「ナザレのイエス」は、長い映画だが、この中で、ゼフェレリのユダについての解釈にとても
興味がわいたのを覚えている。そこから、少し考えてみたい・・・
弟子のなかでも優れて理性的であり、ペトロと並ぶリーダー格の存在であったとも言われる
ユダは、決してイエスを憎んでいたわけではなかった。師としてとらえていたのだ。
彼は、イエスの奇跡や、話など、弟子として、その教えに感動していた。そのため、イエスを
多くの人に知らしめたいと思っていた。しかし、師の説く愛に不満もあった。
それで、ある演出を考えていたのだ。ユダが、時のローマの管理者に密告すれば、たとえ捕まっ
ても、師イエスは、その偉大な力を持ってそこから逃れるだろう。そうなれば、それこそ、
世界にその威厳を知らしめることができる。ユダは、そう考えた。そうして、その計画を実行した。
最後の晩餐のとき、ユダはその考えにとらわれていた。そのため、うつろな自分だけの世界に
入り、イエスが、「私と同じ器から、食べた者が裏切る」と話していて、つぎつぎに弟子が
「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出したが、ユダが「あなただ」といわれても
それを信用しない様子で、気づいていなかった。
ゼフェレリは、気づいていない、その映像をなにかが掛け違っているような、不思議な感じで、
表現していた。(ダ・ヴィンチをはじめ多くの画家がこの場面の表現しているのは、圧巻である
それをうまく取り入れていた。)
そうして、イエスは、ユダのせいで貼り付けになった。ユダは、自分の思惑と違った事態になり、
イエスが罪に定められたのみて、後悔し、金を返したが、結局、首をつった。
この、ユダの思い違い、というものは、自分たちの生活のうえでもあることだと思う。
この場合、「人間のあり方」というものに目を向けていないといえないだろうか。
イエスは、個人個人の救いのために出てこられたのであり、有名になるためにでてきたのではない。
一見、有名になり、多くの人が知り、イエスの教えが伝わる機会がふえる、とてもよいことでは
ないか、となるだろう・・・
しかし、そこには、ユダの心には、サタンに入られたとしても、有名にさせようという虚栄心がある。
また、イエスの説くことを理解せず、なんとか、広めたいという欲望、執着がありはしないか。
イエスがおっしゃる「隣人愛のもたらすもの以外の感情をとりさらなければ、天国からの使いも
神もみることは、できない」ということをなしていない。心の清い人たちのやるべきでない
ことをユダはしてしまった。
興味がわいたのを覚えている。そこから、少し考えてみたい・・・
弟子のなかでも優れて理性的であり、ペトロと並ぶリーダー格の存在であったとも言われる
ユダは、決してイエスを憎んでいたわけではなかった。師としてとらえていたのだ。
彼は、イエスの奇跡や、話など、弟子として、その教えに感動していた。そのため、イエスを
多くの人に知らしめたいと思っていた。しかし、師の説く愛に不満もあった。
それで、ある演出を考えていたのだ。ユダが、時のローマの管理者に密告すれば、たとえ捕まっ
ても、師イエスは、その偉大な力を持ってそこから逃れるだろう。そうなれば、それこそ、
世界にその威厳を知らしめることができる。ユダは、そう考えた。そうして、その計画を実行した。
最後の晩餐のとき、ユダはその考えにとらわれていた。そのため、うつろな自分だけの世界に
入り、イエスが、「私と同じ器から、食べた者が裏切る」と話していて、つぎつぎに弟子が
「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出したが、ユダが「あなただ」といわれても
それを信用しない様子で、気づいていなかった。
ゼフェレリは、気づいていない、その映像をなにかが掛け違っているような、不思議な感じで、
表現していた。(ダ・ヴィンチをはじめ多くの画家がこの場面の表現しているのは、圧巻である
それをうまく取り入れていた。)
そうして、イエスは、ユダのせいで貼り付けになった。ユダは、自分の思惑と違った事態になり、
イエスが罪に定められたのみて、後悔し、金を返したが、結局、首をつった。
この、ユダの思い違い、というものは、自分たちの生活のうえでもあることだと思う。
この場合、「人間のあり方」というものに目を向けていないといえないだろうか。
イエスは、個人個人の救いのために出てこられたのであり、有名になるためにでてきたのではない。
一見、有名になり、多くの人が知り、イエスの教えが伝わる機会がふえる、とてもよいことでは
ないか、となるだろう・・・
しかし、そこには、ユダの心には、サタンに入られたとしても、有名にさせようという虚栄心がある。
また、イエスの説くことを理解せず、なんとか、広めたいという欲望、執着がありはしないか。
イエスがおっしゃる「隣人愛のもたらすもの以外の感情をとりさらなければ、天国からの使いも
神もみることは、できない」ということをなしていない。心の清い人たちのやるべきでない
ことをユダはしてしまった。