12年前に夫の礼は失踪した、「真鶴」という言葉を日記に残して。京は、母親、一人娘の百と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ新しい恋人と逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往還するのだった。京についてくる目に見えない女は何を伝えようとしているのか。遙かな視線の物語。
出版社:文藝春秋(文春文庫)
やっぱり川上弘美の文章はすてきである。
淡々としていて、ふしぎな静けさが感じられて、読んでいても非常に心地よい。
その文章の力のおかげで、決してすっきりとわかりやすい内容でなくても、すんなりと物語に入っていける。一つ一つの言葉が胸にしんと染入る感じがあり、強く深く心に残るのである。
これは本当に川上弘美の才能であり、魅力だろう。だから僕はこの作家が好きなのだ。
本作を読んで、改めてそのことを再確認した思いだ。
物語の内容は、夫に失踪された女の話である。
雰囲気はいかにも文学らしいものとなっていて、静謐で、思わせぶりで、淡々としている。
そのため、読んでいる間は非常におもしろいのだけど、結局何が言いたいんだろう、と本を閉じた後でふと考え込んでしまう面があるのだ。
結論的には、ちょっと難解で、捉えどころがない。
だが、あえて、誤読たっぷりの自分の解釈で言い切ってしまうなら、これは他人との距離の取り方をめぐる物語なのだ、という印象を受けた。
具体的には二つ。一つは母子の間の距離関係であり、もう一つは、夫ないし恋人、つまりは親しい男との間の距離関係である。
それを女性的な視点を基盤に描き上げている。
母子の間の距離は、ある意味ではわかりやすい部分がある。
母にとって、かつて、子は自分の体の一部だった。女と子どもとの関係は、肉体的なつながりがあった分、濃く強いものになりやすい。
子を叱ったりするなど、子どもと向き合う関係の中からしか親子関係をつくれない男とは、大きくちがう。
そのため、京にとって、百はこの上なくいとおしい存在となるのだろう。
だがその関係が濃く強いものであっても、子どもだっていつまでも母の一部であるわけではないのだ。
子どもは子どもで、親とは違う部分を持ち、秘密の側面だって増えていく。
そういう意味、母と子どもの関係は難しい面もある。
けれど、濃密につながっていたという記憶がある分、ある種の理解しやすさというものがある。
だから母子の関係は、言ってしまえば気安いのだ。
しかし男と女の場合になると、そう、ことは単純ではない。
子どもと違い、女にとって、男は最初から絶対的な他者である。
そのため男女の間には、すでに隔てがあるからだ。
もっとも男との間に隔てがあったとしても、心まで持っていかれるような、にじむような関係を(たとえば礼との間のように)つくれる場合もある。
とはいえ、青慈との間のように、輪郭を保ったまま、にじまない、どこかで冷静な部分もあるような関係でも、恋愛関係として成立しうる場合だってあるのだ。
それはきっと、どちらがいい悪いの問題ではないのだろう。
だが、どちらに転がっても、結果的にそこに隔てがあること自体は変わらない。
そしてその隔てゆえに、男女二人の間には、最初からそれぞれ秘密を抱える場合だってありうる。
ついてくる女が最初に現われたのが、礼の浮気を目撃したときから、というのは、そういう風に考えると、示唆的であり、象徴的である。
ついてくる女は、神経症による幻覚ではなく、暗喩としてとらえるならば、他者との間の距離の苦しみを視覚化したものと、見えなくもない。
そしてその絶対的な他者という隔てゆえに、京は礼とのことで、苦しみを抱えているのだ。
そう書くと、この物語自体、何か絶望的なものに見えなくもない。
だが京は、真鶴に行ったことで、気持ちに変化が起きている。
具体的に何が起きたかは書かれていないけれど、彼女はそこに行ったことで、少しだけ自由になったように見えなくはない。
多分、それは、京が、真鶴に、礼にすがりつく気持ちを置いてきたからではないか、と僕には感じられるのだ。
ひょっとしたら、京はまだ礼のことが好きなのかもしれない。礼が消えたことによる、さみしさをまだ感じているのかもしれない。
しかし少なくとも、彼女は真鶴に行ったことで、そんな気持ちも乗り越えることができている。
特別根拠はないのだが、何となくそんなことが感じられて、淡く美しい余韻が漂っているように、僕には思えた。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかの川上弘美作品感想
『パレード』
『光ってみえるもの、あれは』
『夜の公園』
よろしくお願いいたします。
私も読書が好きなのですが最近あまり読む時間がありません
こちらで紹介されてる本を参考に読んでみたいです
コメントありがとうございます。
たいしたことは書いてませんが、本を読む時間ができたとき、何かの参考になればうれしいです。
先日遅ればせながら真鶴を読み終わりました。
川上弘美さんは文章が美しく、すっきりとしているので好きです。
おっしゃるとおりこの作品は身近な人との距離や関係がとてもリアルに、自然に描かれていてとても好きになりました。
何気ない町並みの描写や、娘の表情や言葉など本当に関心させたれました。
もう少ししたらもう一度読み返してみたいと思います。
川上弘美は文章がすてきですよね。りえさんがおっしゃる通り、描写もうまくて、すっと心に響く感じで。人との距離感の描き方とかすごいな、って思います。僕はこの人の文章が好きです。
再読したら、またちがった発見があるかもしれませんね。
以前から「真鶴」は川上弘美さんの代表作になるのではないか、とか新境地開拓とか作家の方々が言われていたのを読んだ事があり、気になってたんです。
川上弘美さんの作品は「センセイの鞄」や「おめでとう」などを読んだ事あるだけですが、「真鶴」素晴らしかったです!
カフェで読んでいたのですが、どんどん川上弘美さんワールドに惹きつけられて途中で辞める事ができず一気に読み切りました。
何度も何故か鳥肌も出ました(^_^;)
川上弘美さんらしい、ひらがなで淡々と語られていく文体も、重い内容であるのですが、すっと入っていきました。
親子関係、恋愛関係の距離感の難しさや、女性としての淋しさなど色々な気持ちに共感できました。特に思春期の一人娘がいてるので京と百のやり取りも、自分と娘のようにも感じて、成長していく娘がとても愛おしく嬉しい反面、もう少ししたら私から離れてしまうかも知れないと思う淋しさもあるのでよく気持ちがわかりました。
最後に京が上手く乗り越える事ができ、本当に良かったです!
読んでいて苦しくて、切ない部分もありましたが、読み終わり、また何回も読んでみたいと言う気持ちになりました!
川上弘美さん本当に新境地開拓されて、益々これからも素晴らしい作品を書かれるだろうなと期待しちゃいます!
真鶴を読んだばかりで、この感動を誰かと分かち合いたくて思わずコメントさせてもらいました(^ ^)
熱いコメントありがとうございます。
川上弘美さんの作品はすてきです。
『真鶴』は作者の繊細さがにじみ出てくるかのようです。
娘さんがいらっしゃるのなら、よけい共感する部分もありそうですね。自分に重ね合わせるように読めるってことは幸福なことなんだろうな、と思いました。
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