君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

自然に沿って、自分につながって、
心地のよい光とともに。
竪琴ライア 自然農 ライトワーク ヒンメリ

  

川口由一さん 自然農田畑 2019年 5月

2019年07月04日 | 自然農川口由一の世界

2019年 5月中旬 

川口由一さんの自然農田畑をお訪ねいたしました。

今回は麦をぜひ拝見させていただきたくて

心はずませ 岡山から奈良へ。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

お元気な川口さんにお会いできてうれしいです。

そして田畑をご案内していただきました。

 

畑のムラサキツユクサの横で・・、川口さん。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

田んぼの北側に

風にゆれる麦が見えます。

背の高いライ麦です。

五月の空の元 やさしい姿ですね。

 

 

背が高いですが

茎はとてもしっかりとしていて

すぅっと美しく立っています。

 

三輪山を背に並ぶライ麦。

きれいです。

 

 

こちらは、手前が小麦です。↓

 

 

↓ 向って左に小麦 右に大麦です。↓

 

 

大きな穂がついているのが大麦です。↓

 

 

大麦を近くから撮らせていただきました。↓

 

 

川口さんは麦もお米と同じように苗床で育てられ

移植される方法をとっておられます。

冬草に負けないように 

一本植えでしっかりと育っていました。

 

麦を見せていただいた後、

お米の苗床を拝見いたしました。

 

 

籾が芽を出し

健やかに育っています。

今年はオケラ対策として

籾を蒔いて覆土後に草は細かく切って土が見えない程度に被せ

雨が降らない日はじょうろで水やりをする方法をとられていました。

 

 

そして、なんだかすてきなものが・・、

畑と田んぼの真ん中あたりにあるではありませんか。

葦簀で日よけになる休憩場所を

手づくりされておられました。

作業の合間にくつろぐには最高ですね。 

 

 

暑さよけになり 風通し抜群

少々の雨ならしのげますね。 

私はすっかり気に入ってしまい

作り方も教えていただき

実はお写真もいろんな角度から

たくさん撮らせていただきました。

 

 

南を向けば三輪山

お米の苗床や麦を眺めることができます。 

 

 

北を向けば 畑の様子が見えます。

なんてすてきなのでしょう。

ときめきます。

 

さらに支柱の足元には朝顔の種を

蒔いておられるそうです。

その涼しげな風景が目に浮かぶようです。

夏が楽しみ、風情がありますね。

 

畦にはクローバーが自生していました。

のどかでゆったり、

自然にそった生き方はほんとうに豊かで

しあわせな気持ちでいっぱいになります。

 

 

葦簀の中でさわやかな風に吹かれながら

いろんなお話しを聞かせていただき

心に深く感じるものがありました。

 

・・・・・・・・・・・・

 

さて、こちらは果樹のある畑です。

入り口ではいつものように

こぼれ種で育ったゴボウが出迎えてくれました。

耕さず 無農薬 無肥料の自然農のゴボウ

森のような世界にうっとりです。

 

 

そして、やわらかな緑が美しい

五月の畑がふんわりと広がります。

種取り用の人参が残されていますね。

 

 

その隣には同じく種取り用に

大根でしょうか・・。↓

 

 

若い柿の木が育っています。

 

 

その柿の木のむこうにはグミの古木があり、

その足元に、ささげ豆を降ろされています。

グミの木に登ってゆくようにされていますね。

 

 

その向こうの畝には

ニンニク、菊菜、人参などが並んでいました。

 

 

春菊もたくさんお花を咲かせています。

 

 

ひと際目を引くクレマチス。

写真ではその美しい色を

再現できないなぁと感じました。

 

 

もっともっと美しかったのです。

 

 

こちらは果樹の木の下のフキです。↓

豊かですね。

 

 

そして、ミツバチの巣箱が置かれていました。↓

 

 

お野菜と果樹花木がめぐる季節とともに 

一年中 美しい妙なる畑です。

 

 

ライラックの樹とツユクサの群生。

 

 

「ライラックに花の芽がついているでしょう。」と川口さん。

ライラックはリラともよばれていて、

私はリラという響きもライラックのお花も大好きで

いつか川口さんの畑に咲いているライラックに出逢いたい、

と毎年思っていますが、まだ実現していません。

来年こそは・・・。💕

 

 

2015年から ブログで紹介させていただいてきました

川口さんの田畑ですが、

まる四年の月日が巡り、おおよそすべての季節に

足を運ばせていただいてきました。

(ライラックの咲く頃を残していますが。)

 

この間に 学ばせていただいたこと多く

また、川口さんの田畑は心のふるさとのようになつかしく

親しみを抱くようになっています。

 

通わせていただくたびに、新しい試みにも挑戦されておられ

その意欲的な日々にふれさせていただきました。

 

80歳になられます現在は、

田植え、稲刈り、脱穀の日には

川口さんより赤目自然農塾にて学ばれ

指導者としての役目を担われている方々で

中村さん 余語さんご夫妻 小倉さん

佐藤さんご夫妻 中野さんご夫妻に、

日々の農作業では小島さんに

お手伝いをしていただいているそうです。 

 

 

また、田畑の見学をさせていただく折々に

インタビューにも快く応じてくださり

宇宙のこと、芸術のこと 人としての在り方など

貴重なお話しを伺うことができました。

ありがとうございました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

自然農川口由一の世界 ブログ記事(68)

自然農田畑をお訪ねして

インタビュー記事

芸術作品  等々、

2015年~2019年 掲載中です。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

  

 

 

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川口由一さん インタビュー「観ることについて 描くことについて 生きることについて」

2019年05月24日 | 自然農川口由一の世界

『観ることについて 描くことについて 生きることについて』

川口由一さん インタビュー 2019.5 

 

八木  川口さん、こんにちは。今回はとても楽しみにしておりました「芸術作品と人間性の成長」について展覧会図録を開きながらお話しを聞かせてください。

 

川口さん それでは東京国立近代美術館にて2004年に開催された「琳派展」の図録を先に開いてみましょう。まず、俵屋宗達と加山又造、いずれも鶴の絵を描いていますが、宗達は情が中心で知的だし意志力もあり美醜の別もつけて見事に描き上げています。誇示するとか自己顕示欲とか一切なく自分になりきって描いておられます。加山又造は自分に成りきれていないのですね、騒々しいでしょう、それから冷たくて暗い、少し邪心があって魂は美しく清浄ではなく明るく解放されていないのです。

 

八木 加山さんの場合はたくさんの鶴を描かれ数はとても多いのですが、どこかさみしさを感じます。

 

川口さん そうですね、数が多くても豊かにならないのですね、次々と描き足されたのだと思うのですが。何をいくら描いても同じ境地からのものですから、すぐれた作品には仕上がってはいかないのです。

 

八木 情が足りないのですね。

 

川口さん そうですね。不足あるいは欠落しているのです。情が作品に現われるには自分が宇宙自然界生命界、すなわち宇宙にしっかりと全き人として自立していないとだめです。すなわち絶対界に立っていないとだめなのです。存在そのもので、全存在で宇宙に一人で人として立つ、あるいは生きていないとだめです。優れた芸術家であるには本当に美しい作品を描かないといけません。醜から離れて美の創造であらねばなりません。まだそこに至っておられないのです。それは人間性の問題に関係しています。人としての心の問題においては美醜の別がついてなく、魂も心も美になりきっていない、育ちきっていないのですね。宇宙を得ていないし、人としても育ちきっていないのです。ですから表面的なのです。宗達の鶴の絵はシンプルなのですが、真そのもの善そのもの美そのものですごく確かです。澄んだ宇に美しく生きた鶴が舞っています。舞っている姿は時の流れの宙であって、いのちの営みでもあって宇宙です。宗達が宇宙を体得して今を全き人間として生きているゆえに、全き作品を描けるのです。人としてのあるべき正しい在り様に成長しておられるからです。

 

八木 そうですね、優雅に生き生きと舞っているのを感じます。

 

川口さん 光琳さんは加山さんのように濁らさず、美しく描いています。美と醜の別を知っており、ひたすら美を現わすのですが自己を確立できておらず、宇宙に立ってない、絶対界に立ってない、それゆえに濁らないように自らの内にある情を排すのです。情の濁りを嫌い、ひたすら美を描出することに取り組みます。

 

八木 光琳さんは美しく豊かな情を伴って描かれると素晴らしくなられるのですね。そこに至られるには日々何をどのように取り組むと良いのでしょうか。

 

川口さん そうですね、光琳さんは宇宙に一人立つ強さが必要です。絶対界に立つまでに育たないといけなかったのです。でも美と醜の別は認識しておられるのです。梅の絵(紅白梅図屏風)がありますが、情を排して決して醜に落ちることなきように意志力でもっての美の追求であるゆえに、作品に情からの温もりがなくて冷たいのです。情からの深い醜い濁りを強く嫌い避ける制作姿勢だったのですね。

 

八木 宇宙に一人で立つ強さがないので情を排し冷たくなるのですね。

 

川口さん そうですね。自らの内なる情が人間として育っていなくて、あらぬものに執らわれると今を確かに生きることができなくなる場合が多くあります。情に流れやすい人との関係でも情に流れて我を見失ったり、情は濁りやすくて自他を迷わせることにもなり、良き関係を創造し保てなくなったりするでしょう。その辺のところがわかっているから、光琳さんは情を排しているのです。非情な状態で美を描いておられるのです。ですから描いている時に情を排して人を近寄せない状態です。冷たい人は人を近寄せないで自分を保ち、他に惑わされない在り方で我を見失わないように保ちますね。情の正しい豊かな美しい人間に育つのは容易ではないのですね。その辺のところに宗達と光琳の人間性の違いがあります。生まれ育った環境も関係していると思います。宗達は恵まれていたように思うし、光琳は一生懸命意志力と智力を働かせて努力で生きてきたのだと思います。ところで紅白梅図屏風の紅梅白梅の小さな花や小枝は情を排して美を見事に描き出しておられるのですが、自分が絶対界に立って確かと存在できていないゆえに太い幹は描けていないのです。

 

八木 絶対界に立っていない時、大きな存在である太陽や月や山などが描けないと以前お聞きしましたが・・。

 

川口さん そうなるのですね。特に大きな存在や貴い尊い存在を受け入れ難いのですね。それゆえに山の発している気を描いたり、山に現れている光と影、あるいは遠近、濃淡等の相対的なとらえ方、描き方で表現したり、いろどりの印象で描くことになりがちです。大きいゆえに存在そのものは描けないのです。表面的になるのですね。そして太い幹はとらえきれなくて朽ちて退廃的になっています。また背景の水の流れの如きものは切り絵のようになってしまっています。宇宙が欠落しています。自分が宇宙を体得できていないからです。横山大観も大きな岩などは容易に確かな存在として描き切れないでいます。

 

八木 むずかしいのですね、その存在を受け止めて描くというのは・・。

 

川口さん そうですね。絶対の境地の体得と真に優れた人間性の成長を必要とします。このことはいずれの道に携わるとも基本となるものです。

 

八木 光琳の風神雷神図屛風はいかがですか。

 

川口さん そうですね、巧みに描いているのですが存在がないのです。情が働いてなくて智の働きを中心とした頭脳プレーで風神雷神の表層を描いていますが骨がない、本体がないのです。描かれた腕を見ても筋肉や血管まで描いていますが、腕そのものの本体がない、外から表面の表情を描いているだけで腕そのものがないのです。筋肉や顔の表情など表面的な特色だけを捉えて描き上げているのです。笑っている表情を描いていても本体の顔がないのです。

 

八木 頭脳プレーになっている時は表面的で本体がないのですね。絵に限らず、音楽を奏でていてもそのようになることがありますし、何をしていても本体からの営み、表現であることが欠かせませんね。

 

川口さん そうそう、プロの声楽家でも上滑りの表面的で我は上手なプロの声楽家なりの心で、てらいとなって本当に歌っていない場合があります。音楽は耳から入り伝わる世界ですが、表面的でてらいのなかで歌の心なきものは気持ちが悪くなります。聴いている心情の気分が損ねられます。本人がしっかりと存在して確かに生きていないから表面的なてらいになってしまうのです。日本の声楽家が西洋の歌劇を歌い演じたり、それなりの人生経験のある人がシャンソンを歌うことがありますが、どうしても表面的になりますね。宇宙にしっかり人として存在していないからです。ところで、本阿弥光悦には確かな存在はあるのですが、魂が濁っています。要するに悪人でも絶対の境地を体得することができれば悪いことでも絶妙にできるでしょう。境地と人間性の確立が大切です。光悦は絶対の境地を体得していますが、心の濁りがあると思います。清らかでないのです。美しくないのです。悪魔性に発展するものを根底に持ったままで巧みに書を描いたり器を作ったりしていますね。

 

八木 悪魔性というのは・・・?

 

川口さん 悪魔性というのは他を損ねるものを持っているということです。怖いですね。美しくなくて醜いというのはその人の人としての心の問題ですが、悪魔性というのは人に非ざる心であり姿です。

 

八木 悪魔性が現れてしまうのは幼い頃からあたたかな情にふれてこなかったことも原因にあるのでしようか。?

 

川口さん ふつうから言えばそうなりますね。両親祖父母からあたたかな情をもらっていなかったからでしょうね。もらっていなかった上に損ねられていた、その場合は年齢的に大人になっても他を損ねずにはいられなくなる、そういう自己追求をする、醜い自己執着を現わすようになってしまうのですね。それは超えないといけないことですが、なかなか超えられないのですね。他に仕返しをしないと気がすまないのでは結局自分が救われません。もちろん超える人もいて、超えた人、真に人として育った人は救われますね。根底からの平安を得ることができます。

 

八木 そうしないと自分の内が治まらないのでしようね。ぐっと我慢して溜めている、そしてそれを発散せずにはおれない、身体の病気と同じですね。

 

川口さん そうそう、仇討ちをして表面的ですがさっぱり晴らすのと同じことですね。そこを超えて人として育ち、そこから離れて暗い闇の心がなくなって人間性の成長を成せば真に救われて平安を得、爽やかになるのですね。人はそれをできるはずで、漢方治療は身体の改善によってそれをしてくれますね。心の改善、あるいは肉体の改善によって解決しなければならないわけですが、漢方治療は根本から身体とそして同時に心の問題も解決をしてくれます。

 

八木 そうですね、古方漢方の治療は健やかな人間性の成長に繋がる改善をも成す、優れたものですね。

 

川口さん 傷寒論、金匱要略を宗とする古方漢方医学、治療学は、過去からの積み重なってきている先天性の問題をもこの今に身体からの改善と同時に心からの改善をも根本から成してくれるもので素晴らしいです。

 

八木 図録に取り上げられている光琳さんの作品で、燕子花図についてお話しを聞かせてください。

 

川口さん 国宝に指定されている優れた作品です。美そのもので一点の濁りもなく、緑色の茎葉と藍色の花を装飾的に配して新鮮に今を生きている如しです。ところが、光琳自身が絶対界に立てず、宇宙を得ることできずにいたゆえに描かれた作品にも宇宙が欠落しています。画面全体における宇宙の欠落です。ゆえに切り絵、貼り絵になっています。光琳がこれだけの美しい絵を描出しながらも、基本となる大切な絶対の境地が欠落していたゆえに心奥からの納得が入っていなかったと思います。

 

八木  それでは続けて、真善美に生きられ素晴らしい作品を描かれている宗達の作品について、お話しを聞かせてください。

 

川口さん 宗達の作品全てが本当に優れているのではなくて、表面的なもの、存在の不足するもの等もあります。しかし、ここまで境地においても人間性においても優れたところに至られての作品を描かれた芸術家は稀ですね。確かな存在が真であり善であり美であり、あたたかな人としての心情から生まれる温もりが含まれた作品は、観る人に静かな感動を与え魂からの平安へと誘ってくれます。

 

ところで図録に掲載されている松田権六さんの鶴の図は、濁っていて美しくなくて存在感もなくて表面的です。ところでマチスですが情の人で明るい作品を求め続けられますが、若い頃にはずいぶんと情の濁った作品を描かれています。マチスは年を重ねるにつれて表面的で抽象的で装飾的になって存在から離れられていかれます。しかし情は濁らせなく育たれています。グスタフ・クリムトは評価されていますが、「裸の真実」は病的です。悪魔的な要素はないけれど退廃的ですね。梅原龍三郎さんの「噴煙」ですが、これはこれで本人は足りているのですね。山や木や雲など、何を描くにも梅原さんなりの表現法を身につけておられますが、真に優れた作品にはなっていません。色を豊かに使われて、それなりに人気があります。が、真に優れた大人には成長しておられないのです。芸術の本質を問う在り方はされなかったと思います。前田青邨の「風神雷神」の絵ですが、醜に落ちることなく爽やかに描いておられます。美と醜の別はご存知で醜に落ちないように心しておられます。厚く濃く深くとそうした追求はせずに爽やかです。あまり描き込んでいないのですが線で表現して淡白な色の面で現わしています。「水辺春暖」の木の幹は絶対界に立っていないゆえのもので切り絵を貼っているようになっています。菱田春草はそれなりに極められた人ですが情が不足しているのです。整然と描かれています。激しく自己主張はされておられませんが、ちょっと描き込むと物質界の表現になられて低くなりますね。そしてやはり表面的になっています。下村観山は芸術家として極めゆかれた人と思いますが、「木の間の秋」の絵は木の幹が空気の入った内実のない存在しない幹になっています。この絵に限っては情が濁っていて異様です。

 

横山大観の「秋色」は色を情緒豊かに描き始めた年代に入られた50歳の作品ですね。存在感も確かで幹も静かで自然に描かれています。秋の紅葉を現わすべくの紅色が緑色との対で新鮮で美しいです。重きをおかれている紅色が強く表面に飛び出すこともなくて明るいです。



 秋色

八木 鹿も可愛いですね。

 

川口さん 優しくシンプルに装飾的にも描出されていますね。

ところで、緒方乾山は光琳の弟ですが、光琳と正反対の人ですね。情の人でずばっと厚く大味でしょう。繊細に描き込むことなく情緒が厚く豊かであって、しかも軽やかで確かな存在を表現されています。

 

八木 描いているうちに想いがあふれて行き過ぎることもあるのでしょうか。

 

川口さん そうですね、想いがあふれたり智情意が揃わないで偏ると、一面に行き過ぎてあふれることになって秩序が乱れることがあるのです。それが自己執着になってしまうのです。

 

八木 描いている時に常に自分を省みなければならない状態と、絶対界に立った良い状態の時についてお話しいただけますでしょうか。

 

川口さん 絶対の境地を体得すると同時に人間性も立派に育ち、決して相対界に落ちることなき、また人間性に欠けることなき智情意を養い育てて確立すると、絶妙の働きとなる真人に成りきっていますので、描く絵も絶妙、神妙、真妙の作品となります。今を喜びのなかで生ききっての制作、創作です。人はこの境地に至ることができるのです。

 

八木 それでは、再び横山大観さんのお話しをお願いいたします。

 

川口さん 横山大観さんは壮年期の中頃、50代の初めから半ばにかけて最も成長しておられて、作品も最も成長した優れたものになっています。情緒も豊かで智情意みな備わっていて優れた作品を描いておられます。人間性の大いなる成長を成された年代に至って描かれる作品は素晴らしいです。40代になった壮年期の初めはまだまだで、もっと若い頃はただ姿形を描く、あるいは模写をしているだけ、形を整えているだけです。若い頃の代表作とも位置付けられている29歳に描かれた「無我」と題する幼年の作品は未熟です。情の美しくない不足した状態で、描くべく意志力で無我の少年期の姿形を描かれているだけで芸術性は実に希薄です。それ以前の作品は壮年期に人として育たれた芸術家大観の作品とは思えない未熟なものです。ところで立派に育たれ実に優れた作品を多く描かれた大観に、50代の半ば頃から60代に入る頃には少し衰えが見えてきます。

 

八木 51歳に描かれた「老子」や52歳に描かれた「洛中洛外雨十題八幡緑雨」など、とても好きです。


洛中洛外雨十題八幡緑雨 


川口さん ほんとうにいいですね。50代前半の頃には人間的にも、画家として、芸術家として立派に成長されておられますね。最も情緒豊かに美しく細やかに深く描出されるところに至られています。しかし、しだいに潤いがなくなって老年期になると生命力も衰退していかれます。肉体の老化は超越しないとだめなのです。年を重ねてそれなりの人生経験や人生哲学は持っておられますが、新鮮さが無くなります。こんなので足りているのか、納得されたのかと思えます。そして60歳後半から異様さや神秘性や怪奇趣味が出てきます。それらは良くないことです。芸術の本質、そして人間性の真の成長からはずれています。常に今を生きる、老年期を全うするという成長への生き方から離れてゆかれます。そして今日までに描き方で身に付けた表現力を頭脳プレーでもって描かれていかれます。やがてしだいに暗く寂しくなり、87歳の「風蕭々兮易水寒」等の作品では死の不安が現れてきます。老年期の成熟を成すべく生きておられなかったのですね。

 

八木 素晴らしい壮年期を生きられたにもかかわらず、淋しい老年期になってしまわれたのはどのような背景があるのでしょうか。

 

川口さん 精神的成長、人間性の成長、そして創作するに欠かせぬ絶対境地の体得にと取り組まれる優れた人生であられたのと、肉体の健康さ、生命力の強さがあったのだと思います。優れた身体を授かっておられたゆえに心と身体、霊肉共に働かせての芸術家人生を壮年期まで見事に生きられたのですが、身体の衰退、肉体の老化が現実に生じるにつれて、老化、衰退を超越できなかったのでしようね。

 

八木  大観さんは壮年期におかれては、宇宙自然界の幽玄な様を見事にあらわされておられる作品がありますが、それらの作品と大観さんのその時の境地について川口さんが感じておられることをお聞かせくださいますか。

 

川口さん 自然界、すなわち宇宙生命界は休むことなく止まることなく営み続け流れ続け刻々の変化です。このことの現れは現象であって相対界のこととなります。この相対的現象を描き表わすことによって、いのちの営みが表われます。今を生きている姿です。いのちのゆらぎです。いのちの営む姿です。これを表わすには絶対界に立たないと相対界のゆらぎ、相対界のいのちの営みは正確に美しく絶妙には表わせません。それを大観さんは表現されたのです。そこまでに至ってなおそこに成りきって老年期を全うするべく生き続け、育ち続けられたならば、さらに老年期の成熟した人間による絶妙なる真に優れた作品を描くことができたのですが、そこまでには至られなかったのですね。

 

八木 成熟した老年期を生きられ人生を最後まで全うされたならどんなに素晴らしかったことでしょう。

ところで、川口さんが青年期、30代の頃に描かれた絵を見せて頂いたことがありますが、真善美に立たれて誠実に爽やかにぬくもりのある絵を描かれておられ、すてきだなぁと感じました。どのような状態で描かれておられたのでしょうか。

 

川口さん 僕は大作を描いていなくて主にスケッチブックです。20代に芸術家になりたく、30代には芸術の世界には入らず、芸術の重要さを悟り知り、芸術を欠かせないものとして大切にする人生にしてきました。絵画、彫塑、陶芸の創作に取り組みました。そして30代に入る頃には美醜の別を判別する審美眼を養うことができました。ところで必要が生じて40代に入ってから食の正しい自立を願って自然農の世界に入り、同時に病からの自立に取り組み、作り描くことから離れました。しかし古人の作品、紀元前からの人類の優れた作品には触れ続け観続けてきました。そのことによって、芸術の分野で養い育つことができました。40代半ばから実際には作ること描くことからすっかり離れました。再び75歳頃からスケッチブックに描き始めて80歳の今日に至ります。日々の仕事の合間合間に描く在り方です。そして常に醜悪にならないように、いつも今を生きている、新鮮であるように、自分で納得のするものにと思っています。描きたいものを描く、美しく見えたものを描く、どうしても色で描き表したくなってのことです。

 

八木 描きたいものを描きたい時に描く、美しく見えたものを愛でながら描く、ほんとうに豊かな日々ですね。私自身も音楽の分野ではそのような在り方に自然になってきました。子育てを始めた頃から音楽はより純粋な楽しみとなっており、奏でたい時に奏でたいものを奏でたいだけ奏でる、時には自らの内から湧き生まれてきたものを楽譜に書き留めることもありますが、最も要となる情が働いている時にそれが自ずから花ひらくのだと気付きました。稀に書き留める時間がない場合もありますが、時を超えてその旋律を時空に置いておくことができるのだと知りました。川口さんは、お花やお野菜を描かれることも多いと思いますが、季節のものは今しか描けない時もおありでしょうね。

 

川口さん そうですね、そのために描かないといけないと思っている場合もありますが、情から本当に美しいものを美しいと観えるようになれば、その時、描かなくても消えることなく再び観ることができて描くことができるものです。もちろん綺麗だなぁ、すごい存在だなぁ、描きたいなぁ、これは、と思い、すぐに描ければしあわせです。それを自己主張することなくありのままにすっと描けたらなぁ。美しく観えているものをそのまま美しく描けると自分に成りきっての深い喜びです。その辺のあるべき在り様はそれなりに30代の頃からわかってきたので、自分で描いたものを判別する、正しく評価する、描いていた自分の内なる状態や境地を確認する等々の在り方もしています。これらすべてが今を正しく楽しく生きることのできる自分に成長することでもあります。常にスケッチブックを持って田畑に出かけ、休憩時や心惹かれた時に描いています。自宅でも描きたくなればすぐに描けるようにしてあって描きます。今日もそうなのです。ところで作品の大小とは関係なく中身の内容がどうかと言うところで、いつも描いたものを確認しています。中身、あるいは内容というのは描いた僕の人間性であり、その時の僕の内なる精神や心やあるいは境地そのものですので、よく観つめ省みることもしています。他人の作品も同様に観ますし、美醜の別もつけるようにしています。この作品を描いた時の境地はどうなのか、この作者の精神や人間性のことや境地のことや、人間性と境地の関係などを、正しく純粋に考え想い判別もするようになっています。

 

こうしたすべてのことの根底にあるのは、芸術の素晴らしさ、大切さ、重要さ、そして人間生活や人間社会に欠かすことのできない芸術ゆえにです。人間性すなわち芸術性であります。人類の大切な真の幸福は一人ひとりの人間性の成長にかかっています。すべての人が明らかに極めつくして育ち、真に優れた芸術のある日々に、人生に、あるいは人間社会になってほしいと本当に思います。

 

八木 生きることは芸術することでもあり、人間性の成長が日々の暮らしを豊かにしてくれるのですね。意義深く心はずむ楽しいお時間をいただきましてありがとうございました。そして次回も、ぜひ現在の川口さんのスケッチブックを拝見させていただきながら、芸術する深い喜びについてお話しを聞かせていただきたいです。そうした機会を今日までに折々にいただいてきましたが、私にとっても意義深いことになっています。今後もどうぞよろしくお願いいたします。



お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美

 

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川口由一さん 自然農田畑 2019年 2月 

2019年04月06日 | 自然農川口由一の世界

 

二月の終わりに奈良県桜井市にて

自然農実践家指導者 川口由一さんの田畑を

見学させていただきました。 

 

自然農40年 川口さんの田んぼでは

耕さず 虫や草草を敵とせず

持ちこまず 持ち出さず

自然に沿い応じ任せる在り方で

作物を育てておられます。 

 

 

 

静かな冬の営みから

少しずつ春めいてくる頃・・、

冬草の緑が初々しい田んぼです。

 

 

川口さんの田んぼでは、数年前から

ジャンボタニシがいます。

畝の端の稲の根や草をタニシが食べることで

畝が崩れてしまうこともあるそうです。

その修復を冬の間にされておられました。

スコップをV字に入れておられますね。

 

 

右の畦は畑との境になるもので  ↑

幅のあるしっかりとしたつくりです。 

 

 

あたたかな陽ざしのやわらかな小春日和に

川口さんにお会いできました。

田畑の見学をさせていただき

「智情意 真善美」についてのインタビュー

スケッチブックを見せていただくなど

芸術についてのお話しに心をはずませ

うれしく楽しい語らいのなかで

学びになるひと時をいただきました。

 

 

田んぼの一部には 

麦が健やかに育っていました。

苗床で苗を育てられ、

お米と同じように一本植えをされています。

力強く伸びやかな姿ですね。

 

 

こちらは畑に植えられた麦たちです。↓

排水を図るため、高畝にされています。

 

 

 

 

 

小麦 大麦 ライ麦・・・

三種類の麦が それぞれの畝で

健やかに育っていました。 

 

 

麦と同じ畑では

白菜が蕾をつけていました。

 

 

こちらは空豆ですね。

↓ 

 

 こちらは、田んぼの南側にある畑です。

↓ 

 

元は田んぼだった場所で、

こちらも高畝にされておられます。

エンドウが健やかに

ツルを伸ばし始めていました。(二月末)

 

 

 

畝には昨年の夏野菜の茎がそのまま残され

冬の寒さ除けになっています。

 

 

耕さない畝は

豊かに豊かにいのちの重なりを成し

そこで育つ野菜は自然そのものです。 

 

 

美しいキャベツ・・

生命力にあふれています。

 

 

畑の南面には笹竹を短く刈られて

垣根をされています。

この畦は近所の犬の散歩道になるそうで

畑との境界に、良いアイデアですね。

 ↓

 

そして、果樹も育つ広い畑に移動して

ご案内していただきました。 

 

↑ 

春一番に咲いていたクロッカス

畝の手前に三株、可愛いです。

 

 

こちらは花木のある南面・・、

冬には日当たりのことなども考えて

剪定などもされておられるそうです。 

 

 ↑

春を待つ畝

こちらにはオクラ、空芯菜、

ニガウリを予定されています。

 

 

春菊などの霜除けを

ライ麦の茎でされていました。

 

 

桜の木が春を待っています。 

手刈りされた笹が一面に敷かれ、

寒い季節も豊かな光景です。

 

 

 

木々の足元にも刈られた笹が

たっぷりと重なっています。

笹は常緑樹で地下茎の宿根草で

勢いがありますので

冬の間に一本一本刈り、

畑に敷き詰めておられます。

太くなった茎は支柱等に使われるそうです。

笹には、

いのちを清める・芯を強くする

成分があるのでは、・・と。

 

 

果樹の木の下の大根、

真に健やかであることが

発している気からも感じられます。 

 

 

実も葉もとっても美味しく

天然自然のすばらしい味わいです。

 

 

日野菜は色あざやかな京野菜です。

↓ 

 

自然農40年目 毎日田畑に立たれ

お元気に日々を過ごしておられる川口さん。

 『生命界も自然農の田畑も

日々刻々変化変化で

新た新たの秩序で新鮮なり

豊かなり、美しきなり、我もまた然り』

 

川口さんのスケッチブックより

カブの絵と文章を掲載させていただきます。

 

 

寒風気中に

濃密赤紫を生きるいのち

淡白清浄白に生きるいのち

宇宙生命界に

夫々を生きる姿 

無限数 賑わう

冬 二月

 

  

 

雨の午後 田んぼ全景  

 

 

今年は田んぼの北面の畝に

コスモス ススキ ガマ マコモ クワイ 

冬瓜 南京 ズッキーニなどを 

予定されています。 

 

  

 

また、密植にならないように

スイレンのスペースも広くされておられ

涼やかな水辺の景色が楽しみです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

2018年3月末の川口さんの田畑は

こちらからご覧いただけます。

 

 

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川口由一さん インタビュー「智情意 真善美」人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、大切な働きと人間性のお話し

2019年03月22日 | 自然農川口由一の世界

川口由一さん インタビュー

「智情意 真善美」

人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、
大切な働きと人間性のお話し 

 

八木 人生の創造において大切な「智情意」と人間性の成長に関わる「真善美」についてお話しを聞かせてください。

 

川口さん そうですね、人という生き物に与えられている必要不可欠なものとしての智力能力である智情意ですね。生まれながらにして与えられている、この身体のなかにそうした働きも与えられているものです。それがいかに十全に働くかどうか、一人一人の人生における課題でもあります。どれだけ深く高く広く、あるいは色濃く強く大きく働くか、あるいは濁ることなく穢れることなく、曇ることなく止まることなく働くことが大切です。真善美という視点のことは心の問題、霊魂魂魄の問題の中心となる人間性に強く深く関わってくるものです。切り離せない智情意と真善美です。

 

 先に智情意ということをみてみますと、智は知識する、智恵が働くの智、特に頭脳で働く、頭で考える、そうしたことを指しています。分別する、察知する、予智する・・・、智の力、そうした分野のことです。情はりっしんべんに青い。心の色どり、心の働き、また情緒、情のいろどり、情は心臓を中心に働き、智は頭を中心に働く、そんなふうにも考えられます。意は意欲だとか意気揚々とか、意志力で行動するとか、あるいは気力を充実させる等、そうした時に使う言葉に含まれている意味です。智で、情で、意で、・・・いずれも生きることに欠かすことのできない基本となる働きです。いずれの仕事をするにおいても、人に働きかけるにおいても、一人で色々と思索するにおいても、一人で宇宙自然界に存在するいのちとして色々と考えている時にも、行為行動する時にも必要とする働きです。生きるにおいて、全人生において、それらの働きで思い考えることができる、思索することができる、行為行動ができる、人とも会話を交わせる、交流できる、出逢える、共に生きることができるのであって、常に智情意が働いています。


 この智情意の三つの働きが何一つ欠けることなく一つとなって十全に働いていないと、その時その時を全うできない、あるいは一つの仕事を全うできない、人と正しく接して対応することができない、あるいはこの自然界生命界を、いのちを、宇宙の実相実体をとらえることはできません。智だけでは、情だけでは、意だけでは人生を全うすることはできません。一つが欠落してもあるいは一つに偏っても全うはできません。

 

 ところで、生きるに必要なものとして全部与えられているのですが、それらを養っていかないと育んでいかないといけないもので、養えば養うほどに深く深くどんどん働くようになる、そういうものです。自らを養う、人間性を養う、智、情、意を養い育む、真、善、美を養い育む、人間性を養い育む、ということが人として育っていくということであり、ほんとうに大切なことです。

 

 ところで、すべてが同時に働いていないとだめなわけですが、身体のどの部分で働くのかを考えてみます。それぞれの内臓内腑や諸器官や頭、目、耳、鼻、口、手足、皮膚や肉、脊背骨、等々いずれも身体のすべてと関係しており心身一如、霊肉一体であって切り離せないことです。ゆえに身心共の健康が大切であり、身と心、霊と肉は共の健康、健全が大切であり重要になります。

 

 例えば智の働きにおいて頭脳プレーではだめで、情も意も働いていないと充分ではありません。智が先行すると他人に対して冷たくなる、あるいは智力で出した答えに情が伴い情の裏付けがなければ納得が入りません。あるいは情の方も智が働いていないと情に流れ惑い混沌としてしまい整理がつかなく混乱します。智の働きが同時にあることで、情の働きで感じたこと、察したことや伝えたいこと、話したいことが整理されます。そこに意志力も備わって実践することができます。諸々の働きを正しくできる、すぐれた創造ができる、人と絆を美しく深めていくことができる、生きることができる、一生を全うすることができる、人として心平和に豊かに美しく生きることができる、そのように繋がるものです。智情意一つにして総合的に働くようになるべく大いに養い育み、人として成長することが大切です。

 

 ところで、智情意を働かせるにおいて、人間性の成長となる「真善美」という視点があります。智情意が大いに正しく働く人に育つにおいて必要となる内なる心における真善美であり、心の状態を示し現わす視点です。真とは、まこと、真実、ほんとうという意味をさしている言葉であって、反対は贋、偽り、嘘などの言葉で示すものです。善はよきこと、善なる心、善行等を示す言葉であって、反対は悪、悪心、悪行などの言葉で示すものです。それから美は美しい、人としての美しい魂、美しい心、清浄なる霊魂魂魄等を示す意味であって、反対は醜、醜い、きたない、汚れ、不浄などの言葉で示す意味です。心が美しくなければ、霊魂魂魄が清浄でなければ、それが表面的であったり偽りであってはならない、真でなければ、あるいは退廃美であってはならない。悪魔的な美、異様なる美であってはなりません。このように真善美、三つが揃っていなければなりません。美も善と真に裏付けされていないと人としての真の美になりません。善においても真の善、美しい善でなければなりません。偽りの偽善であってはなりません。そのように真善美全部そろってはじめて人として成長しているのであって、そうした人間性を養わないといけないことになります。そのことによって、優れた実践、ほんとうに優れた創造を成すことができ、優れた素晴らしい幸福の人生、心平和で豊かな心から救われた平安の人生を生きて全うすることができます。

 

 ところで幸福の人生を生きて全うするにおいて、何か仕事をするにおいて、美しい絵を描くにおいて、あるいは常に正しく生きるにおいて大切な真善美は、まず自分が人として美しく育つことが大切です。真の人に、善なる人に、美しい人に育つことが基本となります。そして智情意がよく働く人に育つ、そのことによって幸福裡の人生の全うが実現するものです。あるいは生きるに必要となる生きる舞台である宇宙自然界生命界の真の姿が見えてくる、宇宙が本当に美しく見える、善なる自然界、真の自然界、あるいは愛する人の真、善、美の事実が観えてきます。それが観える人に育つことが大切です。そうした優れた心眼を、真眼を、神眼を、悟眼を、美しい眼を、美しい聞く力、察する能力を養わないといけません。人間性の成長がまず大事で、そのうえで人との接し方において、何かの役目、務め、仕事をするにおいて、あるいは住まいを整えるにおいて、自分の身だしなみを整えるにおいて、やはり悪であったらいけないし、醜であったらいけないし、真であり善であり美であることが大切です。行為行動において、人を育てるにおいても、何においても、美しく真の人に育てないといけないし、使命、天命を果たすにおいて、智情意を大いに働かせて、真善美を備えた人間であらねばなりません。それらを認識するに欠かせない智情意という視点と真善美という視点です。いずれも一人一人の内からの成長に欠かせないことですし、行為行動においてもそうでなければなりません。

 

 例えば、芸術の分野における多くの作家がおられての作品がありますが、その作品から聴こえてくる音色が、描かれている絵が、創られている彫像が、創られている仏像が、創られている陶磁器や工芸品が・・・、創られている建物が、創られている街が、創られている環境が、それが真であるか、善であるか、美であるか、あるいは智情意を大いに働かせたほんとうに良き状態で作られているか、描かれているか、表現されているかの判別をすることの智力能力も必要になります。一枚の絵に作者の人間性が現れるので、作者のありのままの姿、実なる人間性が見えてきます。この作品は情緒が豊かだ、でも智恵が不足して澄み渡ることなく混乱しているとか、知的に澄んだ絵を描いておられるけれども少し知的過ぎて情緒が不足してなんとなく冷たいとか、あるいは知的に頭脳プレーで操作したてらった作品になっているとか、意志力で大いに頑張っておられるけれど情が伴っていなくて殺伐としている、あるいは智力が不足して乱れて不安定だ、等々見えてきます。智情意も真善美も正しい在るべき在り様に育ち備わることによって幸福に生きることができます。優れた創作ができ、他者の美醜の別も判別ができて、醜から離れて優れた真に美しいものを愛でて美しいものを観る喜びを得ることができて、優れた芸術作品を観賞することの意味深きものとなります。人としての普遍の喜びを得るにおいて欠かせないことです。

 

 自分の描いた絵も、人の描いた絵も、いつの時代に描いたものであっても人として普遍ですから、あるいはどこの民族であったとしても人ですので、この人はどういう状態になっているのか、どういう状態でこの絵を描いたのか、この仏像を仏師はどういう心の状態で創ったのか、真善美や智情意の働きが見えてきます。創作するにおいても観るにおいても自分の在るべき在り様を行為行動を確認して、本当に優れたものを描ける人に、創れる人に、観ることができる人に、そしてほんとうに優れた人生をおくれる人に育つことが大切です。喜びのうちに、幸せのうちに、人生を全うしなければなりません。智情意も真善美も人間性の成長において大事な大事な是非に必要となるものです。

 

八木 人生の全うに大事な視点であることを、あらためて深く認識することができました。ありがとうございます。それでは、もう少し続けて質問をさせてください。まず智情意ですが、その三つのどれもがそろって働いていれば申し分ないのですが、生きてくるなかで偏って育っている場合もあるかと思います。まずは、大元になる「情」が不足している時、「情」を自ら育む場合にはどのようなことを心がけたら良いのでしょうか。

 

川口さん 智情意いずれにおいても、自ら育む場合は存在のすべてを働かせて情を働かせることが大切です。分別であるいは理性で心情を現わし働かせるのではなくて、心底から働かせていくことによって育っていくものです。この宇宙生命圏に与えられている肉体と肉体に宿すものすべてをしっかりと働かせて育ってゆくことが大切です。ところで、育み養うにおいて情の意味を自分の内なる姿から、情とはこの働きのことをさすのか・・との事実を通しての認識がいります。

 

八木 智情意は存在のすべてをしっかりと働かせることから育つのですね。ごく最近、ある体験から事実を通してそのことに気づかされたことがありました。一人でいながらにして絶対なる宇宙に抱かれており存在の心底から湧きあふれる喜びがありました。ふりかえり観ると情を中心にして智と意も同時に使っているように思いました。

 

川口さん 内に宿されている働きの情を知った上で存在する、この宇宙に一人しっかりと存在しきる。その在り方で情も智も意をも育んでいくことが大切であり、そのことを重ねているうちに育つものです。あるいは蘇ってくるものです。あるいは目覚めてくるものです。

 

八木 幼い頃は自然に育まれていたようにも思われるのですが、その働きを知った上で生きているあいだは成長し続け、智情意すべてを育み、時には蘇らせ、さらにさらに目覚めてゆきたいです。ところで、宇宙に一人しっかりと存在しきる・・という状態を言葉でもう少し表していただけますか。

 

川口さん なりきっている、治まりきっている、存在しきっている・・。例えばあの紅葉しているモミジは、モミジになりきっているでしょう。宇宙生命界自然界に生きているすべてのいのちはそれぞれになりきっています。鳥が空を飛んでいる時、魚が泳いでいる時、それになりきって必要に応じて鳥が空から舞い降りてきて海の魚をくわえる、飛んでいる鳥が獲物をくわえる、すべてが今を生きているのです。全存在で生きています。その時その時、智情意まるまる全部働かせていると思うのです。そうした全存在で生きていることによって人も年を重ねるにつれて育ち、すべてが大いに働くようになるのですね。

 

 ところで、人は年重ねるにつれて自然に育ってゆくなかで智情意すべてがよく働くように育つ存在です。元より与えられているゆえに与えられているものが成長と共に育ち養われるのですね。真善美しかりです。美しいもの、真のもの、善なるものを好む性を元より与えられて持っていますから、年齢を重ね、生きることを重ね、育つにつれてさらに大いに働くようになります。それなのに働かないのは育ってくる過程の中で働きが十分でない、あるいは働かなくなるのは障害物がうちにあると思えます。過程の中というのは両親祖父母等家庭環境や社会環境などですが、一番は両親祖父母そして兄弟姉妹との関係においてです。最初は両親、お腹のなかに宿った胎児の時、出産後の乳幼児期、少年少女期、大人や親に助けられ依存せざるを得ない時期です。それは大人や親の智情意に接しての日々でありますし、親たち、大人たちの智情意に養われ育まれている人生の始まりですが、その大切な時期に親が智情意を十全に働かせて大切な子どもとして育てなかったら、それが偏ることなく自由に素直に働かなくなる子になってしまいます。

 

 例えば口うるさい躾型の親のところで育てられると子どもは意志力で対応しないといけないでしょう。子ども時代は情が中心ですから、意志力で応じるのは苦痛であり苦手です。こうした乳幼児期、少年少女期の子どもは情が中心なので、子どもを思う親の愛情で育て導くということが重要になります。そうでないと根底にある最も大切な情が枯れていったり萎えていったりすさんでいったり損ねられたりして可哀想な人になっていきます。知的に躾てしまうと子どもは意志力を働かさないと親の躾に応じられないゆえに情が働かなくなっていきます。美しい親の情を十分に働かせてその時その時をいろいろと必要なことだけ親の智恵で示すとか答えを表わすことを中心にして育つのを見守り続けて、やがて子どもが大きく育ってくると必要なことを言葉で示して理解できるようにする。いまだ幼い時期の子どもに美しい真で善なる情を与えていなかったらだめなのですね。人としての中心となる情が働かなくなるのです。まず親の愛情をもらって初めて安心する、平安を得る、そのなかで一つのいのちになりきった状態で人としての全き状態で育つのが人としての正しい本来の育ち方です。乳幼児期は親に依存しているゆえに、親から人としての情を中心に全きものを与えられることによって全き優れた人として自ずから育ってゆくものです。それ以前の胎児期においては、男女がほんとうに全き状態で愛おしみあって豊かな情緒で、想いで、智情意、真善美全部そろった中で喜びのなかで二人が交わり歓喜のなかで次のいのちが宿れば、新たないのちのスタートは人としてのすべてが揃った胎児として誕生し、育ち、その後も乳幼児期、少年少女期とすてきな親心のなかで大安心の日々でスクスク健全に育つことができて、やがては優れた智情意と真善美を発揮することができる人に育ちます。

 

 ところが多くの場合、なかなか十全な優れた両親祖父母の元で宿り育てられるのは容易ではありません。もちろん時代背景もあり戦争の最中に宿り誕生しての幼少期であったり、大変な不幸な社会状況家庭状況の中で育つことになればいろんな問題を持ってしまうと思います。子どもにとっては運命的な不幸なことです。しかしいかであれ大人になるにつれて自らで解決しないと救われないことですから、是非に自力で解決せねばなりません。ありがたいことに解決できるものが与えられています。自らの想いと自覚と努力で情緒を育んで豊かに働かせ、智力を豊かに働かせ、意志力を豊かに働かせ、優れた智情意を養いもって一生を立派に全うしてゆくことができます。我が道を得て、その道で素晴らしい働きをしてゆく、人は人として立派に全うできる存在です。両親祖父母に口やかましく躾で育てられて、今度は自分の子どもに口やかましく躾をしがちですが、人として立派に育てば今度は自分の子どもに美しい情緒で、澄んだ智恵で、つよい意志力で優れた人間に育てることができます。こうして人本来の在り方ができれば親も子も幸福ですね。

 

八木 いかに育ってきたとしても、これらのことを認識して次の世代を育てることができれば素晴らしいですね。

 

川口さん 智情意すべて一つとなって大いに真に善に美に働くべく育つ私たち人間なのですね。

 

八木 それでは次に「智」について教えてください。もし智が足りない場合はどのようになりますか。

 

川口さん 正しい在り方、幸福への在り方、平和への在り方を見い出せないでしょう。混沌混乱で事々において、生きるにおいて、他者との関係において整理がつかなくなるでしょう。何事においても正しく治められないでしょう。問題を明らかとできず、真の解答は得られないでしょう。自分がどうなっているのかも、他がどうなっているのかもわからないでしょう。自分とは、人間とは、宇宙とは、生とは、死とは・・・、この仕事の本質は、正しい答えは、いずれも明らかとならずでしょう。混迷が深まり暗闇の中に陥ってゆくことになるでしょう。

 

八木 智の根本にあるものは何でしょうか。

 

川口さん 智情意いずれも根本にあるのはいのちであって、幸福に生きたいと願う自ずからなるいのちからのものであり働きです。智を働かせないと今を生きれない、喜びの今に出来ないから智が働くのです。死にたくない、生きるには智力が要る、全うに生きることに必要ゆえに智があるのですね。宿しているいのちに智の能力が与えられているから今を生きるに働くのです。必要だから与えられているのです。生きるに必要なものはすべてのいのちに過不足なく与えられているのです。私たち人間にもですが、木々草草鳥獣たち魚たち夫々にです。死にたくない、生きる、生きているあいだは生きる、苦痛は避けたい、不幸は好まない、楽しく嬉しく真の幸せに生きる、喜びに生きたいという心底の願いで智情意が働くのです。

 

 実際に幸福に生きるにおいては絶対境地の体得も必要になります。元より絶対界あらしめる絶対の宇宙に存在しているのですが、見失ってしまうとか、逃避してしまうとか、他に依存してしまうとか、幼児性のままでとか、自閉するとか、他人に対して自閉するとか、宇宙に対して自閉するとかは、いずれも一人でしっかりとこの宇宙に立つ絶対の境地を体得できていないゆえです。いずれにおいても智恵か智力か智の働きが必要になります。

 

 例えば風邪の病で原因が身体の表面にある時は、宇宙と一体になれなくなって孤立して閉じている状態です。それは心からの自閉ではなくて病による身体からの自閉ですが、生きるのに心苦しくて辛くなります。人としていまだ成長に至らず宇宙絶対界を体得していない時は、逃避や自閉に陥った状態での日々となり、人生を送ることになる場合が多くあります。大いに真の智情意が働く人に真に育ち、絶対の境地の体得をしないと人として救われることなき不幸で淋しい苦しい人生になります。絶対界に立つことの智力能力を養うことは、人として一生を全うするのに大事な基本となることです。

 

八木 とても大切な智であることがわかりました。それでは意の力が足りない場合はどうでしょうか。

 

川口さん 正しい在り方が明らかとなっても実践できないでしょう。幸福に生きる意欲が不足すれば成就しないでしょう。やがては怠惰的になって、ますます意欲、気力がなくなって退廃的ともなり正しく生きることから逃避することにもなります。意志力の一番の出どころは、幸せになりたい、真の喜びを得たい、それともう一つは死にたくない、いのち有る者は基本的に死にたくないのですね。生きている間は生きたい、生きる。ところで自死する場合もありますが、基本的には植物であろうが動物であろうが人間であろうが、みないのちある間は生きたい、肉体にいのちを宿している間は生きたい、生きる。本来は自死することはないいのちです。木々、草草、鳥獣たち、あるいは地球も月も太陽もすべての星々みな自ら死ぬということはないですね。人もそうなのですね。いのち本来はいのちが尽きるまでは生きたい、死にたくない、ゆえに意志力が働くのが基本です。その為の道を探すのも、見出した道を歩むのも意志力によるものです。そして私たち人間は生きる時は喜びの今を生きたいと願うのが情の基本です。あるいは美しく生きたいと願うのが美の基本であり、真に生きたいと願い欲するのが真の基本です。そうしてすべてが正しく揃って喜びの人生平和の日々となり、生きている間は喜びのなかで心平和に生きることができるのですね。

                                                                                                              

八木 意についてとても明確になりました。ありがとうございます。ところで、川口さんが絵をご覧になられて「この絵は幼児性がありますね。」と言われることが度々ありますが、「幼児性」から抜けきれないのは何が育っていないからでしょうか。

 

川口さん 幼児性というのは悪ではなく醜でもなく偽りでもなくて、幼心や少年少女の心、青年の心等、いずれもなくしてはいけないものですが、人として育ち、成人していなくての幼児性は解決して育たないといけないことです。この問題となる幼児性を解決できないのは絶対の境地の不足や欠落によるゆえでもあります。絶対世界である宇宙における現象世界に存在する相対界の姿形を得て生まれてきた私たちです。人も絶対宇宙に存在している相対世界の存在ですから、他の何かに執らわれ自分に執らわれ解放できなくて絶対界に立てずに相対界に陥るのです。そして今もなお絶対の境地が欠落しているのです。ゆえにどこかで解放されていない、閉じている、あるいは人として正しく育っていないのです。執着したくないのに自己執着になってしまう。年齢は大人になっているのに人として育っていなくて自己執着するとかお金に執着するとか、名誉や地位や権勢に執着する等々に陥るのです。生きるにおいてこの宇宙自然界に生命界に我を解放できてなくて自分に執着する、存在そのものに執着する。あらぬものに執着することになるのですね。その年代年代を生ききれない、全うできない未熟なる状態であって不幸です。

 

八木 その年代年代を生ききれない・・というのは・・・。

 

川口さん 刻々刻々時が流れている、いのちは営んでいる、その瞬間瞬間を新た新たに生きて成長をする営みをしているのに全うできていないのです。あらぬものに執着するので生ききれていなくて成長しないのです。

 

八木 全うできていないと言うのは、いつも心を残しているということでしょうか。

 

川口さん 例えば今あるものをよりどころにしている、今の現状をよりどころにしている。昨日も一昨日もずっと現状に依存していたのですね。あらぬものに、枝葉のことに、未熟なる自分に、現状に執着しているのです。解放して今を生きると刻々刻々変化する、刻々刻々成長するのです。成長する在り方、生き方を避けているのですね。逃避です。

 

八木 逃避ですか・・・。

 

川口さん 過去の続きの今ですが、今を新たに生きないで過去に執着しているのです。自分を我がいのちに、生きる舞台に、そしてこの宇宙に解放できないのですね。自分を解放し解放されたなかで大らかに育つことができるのですが、解放を妨げるものがあるのですね。

 

八木 たとえば抑圧されていたとか・・・、

 

川口さん そうですね、家庭環境のなかで親から抑圧されていたということも事情としてあるでしょうね。抑圧にもいろいろのものがありますが、いずれであっても抑圧になって今を自由のなかで生きることができなくなるのですね。

 

八木 そのような中でも解放できている人もおられるのでしょうね・・・。

 

川口さん そうですね、本来は親から何を言われようと抑圧されようと人としてのいのちの営みは自らの内なるところからの働きで解放されて生きる営みをするのです。いろいろと分別くさく躾されても、ある時パッと親離れする、解放される。そして成人してゆくこと自ずからなのです。例えば水田でお米は日々刻々成長します。自閉することなく他に執着することなく、解き放たれたなかで自分に成りきってお米を生きて刻々成長変化、死ぬまで成長ですね。

 

八木 自ずから変化成長してゆくお米のようには生きられず、幼児性から離れられないことがあるのはなぜなのでしょう。

 

川口さん それは当人にとってはそうならざるを得ないのですね。たとえば親の在り方から大人に成人しないで幼児性が残したままになる場合もあるでしょう。親が子どもに依存する、親が宇宙絶対界で一人で生ききれないゆえに淋しくて子どもの存在にすがりながら生きるという場合もあるでしょう。その場合も子どもは育ちきれないと思うのです。大人のはずの親が絶対界に立てない、その時その時自立できず解放されないので親も幼児性を残して育っていくことができない。結果子どもも育つことができず、共の成長停止、あるいは横道小道にそれてしまうことになるのですね。

 

八木 子どもに対して自分の思うように生きてほしいということですか・・・

 

川口さん それは大人として育っていない親の一つの支配ですね。親の子に対する支配です。依存というのは子どもに寄りかかることです。隔たりなく子どもに甘えている状態です。自分の存在そのもので幼い幼児に依存しているのです。寄りかかる。引き寄せる。離さない・・・のです。多かれ少なかれ子育ての中でみんなあると思います。可愛くて可愛くてしかたないから。大切で大切であり、かけがえのない尊い尊い我が幼子ですからね。もちろん幼い子の存在を受けとめられなくて反対に虐待することになる親もいます。自分を正しく生きることも我が子どもを正しく育てることも容易ではないのですね。可愛くて大事に大事にすることになってついつい別をわきまえることできなくて依存することにもなるのですね。心からも肉体からも存在そのもので子どもに甘える、依存する、それは気持ちのいいことなので、いまだ幼い子どもにとってももちろん快いのですから。ところが本来はこうして母親の愛情に抱かれているぬくもりの中で安心して育つのですが、やがては育つにつれて親の依存は息苦しくなり解放を求め親離れして自立してゆく、それが本来の成長です。そうならない場合、幼児性が根底で残ったままになってしまうことが考えられますね。

 

八木 幼児性を持ちながら社会的には活躍されているような場合は、どのようになっているのでしょうか。

 

川口さん 幼児性を持っていても人間社会でそれなりに働きを行なっている人はおられます。もちろん全く仕事ができない人もいるでしょうね。純粋な幼心は老年期になっても大切なのですが、そうではなくて、人として成長せず根底に幼児性があるならば真に優れた仕事はできません。幼児性でいのちが自閉している、絶対界に立って成長できていないという状態の芸術の分野の絵描きさんで優れているとの評価を得ている人が近代から現代において多いです。正しくない評価です。解放された状態で正しく人として成人していないのですが、異常で個性が強くて特色があるので評価されるのですね。例えば芸術家として育ちきると人としての優れた智情意が働くし、真善美も絶妙に働いてすぐれた作品を描けるのですが、育っていないゆえに働かなくて異様となるのです。それでも人間の描いたものですから異様になっていても自閉していても幼児性のままであっても生きている人間ですから発するものがありますが、ほんとうの成長した人としての喜びの状態になっていないので、真善美であり智情意の深く働いた作品とはなり得ていません。ほんとうに解放された年齢に応じた素晴らしい姿が現れてこなくて救われていないのです。

 

 たとえばシャガールですが、人間性は幼児のままなのに幼児の明るさはなくて暗くて病的です。高齢まで生きられていますが、人として育たないで過去に依存されます。描かれる絵に過去に住んでいた場所や再婚後も過去に結婚生活を送っていた女性を描かれます。自立しないで、今を生きないで、常に女性に依存していたと思えます。過去の思い出にも依存する。そして内容は病的で、退廃的に描き続けています。幼児性や自閉してしまう、解放されない、それで大人になっても育つことなく閉じたる幼児性を残したままで生きている。一人で宇宙に立って絶対界に立って人として心身ともに健全に生きることのできない一生を終えておられるシャガールです。


  人の道を得る、智情意を養う、真善美を大いに育て働くようになることは大事なことであって是非に必要ですが、容易ではないのですね。大変であるゆえに自閉すると幼児性、これがなかなかとれなくて大人として正しく育たないのですね。幼児性を解決して立派な人に育った人の作品は素晴らしいです。たとえば芸術における音の世界のモーッアルトは若くして死んでいますが、天才的で柔軟な伸びやかな健全な心情で真なる美しいしらべを作曲しています。芸術家も人であって人としての基本は幼児から少年に、青年に、壮年に、老年に、成人にと育ちゆかねばなりません。育つことを投げ出して幼児性や未熟性を拠り所にし、小さな小我を個性や偏執性を特色にして作品を描き続ける、そういう人もいます。あるいはそれに気づかなくてそのままにしているという人もいます。


 例えばアンリ・ルソーですが、幼児性のままある時から描き始められて描き続けられます。年重ねて作画に慣れるにつれて表現力は養われて、しかし人として育たずに自己執着を強く強く持って表現するようになっていかれます。救われない暗い暗い異様なる執着した作品を描くようになっていかれます。晩年になるほど自己執着に頑固に頑固になっての作品を現していかれます。だんだん異様になって描き続ける意欲と我欲は強烈です。幼児性を解決せず人として育って解放せずに執着した自己実現を絵として表しています。いずれの分野においても、人として真に、善に、美しく育たずして、人としての正しい道を放棄して生きる人がほんとうに多くおられます。ピカソしかり、ダリしかりです。人としての正しい道を問うことなく、自分に育つことを課すことなく、我欲の欲しいままを生きる、あるいは正しくない道を我儘を解放して生きる・・・、こうした生き方は不幸であり、許されないことであり、淋しいことです。

 

八木 ところで日本画の上村松園さんですが、ご本人のお言葉に「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」を念願にとあります。志高く全うされた松園さんについてぜひお話しをお願いいたします。

 

川口さん 松園さんは日本画の近年の時期の女性の絵描きさんであり、真にすぐれた人格者であり優れた人間性に育たれた真に優れた芸術家ですね。幼くして日本画家として生きることを我が道と定められています。そして自らの人間性を養うことの重要さを認識されて取り組み続けられます。描く自分においても、描きあげた作品においても、大事なことと自覚されて智も情も意も、それから真善美も自らの成長にと願い自分に課して絵描きとして絵を描き続けられた真に優れた芸術家です。年齢と共に育っていかれ年齢と共に優れた絵を描いていかれて、これほどの確かな成長を死に至るまで極め続けられる芸術家は珍しいです。絵が好きで幼い頃は鈴木松年先生についておられます。やがて竹内栖鳳先生につかれます。ところで若い頃から幼児性や逃避性や自閉するという要素は全くないのです。もちろん人としてまだ育っていない少女期、青年期は今を人として生きる松園さんではなく、今を人として女性として生ききれていないので描かれた作品は過去のものや新鮮ではない古い時代のものになっています。作品が過去のものになってしまうのは今を成長した人として生ききれていないからです。人として芸術家として育っていないからそうなります。でも決して人としての正しい道からはずれることなく生きられます。少しずつ誠実に確実に解決して成長してゆかれます。真に優れた作品を描くには人間性の成長にかかっていることを認識されておられ自覚されて取り組み続けられる人生ですね。作品にそれが現れています。 

 

 松園さんの絵は20歳~30歳頃の作品もすでに表現力は優れておられて、巧みに描いておられますが古い過去のものになっています。しかし決して醜悪な絵は描かれません。でも人間性がいまだ育っていないので人として生きようがないのです。ゆえに描いたものが古くなるのです。明治32年の「人生の花」は24歳の作品です。ここから10年後、明治42年、34歳の「虫の音」等の作品は、いまだ人として成人しておられなくて描かれる絵は今を美しく情緒豊かに生きた絵になっていません。しかし60代に入られた頃からの成熟期の絵は今を優れた人として生きておられるところから描き出されています。62歳の「草紙洗小町」や亡くなられる74歳までの作品はほんとうに素晴らしいですね。揺るぐことなく迷うことなく人として成長され芸術家として大成されます。

 

八木 澄んでいますね、きれいですね。

 

川口さん 今を真に優れた人として育たれて生きておられるから描かれた作品が澄んでいます。美しいです。濁ることなき情が、智が、描かれる意が、真であり善であり美であります。デッサンを見ても安定のなかでしっかりと対象を見ておられて表現されています。閉じることなく、幼児性も全くないのです。常に自閉することなく、その時その時を生きる、しっかりと一人で立つ強さを、絶対界に立つということを、少女期、青年期は言葉で認識されてはいなかったと思いますが、40、50歳と壮年期に至られるにつれてそうあらねばいけないと自覚されていかれたのですね。ゆえにこれだけの絵が描けるのですね。絶対界の宇宙に立ち、画面の宇宙に真善美なる上村松園さんが現れた絵を描かれているのです。決して明暗、濃淡、強弱、遠近、等、相対的な描き方はされなくなって絶対の境地から描いてゆかれています。

 

八木 すばらしいですね。

 

川口さん 心が優しいですし、ほんとうに強いですし、ほんとうに優れた人であり、その上になお美しい女性であり芸術家を生きられたのですね。松園さんは立派に育って人として実に優れた作品を描きぬかれて一生を全うしつつ死んでいかれています。

 

八木 どのような環境に生きていても、魂から一人で立つという覚悟を持つことでしょうか。

 

川口さん そうですね、自覚されたのですね。人は誰しも生きるにおいて正しく生きることを覚悟しないといけないのです。依存してはいけない。自分の描いてきた過去の絵にも、過去の自分にも依存して描いてはいけないのです。今を生きないといけないのです。そこそこの自分で、見る目を持たずに自分の絵に依存してしまってはだめなのです。他人の評価に依存してはいけないのです。松園さんは日々に年齢とともに人として育ってゆかれたから、作品も今を生きた育ったものを描いてゆかれたのです。ほんとうに喜びのなかで生きることのできる自分に育ち、今、今、今を生き通されたのです。ほんとうに優れておられますね。

 

八木 常に成長し続けられたのですね。

 

川口さん そうですね。いのちある間、生きている間、死に至るまで成長され続けたのです。人が成長しようと思うのは、自分が今、自分の心に障るものがあって、問題になっていることから解放されたい、救われたい、喜びの今にしたい、納得のいく今にしたい、そうした思いから成長しようと思い願うものです。それを自覚して成長に取り組む、まずは人間性の成長が必要です。大切な人間性の成長において智情意、真善美の意味を認識し、自分を問い省みる目安にしながら成長を図る、取り組む、自分の携わっている仕事の分野が農業であれ、芸術の分野であれ、宗教の分野であれ、政治の分野であれ、医の分野であれ、すべての分野において成長したところから実情を観極め、誤っているもの、あるいは正しく成長したものを表わし実現させているかいないか確認する澄んだ智力も必要です。しっかりと自分のしているものを見る目を、耳を、智力能力を養っていないといけません。作ろうとしているものも描こうとしているものも明らかでないといけません。描いたものもそれがどうなのかということをはっきりと観ることのできる目を養っていないといけません。それが本当に優れているかどうかの観る目を養っていないといけません。描いている絵に依存することなく、冷静に観極めないといけません。

 

 また芸術家でない者も芸術家ということだけで絶対視してはダメです。芸術家でも悪魔的な人もいますし、退廃的な人もいますし、病的な絵を描く人もいます。幼児性そのままの人もいます。自閉した人もいます。様々です。そこから作り出される作品も様々です。病的な作品、退廃的な作品、悪魔的な作品、いろいろのてらいを表現した作品、偽りの作品、幼児的な作品、こうした作品を描く芸術家になってしまうと大変な不幸になります。こうしたよくない作品が人間社会に氾濫しますと人間や社会はますます不幸に陥っていきます。誰しもが人としての喜びの人生でありたいのです。心豊かで美しい善なる人々が平和に生きる社会になってほしいですね。

 

八木 人が幸福に生きるにおいて、人類が平和に生きるにおいて、大切な働きと人間性の成長に大切な「智情意、真善美」について、本質深く普遍的であり具体的にもお話しをいただきましてありがとうございました。内なるところから認識を深めることができました。

 


 

お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

 
インタビュー 編集 八木真由美 2019.3


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山田勉さん制作  川口由一さんの自然農がYouTubeにてご紹介されています。2019.2月

2019年02月25日 | 自然農川口由一の世界

 

 

山田勉さん制作 
川口由一さんの自然農がYouTubeにてご紹介されています。

持続可能な農業「自然農」(川口由一)

 

「耕さない」「肥料・農薬を使わない」「草・虫を敵にしない」自然農

川口さんは40年、自然農でお米、お野菜、果樹などを栽培されています。

田植えと稲刈りの様子も拝見できました。

 

 

 
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川口由一さん インタビュー 「ほんとうにほんとうのものに出会う育ち方、在り方、求め方」

2019年01月24日 | 自然農川口由一の世界

川口由一さん インタビュー
ほんとうにほんとうのものに出会う育ち方、在り方、求め方

 

八木 真の喜びある人生には、ほんとうのものに出会うことがつくづく大切だと感じています。ほんとうのものに出会う育ち方、在り方、求め方等々について、ぜひお話しを聞かせてください。

 

川口さん そうですね。ほんとうであることはほんとうに大切なことで、一人一人のそして人類の幸福に欠かせないことであり、ほんとうのことから外れると大きな不幸に陥ってしまいます。明らかでなければなりません。不信の入ることや疑問に思えることや心配なことがたくさんたくさんある今日ですね。

 

 大農機を製造して石油で動かしての大規模農業、化学肥料、農薬、除草剤を用いての栽培によって空気や水を汚染する食料の確保の在り方はほんとうの良き栽培方法なのだろうか。持続可能に問題を招かないのだろうか。すべてのいのちが生きる舞台である環境を損ねるのではないのか、人のいのちの安全性に問題が生じるのではないのか。自然から遊離した施設内で栽培する非自然な農作物は十全ないのちに育っているのだろうか。あるいは狭い人間の視野で遺伝子を操作しての品種改良は、生命界における大切な秩序を乱して自然界生命界に生かされ生きる私たち人間のいのちにも深く問題が及ぶのではないのか・・・。

 

 病気治療において人の受精卵から細胞をつくるES細胞や遺伝子を組み替えてつくるIPS細胞から作ったもので手術する最新の治療方法はほんとうの治療なのだろうか。ほんとうに病気が治るのだろうか。病気の原因を明らかとして原因を根本から解決して治す治療をせずして、原因あっての結果である患部を切り取り、人の手で操作してつくったものを取り付ける治療方法はほんとうの治療だろうか。いのちを観れず知らず、宇宙本体を観ることできず、わからず、人間の浅い狭い智恵で行為行動を行っていては、ほんとうのことから遠ざかって不幸に陥ってゆくのではないか。

 

 約137億年前に宇宙は誕生し、刻々膨張しており、やがて宇宙は壊れると説き、宇宙に始まりと終わりがある、というのはほんとうだろうか。太陽の光熱を、地熱を、風力を、水素を・・・、エネルギーに変えて消費経済をさらに発展させようとするのは、ほんとうの発展なのか、ほんとうに大丈夫だろうか。ほんとうに有益なのだろうか。ウランを用いての原子力発電は一国にとっても人類とってもほんとうに有益なのだろうか、やがては人類の生存を脅かすことになるのではないのか。

 

 この政治、民をほんとうの平和に誘(いざな)うほんとうの政治だろうか。この民主主義は民を主として真の幸福に誘うほんとうの民主主義になっているのだろうか。この政治家、ほんとうに人間社会を真の平和に、人類を真の幸福に導くことのできる智力能力を宿したほんとうに優れた立派な人格者としての政治家だろうか。国民一人一人もほんとうに大切なことをほんとうに知っているのだろうか。人類が真の平和に至るものを政治家に求めているのだろうか。


 ほんとうかほんとうでないかを明らかにして、ほんとうの優れた人になり、ほんとうのものを見出し、本当のものを創り上げていかなければなりません。ほんとうのもの、ほんとうのことは単純明快で決して複雑で朦朧としたものではありません。しかし、ほんとうのことがわかり、ほんとうのことを知ることのできる濁りなき澄んだ明けき心と智恵で思索し、ほんとうに正しい答えを見いだせる人に育つことが難しい、そしてほんとうの答を生きることのできる人に育つことがなお難しいのですね。是非、ほんとうに育たねばなりません。人類はほんとうの解決へとほんとうに歩まねばなりません。

 

八木 ほんとうの答を生きることのできる人に育つことはなお難しいのですね。実感いたします。物質中心の現代に生きる私たちですが、いのちを躍動させ、智力能力を働かせ、答えを生きる、自分の足元から、小さな一歩でも、できることをと思います。

 

川口さん そうですね。ほんとうの答を生きるにおいては、まず自分から、我が足元から、身近なところから、それぞれの自国から・・・が大切であり基本となりますね。ところで、真のこと、ほんとうのことに出会い、出会ったそのほんとうの世界が繰り広げているものや姿や根底の真理が観えてまいりますと、なんとも言えず楽しくなります。決して疑いが入らない、ほんとうのことがわかる智力能力が働くようになりますと信が確かと心の内に湧き上がりますので、ほんとうに嬉しくなります。救われる道が観え、救われる道を見いだせる人に育ったことも嬉しいのですね。人類は今日まで生きて来るなかで、実は誰しもがほんとうのものを、真のものをひたすら求め続けてきただろうし、今も求め続けているはずですし、今後も求め続けると思うのです。ほんとうのものがほんとうに必要なのですから。

 

 成長過程における、ある時、ほんとうのものと思っておりましても、時を重ねて成長してゆくなかで少しずつ本当と思っていたものが変化してゆくことがあります。その場合はいまだ本当にほんとうのものに出会えていないのですね。あるいはほんとうのものではないのにこれがほんとうだと思えたり、他に押しつける場合は心の曇りであったり偏りであったり思想や哲学の誤りから生じることですね。ほんとうのものに出逢える生き方、在り方、求め方ができ、出逢うことができたなら、いつまでもいつまでも本当に楽しく生きることができます。一人ひとりも、社会も、平和に幸福に至ることができ、他をも導くこともできるとつくづく思います。やはりほんとうのものでないと、真のものでないと楽しくなりません。幸福になりません。幸福裡に人生を全うすることはできません。平和な人間社会にはなり得ません。ほんとうのものはどこから見ても障るものがなくて疑いが入らず納得します。わずか一部分のところでも問題が生ずればそれは真のものでない、ほんとうのものでない、そのように言えます。一理はあっても他のところで障るものがあれば、それは真のものでない、そのようになります。ところで最も大切なのは私自身が真の人になることです。ほんとうに真のものがわかる、真のものが見える、真の声を聞くことができる、真の人生を、真の幸福の人生を全うすることができる、ほんとうに優れた人に育つことが大切です。


 人類は今日まで数十万年、数百万年生きてきた中で、いろいろと思索し続け、求め続け、願い続け、試み続け、創り続け、実践を重ね重ねて今日に至って今日も生きていますが、それが真のものに近づいているのか、真のものになっているのか、ほんとうのところに至っているのか。あるいは反対に真のところから外れてきているのか、誤りであったり、偽りであったり、枝葉であったり、表面的であったりしていないか、このことを明確に判別することが大切であり、ほんとうのものでなければ速やかに改め、直し、正すことが重要になります。人類全体が、一人ひとりが真の人に育つ、真のことがわかる、真実が観える、宇宙の、あるいはいのちの真の実相実体が観える、察知できる、悟知できることが本当に必要です。政治、教育、芸術、宗教、医学治療学、農林水産業、経済、衣食住、日々の生活、・・・。これら必要不可欠のそれぞれの分野をほんとうのものにする。真のものにする。ほんとうのことを明らかにする。そして明らかとした真なるところに身を置いて真に生き、実践し、確立してゆかねばなりません。同時に次の時代を担う若者を、ほんとうのことが観え、ほんとうのことを知り、人としてほんとうを生きることのできる人間に育てることが重要であり、一生における大切な役目使命天命となるものであって、それを果たせる人生であらねばなりません。

 

 人としての成長は深く広く高く総合的でないとほんとうのことがわかりません。ほんとうの人に育つにはどこか欠けているものがあるとだめで総合的であることが大切です。欠けていますと一つのほんとうのことがわかっても他のところでわからない、生きるに必要な全体がわからない。基本がわからない。自分とは、人間とは、いのちとは、時空とは、宇宙とは、等々、姿形のないものはなおわからない、観えない、察知できない、悟り知ることはできません。いのちは、時空は、宇宙は姿形、色、音、重力・・等々の無きものです。137億年前にインフレーションが起こり、やがてビックバンとなって宇宙が誕生した。その後、膨張し続けている、やがて宇宙が壊れると言うのは宇宙で生じている出来事であって宇宙そのものではないだろう。物質でもって姿形を現わすのは宇宙における相対界の出来事であって宇宙本体ではない。二重で螺旋状に姿形を現わす遺伝子しかり、いのちが現す遺伝子であっていのちそのものではない。いのちは、宇宙は、時空は、姿形の無きものであって、姿形無きものをほんとうに観ることのできる真眼、悟眼を養っての追求でなければ宇宙本体のほんとうの実相実体は見ることはできず明らかとなりません。何事においても一つの出来事に、一つの答に、部分の答えや現象に竿さして生きると、どこかで必ず問題を招き、新たに次々と問題が生じて極まらず、正しく完成させ全うすることはできず、ほんとうを得ることはできず、真の幸福に至ることはできません。

 

八木 ほんとうのものは誰にとっても人類だけでなくすべてのいのちにとって善き答となるもので、おのずからしからしむる自然界生命界の理に沿っているものだと思っています。それを察知するには、宇宙に快く開かれた澄んだ眼を持ち、部分にとらわれない高い境地でいること、そして自分のなかに真のものを謙虚に受けいれる空間がある、などの状態を思い浮かべています。

 

川口さん そうですね、欠かすことのできない状態であり境地ですね。人としての正しい道を得、いのちの道を得てなお道にとどまらず宇宙そのものを得る、絶対の境地の体得、体現できる人に育つことが必要であります。宇宙本体が観える。さらに我が存在に宇宙を得る、宇宙を体得した絶対の境地で生きて相対世界における人生の実践において正しく、的確に、正確に対応し対処し、創造し、建設し、生きてゆく人生であらねばなりません。

 

八木 ところで、年代に関係なくほんとうのものに出会える在り方をされている人もおられるでしょうし、地球上に起きている事々から推測しましても人生の終わりまで確かなものに出会うことのない方々もおられるのだろうなと思いますが・・・。

 

川口さん ほんとうにほんとうの人に育つ、ほんとうのものに出会う、ほんとうの人に出逢う、ほんとうのことがわかる、ほんとうの仕事ができる、ほんとうの答を生きることが本当に大切ですが容易ではありません。それぞれの分野で生きるにおいて、甘くて中途半端で曖昧なままで生きていれば極めることはできないし、心が邪悪で曇り、人としての美しい善なる心を失い、自己執着で濁り、排他的で傲慢で支配欲や権勢欲、物欲、金銭にとらわれ、偏った思想、誤った哲学で明かりなき暗闇に陥っていてはほんとうのことはわからないし、わかる人に育つことはできません。ほんとうのことがわからず、ほんとうの仕事をすることができず、ほんとうの人に育たず、ほんとうの人生とならずに死にゆく悲しい淋しい不幸な一生になりますね。

 

八木 時代性をこえて、この今に、おのずからしからしむるこの宇宙に真の花を咲かせ実らせ全うする、そのような人生でありたいです。

 

川口さん 生きることのできるのはこの今であって、この今はこの今しかなくて、一瞬一瞬どんどんこの今は無くなってゆきます。同時に次々とこの今が必ずやってきてこの今が有るのですが、百年前後です。生きることのできる今は必ず無くなります。与えられているのは百年前後なのです。生きることのできる一人のいのち、一人の時空間は刻々と無くなってゆく定めです。胎児期、乳幼児期、少年少女期、青年期、壮年期、老年期、成熟期、次々と有って次々と無くなって、ついには死に至りゆくいのちの営みであり時の流れであり運命であります。生きることのできるこの今が確かにあり、確かに必ず無くなるのです。かけがえのない百年前後の生の期間です。ほんとうの今を生き、ほんとうの芽を出し、ほんとうの幹に育ち、ほんとうの枝葉をつくり、ほんとうの花を咲かせ、ほんとうの豊かで美しい善なる真の実を結ぶ人生でないと残念です。誰しもがほんとうの心平和で真の幸福を生きたいのです。ほんとうの全き人生でありたいのです。ほんとうの人に育った人々が織り成す人間社会をいつの時代に生まれてきた人も求めて生きているのです。私たち人類の本来は、ほんとうに平和でほんとうの幸福に生きて全うする存在であるのですからね。  


八木 一人ひとりの真のめざめとともに、ほんとうのものを希求し、出逢い、実践することで新しい時代が創られてゆくことを感じます。そちらに心を向け続けていたいです。お話しをありがとうございました。



お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美



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川口由一さんの自然農田畑をお訪ねして 2018年 12月 麦の植え付け

2018年12月30日 | 自然農川口由一の世界

12月中旬過ぎの暖かな日に
自然農実践家指導者 川口由一さんの
田畑をお訪ねいたしました。

田んぼではお米の脱穀を数日前にすまされ、
稲わらを畝一面にふりまいておられました。

耕さず 

持ち込まず 持ち出さず

自然農40年目の川口さんの田は

豊かな豊かないのちの舞台です。

ふかふかの畝に上がらせていただき

三輪山を背に記念写真を一枚。


田んぼの端の畝には
麦を植え付けておられました。
お米の田植えに似ていますね。

今年は平ぐわで初期の冬草を削り
苗床で育った麦を
一本ずつ移植されたそうです。

冬草は、
牧草やカラスノエンドウが多く
麦の成長のために冬の間に一度
草刈に入られるそうです。

麦の上からこちらの畝も稲わらを蒔かれるそうです。↑

麦の苗床の様子は、
こちらのブログに掲載させていただいています。

 

さらに田んぼ北側の畑にも
先月、畝を整えられていた場所に
麦がきれいに並んでいました。

夏草が一生を終えて
畝をふかふかにしています。

左側の大きめの畝2本には小麦
その隣には大麦 ライ麦
さらに隣の畦沿いの畝にはライ麦だそうです。

冬の田畑は静かな佇まいです。
冬には冬の美しさを豊かに感じる
川口さんの自然農田畑・・。

冬野菜や麦たちは
これからはじまる厳しい寒さのなかで
亡骸の層がたっぷりの畝に抱かれて
そのいのちを全うしてゆくのですね。

 

師走の空は美しく
なだらかな三輪山の稜線に心なごませ
目の前に広がる川口さんの田畑は
美しい一枚の絵画のように見えます。

 

 

ただただそこにいるだけで
静かに満ち足りた想いがあふれてきます。
自然とともに生きることの清々しさ豊かさが
深く身心に伝わりくるのです。 

 

さぁ、こちらは田んぼ南側の畑です。
麦の苗床だった場所もすっかりもとに戻され
次の季節の作付けを待っています。

 

ピーマン 唐辛子 ナスなどの
夏野菜が終わり
茎枝が残されています。

写真では見えにくいのですが
ピーマンと唐辛子の条間に
えんどうの種が降ろされています。
またナスの株間にも同様に。

 

↑ 手前はゴマが栽培されていた畝ですね。
こちらもゴマの茎や夏草が還されています。

太陽の光を受けて
キャベツが元気に並んでいました。

畝の豊かさを体感いたします。

次に、田んぼから少し歩いて
果樹のある畑を見せて頂きました。 

人参がとても元気です。
昨年はネズミに食べられることもあったと
お聞きしましたが、今年は大丈夫そうです。

 

こちらは、春菊です。↓
ライ麦の茎で寒さ除けをされていました。
「冬の間、春菊をいただきたいのでね。」
と川口さん

 

美しい寒さ除けですね。

 

これは何でしょうか、とお尋ねしましたら
「夏野菜のオクラの幹に立て掛けて
エンドウにする支柱を乾燥させています。」
とのことでした。↓

畑にあるもので なんでもできる
工夫は楽しい~。‼

 

 

果樹の下では、
大根や日野菜が元気に育っています。

 

今年は豊作ですね。
春には菜の花も見事なことでしょう。 

 

木の下に枯れ枝を積んでおられます。
畑の畝に返されたり
その他、いろいろと使われます。

 

お米の苗床の鳥よけや
エンドウの支柱になることもあるそうです。

基本的には
野菜の畝で朽ちさせ巡らせるそうです。

 

自然農40年・・・ 
それ以前から畑だったこの場所には古い木があり、
その木が枯れるとその足元にキノコが生えるのだそうです。
松の木の下には漢方生薬でおなじみの「茯苓」。

 

グミの木にもキノコができています。↓ 

 

サルノコシカケといわれるものですね。 

 

一つのいのちが終わるときに
生まれてくるいのちがあるのですね。

 

見上げればビワの木にお花が咲いていました。 

 

ビワの木陰で少し休ませていただきながら
お話しを伺いました。

 

僕は79歳です。

一年間、今年も田畑に立つことができて本当に良かったです。

自然農は形が決まっていないですし

気候も変化しますし

田畑の様子も変化してゆきます。

その中で新た新たに問題が起きることもありますが

智恵を出して取り組んでいます。

それが自然農に取り組んでいる方々に伝わり

みんなで共有することができる一年でもありました。

これからも年齢に応じた在り方で

豊かに日々生きたいと願っています。

 川口由一

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今年も、川口さんの季節季節の田畑の様子や

インタビュー記事など折々に掲載させていただきました。

ブログをお読みくださった皆様、ありがとうございました。

これからも「自然農」の世界をご紹介させていただくなかで

私自身も永続可能ないのち喜ぶ「農」を楽しみながら

学び深めてゆきたいと思っています。 

 

八木真由美 12.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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川口由一さんの自然農田畑をお訪ねして 2018年11月  稲刈り前に

2018年12月26日 | 自然農川口由一の世界

 

自然農実践家指導者
川口由一さんの田畑をお訪ねいたしました。

季節は秋が深まりゆく11月半ば。
田んぼはやわらかな黄金色に輝き、
数日後に稲刈りを控えておられました。 

 

一生を全うしつつある完熟した稲の姿は
こんなにもやわらかで美しく立派なのだなぁと
その豊かさにあらためて感動しました。
最後まで生きる、美しく全うする、
人もそうあれたら素晴らしいです。

 

 

そして、自然農田畑に立つと
栽培する人の在り方とともに
さらには この星本来の美しさや
豊かな世界に生かされ生きていることに
気づかされます。

おのずからしからしむるいのちの営みに
添い応じ任せることから育まれた作物の
すこやかなエネルギーにふれて
心が満たされ身体もふんわりと緩みます。 

 

 

わたしがお訪ねした時期には
早生種の古代米と香米を
天日干しされておられました。 

 

 

畦でいつものように記念写真を一枚。 

 


充実した日々をすごしておられる
やさしい笑顔の川口さん、
青い空、黄金色に実り輝く稲とも一体ですね。 

 

 

そして、なんと自然農40年目の田んぼに入らせていただき
写真を写していただきました。
立派な稲穂に見惚れています。
貴重な経験です。

 

さて、こちらは麦の苗床です。
裸麦、ライ麦、小麦と並んでいます。
種降しは10/20頃だったそうです。

大きな鳥が苗床に降りてきて
居心地が良いので羽を繕ったりしてゆくため
紐を張られていました。 

鳥の気持ちがわかります。
川口さんの畑の畝は
ほんとうに心地よいのです。
(そばにいるだけでわかります。)

 

 

田んぼの北側では
麦を移植される畝の準備をされていました。


畑地ではなく
以前お米を育てられていた田んぼの中ですので
水はけを良くするために高畝にと
掘った溝の土を多く上げておられます。

 

少しはなれた所から見た畝の様子です。 

その周囲には小豆が実り
ササゲも元気です。

 

右の畝はからし菜だそうです。   ↓

 

 

白菜 カブです。
やはり元は田んぼだった場所ですので ↓
高畝にされています。

 

  

畑の一画に蓮のお池があります。
夏には美しいお花を咲かせたそうです。
この季節の静かな姿もまた良いですね。

 


川口さんのスケッチブックの蓮
の絵は
↑ こちらからご覧いただけます。

 

里芋です。↑
収穫の時期になりました。 

 

こちらは玉葱の苗床です。↓
 

 

こらはキャベツですね。↓ 

 

  

 

時期をずらして植えられたキャベツとナスですね。

 

 

夏野菜たち
種取り用に残されているものもありました。
 

 

こちらは果樹のある南の畑です。
柿の木の下では、チンゲン菜が元気です。 

 

 

さつまいもの畝と
紫蘇はこぼれ種で育ったものでしょうか。 

 

こちらはピーナッツの畝ですね。↓ 

 

右端にニンニクが育っています。  

 

 

春菊とネギです。 

 

 

右端に生姜です。 

 

 

こちらは人参の畝です。

 

 

足元の豊かさを感じます。

 

 

サニーレタスもいきいきとしています。

 

 

 

 

生姜の畝で収穫をされる川口さん。

 

 

健やかな自然農の生姜。
お土産にいただきました。
甘酢につけて保存しています。
ありがとうございます。

 

 

果樹の下には大根のばら蒔きです。
間引きと除草にも入られて
とても立派に育っています。 

 

 

柚子やみかんも実っています。

 

 

ここは楽園のようですね。
にこやかな川口さん。

 

 

 果樹下の大根の一部は ↓
点蒔きをされたそうです。

おひさまの光にかがやき
にこにこ笑顔の大根たちですね。

耕さず 無農薬 肥料を持ちこまず
自然に添って育てる人のぬくもりにもふれ
私の心も身体もうれしくなって
ふんわりほぐれてきます。

 

川口さんのスケッチブックによく登場する
畑の草の実です。 ↓

 

 

川口さんの田畑では


そのすべてが美しいハーモニーを奏で


自然の営みがもたらす真のめぐみが


いきいきと輝き息づいていました。

 

健やかに 

いのちを育む いのちを養う


美しく豊かな自然農の田畑では

 

心も身体も自然に自然にと

 

おのずからのいのちの喜びに

 

ときめくのでした。

 

・・・・・・・・・・・・・・

みなさまへ
ブログをご覧くださいまして
ありがとうございます。

八木真由美

 

  

 

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川口由一さん インタビュー 美しき人生の全う

2018年11月27日 | 自然農川口由一の世界

美しき人生の全う

川口由一さん インタビュー 2018.9

 

八木 装飾について、どのような心の動きでそのようになるのか、川口さんの見方をお聞きしたいのですが。一つには人の身体のところで爪に色を塗るとか耳に穴をあけるなど、そういったことはどのように感じられますか。

 

川口さん それは自分の身体の内に宿している魂や心や精神や思想や哲学や芸術性、あるいは宗教性を美しく養って決して醜悪に落ちることなき人間性の成長を成すべくのことではなくて、身体を表面的に飾ることでしょう。そのことによって自己顕示をする、自己足らんとする、自己主張する、そうしたことは飾ったものに依存していることになりますね。依存しているということはしっかりと自立せずに人としての成長を怠り、そこに逃避しているということにもなります。やがては枝葉で力をつけて依存の裏側の支配に変わることにもなりますね。他を支配するという在り方、生き方に変化することにもなって、人の正しい道からはずれることになり不幸に陥っていくことにもなります。こうした装飾は真の美意識からもはずれたものであって、例えば桜の花にピンク色のカラーを吹きつけるとさらにきれいだと思い考え、野の草に緑のペンキを塗ったり模様をつけたりしたくなるのと相似たことですね。人間も自然そのもので与えられた身体が最も美しいのに、そこに何かつけ加えるわけでしょう、それは最善の在り方からはずれておりマイナスになります。身体そのものが美しいのですから、そのことに気付かないと残念です。心身ともに健康体であれば美しくて爪はきれいであり、不健康になれば爪は波打ってくるし色は紫色を帯びたり輝きがなくなったりします。身と心の健康を維持し損ねることなくさらに育っていかないといけません。その人に美しい情緒や輝きを発するのは内なる人間性からです。爪にいろいろの色や発光色を塗るというのが最近多くなってきていますが、身を飾る場合、そっと添えるのであればその人のその時の彩りとなって生かすことになりますが、だんだんエスカレートしている今日は極端に色濃く多く厚く異常になってきていますね。美しい人間性の発露を基として真に美しい装飾で、素敵で、立派な人間性の高い優れた魅力のある人とならねばなりません。装飾したことによって人としての程度の低さや俗っぽさを現わすことにならぬようにいたさねば残念なことになります。ふさわしくないあらぬことをして納得するとか、安心するとか落ち着くとか、そうしたことになるのは装飾したものに依存しているのであって本当に残念です。綺麗な耳に穴をあけて負担をかけるとか、人として大切な美しい肌に直接何かを描き込むなどは、かけがえのない健康で綺麗な肌のところに生きている人間の美しさを失くすことになります。もちろん大切な生体を傷つけ損ねることになります。そうした行為に走らず心の平安を得ることが大切です。多くは自己不信からくる付け加えであり装飾になっているのですね。与えられた肉体を尊いものとして大切にしながら人間性を養い育ち成長してゆくことによって、自ずからに信が入るものであって美しく心豊かになります。観る目を養い持っている他者からも豊かな美しい人に見えるものです。基本のところからはずれている姿は寂しい姿でもあり、我を見失っているゆえのあらぬ執着は当人が最も心安まりません。もっともっと刺激の多いものを求めるようにもなっていきます。お金に依存する、物質に依存するということにもなり、その依存が顕著になってますます不幸に陥ることになると大変です。他をも自らをも損ねることにもなります。なんとも素晴らしい肉体を与えられているのに。さらに素晴らしい人間性を養うべくのいろんな感覚や感情、視覚や聴覚、触覚や味覚を、あるいは智力能力や察知力、夢想力、行動力、成長能力、審美眼や芸術力、真の美を好み表現するセンスを与えられているのです。それらを正しく大いに豊かに働かせて真の美の創造、創出、そして真の幸福に、美しい人生の全うに至るものでありたいですね。本当にすぐれた美しい人に育つべくの生き方、在り方でないと取り返しのつかない残念な人生、淋しい不幸な人生に陥り一生を終えることになります。

 

八木 何よりも与えられているいのちを大切に真善美に生きるよう心がけたいと思っていますが・・・。

 

川口さん そうですね、大切な基本となる心がけであり生き方ですね。そのうえで真善美に執着せず、解放されたなかで美しく、善なる日々を、真なる誠の日々を生きたいですね。執着心が曇りとなりますので要注意です。真の人に成る、善なる人に成る、美しい人に成るというのは、内なる心のこと人間性のことであり、そのように成長して真善美に生きることが大切です。そのためには真、善、美への執着に落ちない境地を得て宇宙に一人美しく立ち美しく生きる強さがいります。美に執着することなく解放された状態で、真なる人に、善なる人に、美なる人に、一人で宇宙に立って真に善に美に生きないといけないのですね。相対界を超えて絶対界に立つ、宇宙を得る。そのことによってとらわれのない自由のなかで人としての真に正しい道を生きることができます。真に美しい人生を創出することができます。宇宙を得た境地、美醜・善悪・真贋の相対する境地を超えて、絶対の境地を体得して、人間性の成長、崇高なる精神、聖なる霊魂魂魄に養い育って、存在の根底から依存することなく美しくある、真である、善である、すぐれた人に育ってすぐれた仕事をする、役目・天命・使命を果たせる人に成る。真にすぐれた人間に育ち生きて、一度きりの今生、このいのちの根底より人として納得する生き方をしたいですね。心平和で心豊かで心美しく心楽しい人生でありたいですね。

 

八木 絶対なる境地を体得するよう育つには、何が最も大切でしょうか。

 

川口さん 一人で生きることの強さ、人の道を明らかとしてはずれない強さ、絶対世界における相対世界に存在する我であることを悟り知って、相対世界で自と他の別に落ちて対立したり、孤立したり、争ったり、競ったりせずに一体の境地、絶対の境地の体得と人間性の成長に向かって励むことが大切です。誰しもが成長できる人であるのですから。絶対の境地は人本来のところなのですから。最も生きやすいところ、曇ることなき明るく楽しいところなのですね。

 

八木 川口さんに初めてお会いした頃、その当時50代の川口さんは何ものにも依存せず一人でしっかりと立たれておられることを感じました。そのような在り方にたどり着かれたこれまでの生き方についてお話しを聞かせてください。

 

川口さん もちろんこれらの境地のこと、絶対界における相対界のこと、生まれてきた私たち人間も相対界の存在である等々のことは、少年時代、青年時代は正確に認識していませんでした。僕は生まれながらの農夫で、田んぼに立つというのは宇宙自然界生命界に身をおいて、すなわち宇宙空間に身を置いて一人で作業をするわけでしょう。一人で営む、一人で仕事をする、一人で時の流れとなって作業を行なう、一人で生きる日々でしょう。そうした日々のなかで養われたのだと思います。それと人としての本来の正しい道でのことですが、僕は他を支配するという行為行動力は元々少なくて好まない性質であり、枝葉のところで自分を主張するとか、あっと言わせるとか、反対に他に依存するとか生きることから逃避するとか、そうした行為行動に走らなくて、なんとか必死で生きてきたと思います。年重ねるにつれてさらに救われるべく取り組んできました。なぜそうなってきたのかを省みると、心の底から本当に納得し気持ちの落ち着く在り方をしたい、後で悔いの残らない在り方をしたいと強く思うようになっていきました。少しでも道から外れた在り方をすると悔いが残り心が暗くなるのです。そんな状態になると心が落ち着かず安堵しないのでした。

 

 また少年時代に父が入浴中に心臓が止まって突然死んでしまい、冷たくなり死臭を放ち土中に埋められました。生と死のことは何もわからぬいまだ幼い僕に゛僕もやがて死ぬんだ゛という事実をつきつけられて、強い深い不安と怖れに襲われとりつかれるなんともつらい日々となり、なんとか不安と怖れから救われたい思いが強くなったのです。同時にいまだ幼い僕は生きている間に生ききりたい、育ちたい、人として正しい道からはずれるとなんともつらい、淋しい、悲しい、つい我を見失ってしまう、僕は何なのかわからない、こうした不安と不幸に落ちないためにいかにあれば良いのか、我を治めて正しく生きるに欠かせないことがある、その強さを養いたいとの強い思いから境地のことを考えるようになったと思います。人本来の正しい人の道を明らかとし、実際に答えを生きることの強さと本来よりの絶対の境地の必要さ、絶対の境地の体得が欠かせないと気付き取り組んできました。そうしたなかで少しずつ少しずつ救われてきました。

 

八木 幼い頃から心が救われる生き方を求められ、一人で田畑に立つことで一人で生きる強さを身につけてこられ、さらに納得のいく人生へと日々実践されての今の川口さんなのですね。とてもよくわかりました。それでは続けて、成熟にむけて大切なこと、老年期あるいは人生を全うすることについてのお話しをお願いいたします。

 

川口さん そうですね、その年齢に応じての全き在り方があるのですね。自然界の多くは、例えばお米はその時期時期を自ずから全うしているのですが、人間の場合はそこからはずれるでしょう。はずれないように生きないとだめなのにはずれてしまう。もちろん乳幼児期ははずれることがないのですが、青年期、壮年期、老年期になるとはずれてしまうのですね。その時期時期を全うする生き方や、人本来の道からはずれがちな人間であることを自覚することが必要です。その上でその年齢におけるあるべき在り様を明確に認識する。人の道を全うする、いのちの道を全うする、それでいてその年代に応じての生き方を全うする。例えば老年期に青年期のような生き方になればだめですし、あるいは老年期に乳幼児期のような生き方は絶対だめでしょう。心は少年のようなおさな心の純粋さを持っていないとだめですが、具体的な生き方においては、その年代に応じての生き方がありますね。ところで、老年期は人生において最も成熟した年代で、最も多く生きてきた年齢になっていますから、最も成熟した人としての姿を現す中で、それぞれそれぞれの仕事や役目、使命、天命を果たしていかないといけない時期です。自分の人生にとって、家族にとって、地域にとって、国にとって、人類全体にとって、老年期を全うしての役目は大事なことです。欠かすことのできない老年期を生きる人々の働きです。老年期は老年期の全き姿を生きることは、当人にとっても人類にとっても是非に必要です。老いての執着に陥ってはいけないし、逃避してはいけないし、道から外れてはいけないし、いのちの道、人の道から外れないで、全うしなければなりません。ところで正しく生きるのはいずれの年代も容易ではありませんね。老年期においても人の道、いのちの道、我が道を全うするのはなかなか容易ではないですね。ところが、先ほど話しましたお米ですが約七か月の一生、老年期に入るほどに成熟し絶妙に生ききって一生を全うして死に至ります。完結です。その結果、多くの善き美しい真のいのちをたくさん育て上げているのです。お米は三千~四千、四千~五千と新たないのちを産み育てあげて一生を全うします。いのちからのいのちの実りが、次のいのちであってすごいですね。人もまた人としての実りを、成熟した人生の結実を果たして当然なのですね。


八木 ところで画家の横山大観さんは壮年期には素晴らしい作品を描かれていますが老年期には衰退した淋しい姿を見せておられるようです。大観さんは老年期にいかにあられたら良かったのでしょうか。

 

川口さん 横山大観さんの青年期はいまだ真の我に至らず育たずの作品ですが、壮年期の中期から後半期には人としても芸術家としても育たれ、美しい情緒の色濃い絵を描かれています。ところが老年期に入ると作品に生命が宿らず情緒も枯れ、気力も衰退した作品になりますね。作品はその人の姿、大観さんの人間性そのものです。次の機会に人としての年齢を追っての生まれ出づる作品を観てゆきたく思います。

 

八木 はい、楽しみにしております。それでは、人のそれぞれの時期について全き在り方を示していただけますか。

 

川口さん 胎児期、乳幼児期、少年少女期、青年期、壮年期、老年期、死期、に分けて、全き在り方、人本来の正しい在り方、幸福に至る在り方、救われる在り方、心平和で生きることのできる在り方・・・を考えてみます。

 

 全時期いずれも100%他に生かされ100%自分で生きなければならないのですね。他力100%自力100%です。その上で自他の別を超えてその時その時、その時期その時期を生きる。そして死に運ばれ死に至る。日々の生活の生きる基本となる食べて排泄する、住居する、寝る・・・等においては、乳幼児期は最も他に依存度多く他に助けられてのことです。やがて少年少女期、さらに青年期へと成長と共に依存は減少し、自立力が養われて、自立の割合、自立の程度が増していきます。やがて壮年期に入るころには自立して我が道、人の道、いのちの道を得て、人生における役目・使命・天命を生きて全うしてゆきます。大きな大切な働きをするなかで少しずつ老年期となり、老年期の役目、務め、天命、使命を生きる日々の後半には衰えが始まり、死期が近づくにつれて再び他に依存、他に助けられてのことになります。この自ずからの依存はいのちの営みから生じることであり、老年期の後半における全きことです。手助けも見守りも当然自然のことです。これらの時期の運命を認識し受け容れて、その時期時期を全うせねばなりません。もちろん全うすることができることです。乳幼児期はお母さんのおっぱいを自力で飲み、自力で消化吸収し、自力で抱かれ、自力で安心に至って心身共の成長を成していきます。受ける側の幼児も与える側の母親いずれも自ずからであり当然のことであり、その時期その立場を全うして生きています。いのちある者、人として生まれてきた者の運命をあたり前に自然に生きているのです。生まれて来ることも育つことも老いていくことも死に行くことも運命を全うしているのです。あたり前に自然にです。生育も老いも男に生まれくるも女に生まれくるも自ずから然らしむる運命を生きて全うです。その上で時期時期の全き在り方を考えてみます。

 

 乳幼児期は一人立ちできない未熟期であって依存する、助けてもらう、任せる、甘える・・ことが乳幼児期を生きる全き姿です。ところでいかなる年齢においても他との関係において、問題が生じるものです。乳幼児期においても、乳幼児の都合、思い、願い、事情が内なる心からも肉体からも生じます。母親、父親、祖父母や他の家族の事情や思いや願いや心や肉体から生じるものも当然あり、両者の事情から乳幼児も辛い思い悲しい思い不満や残念な想いや不安や恐れや閉ざされている思い、圧迫される状態等々、限りなく生じているはずです。認識せずしてそうしたことが存在のなかで生じており、感じる能力、察知能力を与えられているゆえに人としての心の内における苦労を日々事々においてしており乳幼児も取り組んでいます。もちろん反対のうれしいこと、ありがたく思うこと、よろこび、しあわせ、心平和、安心、あるいは善なる意欲や智恵や美しい情緒の調べを乳幼児も得ています。こうしたことも生きていく上で必要な智力能力を養い、人として成長してゆくことになってゆくものであり、年齢に応じて時期に応じて、夫々に応じて必ず行っているものであって、゛今を生きている゛゛時期を生きている゛゛自分を生きている゛ということです。こうしたことも゛全うしている゛ということになります。乳幼児期、あるいは体内における胎児期においても、当然一人で存在の根底から必死に生きて胎児期を全うしているものであって、この時期を全うして日々に育っています。

 

 やがて少年少女期に至りますが、この時期にはすでに生きるに必要な智力能力と幸福の一生を生きるべくに欠かせぬ人間性の基本となる智情意を中心として総合的に育つべく取り組み始めています。認識と意識を越えたところから、あるいは認識や意識を通して思い考え思索し少年少女期を生きています。もちろんいまだ自立に至らず両親祖父母や大人たちに依存したなかで自立に向け成長に向けてこの時期を全うしているのであって、親は、大人はこのことを承知したうえで、親として役目、務め、使命を行ない、見守り育て、手を貸し、共に生活し、共に生きていなければなりません。いまだ未成人の少年少女にとっては、親として大人としての全き在り方、生き方が必要になります。やがて少年少女期で年重ねるなかで、自我に目覚める、自我を自覚する、自分を意識する、認識する。さらにいろいろのことに生きるなかで出会い経験をして、意識して自立へと育ちゆく年齢に入ります。自我というのは無数にある他に対しての自分という位置づけの自覚と認識と、宇宙自然界生命界における自ずからなる分としての位置づけの認識と自覚、この二つの面での自我の目覚めです。もちろん宇宙自然界における分の認識はまだ少しで薄いものですが、無意識裡ではあっても内には感じ持っているものです。そして多くは自己本位の自分、他の確かなる存在から生まれる自我の目覚め自覚の始まりです。出来る限り多く広く深く確かなる自我の目覚め自覚確立への作業がこの時期においても全き在り方です。もちろんいつの年代にも重要な思索であり全うする作業です。

 

 そして青年期です。青年期の全きを生きるなかで混沌、混乱、暗闇、うす明かり、自信、過信、自己らしくなる、自己をすっかり失う、迷路、邪路、・・・・、等々、真の自己確立、自我の目覚めが小我に陥ったり、小我を超えて大我、真我へと育つ要素も身につき、自己本位の小我がさらに我執に落ち、執着深くなって偏執狂の不幸へと衰退するところから離れて、すぐれた人格に育ちゆくべく取り組むことが青年期の全き生き方、重要な在り方です。青年期を全うしないと壮年期へと全き人として進むことはできません。善悪、真贋、美醜の別を明らかとし、我が内なる人間性においても別を明らかとして、醜悪贋から離れて真の人として育ちゆくことのできる道を得ていかなければなりません。青年期を終える頃には、人の道を明らかとして自ずからの人間性を養いつつ、我が一生の道を見出さねばなりません。農に携わるのか、教育者になるのか、政治家としての一生にするのか、治療者として病人を助ける道を選ぶのか、あるいは芸術家、宗教者、諸々の生きる基本となる生活に欠かすことのできない職人さん、・・・・今日まで生きてきた中から自分の資質を知り、好む仕事を明らかとして、我が道を得る時期です。やがて壮年期、40代に入る頃です。

 

 この壮年期の前半は、我が道における分野の本質を明らかとして、平行して存在している、生きている、生かされている、この舞台である始めなく終わることなき無始無終であり果てなき広大無辺なる宇宙生命界をよく観つめ、宇宙の実相実体、最も身近な地球の実相実体、同時に微小(ミクロ)なるいのちの実相実体を明らかにする思索、追求も欠かせません。我れを知り、人類を知り、存在するすべて、現象界相対界の実相実体をも知ってゆくことがやはり大切であり欠かせない重要なことになります。人生の後半に入る青年期からのやるべきことであり、壮年期、老年期、死期へと生きている間もやり続けることが必要であり重要なことです。そのことによって、いのちの道も明らかとなり、我が道、人の道と共に得て悟り、大人となり成人してのよろこびの人生、意義深い人生、生きる意味を悟る人生ともなります。役目、使命、天命の全うともなります。壮年期前半は精神的要素も多く働き育ちゆく日々であり、肉体も最も大いに働く年代です。

 やがて壮年期後半に入るにつれて最も肉体も精神も深く厚く高く聖にして美しい善なる真なる働きを実践できてゆく年代です。かように生きることが壮年期、全盛時の全き生きる姿です。やがて少しずつ老年期に運ばれてゆきます。生まれること、育つこと、花咲き実ること、次のいのちを産み育て上げること、そして成熟すること、老いること、死ぬこと、いずれも同一なるいのちの営みから生じるできごとです。育つこと、成熟すること、老いること、死ぬこと、生まれること、みな同じ営みからのことなのですから、いのちの世界は本当に摩訶不思議、そのようにしかならない存在であり、そこにおける今日であり、明日であり、昨日だったのです。宇宙現象界におけるすべての姿形を現わしているもの、地球も月も太陽も無数の星々、そして無数の生物・無生物、現象界に存在したもの、今後存在するものすべてしかりです。すべてが同じ運命における生の期間でもあり、死に運ばれる今生なのです。そしてそれぞれ与えられている生の期間は過不足なしで、絶妙に生きて全うできるいのちとして生まれてきており、人は人として100年前後の時空間を幸福によろこびに平和に楽しく生きることができる生命体として数十万年、数百万年前に誕生してきたのです。無目的に自然に。宇宙に存在するすべてが誕生も日々刻々の変化も死も無目的なのです。こうしたすべてを有らしむる宇宙本体も無目的の存在です。なんともすごい世界に誕生してきた私たち人類も無目的の誕生であり、やがては無目的の死でありますが、完全絶妙に生きて幸福に平和に全うすることのできるべく誕生してきているのですね。

 

 老年期は一生の最後となる時期です。精神、霊魂、魂魄、心の底、いのちの根底から人として立派に豊かに大いに育たねばなりません。その成長によって最も豊かに心平和に喜びのなかで、宇宙における他のすべて、生かされ生きる舞台である地球環境・自然環境とも、他人とも、他国とも、他民族とも、さらには宇宙本体とも対立することなく和して争うことなく損ねることなく依存することなく、平和に、個々がしっかり自立して生き、弱きを、いまだ若き幼き未成人を、不幸な環境に生きる人を助け、不足するところには足りているところ余っているところから補い、生かし生かされての人としての在り方・生き方を、日々生きている人間社会、宇宙における人類であるよう整え、説き、示し、導き、先導する在り方が、老年期の役目、使命、天命であり全き在り方、生き方、そして生きている姿です。老年期を生きる男女の全き働きは当人はもとより人間社会に欠かせない重要なものです。母親のおなかに宿った胎児期から、老年期、死期に至るまで正しい人としての道を願い求め、実現、実践してゆく日々となれば、その当人が即救われます。一人一人が真に救われることによって、多くの人たちと共に救われる日々となり、やがては人類社会が平和な社会となってゆきます。

 

八木 いのちの世界における人の一生について、美しき人生の全うにむけて、それぞれの時期時期の生き方を明らかにしてくださりありがとうございました。

 


お話し 自然農実践家指導者 

川口由一さん

 

インタビュー 編集 

八木真由美



 

自然農田にて 川口由一さん 2018 秋

 

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自然農実践家 川口由一さんのスケッチブックより 「栗の絵」

2018年10月23日 | 自然農川口由一の世界

実りの秋ですね。
今日は自然農実践家川口由一さんのスケッチブックより
栗の絵を四枚、掲載させていただきます。
その時々の川口さんの想いが、
絵と文章より伝わってまいります。

(年代順です) 

 まずは、30代半ばに描かれた絵です。

 

涼気に 玉のクリ 初成り うれし 

 

そして、40年ほど絵を描くことから離れておられ、
ここ数年、 70代後半に描かれた作品が三点です。

 

秋九月 栗熟し はじけ 落ち ころび 並びて 
夫々に 一ツ 一ツ 一ツ 一ツ 

 

 

完結成して 躍り出る 冬の足音聴き 

 

 

親は育てつくして離す
子は落ちて一つ 一つ 一つ・・・
大地で自立なれど・・・
食べられる
いのちうばわれる
僕に・・人に・・
ネズミに・・・。

 

 

生ききる 悟る 任せる 

満ちる 全うする 

死する 

すべてしかり 

2018年 秋  

 

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栗を描く

栗はいのちそのもので
次を生きるいのちであり
いのちの充実ぶりが
なんとも言えず豊かで
輝きがあって艶があって
いのちの存在をつよく感じます。

栗そのものは
その存在を主張せず
静かで
我がいのちのを全うしていますので
なんとも惹かれ描きたくなり
描きます。

描き終わり
想いが落ち着くと
今度はこのいのちが欲しくなり
我がいのちの糧にして
元気をもらいたくなります。

自然農の畑で
全く自然の状態で育った栗は
何とも言えず美味しいです。

文 川口由一さん

2018.10.22

 

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川口由一さんの自然農田畑をお訪ねして 2018.9

2018年09月27日 | 自然農川口由一の世界

自然農実践家指導者 川口由一さんの田畑をお訪ねいたしました。
美しく麗しくすこやかに育つ稲の姿に今年も感動です。

川口さんの田んぼは今年自然農40年目です。
自然の営みと稲の性質に 添い応じ
任せる在り方でお米を栽培されておられます。

真に健やかなる豊かで美しい稲のいのちを感じていますと
心も身体も清々しく喜びにあふれてきます。

耕さず40年 稲の足元はとても豊かです。
周囲の畦を歩いて一周させていただきました。

今年は、古代米 アケボノ トヨサト トウカイアサヒ等を
栽培されておられます。

畦には大豆が並んでいます。

 


お元気に毎日田畑に立たれておられる川口さん。
いのちの舞台を大切に大切に慈しみながらの自然農です。 

 

田んぼ横の畑では 
ナス、ピーマン、万願寺唐辛子が実をつけています。

 

収穫中の川口さん。

こちらは玉葱の苗床だそうです。↓

 

昨年は田んぼから離れた畑で栽培されていた小豆、
今年は場所を変えられて、田んぼ北側の畝で育っていました。

 

かわいらしい蓮、周囲は秋桜ですね。

トウモロコシです。↓
二列、時期をずらして栽培されています。

 

 

田んぼの畦にて、お写真を撮っていただきました。↓ 9/18
自然農を川口さんから学ばせていただいたことで
方法技術だけでなく、いのちの世界の本質にふれることができました。
そして、その新鮮な想いは尽きることがありません。

畦道の彼岸花に目をやりながら、田んぼから少し離れた畑へと・・。

ニラのお花が満開です。赤紫蘇も天然自然に健やかです。

そして落花生が可愛い葉を茂らせています。

こちらは、山芋です。↓

手前から、生姜、空芯菜、オクラですね。

 

オクラ側からの写真です。↓

左手にネギ 右手にモロヘイヤです。

三列、人参の種を降ろされていました。↓

 

ゴーヤです。

 

美しく豊かないのちの舞台を感じさせていただいた九月
川口さんの田畑では、空に赤とんぼが飛び交い、
コスモスの花が咲きはじめていました。

自然農の田畑は人の美しい情が花咲くところなのですね。
今回も存在をとおして感じ学ぶひと時をいただきました。
ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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摩訶の世界に 摩訶不思議を現わす 絵と文 川口由一さん

2018年09月20日 | 自然農川口由一の世界

自然農実践家 川口由一さんのスケッチブックより
四枚の絵を掲載させていただきます。

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川口さんは79歳、自然農40年目です。 
自然に添った暮らしのなかで
数年前から描かれることを
日々の楽しみにされておられます。

絵を描くことを通して自らの状態を見極め
人間性の成長と境地の体得に繋げておられます。

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摩訶の世界に 摩訶不思議を現わす 

七月三十日

 

 

清浄新 豊聖 深々 静々

 

 

美しい 藍 青 緑 

黄 赤 茶 黒・・・生きて 染まりて 

次なるいのちを 生みつくるぞ・・・

生まれ出るぞ 

いのちは営むぞ 時空は営むぞ 

宇宙は営み続くぞ 終わらぬぞ 

生まれ出る現象世界のいのち達は 

終わりがあるぞ 我も地球も太陽も

すごい 素晴らしい 

六月六日 梅雨入る

 

 

足元に 

草萩澄みて 

清みおり

我れ救われん

情緒豊かに秋

九月十五日

 

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川口さんのスケッチブックの内容は、
宇宙自然界生命界の現象や出来事、人間のこと 
その時々に気付いたこと、感じたこと、思うこと、
悟ること、納得すること、願うこと等々、
色や形、線で描き 言葉を添え、
人生の集大成ともしておられます。

八木真由美

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川口由一さん インタビュー ほんとうのしあわせ

2018年05月05日 | 自然農川口由一の世界

ほんとうのしあわせ
川口由一さん インタビュー 2018.3 

 

八木 私たち人間社会において対立的にならず他の幸せを喜べるかどうか、それは平和な人間社会を築くに大切なことで、「他の幸せが喜べない時の自分はほんとうのしあわせを手にしていないからだ。」と教えていただきましたが、「ほんとうのしあわせ」とはどのような状態をさすのでしょうか。?

 

川口 ほんとうのしあわせを存在の根底から感じて真のしあわせになっている時はどんな状態なのか、あるいはほんとうのしあわせはどこにあるのか、人としてのほんとうのしあわせ、男性としてのほんとうのしあわせ、女性としてのほんとうのしあわせ、大人として、政治家として、芸術家として、宗教家として、農民として・・・、父親として、母親として、子どもとしてのほんとうのしあわせは、その時その時成長過程によってそれは異なるし、置かれている立場によっても時代によっても年齢によっても季節によっても異なりますが、いずれの場合も゛人゛ですから、人としてのほんとうのしあわせは、いつの時代にもすべての人に通じる変わらざる普遍のこととしてあるものです。

 

 ところで、どのような時にほんとうのしあわせを感じられるのかですが、100%正しく生かされて100%美しく生きることができている時はほんとうにしあわせでしょうね。100%正しい他による生かされ方と自らによる生き方を知らないで外れてしまうと決してほんとうのしあわせには至れませんね。在り方生き方にかかっていますが、どのような生かされ方と生き方をすればしあわせなのか。どんな時、どのような時、ほんとうのしあわせなのかを思い起こし、深くみつめてみたいですね。その先にしあわせの反対の状態をみつめてみますと、淋しい、悲しい、不安だ、恐ろしい、落ち着かない、心配だ、苦しい、あるいは他人に負けて悔しい、他人に脅されて、他人にいじめられて他国に侵されて恐ろしい、不幸だ、他人をいじめて、他国を侵して心が安まらない。あるいは仕事が順調に進まなくてつらい、お金が充分入ってこなくて残念、お金がなくなってきて不安、物質的に貧しくてつらい、心が貧しくなって淋しい、怒りっぽくなる、他虐的になる、自虐的になる、攻撃する、攻撃される、等で心が安まらない。他人に怒られて悲しい、怒って心が落ち着かない、怪我をして痛い、病気で苦しい、老いてきて淋しい、恋に破れて生きる意欲をなくして耐え難い、死ぬのがこわい、あるいは他人の不幸が悲しい、人類が不幸へと流れてゆくことが恐ろしくてつらい、人間社会の混沌混乱がつらい、人間社会の不条理や矛盾が耐え難い、国の政治の誤りから不安を覚える、国と国、民族と民族の戦争、殺し合いは不幸の極み・・・等々、幸福から離れゆくことも限りなしです。祖父母の死が、親の死が、我が子の死が、我が孫の死は耐えられない、変わってやりたい、悲しい、家族の病気がつらい、兄弟姉妹げんかになってつらい、等と数えきれません。我が内なる心でのことであったり、外部の事柄であったりします。台風がくれば、地震がおこれば、豪雨になれば不安、晴天続きで困る、雨が降ってほしい、低温続きで稲の生育が心配、殺したり殺されたりは恐ろしい、なんとも悲しい・・、等々、悲しみ、不安、恐れも限りなしです。これらいずれも他から生じることと自らの内から生じることに大別できますが、別けようのないものでもありますね。

 

 ところで、他のことは別にして自らの在り方のところでのことですが、人としての正しい道を得てその答えを生きることができ、いのちの道からも外れることなく生きることができたら、あるいは真に我にふさわしい我が道を得て正しく生きることができたら、あるいは選んだ我が道で優れた答えや成果を出すことができたらしあわせですね。人の道、いのちの道、我が道をみつけられただけでもしあわせです。40代に入る頃にはその道をみつけて、50代60代とその道で答えを生きることによってしあわせが色濃く深くなりますね。それは実際に具現化したことからのしあわせです。真に優れた人間に、優れた農民に、優れた教育者に、優れた芸術家に、優れた政治家に、優れた宗教家に、優れた治療者に、真に優れた親に、優れた夫に、妻に、優れた職人に・・とね。ところで基本のところは生まれてきたことが喜び。そして今も生きている、存在している、そのことが喜び、そのことがしあわせ、そのようになって心平和、心豊かで心静かな喜びに至るようになるのがしあわせの基本になりますね。

 

 さらにその上でそれぞれの道で、それぞれの行為行動でほんとうにしあわせに至るようになるといいですね。これとこれを手にしたらしあわせだ、等々の何かを得る以前に存在そのものが、生かされて生きていることがそのままでしあわせだ、不足することがない、足りているところに生かされ生きている、このことがありがたい、という境地に至ることが基本になりますね。

 

  その境地に至れないと、金銭欲や物質欲、名誉欲、権勢欲、支配欲にとらわれることになります。足るを知って心が満たされていると、何もなくても生きていることがしあわせだというようになります。事実は何もないことはなくて、生かされている私が存在しているし、生きるに必要なものは過不足なく与えられているし、生かしてくれるなんともすごい美しい豊かな宇宙自然界生命界があるし、それをしっかりと観つめ宇宙の実相実体を察知し認識し理解できて、その美しさ豊かさを全存在で、心で、魂で受けとり味わい絶妙さに感動し喜ぶことかできる状態になっていればほんとうにしあわせですね。そしてその宇宙における人類の位置と人間の実相実体と自分を知ることのできるその境地に至っていなかったら心は足らぬ状態になり不安となってあらぬものを求めるようになってしあわせから遠のいてしまい、迷いの日々、暗闇の日々に陥ってしまうのですね。不幸となりますね。

 

 生きることのできている舞台のことですが、太陽があるのが、光が、熱が、明かりが、ぬくもりが、適量届くのがありがたい、水が、海が、大地があるのがうれしい。空間があるのが、時間があるのが、宇宙があるのが、宇宙いのちと時空は無くなることは決してなく存在し続くのがなんとも安心だ、ありがたい。地球が今日もあって衰えずにすごい生命活動をしているのでなんとも言えずありがたい、安心だ。宇宙は常に大調和で常に変化変化で破綻することなき秩序で在り続くことが安心だ、なんともすごい宇宙に生かされて生きているんだなぁ。しかもこの宇宙生命界は何もかもなんとも美しい、本当にありがたい、となりますね。雨露をしのぐ住居がある、寒さを守る衣類がある、今日も生きるに必要な食べ物もある、田畑でお米や野菜や果物が育ってくれた、野山で山草がキノコが育っている、心身健康であることができて一日の生活が無事に終わり、お布団に入った時は「ああ、うれしい、ありがたい、寝ることができる。なんともしあわせ。」身近なことから遠大な宇宙のことまで、いのちのことまで、気付けば気付くほど、知れば知るほどに、わかればわかるほどに美しい妙なる営みで、豊かで、止まることなく在り続くことが驚きであり感動であり感謝の思い湧き出でてきますね。

 

 我が道のところでは、たとえば農民でしたら、自然農で自然界を損ねず負荷をかけず有限の資源を浪費せず、安全でいのちの充実した良いお米や野菜や果物を育てることができればしあわせですし、それを届けてあげられるのもしあわせですし、喜んでくださるのもしあわせですね。人類を持続可能にする自然農の正しい答えを誠実に生きることができればしあわせになりますね。傷寒論・金匱要略を宗とした古方の漢方医学を修得して病からの自立を成し、さらに病気で苦しむ人々を根本から治癒してあげることができる医者になれば深い喜びであるし、救われた人々も本当に幸福ですね。芸術の本質である美と醜の別を明らかとして決して醜を現わすことなく真に美しい芸術作品を創造することができる芸術家になると深い深い喜びです。また、真に美しい作品に出逢い観賞できることもしみじみとした喜びとなります。心から魂から全存在から真に美しい人に出い、結婚し心から肉体から魂から全存在で愛し合うことができている時は深い深いこの上なき人生における喜びとなり人間の尊さ存在のありがたさを覚えます。自然界を大切にし、一人一人を、人類を真の幸福に誘うことのできる政治を実現する政治家が誕生してくれば本当にうれしいですね。大きな喜びです。自らも偽りから離れて真を生き、悪から離れて善を生き、醜から離れて美を生きることのできる人間性に成長すれば、本当に喜びの今を、幸福の人生を全うすることができますね。他に依存することなく自立することができる人に、宇宙を得、絶対界に立つことのできる人に育てば心平和で豊かで喜びでありがたい日々となり平安の人生を歩むことができるようになりますね。

 

 存在そのものがしあわせ、過不足なく満たされている、それと同時に我が道において答えを生きて、そして実際に答えを出すことによってさらに豊かな深いしあわせを得る。こうして全体もしあわせに至るのですね。しあわせに至るとは生きていることがしあわせになっている状態です。他に生かされ、天地自然に生かされ、自ずから道を得て正しく生きることができて、真の自立ができて、さらに役目・使命・天命を、親として大人としてあるいはそれぞれの道、それぞれの分野において人々の幸福につながるべくの仕事ができればほんとうのしあわせに至りますね。しあわせになると心の底から平安となり魂から生きていることに納得が入りますね。一人一人が幸せになることと人類全体が幸せになることは同一のことであり異にすることではないですね。一人の人間として生きるにおいて矛盾することなく実践できるようになりたいです。本当にしあわせでありたいですね。すべての時代のすべての人が心底から望み願っていることです。一人が、人類が、しあわせに至るべくの働きができるように育つことができればうれしいですね。

 

 たとえば大切な分野の一つである教育においては次の時代を生きる若者をほんとうにしあわせに生きることができる人に育てないといけないのですが、まず自分が幸せになる。そうしてどういうところにしあわせがあるのかをはっきりと認識する。その上でどうしたらしあわせに生きることができるのかを、教育者として、あるいは大人として認識して育てることの智力能力を養い身に付ける。一人一人皆異にするいのちであるし性格であるし資質であるし人間性であるし、今日に育ってくるまでの生い立ちや長い過去の歴史も事情も異なり、しあわせに生きることができなくなっている人、不幸を背負って生まれてきたかわいそうな人、等いろいろですので、一人一人に適確に応じてゆくことのできる智力能力が必要です。そこまで育った上で真のしあわせの人生を生きることのできる若者を育てることができて教育者としても真のしあわせに至れます。しあわせに至るには人間性の成長が最重要で欠かせません。総合的に育ち、人格形成を立派に成し遂げた上でさらにそれぞれの分野の本質を明らめ極め、真の答えを見出し体得した上で実践、実現、具現化することによってしあわせの日々を生きることができますね。ここまでの話は人としての生き方でのことでした。

 

 ところで宇宙は他が喜ぶとか悲しむとか、あるいは人類をはじめ、他のすべての生物あるいは地球や太陽・月や銀河の星々が喜ぶとか悲しむとか幸福になるとか不幸になるとか生むとか死なせるとかは考えることも思慮することも配慮することも心くばりすることもなく存在し、ひたすら我が宇宙いのちを営み続けています。そうした宇宙ですが、人類全体が、一人ひとりが、しあわせになることのできる生物として宇宙に誕生してきました。そしてなんともありがたいことに人類が、すべての生物が幸せになることのできる舞台として黙して語らず永遠完全無欠の宇宙であり続けています。宇宙は止まることなく終わることなく誤ることなく、壊れることなく存在し続け営み続けます。その営みは無目的にです。なんら目的を持ってではないのですが、たくさんの生物が完全体として自然に誕生し死ぬまで生かされ生きることができています。人間もしあわせになることのできる智力能力を授かって、完全な生命体として、この宇宙、この地球に誕生し今も存在しています。もちろん宇宙は計算、計画、愛情、親心で人類を産み創ったのではないのですが、絶妙に完全な生命体として数十万年、数百万年前に誕生したのです。自ずから然らしむる自然なる人類の誕生であり、すべての生物、すべての無生物、すべての物質、すべての営み、すべての完全なる現象界・・・なのですね。もちろん現象界におけるすべて、誕生してきたすべては、いつかは必ず死に運ばれます。人類も、地球も、太陽も・・です。このことは悟らねばなりません。死滅は嫌だと逆らい怯え怖れてはなりません。

 

 そのように人類もいのちある間はしあわせに生きることのできる宇宙であり、人という生き物です。この宇宙生命界のできごとは自ずから然らしむることであって、誕生したすべての生物、無生物、いずれもかならず変化し、やがては死に運ばれ死に至るものです。もちろん新たないのち達の誕生であり、この誕生もまた無目的にです。やがていつかは人類も目的無く滅亡に運ばれます。しあわせに生きたい、喜びの日々でありたい、心平和に、心豊かに生きる。これらの願いも実現も生きている間でのことです。授かった百年前後の生の時空間をほんとうにしあわせに喜びに生きたいですね。

 

八木 そうですね。お話しを伺いはっきりと見えてくるものがありました。宇宙自然界生命界に、他の存在に、生かされていることに深い喜びを覚え、自らが成長する在り方で人生を全うすれば絶対なる確かさで「ほんとうのしあわせ」を手にできるように思いました。人類一人ひとりがそのように目覚めれば、地球の真の平和もすぐにでも実現可能なはずですね。お話しをありがとうございました。


 

お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美

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川口由一さん 自然農田畑 2018年 3月 

2018年05月04日 | 自然農川口由一の世界

三月の末、桜の季節に、
自然農実践家指導者の川口由一さんの畑を
お訪ねいたしました。


水仙が咲いている頃にぜひにとの想いが
実現いたしました。
うららかな春の光につつまれ 
花々のよいかおり・・。


ヒヤシンスも水仙の足元に咲いています。
朱木蓮もやわらかな空にむかって花ひらき、
春風そよ吹く畑はやさしさに包まれています。

 

ああ、いい気持ち。
川口さんの自然農畑には人工的なものが
全くありません。

自然に沿った在り様はほんとうに美しくて
心からしあわせを感じます。

その畑で育つ作物や果実が
真に健康で美味しいことは
言うまでもありませんが
畑に立つ人の心も身体も
深く深くくつろぎ癒されます。 
 

↑ こちらは花木のスペースで
木蓮が満開でした。

蝋梅、紫陽花、ムクゲ、
ライラックなどが並んでいます。
冬の間に剪定をされている木もありました。
  

畑の入り口です。

チューリップやムスカリが並んでいます。
手前にはこぼれ種で育ったゴボウが
種取り用に鎮座しております。  

レタス・チシャ・サニーレタスの畝です。
↓ 

種取り用の人参だそうです。↓ 

草たちもほんとうにかわいいですね。 

 

お花のコーナーでは、
百合、牡丹、芍薬、ハーブ類が植えられ
畑の北側には 平戸つつじが並んでいます。 

 

サヤエンドウです。 

健やかに育っています。
初々しくまぶしいですね。
背丈が伸びてきたら
稲わらの支柱を二段にされるそうです。


こにやかにご案内くださる川口さん。

日々お元気に、田畑に
立たれておられるとのこと
うれしいです。  

 

グミの木が衰えてキノコが生えています。 ↑

こちらは山芋の畝だそうです。↑↓
ほくほくの土 
いのちの重なりが層を成しています。 

 

畝の左に並ぶのはニンニクですね。 

春草のなかにキャベツを見つけました。
こんな畑で育つキャベツは幸せですね。 

 大根のお花、清らかですね、
種をつけていのちを繋げてゆきます。

 こちらには、↓
ブドウの苗木が植えられています。

花梨の木です。↓
小さなお花を咲かせていました。 

三月下旬 お花が満開の杏子。↓
はなやかに空をいろどり
春を歌っています。 

↓ こちらは梨の木です。 

足元にはフキ。↓ 

落葉樹の下には 
葉物や大根の花が咲き
フキが群生しています。 

桜の苗木の前で川口さん。
この桜は、お孫さんの成長とともに
大きくなるのでしょうね。
楽しみですね。

 

野菜、果樹 花 木・・ 
ここに居るだけで
しあわせな気持ちにあふれます。

美しい春の日に 美しい畑で
喜びのひとときをいただきました。 

ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

写真は3月末の様子です。

 

 

コメント (1)
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川口由一さん インタビュー 取り込み過ぎず「足るを知る」境地で生きる 

2018年03月08日 | 自然農川口由一の世界


 取り込み過ぎず「足るを知る」境地で生きる 
川口由一さん インタビュー 2018.1 
 

八木 現代人の取り込み過ぎについて、具体的には何がどのように過ぎて問題を招いているのかお話しいただけますでしょうか。 

 

川口 現代人においては取り込み過ぎる人があり、取り込み過ぎる国があり、不足している人、不足している国があり、人類の歴史において最も顕著になっていると思えます。食において、あるいは衣と住に、そして生活全体において、あるいは国の建設、国の維持、保持、防衛、社会の建設において、゛過不足なし゛の在り方を実現しているのはごく少しではないでしょうか。

 

 ところで生まれてきた者は、生きている間は生きねばなりませんが、まず生きるに大切なのは食ですね。不足しているところ、飢え死にしているところ、反対に過ぎて身体を損ね病みいのちを短くし、大切な食べ物を無駄に捨て去っているという現実があります。なんとも言えない不幸です。食べ物において取り込み過ぎると胃腸に負担がかかり順調に消化ができず、血肉にならず内臓内腑に負担をかけ大切な身体そのものを弱らせていくことになります。その結果、与えられているいのちを全うできなくなり短命となります。もちろん心と身体、霊魂と肉体は別であって、同時に別けることのできない一つのものですから、心も霊魂も精神をも損ね病しめ衰退、退廃させてしまいます。人生全体におけるすべてにおいて取り込み過ぎると大変になってしまいます。もちろん不足であることもしかりです。この過ぎることも不足することも起こり得ぬ生き方、在り方のできる人間に育たねばなりません。

 

 今日の多くの取り込み過ぎは、基本である生かされていることにおいて足りていることを知らないゆえに取り込み過ぎに陥っています。足りていることを知っていないからです。足りているのに足りていることに気づかず知らず悟らず、さらに取り込んでいます。足りていることを知ることのできない者はいくら取り込んでも心は満ち足りないゆえに、さらに取り込み続けることに陥っていきます。その結果、自らにも周囲にもいろんな問題を次々と多く深く強く招きゆくことになります。

 

八木 全てにおいて過不足なしの在り方ができれば心身ともに健やかでしょうね。具体的に、例えば食においても他と比べることなく自分にふさわしいものを適量いただけば足りるわけですね。

 

川口 そうですね。いのちは皆別々であり、一人の人間にとっても固定することなく変化し異なりますので、過不足なき適量は数字では決められないし示せませんね。真由美さんの場合は僕からみればもう少し食べれたらいいのになぁ、って思うくらいに自制し選択もしておられますよね。あれもこれもとなったら良くないことがわかっておられ自分に合った食べ物、合った量、合った食べ方、そして合った生き方ができておられますよね。みんな人間の分を、地球における人類の分を、そして自分の分を自国の分を知ることが本当に大事ですね。

 

八木 自然農の田畑における農作業も、自分にあった広さ・作業の量を意識し取り組むようにしています。義務感や使命感ではなく私のいのちが真に喜ぶことをあらわしている時は、今にいる感覚とともに内容も充実しているように感じます。その中で少しずつ成長してゆけたらいいなと思っています。

 

川口 そうですね。面積においても、日々の作業量においても、作業の行ない方においても、過ぎたら最も大切な身体を損ねますし、適期に的確に適量の作業をやり通せなくもなりますものね。若い時は過ぎるくらいになりますが、元気、体力、気力が強くありますから・・・。でもそういう若さゆえのところも経験を通して歴史を重ねて自分の分に応じて生きれるように成長していきますよね。

 

八木 はい、経験を通して感じあらわしてゆけたらと思います。ところで学ぶことについても取り込み過ぎがあると思うのですが・・。

 

川口 そうですね、学んだことも読書したことも、学びへの一日の予定も一年の予定も、人生の予定も、食べたものと同じで過ぎると消化できないで負担になり心を損ね霊魂にまで負担が及び病しめ大切な身体にも同時に及び胃腸を損ね不健康になりますね。不足すると成長できません。学びは大切であって、気付き、目覚め、成長、悟り、成熟は、一人一人が幸福に、人類が平和に心豊かに生きるに欠かせません。足るを知り、過不足なく生きるにも欠かせない学びです。本当に本当のことがわかるのは是非に必要です。本当のこと、真実、真理が解ってゆくのは楽しいしですから、生きる意欲になり、喜びになり成長になります。枝葉にとらわれて無差別に無秩序にあれもこれもとなると負担になり消化できないでマイナスになりますので、心の内での整理が必要です。例えば最も身近な一日の生活のことで、朝早くから田んぼに行って仕事をする、仕事をする、食べる時間も惜しんで仕事をする、夕食後も夜も仕事をする、それで疲れきって寝ざるを得なくなる。寝てからも「あれもしたらよかった、これもしたらよかった。」と思い悩むのはさらなる心身の疲労になります。なんと言っても心も身体も休まないといけないですね。ゆとりが大事、寝る時は寝ないといけない、一日の生活だってより成果を求め過ぎたらだめ、取り込み過ぎたらだめですね。人生においてもしかりです。年齢に応じた学びもしかりであって、ゆとりを持って確実に積み重ねて成長してゆかねばなりません。

 

  生きている間は、人としての成長、人間性の成長、人生の完熟、完成、完結に向けて、宇宙のこと、自然界生命界のこと、いのちのこと、人類のこと、人間のこと、自分のことを、学ぶ、知る、観つめる、静観する、止観する、悟観する、観極め尽すことは是非にやり続けて極めたいですね。挫折せず、屈折せず、投げ出さず、逃避せず、心身を壊すことなく、心を身体を魂を正しく開発して大いに働かせて極め続ける、年齢と共にいつまでも極め続け学び続けることは本当に必要であり大切なことですね。真実が見え、真理が観えて、悟り知ってゆけることはなんとも楽しくうれしくて魂から感動し身震いします。大いなる宇宙のことも微小のいのちのこともね。宇宙本体も、心も霊魂魂魄、いずれも姿形なきものですが、そして人間の内もわが心の内も人間のいのちも姿形なきものですが観極め悟り知っていきたいですね。また、宇宙生命界の現象世界における姿形あるものは、広大無辺の宇宙ですので見尽くすことはできませんが、宇宙現象界の部分を見つめ知り察知することによって宇宙本体の実相実体は観えてきますので、この作業は心弾みゆくものです。

 

八木 はい、人に生まれて学び続けられることは本当に心が弾むことです。ものごとの本質に深くふれ魂から喜びあふれる人になりたいです。ところで、これは必ずやりとげたいと思うようなことにも取り込み過ぎはあらわれるのでしょうか。

 

川口 やりとげたいことが、本当に必要なことなのかの察知判別をした上で、本当に必要なことは是非にやりとげないといけないですね。その場合はやりとげ方が重要になりますね。必ずやり遂げることのできるやり方ができないといけません。それに関わる基となることですが、゛過不足なく、足るを知る゛ことが必要になります。生きられるのは他力100%、そして同時に自力100%です。自分で生きないといけないゆえの自力においてすでに過不足なく足りていることを悟り知ることが必要です。同時に他力である生かされていることにおいても過不足なく足りていることの事実を知らねばなりません。足りていることを知らず見失っているゆえに生きることに執着が入ってしまうのですね。過不足なく足りていることを知らず悟らずのゆえに欲が頭をもたげて、過ちに落ち大変な問題を招いて取り返しのつかない不幸になってゆくのですね。それゆえに現代の多くは取り込み過ぎに陥り心と身体に問題を招き、地球に問題を招き、生かされ生きる舞台である大切な環境に問題を招き、生きるに必要な基本のものに不足をきたし実際に足りなくしていっています。生きるには人間の精神も心も魂も大切ですが物質も大切です。その物質を取り込み過ぎ、使い過ぎて無くしてゆく在り方をしています。そして奪い合い取り込み合いの争いに落ち不幸に陥っています。我が身に我が国にわが民族に我が会社に我が教団に我が集団に・・・。足るを知らないゆえの奪い合いによる取り込み過ぎは、やがて本当に足りなくしてしまいます。生きるに必要なものが無くなるのです。多くの日本人も、世界の人々も、世界の国々の政治の在り方もあらゆる分野でそうした誤った流れが顕著になっています。例えば今日の経済中心、お金中心、物質中心で消費を是とする生き方あり方を続けてゆきたい為に必要とするエネルギーの確保で、太陽の光や熱、地熱、風力、潮力、水素等々の利用は、無智ゆえの物欲心、邪心、悪心で取り込んではいけないものを取り込み、消費し消し去り無くしていくことを盲目的にやっているのですね。人類やすべての生物が生きるに絶対に必要不可欠な舞台を破壊し無くしていく、この過ちに気づかずにやり進めています。足るを知り、分かち合ってさわやかで心よき安らかな本当にいのちが楽しく幸せになる持続可能の生き方、在り方を悟り知って、生き方を変えないと人類滅亡への加速となりますね。

 

八木 それでは、「足るを知る」知り方について教えてください。

 

川口 足るを知るには自分の内なる心や思いや人生観を確認して正すと同時に、生かされている宇宙を知り地球環境もしっかりと正しく見た上で足るを知っていくことが基本となります。取り込み過ぎたら自らのいのちや心も損ねるし、近辺の環境を損ねるし、地球環境そのものを損ねます。ですから事実を知ることは本当に大事なことです。生きる舞台である自然環境、そして生きねばならない私たち人という生物、いずれも生きるに必要なものを過不足なく与えられているのです。この事実に気づくことと、欲心を起こさないように人として正しく立派に育って、悟りの日々、さわやかな喜びの日々、生きていることが楽しいありがたい日々になるように成長できるといいのですね。気づき悟り知り正しく生きることのできる人間性の成長が欠かせません。事実は足りているということですが、これに気付くことのできる人間としての目覚めと、欲心邪心を現わさぬ人間性の成長が是非に必要です。一生を全うするに、人類が幸福に平和に生きるのに基本となることであり、ここに人類が真に救われる道があります。 


  新人類の誕生数十万年前、猿人の誕生数百年前ですが、誕生した人類生きている間は生きなければならず、今日まで生きてきたわけですが、それは生きる舞台も、生きなければならない人間の身体も身体に宿るいのちも知力も能力も生きるに必要なものはすべて過不足なく与えられて足りていたゆえです。生きるに必要なものはこの地球生命圏にすべてあったのです。また、生きるに必要な身体も智恵と能力も過不足なく与えられていたゆえです。現代もなお過不足なくあるのです。左右2本の脚、2本の手、それぞれ10本の指、頭部には髪の毛、その中には生きるに必要な働きをする器管が備わっており、顔部には目、鼻、耳、口、歯、舌、が備わっており、もちろん働きを成すものとして過不足なしです。それらを守るべく、皮膚、肉、骨もあり、働くに必要な体液、血液あり、親から子へと巡り続くに必要な精子卵子有り、精子卵子の働く能力も与えられており、100年前後の時空間を生きることのできるいのちを宿しており、このいのちを維持する食べて消化吸収し排泄する器管も内臓内腑も宿し、夫々が働きを成す生命力を宿しております。いずれも過不足なく自ずから与えられて誕生してきているのです。幸福に生きるに必要な感情、感覚、智力、意志力、察知力、触覚、臭覚、思考力、思索力、哲学力、直感力、持続力、成長力、生命力・・・、必要なものすべて過不足なく与えられています。このことに気づけば、存在そのもの、生きていることがそのままで平安、安心立命に至れるものです。生きていることが不安で心配で、物欲、金銭欲、支配欲、権勢欲、我欲・・等に心を奪われ、聖なる魂を悪に支配されることなく、人本来の正しい平和な心豊かな心楽しい心清明なる人として生かされており、生かしてくれる宇宙自然界生命界であります。そして生まれきた若いいのちが日々に心身共に成長することのできる人という生物なのです。成長せねばなりません。成長に必要なものを与えられています。幸福に生きるに必要なものを与えられています。このことに気づき育ち悟れば自力による生き方において足るを知らず取り込み過ぎ、欲心、邪心、悪心に陥り不幸な人生、不幸な混沌混乱の人間社会とはなりません。足るを知る生き方の基本となるところです。自然界生命界における他力100%自力100%の私たちであり存在するすべてでありますが、過不足なきなのです。 


  それから同時に非常に大切なことがあります。大切な物質面ですが、もう一方の心の面、精神、魂の面においてです。こちらも解決しないと真の幸福には一人一人至れず、真の幸福は人類に訪れません。それは他人の心を取り込み過ぎる、他人の魂を取り込み過ぎるということです。人と人の心からの出逢いは真の生かし合いに欠かせない必要なことですが、他人の心を取り込み魂を奪うという行為行動を起こしてはいけません。こうした過ちを起こす性のある私たち人間でもあるのですね。こうしたことが起こるのは一方で生きることから逃避して他者に依存するゆえに生じることでもありますが、未熟で未だ自立するべく育ち切れていない者を引き込むのは、支配欲であり悪魔的であり、病的でもある我欲であり、人としての真の幸福からはずれた生き方になります。わかりやすい例で話しをします。インドのお釈迦さんの生きられた姿からこのことを考えてみます。

 

  一国の王子として誕生したお釈迦さんですが、階級制度のはっきりした国でもあって王様や王子様に仕える人が多くおられて、仕え尽くしてもらう日々の生活ですが、心の底から尊敬し、敬い、尽くしてくれているのではない事に気づいたお釈迦さんは淋しさを感じむなしさを覚えるようになられ、ある時゛心の王になる゛と、王子の地位を捨て、両親も捨て、まず自ずからの心の修行、心の旅に出られ、あちこちの智恵者、賢者を訪ねて学び修業を重ねられ、ついに゛育った、わかった、悟った ゛ と自覚されます。やがて道を求める人、悩める人、苦しむ人、恐れおののき不安の中に落ちて救われることを求め訪ね来る人に導き示し悟らし救う宗教者としての生き方をされますが、真の宗教者としての生き方からはずれてゆかれます。慕う人、信奉する人、訪ね来る人、求め来る人、依存する人が増えていきます。これらの人たちの心を救い、目覚めさせ、自立させるべく送り出すのが宗教者としての真の在り方ですが、それらの人を引き寄せてゆかれます。悩む人、苦しむ人、道を求める人に答えを示し、しっかりと自立して生きるように正しい道を示し導き、送り出すことはされずに心を引き寄せ魂を取り込みゆかれるのです。゛心の王゛を実現してゆかれるのです。゛魂゛を゛心゛を奪い我がものとした誤れる心の王として生きられるのです。やがてはその生き方のなか途上で亡くなられます。決して真に魂の根底から救われることなく、多くの人をも救うことなく不幸の道連れにしていかれたのです。両親をも悲しませ、道連れの人たちにも家族があってそれらの人たちをも悲しませたと思えます。今日の世界三大宗教の一つである仏教の教祖として崇められ、その後においても多くの人たちに、そして日本においても慕われ恋焦がれられていますが、お釈迦さん自らも多くの信者さんも真の悟り、真の自立、真の人生の全うとして生きられなかったことになったと思えます。三大宗教においても、いずれの宗教団体においても相似たことになり、相似た不幸が生じてしまうのですね。人との真の出逢いは大切であり、生かし合い助け合いが欠かせぬ大切なことですが、足るを知らない心の取り込み過ぎ、魂の取り込み過ぎに陥ってはいけません。迷いであり人に非ざる大きな間違いであり罪深い不幸な生き方であり、宗教の基本となる本質からはずれたあり方です。

 

八木 足るを知らず本当に足りなくなるということが起きているなかで、魂や心まで取り込み過ぎになっているのですね。人との関係において自分を見つめそれを通して真の自立へと成長してゆけたらと願います。ところで、先ほどお話しくださいましたお釈迦様が人々を真の幸福・真の自立に導くことができなかったのは、大いなる宇宙の本質を理解されておられなかったことが根本にあるのでしょうか。

 

川口 そうですね、人に生まれてきての絶対なる運命がありますね。生まれる、育つ、やがて老いる、病む、死ぬ、この運命に対してのことや、人間の内なる心の曇りや未熟ゆえの愚かさから生じる不幸や悩みや不安や苦しみに対しての救われ方等を示しゆかれたと思いますが、この人間の存在している宇宙、自然界生命界のことは観極めることはされず、宇宙の実相実体を明らかとできず、この宇宙における人間の位置づけや関係や生き方を問い明らかとして真の救われ方と真に救われた生き方を悟り実践するところには至られなかったのではないでしょうか。また、自分の内なる心の根底における自己執着心には気づくことができなかったのでしょうね。心の曇りで魂に明かりがささないゆえに誤りが見えなかったのでしょうね。宇宙本体を知る、実相実体を観ることはできず、絶対宇宙における相対界の位置づけや、相対界に存在する私たち人類の位置づけと生き方・悟り方を正確に極めることはできなかったのではと思えます。般若心経で悟り方を説き示しておられますが正しくはありません。絶対宇宙における相対する現象世界に存在している私たち人間の位置づけが正確にできていないからです。般若心経においてもその不確かさが表れています。お釈迦様直接の言葉ではありませんが、多くの弟子と共に真に悟り救われなかったと思えます。

 

八木 人としてほんとうの喜びに至るには、宇宙自然界生命界のことがわかり人間性の成長や境地の体得が必要ということですね。それを自覚して学び養うことができる今をありがたく思います。そして生かされ生きるこの世界で、あらためて内に外に「足りている」ことをいのちから感じる時、さらなる学びへの意欲が湧いてきます。

 

川口 本当にそのようにあることが大事ですね。尊くて貴重でかけがえのない身体を有しいのちを宿した生の期間です。確かなる存在です。幸福に生きることのできる人間です。真由美さんもそのことを知っておられるし実行でき求め来る人を導き、それぞれの人たちを自然農や宇宙自然界生命界における生き方等の学びの場で真の自立へと送り出しておられますね。そこから生じてくる喜びも体験しておられるし、それが明日への糧にもなることを実感しておられますよね。日々の生活のなかで学び、宇宙のこと、いのちのこと、本当のことがわかり、次の時代を生きる若者を正しく導き、若者が本当に幸福へと生きてゆく姿を見ることのできる喜びは、深く静かに湧きいずるものであって明日への糧になりますね。年を重ね老いてなお常に学んでいることが明日への意欲になる、喜びになる、その喜びが明日への糧になる、そして成長になりますので、正しく生きることを、立派に育つことを死ぬまでやり続けなくてはいけませんね。本当に道を得て生きていることは楽しくて、心平安で、心豊かで、生きていることの意義も意味も理解できて納得の中で死ぬまで生きることができますね。

 

八木 はい。宇宙は生きるに必要なものをすべて過不足なく与えてくれており、私たちは、いのちの道、人の道、私の道を安心のなかで生きればいいのですね。取り込み過ぎず「足るを知る」ことについて、とても明確になりました。ありがとうございました。


 

お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美

写真 TOMOKA.K

 

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