ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

心のうちに打ち立てられた 確信

2016-04-12 16:54:42 | 日記
愛するということと信じるということは同じ一つのものからでています。
愛は感情ではなく最上の理性のあらわれであるように、信じるということは
無条件の服従を意味せず、心のうちにうち立てられた確信をいうのです。

信じることにより人は苦悩や懊悩から逃れることができ、また、信義(うそを
言わず正しい道をまもること)により互いを守り、保護することもできます。
信義は、苦悩や懊悩を超え、害や悪を打ち負かすための防壁でもあり、
建設的な考えをもつ者の精神なのです。

信じるというのは、、内にこもるものではなく、それだけで外に向かって
出ざるを得ないものです。愛がその人を善へと駆り立てるように、
信もまた人を義(人がふみ行うべき正しい道理)へと走らせるのです。

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人を信じることとは、その人の可能性を信じ同じ思いを知るものとして
対することです。時には、歪むことがあっても、その心の中に飛び込む
気持ちで忠告をすれば、必ず正しい道に戻ります。

人を信じることは、やさしい心と同じ、寛容な態度でその全人格、言葉や
行いを受け入れ、また、正しい方向に向くまで待つことです。勿論、
忠告をして待つので、その人の反省すべき点を指摘せずに待つことは
無意味です。

賢明な人には、穏やかに言葉を選び、はっきりと言わなければならぬ人には、
はっきりと。

しかし、忠告や助言に対して、反発心しかわかず、素直に受け入れがたい
独善的な人は、それ以上の向上は望めず、放置しておくしか仕方がありません。
プライドの高すぎる人も同じです。助言に柔軟に応じる人は、ますます人格が
幅広く円熟し、磨かれたものとなるのは言うまでもないでしょう。しかし、
勿論、柔軟なjだけでいつまでも賢明になれぬ者は、助言を真に受け入れたとは
言えません。

また、人を信じるとは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、真直ぐな心で
受け入れることなのです。

人が偽りを言い、あざむこうとする時、それに気づくのは、遅くても構いません。
他の証言を得、あらゆる点から見て、あなたに真実を語らぬと分析的に証明
し得た時、はじめてあなたはその者を悪と断じ拒否すればよいのです。
その場合には、毅然として譲らずに。関係をたつことに未練を残さずに。
それまでは、お互いの善我を信じ、許しあいましょう。

─エル・ラファエルライエル参照、参考

このお話で、愛と信が同じものからでている、そして、心のうちに打ち立てられた
確信であるというのは、読んでいてはっとした。私は、そういう思いで、相手を
信じていただろうか・・・
相手の可能性を信じ、同じ思いを知るものとして対するというのも大切なことだと思う。