かくれて咲く花

~凛として~

手にした真珠 PartI

2011-08-30 21:14:18 | Weblog


8月後半にかけて、この夏の疲れがドドっときたのか、心身ともに疲弊し切ってしまい、書きたいことはたくさんありながらも、集中することができなかった。これだけ身体に負担がかかるほどの暑さも、朝夕はすこしだけ、吹く風に涼しさを感じるようになってきた。季節はめぐる。まもなくまた、秋がやってくる

私にとって「書く」ということは、起きている時間のほとんどの間に頭のなかをめぐる思考やら思いやらを紡いで、それを整理してかたちにする作業。それは継続した思考という、程度の長さはあれ時間をかけたプロセスのなかで無から有を生み出すというcreationにほかならないものであって、あることを考え続けてひとつの結論や答えに辿りついたり、あるいは自分のなかにあるさまざまな思いをぐるぐるとめぐらせているうちに、ふと「こういうことなのかな」と視界がひらけるようなブレイクスルーが起こったりする。だから「書く」ためには、いつもなにかを考えていたり、あるいはあることを考え続けているという耐久力と、そのかたちになりかけたものをすくい上げ、ことばにするという瞬発力と集中力のどちらも必要とするので、疲れ切った状態ではインプットもアウトプットもままならなくなってしまう。本当はこれじゃいけない。よくない状態でも、ある程度のものは出せるというのがプロであるというなら、「変なものは出したくない」という意識に逃げ込みたくない。そのためにも、体調管理が一番大切ということを思い知る。身体の声に耳を澄まし、より一層ケアとメンテナンスをしていかなきゃと思っている。

8月中旬に、羽海野チカさんの原画展を見に行った。私にとっては『3月のライオン』の作者、世の中的には『ハチミツとクローバー』の方が知られているのかもしれない。私はライオンしかまだ読んでないけど、彼女の描く世界は心の深奥にしまいこんで忘れてしまったような記憶を呼び覚まし、それはそれはもう心がぎゅーっと締め付けられ、掻きむしられ、身もだえする一方で、その痛みや傷ついた心を優しく包み込む繊細な愛に満ちている。原画展を見て、改めて全巻再読して、心の深いところまで潜り過ぎて戻ってこれなくなった海女さん状態になっていた。真珠を探しに行ったのに、お魚の先導にまかせるまま潜って行ったら、そこは自分が忘れていた、あるいは閉じ込めていた過去の記憶があり、それは深いところで現在進行形の感情に影響を与えるものだったんだ・・・と発見してしまったという感じ。そこへ沈み、“上がって”きた海女さんは、涙を流していた。自分でも理由のわからない、自分の深いところで見つけてしまった涙を。

『ライオン』により引き出された自分の感情に整理がついたものから書こう、なんて思っていたらいつまでも書けないから、少しずつでも整理をつけるためにも書き始めていくと。6巻で進展のあるひなちゃんの「いじめ」。もう本当に自分がひなちゃんの立場なら、いたたまれないと思う。自分が仲良しで大好きな友達が、あるグループからいじめられていて、みんな自分もやられるのが怖くて見てみぬふりをする。担任の女教師に相談しても、「川本さん(ひなちゃんの名字)の思い過ごしじゃないの?」と責任逃れをするだけで、教室内で起こっている事実を直視しようとしない。ひなちゃんは大好きな友達がそんな状況に置かれているのを見過ごすわけにはいかなくて、「あの子と一緒にいると、ひなちゃんもやられるよ」というクラスメイトからの忠告というのか、自分が巻き込まれずに済ませるにはそうするしかないんだよという立場からの意見を聞かされても、友達のそばから離れなかった。それでも優しいがゆえに傷つき過ぎてしまった友達は、中学3年の大切な時期に、転校してしまう。自分たちの所業で転校に追い込んだにもかかわらず、それをあざ笑うグループの言動にひなちゃんは激怒し、つかみかかる。やり場のない怒りと義憤に突き動かされて。それからいじめのターゲットはひなちゃんに移り、クラスメイトは関わらないように、いじめているグループに遠慮しながら過ごしている。ある日登校したひなちゃんを待っていたのは、黒板いっぱいに書かれた自分の悪口。誰も消さないし、誰も何も言わない。その状況を見て喜ぶのは、例のグループ。そんな正義も救いもない状況になっていても、担任の女教師は言い放つ。「川本さん、あなたみんなとうまくやれてないの?」「どうしてそんなに協調性がないの?」

それを聞いて「頭が真っ白になった」おねいさん、暴れまくって鼻血まで出たひなちゃん(帰宅後)。私は血の気が引き、憤死寸前になった。時に最高血圧80、最低60を記録するような低体温低血圧人間の心を抉ったこの女教師のことば。この世に蔓延る、事なかれ主義者の典型的な態度。それまで自分が体験し、見聞きしてきた理不尽や不正義に対する怒りが、束になってかかってきたようで、噴き出してくる感情を歯を食いしばり、必死になって抑えなければならなくて。この女教師やいじめグループの所業がトリガーとなり、実に自分の心のなかにはまだまだ現在進行形で血を流している、抑え込んでいたさまざまな感情が潜んでいたんだなあと知る。

この世で最も憎むべきものは、悪そのものよりも、悪が為されていても見てみぬふりをする事なかれ主義なのだと気付いたことも大きい。「何事もない」状況を至上の善とする者たちにとって、現状を変えようとしたり、いまある問題を指摘するような人は「波風立てる者」として徹底的に嫌う。この女教師にとっては、「自分の受け持つクラスには問題が起きていない」ということが大切なので、問題を起こしているグループの存在ではなく、問題を指摘したひなちゃん、正義を貫いたひなちゃんが「波風を立てる者」として、非難の対象となる。そんなことがあるなんて言わなければ、「何も起こっていない」ことになるから。自分が責任を取る事態になるのが嫌で、子どもの純真な勇気を否定する。この正義を貫いた子どもの話は、宮部みゆきさんの『英雄の書』でも考えさせられたけど、この場合はもっとひどくて、成績もよくスポーツもできる人気者の男の子ヒロキが、ひなちゃんと同様にいじめられている子をかばう。それでいじめはおさまるけど、このヒロキの「英雄的行動」を気に食わない教師が「これ以上調子に乗らせてはいけない」ということで、この教師子飼いの生徒(そんなやつらがいる!)に命じて、さまざまな嫌がらせをさせる。生徒たちは、教師がバックにいるのだからやりたい放題。ヒロキは家でも学校でも弱音を吐けない。自分のしたことに一点の曇りもなく、なんら非難されることではないのに、この世に巣食う嫉妬や、ヒロキのような「非の打ちどころのない」存在自体を憎むどす黒い感情のターゲットになる。なぜだ。そのうちに彼の心に「闇」が入り込む。あいつらが許せない。ヒロキはついに「黄衣の王」という「英雄」に魅入られ、ついにその教師の子分ふたりを殺害し、行方不明になってしまう。正義は正義だ。だけどそれが通じない場所に置かれた時、闇に呑み込まれてしまう人間もいる。まさに「器」が試される。

ひなちゃんの場合、救いはある。おじいちゃんが江戸っ子で、自分の孫が友達を助けたことを誇りに思い、「胸を張れ!!」と全肯定してあげたり、零ちゃんの元担任の林田先生がそれを聞いて激高し、殴り込まんばかりにその女教師に「同業者として言ってやりたいことがある」と熱い思いを爆発させたり、家族そして周りの大人たちがひなちゃんを大切にしていること。高橋君という味方もいる。ひとりじゃない。ひとりで抱え込んではいないから、たとえたったひとりで耐えなければいけない時間が長くとも、そのつらさ悲しさを受け止めてくれる「学校外」の世界がある。なんとかひなちゃんは、踏ん張っている。「逃げない」ために。そこで逃げたら、一生後悔する。いじめるやつらや女教師やクラスメイトではなく、自分に負けてしまうのが悔しいから。

世間の無理解や迫害に直面したとき、人は真価を問われる。自分のやっていることがまったく認められない。正義と思ってやったことが、「あなたが悪い」「周りに迷惑をかけているのがわからないのか」と責められる。自分の価値観が揺らぐ。どうしてこんなふうになったんだろう。だけど自分は正しいと思っている。譲れないし、もしもう一度やり直せるとして、自分がその後やられるということを知っていたとしても、ひなちゃんは大好きな友達を守るのだろう。その方が一生苦しいだろうから。あのときに友達を助けない代わりに、自分は「何事もなく」てよかった、と思えるような子なら、こんな苦しみは背負わないで済むのかもしれない。だけどそんな事無かれ主義者ばかりになれば、この世は光なき世になってしまうだろう。

「友達がいじめられているのをかばった」と聞けば、それは素晴らしい、勇敢な行動だと誰もがたたえるだろう。しかしその結果は、必ずしもこの世では称賛されることばかりではない。逆にその行動を憎むような、そういう心根の者もいる。いじめるのは恥ずかしいことだという価値観を共有しない人間も多数この世には存在する。もし「いじめられている子をかばったら、その行動は必ず評価される」と分かっているとすれば、この世からいじめはなくなるのだろうか。なくなるかどうかはわからない。しかし、「評価を受けるために行動する」人間は増えるのかもしれない。本当の義侠心、惻隠の情からの行動ではなく、「人から見られた自分」を意識しての計算された行動。いいか悪いかではなく、美しいか美しくないかといえば、本当の意味で美しいとはいえないような人間が増えるのだろう。だってひなちゃんは、そんなのを求めて友達をかばったわけじゃない。ただ大好きな友達が悲しい思いをしているのを見ていられなかった。そばにいてあげたかった。「そうすることで周りからよく思われる」ことや、「学校での評価が上がる」ことなど思いもせず、ただそうしたかったからそうした。純粋な好意。だけどその美しい心を、残酷なほど周りは踏みにじり、傷つけてくる。その時に自分を貫けるか。周囲が無理解であろうが、報われることなかろうが、敢然と立っていられるか。本当にこれでいいんだろうかと繰り返し自問自答するなかで、自分の価値観が揺さぶられる。何かをすることが「絶対に正しい」だとか「こうすれば必ず報われる」という確証のない中で、あらゆる困難や誘惑があってもなお、自分が正しいと信じる道をいくこと。その先に何があるかはわからない。だけど自分の選択の結果は、自分が引き受けるもの。まわりのせいにするか、まわりの状況を言い訳にして「何事もなかったように」生きるのか、血を流しながらも信念を貫くのか。逆境のときこそ、人は真価を問われる。

むかし読んだ曽野綾子さんのエッセイに、もし善行をすれば必ず神の恩寵を受けられるというのであれば、神のご機嫌をとるために善行を行おうとするのが人間だというようなことが書いてあった。ヨブ記のような、全部読み通すのもしんどいような物語があるのは、自分はよいことをしていても、神が次々に試練をお与えになるのは、神様は人間の「それでもなお」という気持ちを見ておられるからなのかもしれないと思う。「報われる」ということがわかっていてやっているのではなく、報われなくとも、だけどそれでも自分が正しいと思うことをする。苦しい状況のなかで自暴自棄になり、神や世間を呪いたい気持ちになってもなお、踏みとどまって善きことをなそうとする。そこに人間の本当の美しさがあり、それを神様は見ておられるのだと思う。もし報われなかったとしても、それでも自分から逃げなかった、自分にできる限りの努力はしたと思えることは、それはやはりある種の「成果」であって、天に恥じない結果をのこしたということになるのだと思う。そして、思いがけない形で、予期せぬかたちで、自分を貫いた結果はもたらされる。誰も見てないようで、心ある人は必ず見ている。ギリギリのところで、助けはかならず差し伸べられる。本当に、血を吐く思いをくぐり抜けた人にしか分からない境地。

理不尽に立ち向かう強さを鍛え上げるためにあった道のりを思うと、「うまくやる」だとか「やりすごす」こともできず、不器用にしか生きられない自分をもどかしく感じたり、「大人だなあ」と心から尊敬する方から教えられ、至らないことが多すぎてイヤになることもある。自分の魂は守りぬきながら、毅然と、凛としながらもよりしなやかさを併せ持った人になりたい。ゆるぎなく、かつしなやかに。遠い目標でも、いつかそこへたどり着くためには、一歩ずつ、進み続けなきゃ。辛いことが多すぎたからといって、いいことがまったくなかったわけでもない。「最上のもの」にふれられる喜びは、流してきた涙が多かったぶん、より深く大きくなっているというのも事実だから。


妙な?もの

2011-08-19 22:00:28 | Weblog


「酷暑」ということばがふさわしい、低体温人間には酷な暑さが続いていた東京。「天城越え」ならぬ「体温越え」は、体力を奪い、夏風邪をもたらし、熱が出たりしておりました。いやはや

今朝は暑いし晴れていたのに、仕事に就いた頃からモクモクと黒い雲が張り出してきて、ほどなくしてすごい雨におかげで気温が朝30℃を越えていたのに、2時間で一気に22℃まで下がり、夕方用事があって外に出ると、あまりに涼しいのでびっくり。22℃なんて、いまやエアコンでそんな温度にできない世相ですから、エアコンを切ってモワ~っとしている建物のなかよりもずっと外の方が涼しかったり。人間が汗が出て熱を下げるように、地球も雨を降らせて体温調節しているのかもしれないな。こうして地球は地球で、「調整」を行っている。そんななかで、「自然」をなんとかコントロールしようと躍起になってみたり、技術を過信した結果招いた事故の余波でスーパークールビズやら節電やらやってる人間て、地上の生物のなかでは最高にアホな部類に属するに違いない。

ついでに午後は地震もあって、昨今は夜中に地震があっても爆睡していたり、ちょうどマニキュアを塗っていても「おー、揺れとる揺れとる」と動じなくなってきたりと、本来生まれ持っていた大物感(ある種の鈍感さ)を取り戻してきたというか、ゆるぎなくなってきました。地震は地球の鼓動と思えば怖がることもないし、「震災のストレスで2キロ太りました」というと「震災くらいでだめじゃないか」と返される揺るぎない上司にお仕えしていると、何があっても「~くらいで」と思わにゃいかんなという気になってくるというか。いろんな予言めいたものも世にあふれているけど、やたら不安になって過ごすより、「自分は天に愛されてるから、絶対に護られる」と常に威風堂々な盟友(獅子座)の影響もあり、自分は絶対に大丈夫だと思うようになってきました。心配や不安が病気をもたらしたりするそうなので、時々は落ち込むことはあっても、だいたいはスコーンと(注:クロテッドクリームと合わせると魅惑のものではなく、夏の青空のようなという意の擬態語)ひまわりのように明るく!!!だって、これが本来の私ですもの

というわけでやはり夏はテンション上がる「うめ」でござりますが、近頃のおべんとうなど。

     

かぼちゃが久々に手に入ったので、いつものあれを作ったほか、じゃがいものツナマスタード和えが新作。世にあふれるレシピでは、なんで「8~10分電子レンジ」とか平気で書いてあるんだろう。チーンはあっためるのが基本であって、最長3分が私には限度。電気がもったいないからとかじゃなくて、3分以上マイクロウェーブしたら、なんか食材が違うものになりそうな気がして。なので、かぼちゃは蒸す!!じゃがいもは茹でる!!!ここは絶対にこだわります(キッチン暑いけど、やせ我慢)。ゆでたじゃがいもをツナと粒マスタードで和えるだけのですが、ツナと粒マスタードを先に和えておいて、じゃがいもを塩コショウで味を整えつつ合体させると、均等に味も絡みやすいし、おいもさんの荷崩れが起きずいいような気がします。これはシンプルでおいしかった。もう一回ぶんのおべんとうに使えるかなと思ってたけど、夜ごはんの準備をしながら、ついつまんでしまったほどです。夕飯で完食。また近々作ろ、これ

なんかこのところ、じゃがいもがやたら食べたくて、前回のリベンジで作ったポテサラ。

     

ほぼレシピ通りに作ったのですが、「じゃがいも3個(400g)」との記述に従い、3個(内訳:かなり大きいの1、ふつうくらいの1、おチビさん1)をゆでてつぶして、「プレーンヨーグルト大さじ5」を投入すると、ベチャーっとなってしまい・・・おいものホクホク感はほぼ全喪失され、ポテサラというより、ほとんどマッシュポテト。これにはグレービーやな、というような。ここで私の場合、「やっぱりレシピ通りにしたらあかんわ、絶対微調整が要るな」との教訓を引き出してしまうのですが、人によっては「やっぱり400gきちんと計らなあかんかったんかな」と反省するのでしょう。まあ、考えなしにポンポコ放り込んだ私も悪いのですが・・・かなり落ち込みながらも、レシピ通りに顆粒洋風だしや粉チーズや塩こしょう、お好みでマヨを混ぜて調整を図ったのですが、味見してみるとかなり微妙な味わい。生ぬるい状態(まだ少しおいもの熱がのこっている)での味が、一晩冷蔵庫に置くことにより翌朝画期的とまでいかなくても、多少美味しく化けてくれることを期待しつつ、レシピにあったようにプチトマトを切ってドライパセリを散らして精いっぱいかわいらしく仕上げて、お昼におそるおそる口に運ぶと・・・なんと!これが!!なかなか!!!いけるのですよ心の片隅で、なんかもう一工夫必要なんちゃうかなと叫ぶ声はあるものの、これはこれでまあまあ上手く仕上がっていました。ああよかった。夜に仕込んだときの私のじゃがいもに対する申し訳なさは、「沈痛な面持ちでキッチンに佇む」という描写がふさわしかったですが、翌日のお昼には「予想外の味付けの良さに満足そうな」に変化したのでした

豚さんはゴーヤーとアスパラとにんじんを入れていつものみそ炒めにしたのですが、この夏はゴーヤーとみょうがを意識して食べていました。食べたいから、とかじゃなくて、なんとなく義務感で(具体的な義務と責任が生じるわけではないのですが、なんか食べないといけないような気がして食べていたという「義務感」です)。ゴーヤーはやはり沖縄産か九州産のを頂きたいですね。それより北で作ったのは、なんか南国感が足りないような気がして。みょうがは高知産。名産なんですね。こんな妙ちくりんなキャラを生みだすほどに。

        
      
まあ「妙ちくりんな」という感想は私の価値観なので、このミョーちゃんについてどう思われるかはそれぞれのご判断ですが、キャラクターデザインは高知県出身のやなせたかし氏とのこと。愛らしいアンパンマンのキャラクターとはひと味違うシュールさは、みょうがという食材が子ども向けというより大人が味わうものだからでしょうか。

当初は何に使ったらいいのかイマイチわからなかったみょうがですが、おいしかったレシピをいくつか。
みょうがと九条ねぎを刻んで、ごま油で炒める。お塩少々、粗びき黒こしょうをわりときかせる。これを温かいお蕎麦、あるいはにゅうめんとご一緒に。あれば「すだち」をギュッと絞って頂くと、ごま油の重たさを消して、素晴らしくさっぱりとした味わいになります(ミョーちゃんより絶対かわいいと私は思うすだちくん談)。
海鮮丼ふうにも。みょうがと大葉をみじん切りに。鯵を細かく刻み、あればすだちをぎゅっと絞って、みょうがと大葉と和える。炊き立てのご飯に、お好みで納豆(たれかお醤油で味付けしたものを)、その上に鯵の和えたのをのせ、おろししょうがを真ん中にちょこんと付ける。のりをちぎってパラパラと。頂きものの韓国のりは、塩気が強くて絶妙に合います。秋刀魚のお刺身が美味しそうだったので、同様にみょうがと大葉を加えて、すだちをぎゅっと絞り、味ポンで和えて。秋刀魚は油っこいので、酢飯に合わせて、のりをちょっと多めに敷き詰めた上にのせると、抜群に美味しかったです。あ、おろししょうがも忘れずに。ミョーちゃんとすだちくんのコラボは絶妙でした。

秋刀魚は秋の食材になるんかな。気が付けば8月も下旬。まもなく秋を迎える。でもその前に、また暑さは戻ってくるんだろうな。
引き続き、夏バテに注意しながら、がんばってまいりましょう



お盆休み

2011-08-12 21:56:14 | Weblog


世の中は今日からお盆休みなのかな。
・・・とはいえ、電車はそんなにすいてるとは言えず、土日を挟むためか、あんまりいつもと変わらない感じだったけど。

来週は私の好きなパン屋さん2軒が夏休みとのことで、お休みに入られる前にパンを買いに走ったりしている。いちばん好きなパン屋さんで、このあいだのチェリーのパンを「美味しかったです!!!」と絶賛したところ、「よかったです~でも、甘くなかったですか?」と聞かれた。「私は甘いのは全然平気です」と答えたけど、甘すぎたという感想も届いていたのかもしれない。「今日はあいにく置いてないのですが、レモンとはちみつのパンがあって、さっぱりしていてとってもおすすめなんですよ。こんどぜひためしてみてくださいね」と言われていて、先日訪れた際にちょうど置いてあったので、「あ~これですね!やっと出会えた!!」と喜んで注文すると(ここのパン屋さんはカウンターに並んでいるパンを対面式で選びます)、「私もうれしいです!!」と店員さんが満面の笑顔で包んでくれた。彼女は本当に感じが良くて、自分のお店のパンが大好きで、心からおいしいと思っているからこそ、お客さんにも自信を持っておすすめできるんだなあと教えられるし、いつも元気にはつらつとして働いている姿にこちらも嬉しくなる。いつもにこやかに応対してくれるけど、お釣りを渡してくれるときにふと彼女の手を見ると、たくさんのやけどの痕がある。パンを窯に入れたりだしたりしているときにできてしまったのかな。だけど一生懸命パンを焼いて、熱々のパンを大切に取り出している彼女の姿が目に浮かび、人に喜びを贈ろうとしてなにかを「生みだす手」は美しいなあとしみじみ思う。

そのはちみつレモンパン(正式名ではないですが)はこちら。

     

本当はおやつに持ってきたはずなのに、食事用のパンを入れ忘れて、おべんとうに格上げ?となりました。ちょと光って見えにくいけど、クロワッサンの中にさわやかなレモンのフィリング、はちみつレモンがトッピングされていて、とっても美味しかったです。これは甘さ控えめで、暑さでかなりバテていた気持ちを引き上げてくれました。おかずやらはあんまり代わり映えしないですが、「あーおいしかった」という余韻にひたる幸せな午後でした

     

こちらの左端のミニトマトに包囲された緑色の野菜、つるむらさき。湯がいて、柚子胡椒と味ポンで和えています。すこし粘り気があって、茎の部分がコリっとして、食感も面白いです。しかしこの暑さで、創作意欲があまり湧いてこず、手前の鳴門金時、その上の肉団子は市販のものです。でもおだしでやさしく煮ている鳴門金時にうっとり。自分では出せない「きちんと手をかけて作った」一品が、手抜きのおべんとうを引き締めてくれます。あとアスパラとエリンギとオクラの味噌炒めと、全体的にこの日のおべんとう箱は和風で統一しているものの、パンはミルク風味がよく効いていたりします。それでも違和感なく、おいしく頂きました。

今週は久しぶりに、2回お昼外に出る機会があった。笑てしまうほどやたら大盛りの「明太スパ」、そして夏といえばの冷やし中華。それぞれおべんとうでは食べられないものを選んで。たまに外に出るのはとても気分転換になる。大盛りスパは普通に頼んで1.7人前くらいあるんじゃないかという盛られ方で、「おおお」と驚いていると、運ばれているナポリタンの大盛りが3人前くらいのボリュームで、「うわ~~あれはないわ」とみんなで大笑い。頼んだ人も(2人いた)、目の前に置かれた量のあまりの凄まじさに苦笑いするほどで、あとでお皿に取り分けて同僚たちに加勢を頼んでいた。お店の人たちが親切なので前はよく来ていたとこだけど、すべてがこんなに大盛りポーションだったかなあ。しばらく来てないあいだに、何が起こったんだろう??たまには外界パトロールもいいな。そしたらおべんとう作りは休んで、7時15分くらいまで寝ていられるし。

あまりの暑さに活動する力が減退しているけど、私にとって手を動かすということはとても大事で、ものを書いているとき、お料理しているときは自然と無心になり、自分を取り戻すために必要な時間。あと運動で身体を動かしているときも同じ。集中して、頭と身体を使うことに一心になっている。邪念が入ってくる隙もなく、ひと仕事終えたあとと同じように、心身ともにすっきりとする。「一心に」って、いい表現だなあ。なにかをひたむきに思う(という語感が私にはする)「一途」をより透明にした感じがするというか、「こうしたい」とか「こうなったらいいな」とかいう自分の願望や期待も、「できなかったらどうしよう」というような自分のやっていることの結果に対する不安も、そんな余計な思いが混じる余地のない、ただそのことだけに無心で集中している感じがいい。あのパン屋さんの彼女の手も、そんな一心な作り手の努力が垣間見えて、胸が熱くなる。ちなみにそのパン屋さんは、サンドウィッチもとても美味しいのです。シンプルだけど、きちんと「手をかけた」もので、創作意欲(お料理だけでなく、私の場合は「書きもの」にも波及する)を刺激される。お盆休み明けにまた通うのが楽しみ


灼熱の東京

2011-08-09 21:22:07 | Weblog


束の間の「涼しさ(夏にしては)」はどこへやら、暦は立秋を迎えたものの、あの「猛烈な暑さ」再来。
やはり「真夏」

ちょっと“暑さの中休み”があったためか、これがかなり身体にこたえている。ジムの先生方が口酸っぱく「水分補給!!!」とおっしゃっておられるのに、ちょっと私は油断していたようで、数日前から軽くのぼせるような、喉は渇くし変な頭痛みたいなのも加わり、熱中症寸前かと思うほど、ぐったりしてしまっていた。こまめに水分補給を心がけ、通勤もペットボトルを持参し、首には冷たいのを巻き、そして夏風邪をもらわぬようマスク着用という異様ないでだち。自分の身体を維持管理するには致し方なく、この暑さの前には「やせ我慢」や「美意識」も太刀打ちできない。エアコンも適温でガンガンつけている。日頃こまめに節電するのは、エアコンを我慢しないためと私は思ってやっている。頭がぼーっとなるほどの環境で仕事をすることで仕事の質と効率が落ちては元も子もないし、具合が悪くなるほど我慢して熱中症になり病院に行く破目になっては、世の中のためによかれと思ってやったことであっても、病院に行って社会保障費を使うことになれば、結果的に国家財政にかえって迷惑をかけることになるので、よく女性にありがちな「全体的にキチキチに削る(節電自体が目的化し、“電気を使わないことが善”という価値観至上主義となり、往々にして周囲にもそのみずからの“正義”を押し付ける傾向がある)」のではなく、絶対に削ってはいけないものを死守するために節電するという、「メリハリの効いた削減(全体のなかでプライオリティを付けて、“エネルギーを合理的に効率的に使う”ことを目的とする)」を心がけたいものです。

しかし暑いわ。
「この暑さを、『暑い』ということば以外で表現せよ」との問いには、「熱い」と答えるしかない。
ジリジリと照りつける陽射しは、近年さらに強くなっていて、ビリビリと刺すような痛みを感じるほどの紫外線ことしはさすがに、朝8時の東からの朝日にも、夕方6時の西からの夕日にも、日傘必須。日が昇った頃から、既にむわ~んと吹きあがる地熱(コンクリートで地表を覆っているから、地熱とは言わないか。地表熱?)。日中外に出れば、足の裏が低温やけどしそうなほどの灼熱の世界で、まさにフライパンの上を歩くひよこ状態人工巨大都市・東京は、こうして自然の熱を増幅し、エアコンを使うために熱風をまた量産し、いよいよ熱くなるのであった・・・そら地球さんだって、「熱いわ!!!」って言うよね。「自然の暑さ」じゃないんやもの

この暑さも手伝って、最近のおべんとうも同じようなものが多くて新味はないのですが、このところ「プチトマトの巨大化」には目を見張るものがあったですね。

     <ビッグなプチトマト>
        

             ↓

     <ふつうのプチトマト>
     


何でしょう、この違いは。「プチトマト」でも「ミニトマト」でも、「ビッグな」とか「大きな」という形容詞が、固有名詞の中に存在する「プチ」「ミニ」と対立するものの、「でっかいプチトマト」としか言いようがないこの大きさ。ブロッコリーと玉ねぎを卵でチャッチャと炒めたんの隙間に・・・といっても、隙間どころかちょっとスペースを掘り起こして入れております。いやー、この子たち、めっちゃ存在感あったわ。甘くてとっても美味しかったんですけどね。ふつうサイズのが入手できたら、そうそうこれが「ひとくちサイズ」よね、と「ひとくち」感覚を再確認し、小回りのきく大きさは、やはり隙間調整には抜群の安定感を誇るのでありました。

久々にアメリカンチェリーを購入。甘くて美味しかったです。あーチェリーパイ食べたい。このところ、「パン・ド・ミーフェア」につられて、パン・ド・ミレザンを食べ過ぎて1キロプラスなので、しばらくは炭水化物は控えめに。でもデニッシュのラムレーズンは、口にするたび「生きててよかった」と心底思うほど甘美で、陶然となりました。お値段も張ったし、体型にバッチリ反映されたけど、後悔はしていない。また絞って、また食べようと決めている。何より美味しいものを食べるために、運動しているのですから

「無目的に何かをする」ということを、嬉々として行うことを私はできない。
「観念自体が目的化する」ということも、ない。日本では、そういう人の方が多いような気がするけど。



加速する8月

2011-08-02 20:22:32 | Weblog


このところ、あの「猛烈な」暑さも和らいで、8月に入ったばかりというのに「夏もそろそろ終わり」感があるほど。梅雨入り&明け、猛暑到来と、2週間くらい前倒しで訪れたぶん、カレンダーと体感している季節感が明らかに合っていない。だけどカレンダーを見なければ、毎日いろいろなことが起こり、やるべきこととやりたいことをやりながらの日々を重ねていっているだけの話で、時間の流れの感覚がこれまでとは違ってきた感じ。そしてもちろんそれは「よりいい感じ」に変わっている

最近のおべんとうで画期的なのがこちら。

     

この配色の単調さはいったいどないしたんやというくらいのグリーングリーン。しかし「画期的」なのはその色合いではなくて、なんと!!!あのズッキーニが入っておることなのですよ。これまで苦手意識が払拭できなかったのに、お料理上手なA子さんのおかげで、ズッキーニがこんなに美味しいとはと俄然開眼し、まねして作ってみたもの。シンプルに、オリーブオイルににんにく、塩こしょうで炒める。おわり。白トリュフ入りのお塩を少し付けると素晴らしく美味ということも教えてもらったので、これも近々入手したいです。この日のおべんとうはズッキーニとお茄子。あとブロッコリーにキウイ。ちょっと胃が疲れていたので、ものすごく軽めにしてみました。とはいえツナサンドがあるので、おなかの具合も程よく、ちょうどよい調整に。

元気を取り戻した翌日、そのツナサンドはカレー味に変身。

     

あんまり草食だけじゃ倒れてしまうので、買いおきの黒酢の肉団子を登場させてみました。これは近所の健康食品屋さんで売っているのですが、悪くないのでわりと気に入っています。あとオクラとエリンギのバター炒めと、ブロッコリーにプチトマト。最近のプチトマトはなにやら大ぶりで、もはや隙間調整ではなく、りっぱな存在感を示すようになってしまいました。

肉団子をかじりながら、母がよくミートボールをおべんとうに入れてくれたなあと思いだしたり。いまよりもさらに偏食だった私に、毎日おべんとうを作るのは大変だっただろうなあ・・・と思いきや、「毎日同じようなものを入れとけばいいから楽だった」とか言ってたけど。幼稚園と高校はおべんとうだった。小さい頃、母のつくった俵型のおにぎりがかわいらしくて大好きで、これまた常連のウインナーはタコさんみたいにできる?と、私がリクエストしたかもしれない。たぶん幼稚園と高校のおべんとうの内容はあんまり変わっていないはずで、当時からプチトマトは不動のレギュラーだった気がする。いまも帰省した帰りには、おべんとうを持たせてくれる。特大のおにぎり。ご飯何杯分??というくらいでっかいのを、炊きたての熱々をフーフーしながら、「むすんで」くれる。「うめ」を名乗ってるくせに梅干しが苦手なので(しょっぱすぎ)、いつも「おかか」と「こんぶ」をリクエストする。妹といつも「ママのおにぎり、でかすぎるよな」と笑うけど、だけどその巨大おにぎりには母の愛情がぎゅっと詰まっていて。ああ、最後の晩餐はやっぱり母お手製のハンバーグ(これまた大きさはアメリカのステーキ級)とおにぎりかな・・・と、おべんとうを食べながらいつも決めきれない命題(「最後の晩餐」に何を食べたいか)をつらつらと考えたり。これだけ日頃お米を食べないのに(7月は外食で2回食べただけ。どちらも鯛飯あっ、あとうなぎで3回か)、母のおにぎりなら食べたいと思うのは不思議。もしこれが単なる「お茶碗に白ご飯」なら、絶対パンを所望するけど(→そしてそのパンを何にするかでまた大議論)。

すこし前に夕刊に連載されていたジョエル・ロブション氏のインタビューで、最後の晩餐に何を食べたいかと言われても、そのとき誰と一緒に食べるのか、季節はいつか、手に入る食材は何かによって違うと答えておられて、すごく納得した。いまの時期なら、間違いなくデザートは桃やもんね。もう、桃以外考えられないくらい、桃一筋な時期。だけどもし、いちごと桃が同じ時期に旬を迎えていたりしたら一体私はどっちを選べばいいんだろう。いちごの時期はひたすらにいちごに愛を注ぎ、そしていま同じようにひたむきに桃を愛している。さくらんぼやマンゴー、柿や梨も大好きだけど、こんな一途な愛は注げない。「いよかん」もぶどうも大好き。だけど、いちごと桃は「好き」のレベルが違う。段ちで違う。もちろん帰天の時期は自分では選べないけど、最後の晩餐(フルーツ編)は、もし季節が夏なら桃、冬~春にかけてならいちごと決まっている。しかしもしいちごと桃の合間の時期(初夏~桃が出始めるまで、秋~いちごが出始めるまで)にお召しがあったら?これは悲劇やな。たとえ柿と梨とぶどうを同時に出してくれたとしても、それはそれでかなりご満悦だとは思うけど、だけどやはり「いちばん好き」なものを食べられなかったという悔いが残るに違いない。神様は食いしん坊の私の行状をよくよくご存じだと思うので、できればいちごか桃が旬なときにしてくださいとお願いしつつ
自分の人生、「好き」を基本中の基本とし、「ちょっと好き」よりも「大好き」を大切に、そして何事も「いちばん好き」を最優先にして日々過ごしていかにゃいかんとの思いを強めるのでありました

ただひたすら、「好き」に生きる。
この傾向が加速していくと、人生はさらに楽しい