君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

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川口由一さん インタビュー「智情意 真善美」人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、大切な働きと人間性のお話し

2019年03月22日 | 自然農川口由一の世界

川口由一さん インタビュー

「智情意 真善美」

人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、
大切な働きと人間性のお話し 

 

八木 人生の創造において大切な「智情意」と人間性の成長に関わる「真善美」についてお話しを聞かせてください。

 

川口さん そうですね、人という生き物に与えられている必要不可欠なものとしての智力能力である智情意ですね。生まれながらにして与えられている、この身体のなかにそうした働きも与えられているものです。それがいかに十全に働くかどうか、一人一人の人生における課題でもあります。どれだけ深く高く広く、あるいは色濃く強く大きく働くか、あるいは濁ることなく穢れることなく、曇ることなく止まることなく働くことが大切です。真善美という視点のことは心の問題、霊魂魂魄の問題の中心となる人間性に強く深く関わってくるものです。切り離せない智情意と真善美です。

 

 先に智情意ということをみてみますと、智は知識する、智恵が働くの智、特に頭脳で働く、頭で考える、そうしたことを指しています。分別する、察知する、予智する・・・、智の力、そうした分野のことです。情はりっしんべんに青い。心の色どり、心の働き、また情緒、情のいろどり、情は心臓を中心に働き、智は頭を中心に働く、そんなふうにも考えられます。意は意欲だとか意気揚々とか、意志力で行動するとか、あるいは気力を充実させる等、そうした時に使う言葉に含まれている意味です。智で、情で、意で、・・・いずれも生きることに欠かすことのできない基本となる働きです。いずれの仕事をするにおいても、人に働きかけるにおいても、一人で色々と思索するにおいても、一人で宇宙自然界に存在するいのちとして色々と考えている時にも、行為行動する時にも必要とする働きです。生きるにおいて、全人生において、それらの働きで思い考えることができる、思索することができる、行為行動ができる、人とも会話を交わせる、交流できる、出逢える、共に生きることができるのであって、常に智情意が働いています。


 この智情意の三つの働きが何一つ欠けることなく一つとなって十全に働いていないと、その時その時を全うできない、あるいは一つの仕事を全うできない、人と正しく接して対応することができない、あるいはこの自然界生命界を、いのちを、宇宙の実相実体をとらえることはできません。智だけでは、情だけでは、意だけでは人生を全うすることはできません。一つが欠落してもあるいは一つに偏っても全うはできません。

 

 ところで、生きるに必要なものとして全部与えられているのですが、それらを養っていかないと育んでいかないといけないもので、養えば養うほどに深く深くどんどん働くようになる、そういうものです。自らを養う、人間性を養う、智、情、意を養い育む、真、善、美を養い育む、人間性を養い育む、ということが人として育っていくということであり、ほんとうに大切なことです。

 

 ところで、すべてが同時に働いていないとだめなわけですが、身体のどの部分で働くのかを考えてみます。それぞれの内臓内腑や諸器官や頭、目、耳、鼻、口、手足、皮膚や肉、脊背骨、等々いずれも身体のすべてと関係しており心身一如、霊肉一体であって切り離せないことです。ゆえに身心共の健康が大切であり、身と心、霊と肉は共の健康、健全が大切であり重要になります。

 

 例えば智の働きにおいて頭脳プレーではだめで、情も意も働いていないと充分ではありません。智が先行すると他人に対して冷たくなる、あるいは智力で出した答えに情が伴い情の裏付けがなければ納得が入りません。あるいは情の方も智が働いていないと情に流れ惑い混沌としてしまい整理がつかなく混乱します。智の働きが同時にあることで、情の働きで感じたこと、察したことや伝えたいこと、話したいことが整理されます。そこに意志力も備わって実践することができます。諸々の働きを正しくできる、すぐれた創造ができる、人と絆を美しく深めていくことができる、生きることができる、一生を全うすることができる、人として心平和に豊かに美しく生きることができる、そのように繋がるものです。智情意一つにして総合的に働くようになるべく大いに養い育み、人として成長することが大切です。

 

 ところで、智情意を働かせるにおいて、人間性の成長となる「真善美」という視点があります。智情意が大いに正しく働く人に育つにおいて必要となる内なる心における真善美であり、心の状態を示し現わす視点です。真とは、まこと、真実、ほんとうという意味をさしている言葉であって、反対は贋、偽り、嘘などの言葉で示すものです。善はよきこと、善なる心、善行等を示す言葉であって、反対は悪、悪心、悪行などの言葉で示すものです。それから美は美しい、人としての美しい魂、美しい心、清浄なる霊魂魂魄等を示す意味であって、反対は醜、醜い、きたない、汚れ、不浄などの言葉で示す意味です。心が美しくなければ、霊魂魂魄が清浄でなければ、それが表面的であったり偽りであってはならない、真でなければ、あるいは退廃美であってはならない。悪魔的な美、異様なる美であってはなりません。このように真善美、三つが揃っていなければなりません。美も善と真に裏付けされていないと人としての真の美になりません。善においても真の善、美しい善でなければなりません。偽りの偽善であってはなりません。そのように真善美全部そろってはじめて人として成長しているのであって、そうした人間性を養わないといけないことになります。そのことによって、優れた実践、ほんとうに優れた創造を成すことができ、優れた素晴らしい幸福の人生、心平和で豊かな心から救われた平安の人生を生きて全うすることができます。

 

 ところで幸福の人生を生きて全うするにおいて、何か仕事をするにおいて、美しい絵を描くにおいて、あるいは常に正しく生きるにおいて大切な真善美は、まず自分が人として美しく育つことが大切です。真の人に、善なる人に、美しい人に育つことが基本となります。そして智情意がよく働く人に育つ、そのことによって幸福裡の人生の全うが実現するものです。あるいは生きるに必要となる生きる舞台である宇宙自然界生命界の真の姿が見えてくる、宇宙が本当に美しく見える、善なる自然界、真の自然界、あるいは愛する人の真、善、美の事実が観えてきます。それが観える人に育つことが大切です。そうした優れた心眼を、真眼を、神眼を、悟眼を、美しい眼を、美しい聞く力、察する能力を養わないといけません。人間性の成長がまず大事で、そのうえで人との接し方において、何かの役目、務め、仕事をするにおいて、あるいは住まいを整えるにおいて、自分の身だしなみを整えるにおいて、やはり悪であったらいけないし、醜であったらいけないし、真であり善であり美であることが大切です。行為行動において、人を育てるにおいても、何においても、美しく真の人に育てないといけないし、使命、天命を果たすにおいて、智情意を大いに働かせて、真善美を備えた人間であらねばなりません。それらを認識するに欠かせない智情意という視点と真善美という視点です。いずれも一人一人の内からの成長に欠かせないことですし、行為行動においてもそうでなければなりません。

 

 例えば、芸術の分野における多くの作家がおられての作品がありますが、その作品から聴こえてくる音色が、描かれている絵が、創られている彫像が、創られている仏像が、創られている陶磁器や工芸品が・・・、創られている建物が、創られている街が、創られている環境が、それが真であるか、善であるか、美であるか、あるいは智情意を大いに働かせたほんとうに良き状態で作られているか、描かれているか、表現されているかの判別をすることの智力能力も必要になります。一枚の絵に作者の人間性が現れるので、作者のありのままの姿、実なる人間性が見えてきます。この作品は情緒が豊かだ、でも智恵が不足して澄み渡ることなく混乱しているとか、知的に澄んだ絵を描いておられるけれども少し知的過ぎて情緒が不足してなんとなく冷たいとか、あるいは知的に頭脳プレーで操作したてらった作品になっているとか、意志力で大いに頑張っておられるけれど情が伴っていなくて殺伐としている、あるいは智力が不足して乱れて不安定だ、等々見えてきます。智情意も真善美も正しい在るべき在り様に育ち備わることによって幸福に生きることができます。優れた創作ができ、他者の美醜の別も判別ができて、醜から離れて優れた真に美しいものを愛でて美しいものを観る喜びを得ることができて、優れた芸術作品を観賞することの意味深きものとなります。人としての普遍の喜びを得るにおいて欠かせないことです。

 

 自分の描いた絵も、人の描いた絵も、いつの時代に描いたものであっても人として普遍ですから、あるいはどこの民族であったとしても人ですので、この人はどういう状態になっているのか、どういう状態でこの絵を描いたのか、この仏像を仏師はどういう心の状態で創ったのか、真善美や智情意の働きが見えてきます。創作するにおいても観るにおいても自分の在るべき在り様を行為行動を確認して、本当に優れたものを描ける人に、創れる人に、観ることができる人に、そしてほんとうに優れた人生をおくれる人に育つことが大切です。喜びのうちに、幸せのうちに、人生を全うしなければなりません。智情意も真善美も人間性の成長において大事な大事な是非に必要となるものです。

 

八木 人生の全うに大事な視点であることを、あらためて深く認識することができました。ありがとうございます。それでは、もう少し続けて質問をさせてください。まず智情意ですが、その三つのどれもがそろって働いていれば申し分ないのですが、生きてくるなかで偏って育っている場合もあるかと思います。まずは、大元になる「情」が不足している時、「情」を自ら育む場合にはどのようなことを心がけたら良いのでしょうか。

 

川口さん 智情意いずれにおいても、自ら育む場合は存在のすべてを働かせて情を働かせることが大切です。分別であるいは理性で心情を現わし働かせるのではなくて、心底から働かせていくことによって育っていくものです。この宇宙生命圏に与えられている肉体と肉体に宿すものすべてをしっかりと働かせて育ってゆくことが大切です。ところで、育み養うにおいて情の意味を自分の内なる姿から、情とはこの働きのことをさすのか・・との事実を通しての認識がいります。

 

八木 智情意は存在のすべてをしっかりと働かせることから育つのですね。ごく最近、ある体験から事実を通してそのことに気づかされたことがありました。一人でいながらにして絶対なる宇宙に抱かれており存在の心底から湧きあふれる喜びがありました。ふりかえり観ると情を中心にして智と意も同時に使っているように思いました。

 

川口さん 内に宿されている働きの情を知った上で存在する、この宇宙に一人しっかりと存在しきる。その在り方で情も智も意をも育んでいくことが大切であり、そのことを重ねているうちに育つものです。あるいは蘇ってくるものです。あるいは目覚めてくるものです。

 

八木 幼い頃は自然に育まれていたようにも思われるのですが、その働きを知った上で生きているあいだは成長し続け、智情意すべてを育み、時には蘇らせ、さらにさらに目覚めてゆきたいです。ところで、宇宙に一人しっかりと存在しきる・・という状態を言葉でもう少し表していただけますか。

 

川口さん なりきっている、治まりきっている、存在しきっている・・。例えばあの紅葉しているモミジは、モミジになりきっているでしょう。宇宙生命界自然界に生きているすべてのいのちはそれぞれになりきっています。鳥が空を飛んでいる時、魚が泳いでいる時、それになりきって必要に応じて鳥が空から舞い降りてきて海の魚をくわえる、飛んでいる鳥が獲物をくわえる、すべてが今を生きているのです。全存在で生きています。その時その時、智情意まるまる全部働かせていると思うのです。そうした全存在で生きていることによって人も年を重ねるにつれて育ち、すべてが大いに働くようになるのですね。

 

 ところで、人は年重ねるにつれて自然に育ってゆくなかで智情意すべてがよく働くように育つ存在です。元より与えられているゆえに与えられているものが成長と共に育ち養われるのですね。真善美しかりです。美しいもの、真のもの、善なるものを好む性を元より与えられて持っていますから、年齢を重ね、生きることを重ね、育つにつれてさらに大いに働くようになります。それなのに働かないのは育ってくる過程の中で働きが十分でない、あるいは働かなくなるのは障害物がうちにあると思えます。過程の中というのは両親祖父母等家庭環境や社会環境などですが、一番は両親祖父母そして兄弟姉妹との関係においてです。最初は両親、お腹のなかに宿った胎児の時、出産後の乳幼児期、少年少女期、大人や親に助けられ依存せざるを得ない時期です。それは大人や親の智情意に接しての日々でありますし、親たち、大人たちの智情意に養われ育まれている人生の始まりですが、その大切な時期に親が智情意を十全に働かせて大切な子どもとして育てなかったら、それが偏ることなく自由に素直に働かなくなる子になってしまいます。

 

 例えば口うるさい躾型の親のところで育てられると子どもは意志力で対応しないといけないでしょう。子ども時代は情が中心ですから、意志力で応じるのは苦痛であり苦手です。こうした乳幼児期、少年少女期の子どもは情が中心なので、子どもを思う親の愛情で育て導くということが重要になります。そうでないと根底にある最も大切な情が枯れていったり萎えていったりすさんでいったり損ねられたりして可哀想な人になっていきます。知的に躾てしまうと子どもは意志力を働かさないと親の躾に応じられないゆえに情が働かなくなっていきます。美しい親の情を十分に働かせてその時その時をいろいろと必要なことだけ親の智恵で示すとか答えを表わすことを中心にして育つのを見守り続けて、やがて子どもが大きく育ってくると必要なことを言葉で示して理解できるようにする。いまだ幼い時期の子どもに美しい真で善なる情を与えていなかったらだめなのですね。人としての中心となる情が働かなくなるのです。まず親の愛情をもらって初めて安心する、平安を得る、そのなかで一つのいのちになりきった状態で人としての全き状態で育つのが人としての正しい本来の育ち方です。乳幼児期は親に依存しているゆえに、親から人としての情を中心に全きものを与えられることによって全き優れた人として自ずから育ってゆくものです。それ以前の胎児期においては、男女がほんとうに全き状態で愛おしみあって豊かな情緒で、想いで、智情意、真善美全部そろった中で喜びのなかで二人が交わり歓喜のなかで次のいのちが宿れば、新たないのちのスタートは人としてのすべてが揃った胎児として誕生し、育ち、その後も乳幼児期、少年少女期とすてきな親心のなかで大安心の日々でスクスク健全に育つことができて、やがては優れた智情意と真善美を発揮することができる人に育ちます。

 

 ところが多くの場合、なかなか十全な優れた両親祖父母の元で宿り育てられるのは容易ではありません。もちろん時代背景もあり戦争の最中に宿り誕生しての幼少期であったり、大変な不幸な社会状況家庭状況の中で育つことになればいろんな問題を持ってしまうと思います。子どもにとっては運命的な不幸なことです。しかしいかであれ大人になるにつれて自らで解決しないと救われないことですから、是非に自力で解決せねばなりません。ありがたいことに解決できるものが与えられています。自らの想いと自覚と努力で情緒を育んで豊かに働かせ、智力を豊かに働かせ、意志力を豊かに働かせ、優れた智情意を養いもって一生を立派に全うしてゆくことができます。我が道を得て、その道で素晴らしい働きをしてゆく、人は人として立派に全うできる存在です。両親祖父母に口やかましく躾で育てられて、今度は自分の子どもに口やかましく躾をしがちですが、人として立派に育てば今度は自分の子どもに美しい情緒で、澄んだ智恵で、つよい意志力で優れた人間に育てることができます。こうして人本来の在り方ができれば親も子も幸福ですね。

 

八木 いかに育ってきたとしても、これらのことを認識して次の世代を育てることができれば素晴らしいですね。

 

川口さん 智情意すべて一つとなって大いに真に善に美に働くべく育つ私たち人間なのですね。

 

八木 それでは次に「智」について教えてください。もし智が足りない場合はどのようになりますか。

 

川口さん 正しい在り方、幸福への在り方、平和への在り方を見い出せないでしょう。混沌混乱で事々において、生きるにおいて、他者との関係において整理がつかなくなるでしょう。何事においても正しく治められないでしょう。問題を明らかとできず、真の解答は得られないでしょう。自分がどうなっているのかも、他がどうなっているのかもわからないでしょう。自分とは、人間とは、宇宙とは、生とは、死とは・・・、この仕事の本質は、正しい答えは、いずれも明らかとならずでしょう。混迷が深まり暗闇の中に陥ってゆくことになるでしょう。

 

八木 智の根本にあるものは何でしょうか。

 

川口さん 智情意いずれも根本にあるのはいのちであって、幸福に生きたいと願う自ずからなるいのちからのものであり働きです。智を働かせないと今を生きれない、喜びの今に出来ないから智が働くのです。死にたくない、生きるには智力が要る、全うに生きることに必要ゆえに智があるのですね。宿しているいのちに智の能力が与えられているから今を生きるに働くのです。必要だから与えられているのです。生きるに必要なものはすべてのいのちに過不足なく与えられているのです。私たち人間にもですが、木々草草鳥獣たち魚たち夫々にです。死にたくない、生きる、生きているあいだは生きる、苦痛は避けたい、不幸は好まない、楽しく嬉しく真の幸せに生きる、喜びに生きたいという心底の願いで智情意が働くのです。

 

 実際に幸福に生きるにおいては絶対境地の体得も必要になります。元より絶対界あらしめる絶対の宇宙に存在しているのですが、見失ってしまうとか、逃避してしまうとか、他に依存してしまうとか、幼児性のままでとか、自閉するとか、他人に対して自閉するとか、宇宙に対して自閉するとかは、いずれも一人でしっかりとこの宇宙に立つ絶対の境地を体得できていないゆえです。いずれにおいても智恵か智力か智の働きが必要になります。

 

 例えば風邪の病で原因が身体の表面にある時は、宇宙と一体になれなくなって孤立して閉じている状態です。それは心からの自閉ではなくて病による身体からの自閉ですが、生きるのに心苦しくて辛くなります。人としていまだ成長に至らず宇宙絶対界を体得していない時は、逃避や自閉に陥った状態での日々となり、人生を送ることになる場合が多くあります。大いに真の智情意が働く人に真に育ち、絶対の境地の体得をしないと人として救われることなき不幸で淋しい苦しい人生になります。絶対界に立つことの智力能力を養うことは、人として一生を全うするのに大事な基本となることです。

 

八木 とても大切な智であることがわかりました。それでは意の力が足りない場合はどうでしょうか。

 

川口さん 正しい在り方が明らかとなっても実践できないでしょう。幸福に生きる意欲が不足すれば成就しないでしょう。やがては怠惰的になって、ますます意欲、気力がなくなって退廃的ともなり正しく生きることから逃避することにもなります。意志力の一番の出どころは、幸せになりたい、真の喜びを得たい、それともう一つは死にたくない、いのち有る者は基本的に死にたくないのですね。生きている間は生きたい、生きる。ところで自死する場合もありますが、基本的には植物であろうが動物であろうが人間であろうが、みないのちある間は生きたい、肉体にいのちを宿している間は生きたい、生きる。本来は自死することはないいのちです。木々、草草、鳥獣たち、あるいは地球も月も太陽もすべての星々みな自ら死ぬということはないですね。人もそうなのですね。いのち本来はいのちが尽きるまでは生きたい、死にたくない、ゆえに意志力が働くのが基本です。その為の道を探すのも、見出した道を歩むのも意志力によるものです。そして私たち人間は生きる時は喜びの今を生きたいと願うのが情の基本です。あるいは美しく生きたいと願うのが美の基本であり、真に生きたいと願い欲するのが真の基本です。そうしてすべてが正しく揃って喜びの人生平和の日々となり、生きている間は喜びのなかで心平和に生きることができるのですね。

                                                                                                              

八木 意についてとても明確になりました。ありがとうございます。ところで、川口さんが絵をご覧になられて「この絵は幼児性がありますね。」と言われることが度々ありますが、「幼児性」から抜けきれないのは何が育っていないからでしょうか。

 

川口さん 幼児性というのは悪ではなく醜でもなく偽りでもなくて、幼心や少年少女の心、青年の心等、いずれもなくしてはいけないものですが、人として育ち、成人していなくての幼児性は解決して育たないといけないことです。この問題となる幼児性を解決できないのは絶対の境地の不足や欠落によるゆえでもあります。絶対世界である宇宙における現象世界に存在する相対界の姿形を得て生まれてきた私たちです。人も絶対宇宙に存在している相対世界の存在ですから、他の何かに執らわれ自分に執らわれ解放できなくて絶対界に立てずに相対界に陥るのです。そして今もなお絶対の境地が欠落しているのです。ゆえにどこかで解放されていない、閉じている、あるいは人として正しく育っていないのです。執着したくないのに自己執着になってしまう。年齢は大人になっているのに人として育っていなくて自己執着するとかお金に執着するとか、名誉や地位や権勢に執着する等々に陥るのです。生きるにおいてこの宇宙自然界に生命界に我を解放できてなくて自分に執着する、存在そのものに執着する。あらぬものに執着することになるのですね。その年代年代を生ききれない、全うできない未熟なる状態であって不幸です。

 

八木 その年代年代を生ききれない・・というのは・・・。

 

川口さん 刻々刻々時が流れている、いのちは営んでいる、その瞬間瞬間を新た新たに生きて成長をする営みをしているのに全うできていないのです。あらぬものに執着するので生ききれていなくて成長しないのです。

 

八木 全うできていないと言うのは、いつも心を残しているということでしょうか。

 

川口さん 例えば今あるものをよりどころにしている、今の現状をよりどころにしている。昨日も一昨日もずっと現状に依存していたのですね。あらぬものに、枝葉のことに、未熟なる自分に、現状に執着しているのです。解放して今を生きると刻々刻々変化する、刻々刻々成長するのです。成長する在り方、生き方を避けているのですね。逃避です。

 

八木 逃避ですか・・・。

 

川口さん 過去の続きの今ですが、今を新たに生きないで過去に執着しているのです。自分を我がいのちに、生きる舞台に、そしてこの宇宙に解放できないのですね。自分を解放し解放されたなかで大らかに育つことができるのですが、解放を妨げるものがあるのですね。

 

八木 たとえば抑圧されていたとか・・・、

 

川口さん そうですね、家庭環境のなかで親から抑圧されていたということも事情としてあるでしょうね。抑圧にもいろいろのものがありますが、いずれであっても抑圧になって今を自由のなかで生きることができなくなるのですね。

 

八木 そのような中でも解放できている人もおられるのでしょうね・・・。

 

川口さん そうですね、本来は親から何を言われようと抑圧されようと人としてのいのちの営みは自らの内なるところからの働きで解放されて生きる営みをするのです。いろいろと分別くさく躾されても、ある時パッと親離れする、解放される。そして成人してゆくこと自ずからなのです。例えば水田でお米は日々刻々成長します。自閉することなく他に執着することなく、解き放たれたなかで自分に成りきってお米を生きて刻々成長変化、死ぬまで成長ですね。

 

八木 自ずから変化成長してゆくお米のようには生きられず、幼児性から離れられないことがあるのはなぜなのでしょう。

 

川口さん それは当人にとってはそうならざるを得ないのですね。たとえば親の在り方から大人に成人しないで幼児性が残したままになる場合もあるでしょう。親が子どもに依存する、親が宇宙絶対界で一人で生ききれないゆえに淋しくて子どもの存在にすがりながら生きるという場合もあるでしょう。その場合も子どもは育ちきれないと思うのです。大人のはずの親が絶対界に立てない、その時その時自立できず解放されないので親も幼児性を残して育っていくことができない。結果子どもも育つことができず、共の成長停止、あるいは横道小道にそれてしまうことになるのですね。

 

八木 子どもに対して自分の思うように生きてほしいということですか・・・

 

川口さん それは大人として育っていない親の一つの支配ですね。親の子に対する支配です。依存というのは子どもに寄りかかることです。隔たりなく子どもに甘えている状態です。自分の存在そのもので幼い幼児に依存しているのです。寄りかかる。引き寄せる。離さない・・・のです。多かれ少なかれ子育ての中でみんなあると思います。可愛くて可愛くてしかたないから。大切で大切であり、かけがえのない尊い尊い我が幼子ですからね。もちろん幼い子の存在を受けとめられなくて反対に虐待することになる親もいます。自分を正しく生きることも我が子どもを正しく育てることも容易ではないのですね。可愛くて大事に大事にすることになってついつい別をわきまえることできなくて依存することにもなるのですね。心からも肉体からも存在そのもので子どもに甘える、依存する、それは気持ちのいいことなので、いまだ幼い子どもにとってももちろん快いのですから。ところが本来はこうして母親の愛情に抱かれているぬくもりの中で安心して育つのですが、やがては育つにつれて親の依存は息苦しくなり解放を求め親離れして自立してゆく、それが本来の成長です。そうならない場合、幼児性が根底で残ったままになってしまうことが考えられますね。

 

八木 幼児性を持ちながら社会的には活躍されているような場合は、どのようになっているのでしょうか。

 

川口さん 幼児性を持っていても人間社会でそれなりに働きを行なっている人はおられます。もちろん全く仕事ができない人もいるでしょうね。純粋な幼心は老年期になっても大切なのですが、そうではなくて、人として成長せず根底に幼児性があるならば真に優れた仕事はできません。幼児性でいのちが自閉している、絶対界に立って成長できていないという状態の芸術の分野の絵描きさんで優れているとの評価を得ている人が近代から現代において多いです。正しくない評価です。解放された状態で正しく人として成人していないのですが、異常で個性が強くて特色があるので評価されるのですね。例えば芸術家として育ちきると人としての優れた智情意が働くし、真善美も絶妙に働いてすぐれた作品を描けるのですが、育っていないゆえに働かなくて異様となるのです。それでも人間の描いたものですから異様になっていても自閉していても幼児性のままであっても生きている人間ですから発するものがありますが、ほんとうの成長した人としての喜びの状態になっていないので、真善美であり智情意の深く働いた作品とはなり得ていません。ほんとうに解放された年齢に応じた素晴らしい姿が現れてこなくて救われていないのです。

 

 たとえばシャガールですが、人間性は幼児のままなのに幼児の明るさはなくて暗くて病的です。高齢まで生きられていますが、人として育たないで過去に依存されます。描かれる絵に過去に住んでいた場所や再婚後も過去に結婚生活を送っていた女性を描かれます。自立しないで、今を生きないで、常に女性に依存していたと思えます。過去の思い出にも依存する。そして内容は病的で、退廃的に描き続けています。幼児性や自閉してしまう、解放されない、それで大人になっても育つことなく閉じたる幼児性を残したままで生きている。一人で宇宙に立って絶対界に立って人として心身ともに健全に生きることのできない一生を終えておられるシャガールです。


  人の道を得る、智情意を養う、真善美を大いに育て働くようになることは大事なことであって是非に必要ですが、容易ではないのですね。大変であるゆえに自閉すると幼児性、これがなかなかとれなくて大人として正しく育たないのですね。幼児性を解決して立派な人に育った人の作品は素晴らしいです。たとえば芸術における音の世界のモーッアルトは若くして死んでいますが、天才的で柔軟な伸びやかな健全な心情で真なる美しいしらべを作曲しています。芸術家も人であって人としての基本は幼児から少年に、青年に、壮年に、老年に、成人にと育ちゆかねばなりません。育つことを投げ出して幼児性や未熟性を拠り所にし、小さな小我を個性や偏執性を特色にして作品を描き続ける、そういう人もいます。あるいはそれに気づかなくてそのままにしているという人もいます。


 例えばアンリ・ルソーですが、幼児性のままある時から描き始められて描き続けられます。年重ねて作画に慣れるにつれて表現力は養われて、しかし人として育たずに自己執着を強く強く持って表現するようになっていかれます。救われない暗い暗い異様なる執着した作品を描くようになっていかれます。晩年になるほど自己執着に頑固に頑固になっての作品を現していかれます。だんだん異様になって描き続ける意欲と我欲は強烈です。幼児性を解決せず人として育って解放せずに執着した自己実現を絵として表しています。いずれの分野においても、人として真に、善に、美しく育たずして、人としての正しい道を放棄して生きる人がほんとうに多くおられます。ピカソしかり、ダリしかりです。人としての正しい道を問うことなく、自分に育つことを課すことなく、我欲の欲しいままを生きる、あるいは正しくない道を我儘を解放して生きる・・・、こうした生き方は不幸であり、許されないことであり、淋しいことです。

 

八木 ところで日本画の上村松園さんですが、ご本人のお言葉に「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」を念願にとあります。志高く全うされた松園さんについてぜひお話しをお願いいたします。

 

川口さん 松園さんは日本画の近年の時期の女性の絵描きさんであり、真にすぐれた人格者であり優れた人間性に育たれた真に優れた芸術家ですね。幼くして日本画家として生きることを我が道と定められています。そして自らの人間性を養うことの重要さを認識されて取り組み続けられます。描く自分においても、描きあげた作品においても、大事なことと自覚されて智も情も意も、それから真善美も自らの成長にと願い自分に課して絵描きとして絵を描き続けられた真に優れた芸術家です。年齢と共に育っていかれ年齢と共に優れた絵を描いていかれて、これほどの確かな成長を死に至るまで極め続けられる芸術家は珍しいです。絵が好きで幼い頃は鈴木松年先生についておられます。やがて竹内栖鳳先生につかれます。ところで若い頃から幼児性や逃避性や自閉するという要素は全くないのです。もちろん人としてまだ育っていない少女期、青年期は今を人として生きる松園さんではなく、今を人として女性として生ききれていないので描かれた作品は過去のものや新鮮ではない古い時代のものになっています。作品が過去のものになってしまうのは今を成長した人として生ききれていないからです。人として芸術家として育っていないからそうなります。でも決して人としての正しい道からはずれることなく生きられます。少しずつ誠実に確実に解決して成長してゆかれます。真に優れた作品を描くには人間性の成長にかかっていることを認識されておられ自覚されて取り組み続けられる人生ですね。作品にそれが現れています。 

 

 松園さんの絵は20歳~30歳頃の作品もすでに表現力は優れておられて、巧みに描いておられますが古い過去のものになっています。しかし決して醜悪な絵は描かれません。でも人間性がいまだ育っていないので人として生きようがないのです。ゆえに描いたものが古くなるのです。明治32年の「人生の花」は24歳の作品です。ここから10年後、明治42年、34歳の「虫の音」等の作品は、いまだ人として成人しておられなくて描かれる絵は今を美しく情緒豊かに生きた絵になっていません。しかし60代に入られた頃からの成熟期の絵は今を優れた人として生きておられるところから描き出されています。62歳の「草紙洗小町」や亡くなられる74歳までの作品はほんとうに素晴らしいですね。揺るぐことなく迷うことなく人として成長され芸術家として大成されます。

 

八木 澄んでいますね、きれいですね。

 

川口さん 今を真に優れた人として育たれて生きておられるから描かれた作品が澄んでいます。美しいです。濁ることなき情が、智が、描かれる意が、真であり善であり美であります。デッサンを見ても安定のなかでしっかりと対象を見ておられて表現されています。閉じることなく、幼児性も全くないのです。常に自閉することなく、その時その時を生きる、しっかりと一人で立つ強さを、絶対界に立つということを、少女期、青年期は言葉で認識されてはいなかったと思いますが、40、50歳と壮年期に至られるにつれてそうあらねばいけないと自覚されていかれたのですね。ゆえにこれだけの絵が描けるのですね。絶対界の宇宙に立ち、画面の宇宙に真善美なる上村松園さんが現れた絵を描かれているのです。決して明暗、濃淡、強弱、遠近、等、相対的な描き方はされなくなって絶対の境地から描いてゆかれています。

 

八木 すばらしいですね。

 

川口さん 心が優しいですし、ほんとうに強いですし、ほんとうに優れた人であり、その上になお美しい女性であり芸術家を生きられたのですね。松園さんは立派に育って人として実に優れた作品を描きぬかれて一生を全うしつつ死んでいかれています。

 

八木 どのような環境に生きていても、魂から一人で立つという覚悟を持つことでしょうか。

 

川口さん そうですね、自覚されたのですね。人は誰しも生きるにおいて正しく生きることを覚悟しないといけないのです。依存してはいけない。自分の描いてきた過去の絵にも、過去の自分にも依存して描いてはいけないのです。今を生きないといけないのです。そこそこの自分で、見る目を持たずに自分の絵に依存してしまってはだめなのです。他人の評価に依存してはいけないのです。松園さんは日々に年齢とともに人として育ってゆかれたから、作品も今を生きた育ったものを描いてゆかれたのです。ほんとうに喜びのなかで生きることのできる自分に育ち、今、今、今を生き通されたのです。ほんとうに優れておられますね。

 

八木 常に成長し続けられたのですね。

 

川口さん そうですね。いのちある間、生きている間、死に至るまで成長され続けたのです。人が成長しようと思うのは、自分が今、自分の心に障るものがあって、問題になっていることから解放されたい、救われたい、喜びの今にしたい、納得のいく今にしたい、そうした思いから成長しようと思い願うものです。それを自覚して成長に取り組む、まずは人間性の成長が必要です。大切な人間性の成長において智情意、真善美の意味を認識し、自分を問い省みる目安にしながら成長を図る、取り組む、自分の携わっている仕事の分野が農業であれ、芸術の分野であれ、宗教の分野であれ、政治の分野であれ、医の分野であれ、すべての分野において成長したところから実情を観極め、誤っているもの、あるいは正しく成長したものを表わし実現させているかいないか確認する澄んだ智力も必要です。しっかりと自分のしているものを見る目を、耳を、智力能力を養っていないといけません。作ろうとしているものも描こうとしているものも明らかでないといけません。描いたものもそれがどうなのかということをはっきりと観ることのできる目を養っていないといけません。それが本当に優れているかどうかの観る目を養っていないといけません。描いている絵に依存することなく、冷静に観極めないといけません。

 

 また芸術家でない者も芸術家ということだけで絶対視してはダメです。芸術家でも悪魔的な人もいますし、退廃的な人もいますし、病的な絵を描く人もいます。幼児性そのままの人もいます。自閉した人もいます。様々です。そこから作り出される作品も様々です。病的な作品、退廃的な作品、悪魔的な作品、いろいろのてらいを表現した作品、偽りの作品、幼児的な作品、こうした作品を描く芸術家になってしまうと大変な不幸になります。こうしたよくない作品が人間社会に氾濫しますと人間や社会はますます不幸に陥っていきます。誰しもが人としての喜びの人生でありたいのです。心豊かで美しい善なる人々が平和に生きる社会になってほしいですね。

 

八木 人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、大切な働きと人間性の成長に大切な「智情意、真善美」について、本質深く普遍的であり具体的にもお話しをいただきましてありがとうございました。内なるところから認識を深めることができました。

 


 

お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

 
インタビュー 編集 八木真由美 2019.3


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