気が付いたら年が明けていました それから奈良検定おつかれさまでした
はじめに
突然ですが、お米について、もしくは稲作についてどれ位知っているのか、尋ねられたらどう答えるでしょうか?コシヒカリとその他の銘柄米の食味の違いや、新米の美味しさについて答えられても、それ以上に知っている人は少ないのではないでしょうか。いや、実家が農家であったり、水稲兼業農家の方も多いはずですから一連の作業についても私よりも良く知ってる方のほうが多いのかも知れません。ただ、現代人の興味の先が既にお米や稲作には、それ以上に農業には無いと言う事なのでしょう。
しかし、興味の対象から外れたとは言えども食の不安は年々増大し、消費者は食の安心や安全を求め右往左往しています。よく「食の安心と安全」と一纏めに語られますが、本来これらは別々に考えたほうがいいのでしょう。
安心とは心理的情緒的なもので、安全は科学的根拠に基づく物です。その科学性に誤謬が無ければ科学に裏打ちされた安全性を元に安心を得るというのが理想なのですが、残念ながら人間は論理的とは言い難いのが真実です。情緒的に醸成されたふわふわとしたイメージに、人が如何に飛びつき易いかは「エコ」や「マクロビ」「ロハス」の例を出すまでも無いのでしょう。
安心を脅かす不安を取り除くには、その不安の原因が何なのか、その対象物を見極める事が大事なのに、「食の不安」を口にしながらも人はそれ以上能動的に動こうとはしません。にも拘らず、消費者の権利という免罪符を振り回して混乱を加速させ、更なる不安と不信の種をばら撒いているようにも思えます。
またぞろ話が脱線しているので元に戻すと、私達は稲作の何を知っているのか、百年前、千年前の稲作はどんなだったのか、知的好奇心は已む所を知りませんが、それらの何を知っているのかと尋ねられたならば黙るしかありません。
奇しくも昨年末、横浜市の鶴見区内にある遺跡から発掘された米の塊が、X線CTスキャンの結果、約1400年前の古墳時代後期に作られた、八個入りのおにぎり弁当だったという記事がありました。これを聞いての第一印象は、現代と変わらずというか、1400年前の昔と変わらず日本人はおにぎりを好んで食べていることに感慨深いものがありましたが、果たして本当でしょうか?
食文化の保守性は、今の日本人には当てはまらないでしょうが、基本的に食は保守的なものです。おにぎりほどシンプルで美味しいものはありませんから、これ程の長きに渡って愛されたのも肯ける、将に日本人のソウルフードと言えるのでしょう。
遺物のおにぎりは雑穀が混ざったものではなく白米だけで握られ、中の具も無かったそうです。何分搗きかまではわかりませんが、白米だけであったのは正直意外過ぎるものでした。「古代人は雑穀米を主に食べていただろう」という、知らずの内に刷り込まれた既成概念が意外性を感じた原因でしょうが、これに限らず様々な既成概念に縛られ、米や稲作を見ていることに気が付きます。
この遺物からは現代との共通性を感じさせる調査結果が得られた訳ですが、人には共通項に反応するという性質がありますので(その結果、人麻呂の暗号のようなトンデモ本が流行った)、逆に現代の稲作と過去の稲作の違いを考えながら、特に大和における農を軸にして少しずつ過去の稲作を紐解いて行ければと思います。
(言うまでも無いことですが、ここに書かれてあることは既に語られている事が殆どで、視点を少し変えているに過ぎませんが、引用参考に関しては割愛します)
稲の違いについて
稲の性質の違い 「穂重型」と「株重型」
過去というのを何処に設定するのかが難しいですが、昔の稲と現代の稲は同じではありません。最も違うのは、稲の品種、性質の違いです、それもコシヒカリとササニシキの様な違い以上に、基本的な性質が現代のものと大きく異なる点です。
基本的な性質での異なる点は幾つかあるのですが、先ず何より最大の違いは、昔の稲の性質は「穂重型」だということです。対して現代の稲の性質は「株重型、株張型」になります。「穂重型」とはどういうものかと言うと、一株が少ない分げつで稈部は比較的長く、穂先に大粒で多くの籾を着けるものを云います。比べて「株重型」は一株からより多くの分げつをして、株数を増やすような品種になります。稈部は短く、一穂が付ける粒数も米粒の大きさも左程ではありませんが、株全体で収量を稼ぐようなものな訳です。「穂重型」品種は現代では「山田錦」のような酒造好適米にその性質が残されていますが、飯米には全くと言っていいほどに見かけません。酒造好適米の性質である稈が長く、粒が大きくて千粒重が多いなどは「穂重型」の性質を残していると言えます。
この「株重型」または「株張り型」の品種は江戸時代などにも見かけはしますが、全くマイナーな扱いで世は「穂重型」全盛の時代でした。「株重型」の稲が世に広まるのは遅れて明治大正時代になってようやくのことです。
大正の時代に米の日本三大品種と世に謳われたものが「亀ノ尾」「愛国」「神力」です。このうちの「神力」は西日本を中心に50万ヘクタールにも上り、盛んに作られるようになります。この神力が広く普及した株重型稲のハシリともいえる品種であり、以後穂重型品種から株重型品種へ、稲の基本性質が大きく転換していくのです。
「神力」は兵庫県揖保郡に住む丸尾重次郎が、有芒つまりノゲの有る「程善」という品種から無芒のものを抜き穂選抜したものに「器量善」と名付けて近在に広まったもので、それを「神力」と改称したものが、明治20年以降急速に西日本を中心にその作付面積を広げました。
「神力」の品種的特徴を見てみると、先ず述べたように株重型であり、稈が短く籾粒は小さいが多収の晩生の品種で、食味はあまり良くなかったようです。現代の我々からすると食味の良くないものが普及することに違和感を感じます。食味が無視されたとは言いませんが、当時は如何に安定収量を確保するかにこそ重きが置かれました。小作農が地主に現物納するにしろ、納税するために米を現金化する上でも、食味より収量の上がる品種を選択するのは自然な事でした。それに当時は収穫された米が「神力」の名で売られていた訳でもありません。銘柄米として米が販売されるのはずっと後であって、その頃はせいぜいが江州米や吐田米のような、産地米の区別がかろうじてあったに過ぎません。米の品種、銘柄は農業関係者のテクニカルタームだった訳です。
晩生品種は総じて収量が上がるものが多いのですが、栽培期間が遅くなるほどに風水害の影響を受け易くもなります。その為に近世以前の支配者層もそうでしたが、地主などは晩生品種の作付けを多くしないように求めます。しかし小作農に押し切られる形で稲作の晩生化は進むなど、「神力」の導入も下層民程積極的であった事もふまえると、単純な支配・被支配の関係では割り切れないものがそこに有る様に思えます。
穂重型品種から株重型品種への転換は意外なほどにあっさりと為されました。「神力」に続く「旭」も株重型品種としての特性を有しており、これまた晩生の品種でした。次回は株重型品種への流れの理由と、晩生化についてゆっくり語っていきたいと思います。