ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

ああ苦しい、恐ろしいと、そのままになることを「なりきる」と申します

2017-01-12 18:13:17 | 知恵の情報
誰でも自分の恐怖なり失望なり、感動したことについて、その時と場合と事柄とが、
それに関連したときに、それを思い出し、その感想を起こすことは当然のことです。
糞を思い出せば、臭気を連想し、人に恥辱を受けたことを思い出せば、「くやしく」
なる。当然のことです。もし、臭くなく、「くやしく」なければ、それは、糞ではなく、
恥辱ではないのであります。君が猫が平気であれば、それは君は、猫が嫌いで
ないのであります。森田が蛇が好きであり、医学が嫌いであったならば、それは
すでに森田ではないのであります。「自分は猫は嫌い、前に恐怖感動したその
時間が来れば、その恐怖に襲われる」。当然われわれの連想の事実であるから、
なんともしかたがない。自分の名を失念することのできないように、平気になる
ことは、当然不可能であります。

その恐怖に襲われる。ああ苦しい、恐ろしいと、そのままになることを「なりきる」
と申します。夏は暑い、冬は寒い、なんともしかたがない、これを心頭滅却といい、
「なりきる」といいます。それよりほかにしかたがない。

仏性論や平常心是道、無などの禅の公案を出したが、つまるところは「なりきる」
ということにほかならないのである。心悸亢進が起これば恐ろしく、熱が四十度
も出れば苦しい、なんともしかたがない。それがなりきることである。そしてその
「なりきった」ときに、すべての外界の境遇に応じて、精神の働きが、いかに
自由自在になるものであるか、それは強迫観念の治った人の体験し、そして
みな喜ぶところである。思想の矛盾がなく、恥ずかしい気になりきった人が、
演説や取引がいかによくできるか。なりきったときに働く心の、その働きを
認めえたとき、喜びを感じずにはおれないのである。目前にチラとする塵、
その塵に対する瞬きの微妙さ、あるいはとび来る石を、とっさに交わす瞬間の
活動というような、われらの心の働きの微妙さが現れるのである。その働き
の喜び、それがすなわち「日々是好日」である。それはつまり、思想の矛盾
のなくなったときである。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社
  より

■当たり前のことをそのまま受け取り、必要以上に考えすぎないことなのだろう。
哲学や宗教を究める途中で陥りやすい、思想の迷妄、矛盾を脱するには、
あるがままをなりきることで自然体でいられるのかもしれない・・・

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