。全十巻読むのに、長期休暇をはさんでも、一ヶ月かかったという時点で、その分量は推して知るべしだ。
だがそれらも含めて、言うなれば、『源氏物語』の魅力でもある。


世間的には、光源氏の誕生から栄華を極めるまでを描いた、「桐壺」~「藤裏葉」を第一部。
女三宮の降嫁から光源氏の死までを描いた、「若菜上」~「雲隠」までを第二部。
宇治十帖を含む薫たちの物語を描いた、「匂宮」~「夢浮橋」までを第三部と見るようだ。

寂聴は第二部の「若菜」を誉めていたし、世間的には第三部の宇治十帖を誉める人も多いらしい。
だが、個人的には第一部が一番おもしろいと思った。

登場人物のキャラクター、そのメロドラマ性など、目を引く部分も多い。
一度ちゃんと読んでおいてよかったな、と感じさせる、名作である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの『源氏物語』の感想
 『源氏物語 巻六・巻七(若菜上~紅梅)』
 『源氏物語 巻八~巻十(竹河~夢浮橋)』



●追記(あるいはキャラクター論)

源氏物語には個性的なキャラクターが多く、紫式部が精魂込めてキャラクターを創造したであろうことが、読んでいても伝わってくるのが魅力だ。


だがやはり紫式部も女性。そのため、女性キャラに重点を置いていると感じさせる部分が多い。
もっともそれは女性が当時弱い立場だったということも大きいだろう。
男に捨てられたら、それだけで暮らしも窮乏する。同じ女性として同情していたのかもしれない。

だが同時に女性陣を魅力的に描いたのは、多分、男どもの軽薄さと、浮気癖に、紫式部が失望していたからではないかとも感じられるのだ。
巻十で瀬戸内寂聴も指摘していることではあるが、「男はせいぜいこの程度よ」と思っていたのかもしれない。


それを個人的に強く感じたのは、玉鬘を巡る男性陣の節操のなさだ。

光源氏は、玉鬘の弱い立場を利用して、自分の家に引き取ると、体に触りまくるというセクハラをくり返すし、裸になって玉鬘の横に寝転がり、犯そうととする始末(泣いて拒まれたからやめたけど)。
加えて、処女は面倒なので、嫁にでもやって男女のことがわかった後に、お忍びで浮気をしよう、って感じのことを(僕の意訳ではあるけど)考えるから、性質が悪い。
バカじゃねえの、と読んでいて思ってしまう。

柏木たちはあれだけ熱心に玉鬘のもとに通い詰めて、求婚したのに、兄妹であるとわかると否や、手のひらを返したように、冷たい態度を取る。
くそマジメなだけが売りの(一応誉めている)夕霧は、玉鬘が妹でないとわかるとすぐに、言い寄ったりと、態度の豹変ぷりが露骨すぎる。

紫式部は男たちの立ち居振る舞いを、作中で何度も誉めている。
だがそんな男たちの内実を、心の底では軽蔑していたのかもしれない。


一方の女性キャラはやはり魅力的。

たとえば最初の方に登場する空蝉。

彼女は源氏と心ならずも結ばれるわけだが、その後、源氏の魅力に惹かれ心がゆれていく。彼女は夫を軽蔑しているし、源氏を好きになりかけてもいるのだから、相手に傾いてもおかしくないはずだ。
しかし彼女は、人妻であるという自分の立場を守り、徹底的に源氏の誘惑を退けようとする。
だが退けながらも、ゆれる心はどうあっても、消えることはない。
その心理描写が巧みで、なかなか読ませるものがある。

そのゆれる描写に触れたおかげで、すぐに空蝉が好きになってしまった。


紫の上も魅力的に描かれている。

初登場時の、子どもらしい姿はいかにも愛らしいし、才気走っていながら、行動はまだ子供じみているところを描く筆は、寂聴も指摘するように、非常に冴えている。

大人になってからの紫の上も魅力的だ。
特に源氏の浮気に対して、嫉妬し、むくれるところなどはおもしろい。
源氏に対して、口を利かなかったり、皮肉を言うことが多く、源氏はその機嫌を取ろうと、あれこれと手を尽くすシーンが頻出する。
そういうシーンを読んでいる間、ガンバレ、紫、と勝手に応援してしまう。
そんな風に応援したくなるような雰囲気が、紫の上にはあるのだ。


ほかにも、千年前の萌えキャラとでも言うべき存在の、夕顔。
正妻を呪い殺すほどの重たい情念を持っていて、強烈な個性を感じさせる、六条御息所。
自分の身の程をわきまえて、ちょっと卑屈にさえ見えるところが逆に印象的な、明石。
無口で野暮ったくて、堅苦しい行動しか取れず、多分作者からも愛されてなさそうで、それが本当にかわいそうな、末摘花。
ある意味若く、ある意味ではイタく、滑稽で悲しく、それゆえに愛すべきキャラの、源典侍。
プライドの塊のような、葵の上。
おっとりしていて、人間的にもかなりできた人という印象を残す、花散里。
空気を読めないところが魅力的な、近江の君、など。


すてきな女性陣が多く、印象的。
源氏物語は、光源氏の物語だが、同時に女性たちの物語でもあるのだろうと感じさせられるキャラクター群である。

『真鶴』 川上弘美

2010-01-25 21:19:20 | 小説(国内女性作家)

12年前に夫の礼は失踪した、「真鶴」という言葉を日記に残して。京は、母親、一人娘の百と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ新しい恋人と逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往還するのだった。京についてくる目に見えない女は何を伝えようとしているのか。遙かな視線の物語。
出版社:文藝春秋(文春文庫)



やっぱり川上弘美の文章はすてきである。
淡々としていて、ふしぎな静けさが感じられて、読んでいても非常に心地よい。

その文章の力のおかげで、決してすっきりとわかりやすい内容でなくても、すんなりと物語に入っていける。一つ一つの言葉が胸にしんと染入る感じがあり、強く深く心に残るのである。

これは本当に川上弘美の才能であり、魅力だろう。だから僕はこの作家が好きなのだ。
本作を読んで、改めてそのことを再確認した思いだ。


物語の内容は、夫に失踪された女の話である。
雰囲気はいかにも文学らしいものとなっていて、静謐で、思わせぶりで、淡々としている。
そのため、読んでいる間は非常におもしろいのだけど、結局何が言いたいんだろう、と本を閉じた後でふと考え込んでしまう面があるのだ。
結論的には、ちょっと難解で、捉えどころがない。

だが、あえて、誤読たっぷりの自分の解釈で言い切ってしまうなら、これは他人との距離の取り方をめぐる物語なのだ、という印象を受けた。
具体的には二つ。一つは母子の間の距離関係であり、もう一つは、夫ないし恋人、つまりは親しい男との間の距離関係である。
それを女性的な視点を基盤に描き上げている。


母子の間の距離は、ある意味ではわかりやすい部分がある。
母にとって、かつて、子は自分の体の一部だった。女と子どもとの関係は、肉体的なつながりがあった分、濃く強いものになりやすい。
子を叱ったりするなど、子どもと向き合う関係の中からしか親子関係をつくれない男とは、大きくちがう。
そのため、京にとって、百はこの上なくいとおしい存在となるのだろう。

だがその関係が濃く強いものであっても、子どもだっていつまでも母の一部であるわけではないのだ。
子どもは子どもで、親とは違う部分を持ち、秘密の側面だって増えていく。
そういう意味、母と子どもの関係は難しい面もある。
けれど、濃密につながっていたという記憶がある分、ある種の理解しやすさというものがある。
だから母子の関係は、言ってしまえば気安いのだ。


しかし男と女の場合になると、そう、ことは単純ではない。
子どもと違い、女にとって、男は最初から絶対的な他者である。
そのため男女の間には、すでに隔てがあるからだ。

もっとも男との間に隔てがあったとしても、心まで持っていかれるような、にじむような関係を(たとえば礼との間のように)つくれる場合もある。
とはいえ、青慈との間のように、輪郭を保ったまま、にじまない、どこかで冷静な部分もあるような関係でも、恋愛関係として成立しうる場合だってあるのだ。
それはきっと、どちらがいい悪いの問題ではないのだろう。

だが、どちらに転がっても、結果的にそこに隔てがあること自体は変わらない。
そしてその隔てゆえに、男女二人の間には、最初からそれぞれ秘密を抱える場合だってありうる。

ついてくる女が最初に現われたのが、礼の浮気を目撃したときから、というのは、そういう風に考えると、示唆的であり、象徴的である。
ついてくる女は、神経症による幻覚ではなく、暗喩としてとらえるならば、他者との間の距離の苦しみを視覚化したものと、見えなくもない。
そしてその絶対的な他者という隔てゆえに、京は礼とのことで、苦しみを抱えているのだ。


そう書くと、この物語自体、何か絶望的なものに見えなくもない。
だが京は、真鶴に行ったことで、気持ちに変化が起きている。
具体的に何が起きたかは書かれていないけれど、彼女はそこに行ったことで、少しだけ自由になったように見えなくはない。

多分、それは、京が、真鶴に、礼にすがりつく気持ちを置いてきたからではないか、と僕には感じられるのだ。
ひょっとしたら、京はまだ礼のことが好きなのかもしれない。礼が消えたことによる、さみしさをまだ感じているのかもしれない。
しかし少なくとも、彼女は真鶴に行ったことで、そんな気持ちも乗り越えることができている。

特別根拠はないのだが、何となくそんなことが感じられて、淡く美しい余韻が漂っているように、僕には思えた。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの川上弘美作品感想
 『パレード』
 『光ってみえるもの、あれは』
 『夜の公園』

『ヘヴン』 川上未映子

2009-12-10 20:19:26 | 小説(国内女性作家)

「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」
彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。彼は言う。できごとに良いも悪いもない。すべては結果にすぎないのだ、と。ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に、救いはあるのか――。
出版社:講談社



 『ヘヴン』は、本当にすばらしい小説だ。

ストーリー展開も、登場人物たちの描き方も、テーマ性も、どれもこれも魅力にあふれている。
いくつかの点で作者がねらったほどの効果をあげていない部分はあるけれど、それでも読んでいてずいぶんと心をゆさぶられた。
すばらしいとしか言いようがない。


物語は、斜視のために教室で執拗ないじめにあっている「僕」と、同じようにいじめにあっているコジマという少女が、手紙のやり取りをするようになるところから始まる。

この二人の手紙のやり取りや、二人の会話が非常に魅力的だ。
人間サッカーをはじめとした、いじめのシーンがあまりにひどく残酷だからだろうか、いじめられる側の二人が仲良くなり、互いにとってかけがえのない存在になっていく過程に、読んでいてドキドキしてしまう。

非常階段で自分の標準を語るコジマの言葉は、妙に心に残るし、夏休み最初の日に、二人で電車に乗って会話をするシーンなんかは、こっちまで「うれぱみん」状態になってしまう。
「わたしは、君の目がとてもすき」と「僕」に言うコジマのセリフも、コジマの手に「僕」が初めて触れるシーンもすばらしい。
それ以外にもすてきで、心に響き、胸を震わす場面にいくつも出くわす。

美術館で髪を切るところが、この小説で一番美しいシーンだ、と思う。
そのとき見せる「僕」の優しさに、何ていいやつなんだと思ってしまうし、髪の束を捨てるべきか迷っているコジマの不安そうな、ちょっとした緊張感もたまらなくいい。
別にエロくないけれど、ふしぎとエロティックに感じられる点もすばらしい。

そういった積み重ねもあって、「僕」とコジマに思いっきり共感してしまうのだ。
そして強く共感したからこそ、「僕」の斜視を直す手術の話が出て以降の展開に、打ちのめされ、心をゆさぶられるのだろう。


「僕」の斜視を直す手術のことを聞いて、コジマは「僕」の態度をなじる。
「その目は、君のいちばん大事な部分」で、「本当に君をかたちづくっている大事な大事なこと」だと言って。
けれど、そのコジマの態度はあまりに頑なだ。

その頑なさは、彼女が独自の考えを持っているところに由来している。
実際、彼女は、離れた父親を忘れない「しるし」をつくるため、自ら汚い格好をする、というずいぶん変てこな論理で行動する少女だ。
そしてその汚さのために、同級生からいじめにあっている。

そんな風に自分がいじめられることに対して、それにはきっと意味があるのだ、とコジマ自身は考えている。
そして意味も考えず、自分をいじめようとする同級生たちを可愛そうに思い、彼らの行為を許そうとも考えている。
それはまるで、十字架上のキリストの言葉を思わせて、興味深い。


そんなキリストもどきなコジマの態度と、対照的な位置にいるのが、いじめる側の百瀬だろう。
彼からすれば、「僕」やコジマがいじめられるのは、たまたまであり、たまたまそこに「僕」がいて、たまたまいじめる側の欲求と一致しただけでしかない、と言う。
そして「僕」が感じる世界と、百瀬が感じる世界は、決定的に異なり、まったく無関係なので、罪悪感はないとも語っている。

百瀬の思想は、わかりやすいくらいのニヒリズムだ。あるいはアンチクリスト、ニーチェ的と言うべきか。
ひどいことが起きても、それを受け入れている自分たちこそ強いのだ、と言っているコジマとは当然のことながら差がある。
多分百瀬からすれば、コジマなど、世界の背後を説く者でしかないのだろう。


「僕」は、そんな二人の意見に接するが、どちらの意見にも、距離を置いているきらいがある。
一応コジマの意見に、ある程度のシンパシーを感じているようだけど、その意見に対し、完全に賛同できていない。そして当然ながら、百瀬の意見はもっと受け入れられないでいる。
「僕」は二人の思想の間に立ったまま、どちらかの側にも決定的につけないままだ。

そんな彼の心を、端的に示すのが、雨の中のいじめのシーンだろう。
そのシーンで「僕」は当たり前だけど、二ノ宮たちの言うことを受け入れ、従うわけにはいかなかった。
だけど、「僕」は、復讐するため、あるいは自分の身を守るためとはいえ、どうしても人に対して暴力をふるうことができない人間でもあるのだ。
そしてその思いはコジマを助けたいという瞬間でも、迷いとなって現れている。

それが良いことか、悪いことかは述べない。
だけど、どちらか一方に立つということは、自分を追いつめることでもあるのだろう、という気もしなくはないのだ。
コジマも、百瀬も、少なくとも極端であるという点では共通している。
そしてその極端さのために、コジマは自分の考えに追いつめられている部分があるからだ。
コジマは自分の考えの先に「ヘヴン」を夢見ているが、それだけでは決して救いは訪れそうに見えない。


だがそんな風に迷いながらも、「僕」がコジマのことが好きだ、という気持ちはゆるぎないのだろう、とも思うのだ。

コジマはラスト近くなっても、まだ「僕」のことを恨んだままなのかもしれない。
だが「コジマはたったひとりの、僕の大切な友だちだった」という点は「僕」にとって、まぎれもない事実である。

僕は最後に、「君をかたちづくっている大事な大事なこと」と言われた斜視を直すことを選択する。
それはコジマの期待を決定的に裏切る行為かもしれない。
あるいは、「僕」と、コジマの世界は異なり、それぞれ「ひとつの世界を生きることしかできない」という事実を認めることにつながるのかもしれないだろう。
それに、美しさをその目で見ても、「誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない」という、言うなれば絶対的な孤独を認めることにつながるのかもしれないのだ。

だけど、「僕」がコジマとの記憶を、「忘れたことに気づかないくらい、完璧に忘れる」ことなど、絶対にありえないのだ。

そしてその記憶を抱えたまま、「僕」は「ただの美しさ」かもしれないが、少なくとも美しく、「向こう側」のある世界へと踏み込んでいける。
そんないくらか前向きな気分になれる、「僕」のラストの姿が、心に残って忘れがたい。


と、何か無駄にダラダラ書いたが、それだけ多くのことを語りたい作品ということである。

重ねて言うが、『ヘヴン』は、本当にすばらしい小説だ。
今年読んだ本の中でも、一・二を争うほどの優れた作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの川上未映子作品感想
 『乳と卵』
 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

『風に舞いあがるビニールシート』 森絵都

2009-12-03 20:46:04 | 小説(国内女性作家)

才能豊かなパティシエの気まぐれに奔走させられたり、犬のボランティアのために水商売のバイトをしたり、難民を保護し支援する国連機関で夫婦の愛のあり方に苦しんだり……。
自分だけの価値観を守り、お金よりも大切な何かのために懸命に生きる人々を描いた6編。
あたたかくて力強い、第135回直木賞受賞作。
出版社:文藝春秋(文春文庫)



森絵都の作品を読むのは今回が初めてだったが、こんなに巧みな作家なのか、と驚いてしまう。

何と言っても、物語の構成が手馴れていて、ぐいぐいと読み手を引っ張っていく点がすばらしい。
それに、心理描写も本当に丹念で、登場人物が何を大事にし、行動基準にしているかがはっきりと伝わる。
そのおかげで、読み手である僕も、物語の中にすっと入り込むことができ、登場人物たちの思いを追体験し、ときに彼ないし彼女らを応援することができるのだ。

巧みであるがゆえに、まとまりすぎていて、全体の余韻が淡くなっている点だけがちょっと難だけど、それでもこの上手さは見事だろう。


個人的に気に入っているのは、表題作の『風邪に舞いあがるビニールシート』。

難民を保護支援する国連職員の夫婦の話だが、二人が出会い、結婚し、という、紆余曲折を非常に丁寧に追っており好印象だ。
そしてそこから、里佳とエドとの間には絶望的なまでに距離があることがわかり、何とも切ない。
だがその切なさがあるからこそ、苦難に満ちた道を歩もうと決意する里佳の最後の判断が非常に前向きに映るのだ。特に「人間の肌のぬくもりを感じながら死んでいったんです」という言葉が胸に響いてならない。

また平和な場に住むということに対する後ろめたさと、作家が真摯に向き合っている様も非常に印象的だ。
それは『犬の散歩』で、保健所に行ったことから、ボランティアを始めようとした心理とも通じるものがある。

世の中にはひどいことが起きているけれど、日常を生きるため、大抵の人はひどい事実から目をそむけて生きている。
『風に舞いあがるビニールシート』も、『犬の散歩』も、そういう風に簡単に目をそむけることができない人たちの気持ちをしっかりと捉えていてすばらしい。
そこからは、偽善を乗り越えた、強い思いが感じられ、読みながらわが身をふり返らずにいられなかった。


上に触れた以外でもすばらしい作品は多い。
どんなに周りから否定をされても、自分が好きなものだけはどうしても否定できず、それに惹かれてしまうという心理描写が丁寧な『器を探して』。
文学とマジメに向き合い、取り組む姿が、熱くて胸を打つ『守護神』。
不空羂索観音と准胝観音の使い方が絶妙な『鐘の音』。
「十年のうちで一日くらい、野球のためになにもかも投げだすようなバカさ加減だけはキープしたいよな」という言葉に激しく共感する『ジェネレーションX』。

どれも森絵都の技巧を堪能でき、心にも響く作品が多い。すばらしい短篇集である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『老妓抄』 岡本かの子

2009-10-20 20:39:55 | 小説(国内女性作家)

財を築き、今なお生命力に溢れる老妓は、出入りの電気器具屋の青年に目をかけ、生活を保障し、好きな発明を続けさせようとする。童女のようなあどけなさと老女の妄執を描き、屈指の名短編と称される表題作。
不遇の彫金師の果たそうとして果たすことができなかった夢への無念の叫び「家霊」。
女性の性の歎き、没落する旧家の悲哀、生の呻きを追求した著者の円熟期作品9編を収める。
出版社:新潮社(新潮文庫)



率直に語るならば、本作品集は結構微妙だった。
文章は丁寧でわかりやすいし、江戸情緒の残る世界感は雰囲気が良く、洗練されていて、サクサク読み進めることができる。
しかしどうしてもそれ以上の強い感想を持つことができないのだ。
何となくいいけれど、何となく以上のものを僕には見出せない。
個人の趣味が大きいんだろうけど、どうも何かが足りないように思えてならない。


たとえば表題作の『老妓抄』という作品。
この作品は岡本かの子の代表作で、発表当時は絶賛されたとのことだけど、僕にはそれほどの作品には見えなかった。

主人公の老妓は、流されるように生き、「パッション」に欠けた自分の人生に悔いがあるらしい。
そんな自身の後悔を、柚木という男を「飼い」、夢を叶えさせることで晴らそうとしている。
それは老妓の妄念とも言っていい行動だろう。

しかしそんな老妓の執念は、読んでいてもさほど僕の心に訴えてこなかった。
彼女の内面がさほど語られないこともあるのだろうか。ともあれ、僕としては、情熱を持っていたのに平凡へと流される柚木と、嬌態を示すみち子の存在感に押されて、主役の老妓の存在は遠景に退いてしまったように思う。
少なくとも、「たいへんな老女がいたものだ」と柚木が感心するほどのものを、僕は見出せない。

あるいは、老妓の行動が現代の感覚からすると、そこまで突飛に見えないことも大きいのだろうか。
そういう点、この作品は時代の洗礼に耐えられず、結果的に僕にとって物足りない作品となってしまったのかもしれない。


そのほかの作品も、総じて何かが足りないものばかりだ。

だがそんな中でも部分部分で目を引くものはある。たとえば、
鮨を食べることと、思い出をふり返ることが同義になっているような湊の存在が印象的な『鮨』。
孤独な老女と子どもの交流と、人間的なつながりが忘れがたい『蔦の門』。
世間に認められたいという願望と、自分の弱みを見せまいとする倣岸さと、卑屈さが入り混じり複雑なキャラクターとなっている鼈四郎の存在感がすばらしく、料理の描写が印象的な『食魔』。
といった作品は少し心に残る。


そんな中、個人的には『家霊』が一番すばらしい作品だと思った。
この作品に出てくるどじょうをせびりに来る彫金師のキャラが特に良いのだ。
多分この人は彫金以外は何もできない生活破綻者なのだろう。しかしそんな人間でも、一人の女性にとっては、心の支えになりうるという点がおもしろい。
そしてそこからは同時に、そんな生活破綻者しか愛せそうにない女の業が仄見える点も良かった。
そんな彫金師と女の存在や行動が、本作を鮮やかなものにしていたと、僕個人は思う次第だ。

評価:★★(満点は★★★★★)


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『六〇〇〇度の愛』 鹿島田真希

2009-10-14 21:05:19 | 小説(国内女性作家)

優しい夫と息子と団地で暮らす何不自由ない生活を捨て、ある日、女は長崎へと旅立った。かつて六〇〇〇度の雲で覆われ、原爆という哀しい記憶の刻まれた街で、女はロシア人の血を引く美しい青年と出会う。アルコール依存の末に自殺した兄への思慕を紛らわすかのように、女は青年との情交に身を任せるが――。
生と死の狭間で揺れる女を描き、現代人の孤独に迫った三島賞受賞作。
出版社:新潮社(新潮文庫)



正直読んでいる間は、さしておもしろくないな、微妙だな、俺には合わないなと思いながら読んでいた。
けれど読み終えた後は、折に触れて幾度もこの作品のことを思い出す。
作品自体が合わないことは事実と思うが、それでも何かが僕の心に引っかかったらしい。

一つは文章の魅力と思う。非常に端正な文章で、実際サクサクと読み進めることができる点は魅力だろう。
だがこの作品が心に残ったのは、文章だけとは言いがたい。
それが何かは指摘しづらいのだけど、あえてあげるなら、物語の雰囲気と、混沌とした物語の構成、そしてラストに答えがあるのかもしれない。


物語は平凡な主婦が、家族を捨て、長崎に行くという設定で始まる。
そんな女の行動に対して、小説はサマリヤの女を暗喩として用いている。
サマリヤの女は、五人の男と結婚したが、飽き足らず六人目の男と同棲した女である。サマリヤの女がそんな行動を取ったのは、魂の渇きを感じていたのが原因であるらしい。

そしてその渇きと似たものを、主人公の女も感じている。
あまりはっきりと解釈めいた言葉を使うのは野暮ったいのだが、要は孤独を埋めるための誰かを欲しているということなのだろう。

そんな女の孤独は、兄という存在が大きな意味を持っている。
彼女は兄のことが好きだった(正確に言うと、引け目だとかいろんな感情が入り混じっていて、好きというだけでは説明できない)けれど、やがて彼は自殺してしまう。
女はほかの男と一緒にいても、無感覚な部分があるようだが、この兄の存在のことがどこかで引っかかっているようである。

そんな女の孤独は性質的には、他者との一体感を求めているタイプのもののようだ。
兄のことが女の心に引っかかっているのは、血縁がその一体感を埋めるのに適切なものだと、無意識的に思っていた面もあると思う。
そして自分と一体感を感じられるような相手の不在が、彼女の渇きの根本的な理由になっている。


だが女が求めるような、一体感を感じられる他人なんて、そうそういるものではないのだ。

たとえば、本作には、女にとって都合のいい男性が二人登場する。彼らは女に優しいけれど、彼らでは到底彼女の孤独を埋めることはできない。
それはいろんな理由があるけれど、この女の場合に限って言うならば、多分孤独を埋めるという彼女の行為が、潜在的に死への願望をはらんだものだからだろう。
要はエロスに対するタナトス。長崎という場に女が行ったのもそこがキリスト教が盛んな土地であると共に、多くの人間が死んだ土地だからだろう。
それはともかく、そんな厄介な願望を埋めることなど、他人ではできっこないのだ。

それに、そのような女の願望は、ナルシスティックな要素を含んでいるように見えるのだ。
それは女が、受難者、あるいは小説中の言葉で言うなら「佯狂者」という文脈で、自分自身を捕らえている側面もあるからだ、と僕は思う。
意地悪な言い方だが、女は「絶望という被り」を「美しいと盲信し」、それにすがりついていたいだけなのだ。
わかりやすく否定的に言うなら、女は孤独を埋めたい自分に酔っていただけでしかない。

ちょっと辛らつに書くが、そんな類の孤独や渇きなど、他人が埋めることなどできるわけがない。


そして女も最終的には、その事実に気づくことになる。
自分は何者とも一体化できず、そしてほかの人間はすべらかく他者でしかない。
それはある意味ではとっても絶望的なことだろう。
しかし、そんな当たり前の事実を認め肯定することで、非常におもしろいことなのだけど、女は結果的に自分の心の中から絶望を涸らすこととなっているのだ。

そうなった女の心の動きを、僕は必ずしも理解はできない。
しかしそれはまたありだよな、と変に納得させるふしぎな力と手応えが、本作にはある。
多分それは、女の心理的な動きが、彼女にとっても、物語にとっても、一つの到達点のように見えるという点が大きいのかもしれない。


本作は、結構難しく、読み終えた後には、いくつかの点で腑に落ちないと感じる面はある。
主婦の感情に興味はないので、内容的にも僕の趣味に合わない面は多い。

けれど、本作は最後まで読ませる力があり、いつまでも読み手の胸に残るような、何かがある。
好みはともかく、その何かがあるということが、本作の魅力であるのだろう。

評価:★★★(満点は★★★★★)


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『ちくま日本文学 004 尾崎翠』

2009-09-23 10:47:00 | 小説(国内女性作家)

透明なエロティシズムで読者を誘惑する。
昭和七年の帰郷後、筆を絶った作家、尾崎翠の代表作を収録。
出版社:筑摩書房



尾崎翠の代表作、『第七官界彷徨』は何と言っても出だしがすばらしい。
よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。
(略)私はこの家庭の炊事係であったけれど、しかし私は人知れず次のような勉強の目的を抱いていた。私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう。そして部厚なノオトが一冊たまった時には、ああ、そのときには、細かい字でいっぱい詩の詰まったこのノオトを書留小包につくり、誰かいちばん第七官の発達した先生のところに郵便で送ろう。

有名な冒頭部ではあるが、有名になるだけあり、すてきな文章である。
どういうことだろう、と小説世界にすっと興味がもてるところが特によい。

第七官は、そんな言葉を使う主人公の「私」こと町子にもよくわかっていない。
だが文章を読む限り、ある場面や情景に対して湧いてくる、思いや感覚、無意識下の感興であろうと思われる。クオリアに近いのかなとも思ったが、意味合いとしてはもっともっと広そうだ。
野暮ったい解釈はともかく、第七官は捕らえどころがなく、当人でも意識できないような感覚であるらしい。
その捕らえどころのないものを探そうとしている少女の日常を中心に、本作は進む。

その日常の中で、特に中心的に語られるのは、恋愛である。
主人公は(多分)十代の少女なので、それはずいぶん自然なことだろう。

この小説ではすべての人間が恋愛をしている。
町子の兄、一助は患者に恋し、二助は失恋し、従兄の三五郎は隣人にやがて恋をする。加えて、この小説では植物のコケまで恋をしているくらいだ。
そして冒頭の文章で示されるように、「私」こと町子も恋をすることになる。
だが町子がどれほど自覚しているかは知らんが、どう見ても、彼女の恋は「ひとつの恋」ではないのである。

最後まで読む限り、冒頭にある「ひとつの恋」とはくびまきを買ってくれた柳浩六のことを言っているのだろう。
彼に対してのみ、町子ははっきりと「恋」という言葉を使っている。
正確に言うと、恋に恋して生れた憧れに近いと思うが、少なくとも町子にとっては、恋であるらしい。

だが彼女が本当に恋していたのは、柳浩六ではない。
どう見たって、従兄の三五郎しかいないのである。

実際、町子と三五郎の雰囲気はいい。
一緒にコミックオペラを歌ったり、二人きりで話をしたりして戯れている。
髪を切りすぎて泣きそうになっている町子の頸に三五郎が接吻し、抱きしめるシーンなどはその最たる例だ。そのシーンには読んでいてドキドキしてしまう。

だけどそんな三五郎に対して、「私」こと町子は恋しているというはっきりした言葉は使わない。
それに類する言葉を町子が使う場面はある。三五郎がほかの女性と親しく話し込んでいるところを目撃したときには、泣くほどだから、町子が三五郎に恋しているのは確かっぽく見える。
それでいて、町子はそんな自分の感情をつっこんで考え、はっきり口にすることを避けている。

あるいはそれは自分の恋に対して、町子が無自覚だということなのかもしれない。
作中の言葉で言うなら、「A助を愛していることだけ自覚して、B助を愛していることは自覚していない」のだ。

町子は以前、分裂心理の本を読みながら、自分の恋愛感情に気づかないような無自覚な心理の世界にこそ、第七官のヒントがあるかもしれないってな感じのことを考えたことがある。
そこまで看破しておきながら、町子はそのことを、結局最後まで自分自身に当てはめて考えることができなかったわけだ。
そして恋を恋と自覚できないまま、町子の恋は本人にも気づかないうちに終わってしまったらしい。
そんな町子にしんみりしてしまう。

ともあれ、少女チックで繊細な世界観が非常にすばらしい作品である。
読み終えた直後はそれほどでもなかったが、読んでから時間が経つにつれて、じわじわと心に響いてくる。
この本全体の点数は5点にしたが、その理由のすべてはこの『第七官界彷徨』にある。


そのほかの作品ははっきり言って玉石混交である。
個人の好みで言うなら、玉石相半ばといったところだ。そういう意味、河出文庫の『第七官界彷徨』でもよかったかもしれない。
それでもいくつかの作品はおもしろい。

たとえば、
うぃりあむ・しゃあぷの話と、精神を病んだ自分とを重ね合わせている感性がおもしろい、『こおろぎ嬢』。
恋に恋する少女の感性がよく出ている、『歩行』と『花束』。
当時の作者の様子がうかがえるようで興味深い、『アップルパイの午後』。
センチメンタルな雰囲気と、兄妹の関係性が印象的な、『無風帯から』、など。

それらの作品も文学少女だった作者の感性が前面に出ている、と思う。
さすがに、『第七官界彷徨』には及ばないけれど、尾崎翠という作家の持ち味を味わえる作品ばかりである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上未映子

2009-09-09 21:00:04 | 小説(国内女性作家)

デビューと同時に激しめに絶賛された文筆歌手が魅せまくる、かくも鮮やかな言葉の奔流! リズムの応酬! 問いの炸裂! 〈わたし〉と〈私〉と〈歯〉をめぐる疾風怒濤のなんやかや! とにかく衝撃の、処女作。
出版社:講談社



表題作の魅力は、やはり文章に尽きるだろう。
関西弁を駆使しているためか、文章に勢いがあり、リズミカルで、読んでいて楽しい気分になってしまうのだ。
「、」はあっても、「。」はほとんどないような文章なのだが、そこによどみはなく、一気に読めるところが魅力である。

しかもところどころに笑いがあるのがいい。
関西弁ゆえか、自己つっこみが入りがちなため、小さなことでもときどき笑える。
後半の半分キレかけている青木の恋人の口調なんか、かなりおもしろい。ちょっとえぐい部分もあるけれど、読んでいて笑ってしまった。

『乳と卵』でもそうだが、川上未映子の言語センスは本当に卓越している。
文章のリズムもそうだし、選択する言葉だって計算してのものだ。
これは本当にセンスとしか言いようがないだろう。

物語も結構おもしろい。いくらかつくりすぎで、無理に哲学チックにしている面が鼻につくけれど、それでもおもしろい。
そこで語られている内容は、一言で言えば自我である。正確に言うならば、自意識過剰な自我だ。

主人公は自分の実存が歯にある、とわけのわからんことをぬかしている人だ。
言うまでもなくそれはメタファーなのだが、そういう考え方や妄想も含めて、結構ややっこしい人である。
だがそういう思考方法は、現実世界で傷つかないための、彼女なりの防御方法でもある。
実際主人公は、誰かに「わたし」の存在を認めてほしいと思っているし、誰も「わたし」を傷つけないでほしい、と思っているふしがある。そういうタイプは人一倍傷つきやすくもある

だが現実世界でまったく傷つかない方法なんて、そうそうあるもんじゃないのだ。
実際、彼女は存在を無視され、存在を否定されるような仕打ちを受ける。それは手ひどいしっぺ返しだ。
その事実に直面した彼女は、自分の存在の核だと思い込んでいる、歯を抜くことを決意する。
それは自分の痛みから逃げるのではなく、痛みを受け入れようという彼女なりの意志なのだろう。
それが正しいかは知らないけれど、そう決心した「わたし」の決心はどこか悲しいな、と読みながら僕は思った。


併録の『感じる専門家 採用試験』も悪くはない。
ラストが個人的には気に入らないのだけど、ハイデガーを思わせるような存在をめぐる哲学と、無から有を生み出す出産とを絡めて語る内容は、着眼点がなかなかおもしろいと思った。
内容が理解できるかと言ったら、はっきり言って理解できていないのだが、発想が鮮やかで、新鮮な印象を受ける作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの川上未映子作品感想
 『乳と卵』

『沼地のある森を抜けて』 梨木香歩

2009-08-11 20:46:20 | 小説(国内女性作家)

はじまりは、「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床が、うめくのだ――「ぬかどこ」に由来する奇妙な出来事に導かれ、久美は故郷の島、森の沼地へと進み入る。そこで何が起きたのか。濃厚な緑の気息。厚い苔に覆われ寄生植物が繁茂する生命みなぎる森。久美が感じた命の秘密とは。光のように生まれ来る、すべての命に仕込まれた可能性への夢。連綿と続く命の繋がりを伝える長編小説。
出版社:新潮社(新潮文庫)



物語という観点でのみ語るなら、この作品は結構、微妙である。
ジャンルとしてはファンタジーであり、SFっぽいところもあるのだが、そのファンタジー部分にどうも無理があるように感じられるからだ。

たとえば、フリオが光彦を認識するところなどは(後からふり返れば、納得できるものの)、唐突すぎるし、その後の展開もちょっとない。
「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」も、意図と意味はわかるものの、特殊な語が説明不足のまま登場するのでわかりにくく、読んでいてわずらわしさすら感じる。
それに全体の構成から見ても、この三つの章はあまり効果的とは言い難い。

『裏庭』や『家守綺譚』など、梨木香歩は優れたファンタジーも書いている。
だが、『村田エフェンディ滞土録』や本作は、同じファンタジーでもすなおに入っていけない。
これは僕個人の感性のせいかもしれないが、同じ作家でも合わないものは合わないらしい。


だがこの作品で、作者が挑んだテーマ性は非常に刺激的であることもまた事実だ。

本書の主人公は、独身女性で、いわゆるところの適齢期を(多分)過ぎた人物である。
その女性の家には、代々家に受け継がれたぬか床がある。彼女はそれを預かることになるわけだが、そのぬか床から、やがて卵が発生するようになる。そしてその卵から人間が生れてくる。
冒頭はそんな感じで展開する。隠喩としては非常にわかりやすい。

それを読んだとき、本書は単純なフェミニズムに陥らない、新しいジェンダー論を語った物語に発展していくのかな、と僕は思った。
確かにフェミニズムの視点を持ちながら、物語が展開する面はある。
攻撃的な男性性に対する違和感を表明する風野の存在(しかしそう表明しながら、彼はどう見ても、逃れようもないほどに男性的)や、女性性のいやらしさを戯画化したようなカッサンドラ、家庭や家制度に対する「私」の疑問などはそのいい例だ。


だが梨木香歩はそこから、暴投すれすれの変化球を投げてくる。
作者は、そういった社会学論的な性差の問題から、もっと根源的な問題、つまり生物学的な性差にまでつっこんで語っているからだ。

かつて無性生殖であって生命は、なぜ有性生殖を選択したか。そしてその意義は。遺伝子によってプログラミングされたプロセスに、生命の行動が左右されるとしたら、個とは一体何なのか。
硬く書くなら、そんな感じである。それをフィクションを通じて描いている。

そのテーマは最後の方になると、むちゃくちゃなスケールの話にまで発展していく。
ちょっとふしぎな小さいお話で始まったはずなのに、ラストになると、宇宙の創生につながるようなレベルの話になっている。その大風呂敷の広げ方が非常におもしろい。
物語的には微妙なのだけど、ストーリーの大きさには読んでいてワクワクしてしまった。


ラストの章などは、特にすばらしい。

個人的には、単純な分裂をくり返す無性生殖から、有性生殖を選択したとき、他者という境界ができ、絶対的な孤独が生れたっていう感じの部分と、有性生殖を選択した細胞は、何かに突き動かされるように、ほかの細胞に話しかけようとしたのだ、ってところが気に入っている。
その衝動が恋愛なりを生み、同時に自分の中に孤独を引き受けることになった。そしてそのくり返しによって、自分たちが存在する。
端的にまとめるならそんなところだろう。

そこまでいくと、最初のフェミニズム的な論旨など小さいものに見えてくる。
それは完全に生命の存在論の領域の話だ。社会学的な立場の論議など、本当にくだらない。
そんな物語のでかさには、圧倒されてしまうばかりだ。


全体的に見るなら、いくつかケチをつけたい部分はあるし、上手くいっているように思えない(少なくとも僕には)部分はある。
けれど、かなり変わった物語で、その風変わりっぷりがすばらしい。何とも不思議な余韻に満ちた物語である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの梨木香歩作品感想
 『家守綺譚』
 『村田エフェンディ滞土録』

『一瞬の風になれ』 佐藤多佳子

2009-08-03 22:09:55 | 小説(国内女性作家)

春野台高校陸上部、一年、神谷新二。スポーツ・テストで感じたあの疾走感…。ただ、走りたい。天才的なスプリンター、幼なじみの連と入ったこの部活。すげえ走りを俺にもいつか。デビュー戦はもうすぐだ。「おまえらが競うようになったら、ウチはすげえチームになるよ」。青春陸上小説、スタート。
出版社:講談社(講談社文庫)



正直言うとこの作品、読む前はそこまでむちゃくちゃ期待してたわけではなかった。

本書は端的に言うなら、陸上部を舞台にした青春小説である。
主人公は陸上に打ち込み、友人にしてライバルの、天才肌の少年と競いながら伸びていく。そこには挫折があり、努力があり、勝利があり、そして甘酸っぱい恋があり、ときどき笑いもある。
それだけ書けば充分だと思うが、ともかくとっても王道な物語だ。

もちろん設定だけ聞けば、おもしろそうではある。読めば楽しめるんだろうなという確信はあった。
でもここまで王道では、すごくおもしろい、とまでは思わないんだろうな、と思っていた。

だが本書は、そのまっすぐな王道の展開が、深く心に響く作品になっている。


そんな風に胸に迫るのは、やっぱり雰囲気の描写が上手いからだろう。
高校生の陸上部の雰囲気が、よく出ているのである。
実際のいまの子の部活の風景は、ひょっとしたら少し違うのかもしれないけれど、少なくとも本当にありそうだと思える力にあふれている。そのリアルな雰囲気が一読忘れがたい。

そして、その雰囲気の描写には、文体の力も一つの助けとなっている。
美文ではないが、主人公の一人称は疾走感があり、勢いがある。文章は若々しく、血肉の通った高校生活を描くのに、それは非常に適している、と僕は思う。
それに疾走感のある文体のため、陸上シーンの描写などは身体感覚に訴えかけるものがあり、読み手の昂揚感をもあおるのだ。
そのため、この小説を読んだ後は、習慣で走っているからってのとは無縁に、「走りてえな」と心から思えた。
感情に訴え、共感力を引き起こす、その文体は本当に大きな魅力だろう。


それらの美点のおかげで、僕は読みながら、主人公たちのことをすなおに応援することができる。

彼らの陸上に打ち込む生活は、本当に爽やかで一所懸命そのもの。
僕は高校時代、だらけた水泳部員で、主人公たちほど、熱心に部活に打ち込んでいたわけでもない。
そのため、読んでいて後ろめたさもあるのだが、同時に、何となくなつかしさも呼び起こしてくれる力がある。

もちろん、そんな個人的な記憶を抜きにしても、主人公たちの姿は読んでいて、感動してしまう。
三年という短い高校生活の中、懸命に何かに打ち込む高校生の姿は胸に迫るし、チーム同士の友情や連帯感も泣きたくなるほど美しく、読んでいてじーんとしてしまう。
失敗したり、なかなか目標に届かない自分に焦ったり、悔しがったりする気持ちや、誰かに恋する甘酸っぱい感情なんかも胸に響いてならない。

極端な言い方かもしれないが、まるで自分もその場にいて、一緒に呼吸をしているような感覚に陥ることができるのだ。
だから主人公の感情や、何かに打ち込む姿に、そこまでシンパシーを覚えるのだろう。

物語のラストは、主人公たちが一番打ち込んでいる4継で終わる。
そこで主人公たちは期待通りのレースをし、予想通りのラストを迎える。王道であり、ベタでもある。
だがそれをベタだと非難する気にはなれなかった。

それはすべて、僕が、主人公たちと呼吸するように、物語と一体となって読んでいたことが大きい。
だからこそ、主人公たちの三年間の集大成である4継のシーンに深く共感し、心から感動することができる。


思うのだが、そういう風に、登場人物と一体になったように小説を読むっていうことは、読書においては、とっても幸福な体験なのではないだろうか。
登場人物と同じよう感情を、読み手も共有することができる、そういう経験って、あるようでいて、なかなかない。

この『一瞬の風になれ』は、僕にとって、そんな幸福感をもたらしてくれた。
それだけをとっても、本書はまさしく一級の青春小説なのである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)