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ユダの思い違いについて───フランコ・ゼフェレリの「ナザレのイエス」より

2016-04-23 18:57:35 | 日記
「ナザレのイエス」は、長い映画だが、この中で、ゼフェレリのユダについての解釈にとても
興味がわいたのを覚えている。そこから、少し考えてみたい・・・

弟子のなかでも優れて理性的であり、ペトロと並ぶリーダー格の存在であったとも言われる
ユダは、決してイエスを憎んでいたわけではなかった。師としてとらえていたのだ。
彼は、イエスの奇跡や、話など、弟子として、その教えに感動していた。そのため、イエスを
多くの人に知らしめたいと思っていた。しかし、師の説く愛に不満もあった。
それで、ある演出を考えていたのだ。ユダが、時のローマの管理者に密告すれば、たとえ捕まっ
ても、師イエスは、その偉大な力を持ってそこから逃れるだろう。そうなれば、それこそ、
世界にその威厳を知らしめることができる。ユダは、そう考えた。そうして、その計画を実行した。

最後の晩餐のとき、ユダはその考えにとらわれていた。そのため、うつろな自分だけの世界に
入り、イエスが、「私と同じ器から、食べた者が裏切る」と話していて、つぎつぎに弟子が
「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出したが、ユダが「あなただ」といわれても
それを信用しない様子で、気づいていなかった。
ゼフェレリは、気づいていない、その映像をなにかが掛け違っているような、不思議な感じで、
表現していた。(ダ・ヴィンチをはじめ多くの画家がこの場面の表現しているのは、圧巻である
それをうまく取り入れていた。)
そうして、イエスは、ユダのせいで貼り付けになった。ユダは、自分の思惑と違った事態になり、
イエスが罪に定められたのみて、後悔し、金を返したが、結局、首をつった。

この、ユダの思い違い、というものは、自分たちの生活のうえでもあることだと思う。
この場合、「人間のあり方」というものに目を向けていないといえないだろうか。

イエスは、個人個人の救いのために出てこられたのであり、有名になるためにでてきたのではない。
一見、有名になり、多くの人が知り、イエスの教えが伝わる機会がふえる、とてもよいことでは
ないか、となるだろう・・・
しかし、そこには、ユダの心には、サタンに入られたとしても、有名にさせようという虚栄心がある。
また、イエスの説くことを理解せず、なんとか、広めたいという欲望、執着がありはしないか。
イエスがおっしゃる「隣人愛のもたらすもの以外の感情をとりさらなければ、天国からの使いも
神もみることは、できない」ということをなしていない。心の清い人たちのやるべきでない
ことをユダはしてしまった。