想い事 家族の記録

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鬱病
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言葉の暴力

2011-11-02 12:51:45 | 日記
〔ダメージ〕


言葉の暴力とは

長く
深く
生きたまま心を殺す凶器






そんな言葉とすれちがう。





父の発言が、時々妙に暴力的だったりする。
心が折れて、身体的ダメージにつながるのだから、
きっと、暴力なんだろう。

その言葉は常に私を否定する。


あの野郎が‥○○しやがった。(悪意などナイのに)

女だから、ダメなんだ。(身体的特徴を指摘する)

やっぱりあいつは病気だから。(事実を突きつける )



結果論者だから、結果が悪ければ努力は認めない。
考え方も認めない。
バカだと言い切る。

そして、自分ははじめから判っていたと主張する。


すると、
期待もされてなければ、信頼もされていない。
常に我慢を強いている。
いつ爆発するか常に怯える。
自分で自分をなじるようになる。
全てが虚しい。

そして、
動悸が激しく、緊張状態に陥る。

不眠。
睡眠薬も効かぬほどの、
際どい緊張状態。

負のスパイラルに呑まれ、
またヘマを繰り返す‥。

今朝は最悪な精神状態だったので、
真剣に、言葉の暴力について考えてみた。




 
〔記事抜粋〕



「本来、暴力というのは、
精神の幼い無知で野蛮な人間未満の動物が、
自分の思い通りにいかない、鬱憤を晴らすなど愚にもつかない理由で
相手(人・動物などその他)に対し殴る・蹴るといった方法で
物理的なダメージ与えるという、
程度の低さをを周囲に知らしめる行為である。

ダメージを与える方法を言葉に、
矛先を精神面に変えたものが言葉の暴力である。」




父の場合、自分で自分の思うようにいかないから、
溜まった鬱積を晴らしているだけ。
暴力じゃない、と心優しい人たちは言うだろう。

でも、暴力かどうか決めるのは、
それを受けている本人だと思う。
同じことを言われても、
「まあ。またあんなイケズを言って」と笑えるのは崇高な精神からだと思うが、
そのひとが他者に向かって、
「だから貴女のそれも暴力なんかじゃない」と言うと、
ただの愚図に成り下がる。


病人が言うことは、仕方のないこと。
心を広く持って、愛を持って接しよう。

立派な考えだが、私は認めない。
実際、病気を理由に暴力をふるうことをよしとする者だっている。
確信犯だ。
病気という事実に甘んじ、
甘えすぎるひと‥甘え方が間違っているひと。
自棄になっているひと。

お気の毒に、としか他者は言えないじゃないか?
結局他人は変わってやることもできないじゃないか?
仕方ないと享受するしかないんじゃないか?


どうすることもできない運命であっても、
人として、死んでゆく。
最期にブタ野郎扱いされながら死にたいのか?
これからも生きなきゃならない人の心に、
記憶を消したくなるような思い出を残して死んでゆくのがいいのか?

死ぬ事まで責任を伴う。
何故って、動物じゃないから。人間だからだろう?


私も一時期、アホなような死に方を望みました。
そして、ここに至り主張したいんです。
周りを哀しませるのは仕方のないことだけど、
その原因は自分でアレンジできるのだ。


病気になって、
痛い、苦しい、怖い‥様々な苦悩に泣き叫ぶのは自然なこと。
それで人にすがって泣くのはいいよ。
暴力者に成り下がるのだけはやめてくれ。
ただでさえ、周りは既に苦しんでいる。愛故に。





判らないのか。
愛してるから、鬼畜のような醜態をさらす、
あなたが、ただ哀しいのだ。




私はマザー・テレサが好きだけど、
ただの真人間。
こっちも未完成であり、
いつブタになるかわからない。

でも、あなたの前では優しい人間でありたい。
愛すべき家族でありたい。



こんな、想いで看護しているひともいるんじゃないのか?




コメント
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