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清濁あわせ呑む──美徳は不変ではない

2016-06-27 18:52:23 | 知恵の情報
夏目漱石がようやく文名高くなった頃、その多忙にまぎれて、時々訪問者に
居留守を使った。そんな居留守のある日、どうしても面会を求めて帰ろうと
しない某社の記者に対し、漱石は自分で玄関へ出て行って、「留守だといったら、
留守だよ」と言ってことわった、と言う一つ噺がつたわっている。

この漱石と同じ頃、救世軍日本の司令官山室軍平が、東京の本郷から
京都へ行ったことがあった。このとき京都駅へ大勢の信者が出迎えたが、
山室の二等車から降りるのに、怪訝の目をみはった。救世軍と言う宗教団体
の立場からすれば、節約の道徳から当然三等車へ乗るべきなのに、とあと
で信者間に異論が出た。が、しかし、この議論は少しおかしい。二等車へ
乗れる旅費を持っている人が、三等車へ割り込むことは、満員になって三等
の旅費しか払えない人を立たせることにもなる。これでは救世軍の精神に
反する。山室は、当時の三等の混み方から、その席をゆずる意味で二等車へ
乗ったのであろう。

正直も節約も美徳である。しかし、上記のような事情では、この美徳も
捨てなければならない。そのこともまた一つの徳をなすといえ、この間の
モラルを最も言っているのは、菜根譚七十六条だろう。
曰く、
「地の穢れたる者は多くの物を生じ、
 水の清める者は、常に魚無し。
 故に君子は、当に垢を含み汚れを納むるの量を存すべし。
 潔を好み独り行うの操を持すべからず。」

汚いチリやアクタなどの集っている土地は肥沃なので作物がよくできる。
反対に汚れのない清流には魚は棲めない。だから、君子たるものは
この辺の道理をよくわきまえて、清濁併せ呑むの大雅量がなければなら
ない。あまり潔癖過ぎて自分だけ孤立になるようでは、決して大事業
は成就するものではない。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

枡添氏は、どうだったのか。考えさせられる。清濁併せ呑んでいたような
気もするが、仕事は、潔癖だったのではないか。石原氏などは、事務
官僚のお膳立てにうまく乗ったり、政府からの要請に二つ返事で
乗ったり、都民には不都合でも、大きな事業をうまくやってのけていたのかも
しれない。新生銀行の失敗は、枡添氏のところで解決したと聞く。
枡添氏もファーストクラスの問題にしても事務官僚にけち臭いことをいわずに
合わせていたのだろう。政治家だったから、清濁併せ呑むのは
心得ていたのだと思うのだが、残念だったと思う。新しい知事もあまり
潔癖に仕事をするとフィクサーにやられる気がする・・・

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