かくれて咲く花

~凛として~

ありがとう☆2013年

2013-12-31 21:52:06 | Weblog



「祈りとは、天に向かって我が身のつたなさ至らなさをさらけ出してもなお受け止めてもらえるという、神様とのコミュニケーション」

2013年を振り返りながら、日記をつらつらと眺めていたら、こんなことを書いてあった。
夏に倒れたあと、少しずつ心のリハビリを始めた頃のことだから、自分の弱さと格闘しながら、振り絞るようにして書きつけたんだろうな・・・と思う。自分の書いたものを読んで時々ハッとする、というのはやや変な気がするけど、こうして記録をのこしておくことは大事なことで


ことし前半は思い出したくもないくらいひどい時期だったけど、実際に思い出すことができない。とはいえ恐らく完全に記憶から抹消されているのではなくて、いつかどこかでふと脳のどこかからpop upしてくることもあるのだとは思うけど(PTSD)、「思い出したくもない」ことは「思い出せなくなっている」。神様が人間にくださった素晴らしい賜物のひとつは、この「忘れる」という能力なんだなと実感した一年でもありました。

あとのこすところ数時間となった2013年を振り返ってみると、年初から夏の終わりまでは、疲弊するだけで何も得るものがなかった気がしてたけど、暗き途を抜けていま総括すると、「長かったけど、短かったです」というあの真央ちゃんのことばどおりの一年であり、そして人のなかでしんどい思いをしたけど、一方で人の温かさに救われ助けられた一年だったなあとしみじみ思います。秋から巻き返したというか、努力したことの成果もすこしあらわれてきて、年末にはようやくすこし成長実感も感じることができて、「いろいろあったけど、いい一年だったなあ」と思えることができたのは、本当に私を陰に日向に助けてくれたひとたちのおかげでした。自分ひとりの力だけでは、とてもこんなふうに無事に年末を迎えることなんかできなかった。改めて、私の大好きで大事な人たちに・・・thanks for being there for me and you are real my blessings!!!

そして音楽面では、どんなときでもmusic really helpsであり、ことしもいろいろ名曲はありましたが、いちばん好きだったのはこの曲。Paramore "Still Into You"。何度聴いても元気がでて、気が付けば口ずさんでいますそしてこの曲も好きでした。Capitol Cities "Safe and Sound"。なんかリズムも独特で、PVも50sを思い出したり(→reminds me of PAのお店)。Katy Perryのパワフルな歌も大好きで、"Unconditionally"はPVも素敵。相変わらずAmerican Top40がいちばん好きなのは全然変わってなくて、これはいけるとこまでいくつもり!!

家に帰っても、現実があまりにもあんまりなのでなにも考えられない、という不健康な状態が続いたときは、Law & OrderやNCISなんかの海外ドラマを必ず一日一話は観ていました。毎日必ず殺人事件=人が殺されるのを観ていることになるのですが、時々切ないエピソードもあるものの、だいたいはこの世に悪がはびこることはない、最後は正義が勝つ!!というのを確認して心の均衡をなんとか保とうとしていたのかもしれません。なかでもハマったのがHomeland。これは本当に素晴らしい!!!映画"Romeo & Juliet"では妖精のように可愛らしかったクレア・デインズ演じる最高にクールなCIAのintelligence officer・キャリーの複雑な内面の葛藤、イラクで“turned(転向した)”海兵隊のPOW・ブローディも、テロリストの黒幕たるアブ・ナジールも、そしてそれぞれのキャラクターがそれぞれの立場でみんなそれぞれの正義や愛するひとのためにという思いがあって、何が正義なのか、何が悪なのかということはそんな単純に割り切れるものではない、ということを考えさせられます。特に“I tried, but it was beyond me”というセリフは、「一生懸命頑張ったけど、自分ではどうしようもない」というのは英語でこういう言い方をするのかと思いつつ、自分の思いと重なって泣けました。ああ、シーズン3が待ち遠しい!!!

そんなこんなで、ことし最後の一杯となるコーヒーを飲み終わったところで・・・

いつも来てくださっている皆さまに、心からの感謝と、そしてたくさんの幸せが訪れていますように

よいお年をお迎えください


time of my life

2013-12-27 23:38:34 | Weblog


乗り物のなかでいちばん好きなのは新幹線
「タイタニック」を映画館で3回観たわりには船酔いするから船は論外だし、飛行機はいまでもなんであんな鉄の塊が空を飛ぶのかがわからなくて不安になるし、なにより搭乗時刻に余裕を持って空港に着いておかないといけない。この心理的なプレッシャーにより、特に羽田にはやはり1時間くらい前に着いてないと心配で。
とはいえ心配性でありながら極めてのんきな面もあるので、今日なんかは10時すぎの東海道新幹線に乗る予定で、早起きしてパッキングしようと思っていたらうっかり寝過ごしてしまい慌てて出かけてもう超ギリギリ、品川のホーム到着は出発4分前。大井町から京浜東北線に乗り換えるとき、急いでいるときにかぎって改札をくぐるときハラリと切符を落としてしまったのが響いて、一瞬の差で一本電車を見送らざるを得なかった。このときの1分1秒を争う緊迫感からすると、たった4分といえども、ホームに新幹線が入ってくるまでの時間が長く感じられるのは不思議。時間の流れというのは、状況によっても感じ方によってもまったく違うものになるということも実感。

スタバで豆乳ラテを買えなかったのが残念だったけど、まあ乗ってしまえばこっちのもので、ピカソルで買っておいた焼き菓子に、車内販売が来るのを待ってコーヒーを頂く。コーヒーはたいしたことないけど、焼き菓子はドライフルーツたっぷり、ラム酒がきいていて美味しくて幸せ☆まわりを見ると、プレ帰省ラッシュのような感じだけど、パソコンをひらいて車内オフィス化している人あり、子ども部屋化している親子連れあり、時間の過ごし方は人それぞれ。このあいだ帰省したときは、DSでひたすらドラクエ9をやっていたけど(→精神的に追い込まれるとドラクエをやる人)、今回はゆったりした気持ちでスヤスヤ寝入っていたら、「お休み中すみませんが・・・」と問い合わせの電話とメールが入ってきた。もうすっかりお休みモードだし、車中だし、「ごめんなさい、ほかの人に聞いてください」と言ってしまいたかったけど、ほかの人じゃ対応できないから聞いてきたんだろうなあと思うと、やはり丁寧に対応してあげたくて。結局それぞれ調べてご回答すると、「移動中に恐縮です。よいお年を」「お世話になりました。年明け飲みに行きましょう」とそれぞれいい感じにつながれて。新幹線を降りたらまた別件で電話がかかってきて、情報交換して大笑いして。東京を、仕事をあとにしてきたのに「追いかけてこられた」感がないのは、こういう人とのつながりこそ私の財産だと思うから。日々のストレスの元凶である人たちからの電話であれば、絶対対応しなかったけど

西の空は東とはまた違って、広々としている。
雨が降ったりやんだりしている車窓からの景色は、雲間から差し込む光が天から降りてくる梯子のようで、あるいは天上から地上に流れ込む光の滝のようで、その美しさにしばし心奪われて。天に召されるその日まで、と考えるとき、いまは少しだけ遠くを見ることができるようになったけど、この先何が起こるかわからないし、相変わらずそんなに長く生きられるような気はしていない。2011年の秋から2012年の春にかけて、体調が本当につらかったときは、2014年なんて遥か遠くに思えて、そんな先のことまで考えることなんかできなかったことを思えば、いまこうして無事にいられることだけでも奇跡のようで。家に着いて、愛くるしい我が家の天使(ラブラドール・10歳♂)がこうして迎えてくれるのも、あとどれくらいなのかな。

積み重ねてきた時間のなかでお互いに成長して、いつも幸せでいてほしいと願う、ともに時を重ねていくことが喜びである大好きで大事な人たちがいる一方で、いまの役職のように、任期が切れるその日が待ち遠しいという、「必ず終わりがくる」ことが逆に希望になっている場所や関係もあり、人間関係における「時間」が持つ意味はこんなに違う。かぎられた時間のなかで、同じ時間を過ごせるということがどれだけpreciousなのか、大好きで大事な人たちと過ごしてきた時間を思いながらかみしめる。

天に帰る日はいつか必ず、誰もに訪れる。その日がいつ来るのかは、only heaven knows.
いまこの地上でいられるあいだ、私に何ができるだろう。
西の空の下で、東京とはまったく違う時間が流れているなかで、そんなことを考えています。


where there's a will, there's a way.

2013-12-26 23:26:14 | Weblog


クリスマスを過ぎるとお正月の準備が始まり、日本の年末年始はほんとに忙しいというか慌ただしいというかなんでもありというか→一週間のうちにクリスマス(キリスト教)、除夜の鐘(仏教)、初詣(神道)の3つの宗教を総ざらい?しますものね。
でも私は「断固休む」と決めて、ひとあし早く冬休みに突入しているので、仕事から解放されてとってもリラックスしております。

ああ、自由ってなんて素晴らしいんだろう!!!

今日ことし最後の針治療に行ったら、先生に「なんか顔つやいいですね」と言われたので、「はい!お休みで、ストレスないですから」と言いながら、仕事に行かないだけでこんなに元気にいられるということは、日々どれくらいストレスが心身を蝕んでいるかということでもあり、長い冬休み明けに社会復帰できるかどうか既に自信がないわ・・・なんて思ってたけど。

針のあと、紀尾井ホールでオペラ「勇敢な夫人ー細川ガラシャー」を鑑賞して、そんなゆるゆるした気持ちは吹っ飛んだ。細川ガラシャ夫人はお市の方と並んで、私の尊敬する女性。どちらも「覚悟した」、自分で選んだ最期を遂げる。戦国時代に生きた方でありながら、「勇敢な」どころか「壮絶な」、という形容をされることの多いガラシャ夫人の生きざまは、有名な辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」に凝縮された、信仰というよりも自分自身を貫き通した覚悟と潔さが、時を超えて人の心を打つのだと思う。

会場入り口には、味土野で過ごした頃のガラシャ夫人の絵が飾られていた。苦境に陥ったとき、私はよくガラシャ夫人を思う。特に籠の鳥状態だったことし前半は、何度となくガラシャ夫人の味土野時代のことを思った。あのとき、ガラシャ夫人はどんな思いで過ごされたのだろう。山奥に閉じ込められて、助けも来るかどうかわからないなかで、耐え難い思いをどう乗り越えられたのですかと、天を仰いで思わずおたずねしてしまったこともあった。細川家当代当主夫人・佳代子さんは、ガラシャ夫人のお墓をお参りしながら、戦国の世の時代に翻弄された「不幸な人生を送った悲劇の女性」だと思い、お墓に手を合わせながら常々憐れんでいたところ、ある日ガラシャ夫人の“声なき声”が聞こえてきたのだという。「あなたが考えているように私の人生は不幸なものではなかった。短い人生ではあったけど、私は精一杯に生き切って、何の悔いもない人生を送った」「あなたたちは長い人生をただ漫然と暮らしていて、死というものを考えていない。今のあなたたちのほうがどれだけ不幸であるか、私はあなたたちを憐れに感じている」「一日一日を一生懸命に、いつでも死を受け入れる覚悟をもって生きなさい」と。

私のおたずねに、ガラシャ夫人がお答えしてくださったわけではないけど、自分の境遇と重ね合わせながら思ったのは、三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』をはじめ、だいたいがキリシタン信仰が彼女を救ったという話になっているけど、キリシタン信仰を「求めた」ガラシャ夫人の内なる意志の強さこそが自らを支えたということではないのかな、ということ。苦境のなかで、ただ忍耐して諦めて日々をやり過ごすことに彼女は耐えられなかったからこそ、侍女の清原マリアの生き方に関心を持ち、キリスト教を学ぶうちに信仰を持つようになった。「信仰」というと、天から降ってくるというか、与えられるもののような感じがしないでもないけど、私にとって信仰とは神様を信じて生きる、という意志そのものだと思うので、ガラシャ夫人が守り抜いたのは、世の中的には「信仰」ということになっているけど、キリシタンであることを含めて自分の意志を貫いた彼女の魂そのものだったのではないかと。

先日亡くなられた南アフリカのマンデラ元大統領も、アパルトヘイトの時代、自由と人種差別解放を求めて戦った壮絶な人生だった。人間を支配するには、意志を持たせないように、拷問などの暴力や奴隷労働により考える時間や気力を奪い、そして何より自由を与えないことだ。最初は抵抗できても、心身ともにボロボロになるうちに、その状況を変えようとしたり、立ち向かったりという力は失われ、自分が何者かも分からなくなってしまう。人格が破壊されたり、諦めてその状況が続くのにまかせるだけになり、そうすれば支配者の思うつぼだ。そんななかで、いつか自由を、との希望を捨てず、不屈の精神で耐え抜いた・・・なんて簡単にこんなゆるい日本人が言うのが失礼なほどの想像を絶する苦難のなか、自分の魂を守り抜きこの世にインパクトを与えたという意味では、ガラシャ夫人の生きざまにも通じるものがあると思う。どんな状況にあっても、自分の意志、魂の炎を燃やし続けてこられた方々であり、その意志の力こそ人間にとって最も大切なのだと、その生きざまを通して示してこられた「勇敢な(valorous)」方々なのだと。

マンデラ大統領やガラシャ夫人のくぐり抜けてこられた苦難なんかからすれば、私の状況なんかはまったくたいしたことはなくとも、親アヒルの圧政下(→アヒルの子の冒険)で一生懸命努力して、「もうこれ以上できない」というところまで頑張ったからたどりついた境地ではあるけど、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません」ということばも、真実そのとおりだと思った。だけど私のように「魂を殺される」と感じてあらがう人もいれば、自分を殺して生きることのできる人も世の中には多数おられるというのがこの世の構成である、ということも。何かを強制されるのが嫌でたまらない私のような自由人と、強制されようとされまいと内心どうあれ状況に合わせてやれる従順な(と表現するのがいいのかは分からないけど)人たちと、両方いるんだということ。ただ黙って忍耐して、同じ状況が続いてもやり過ごせる人たちにとっては、私なんかは無駄なエネルギーを使ってジタバタするアホなやつだと思われるのかもしれないけど、自分を“殺して”ただひたすら忍耐するだけで何の変化も向上もない状況は私にとっては耐え難く、自分でないものになれと言われるのは「死ね」と言われているのと同じであり、徹底的にもがいて、それでもそこから抜け出したくて、なんとかしたくて、助けを「求めた」からこそ「救われ」たのだと思っている。

細川忠興とガラシャ夫人がそうであったように、強烈な相克が生まれるということは、お互いに強烈な自分の意志があるからでもある。親アヒルの凄まじい強制&矯正圧力も、結局のところアヒルの子プラムにとっては、もともとの自由でのびのびとした自分の姿に気付かせてくれたという意味では、それもまた恩寵であったといえるかもしれない。ガラシャ夫人が貫き守り通した魂のコアな部分は、死んでも譲ってはいけないとの思いを新たにした。これからも「‘断固たる’ゆるキャラ」でいこうと思っている。天に召されるその日まで、あとどれくらいあるかわからないけど、天国でガラシャ夫人にお会いすることができたら、「私も貫き通しました」と言えるように。

意志あるところに道はある。
天の助けもお計らいも、人間の意志の力があってこそ働くことができるもの。
ガラシャ夫人のように命を、魂をみずから輝かせて生ききることができますように

スイッチオン☆

2013-12-23 23:02:02 | Weblog


師走はなにかと美味しいものを食べる機会も多く、気が付けば顔が満月のようになりつつあり体重調整と格闘しながら誘惑に抗しきれずにいる私「うめ」でございますが、皆さまはいかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。

一緒にいて安心できる人達と集まってごはんとワインを頂くのも至福のひとときであり、またお料理上手な方のホームパーティで頂く手作りのぬくもりあふれるごちそうもまた素晴らしく、特に先日いただいたホームメイドのデザートは、プロの完成された美味しさとは別次元のやさしい味わいで感動するほど美味しくて、普段はあまり好みじゃないクリームがとってもまろやかでしみじみ美味しく、いちごをサンタさんにしてしまう盛り付けもたまらなく可愛らしかったので、たくさんいただいた結果、しっかり体重に反映されてしまいましたが、後悔はありません

ことしは前半が本当にしんどかったので、そのおかげもあり?飲みに行くたびに酒飲みのDNAのスイッチがオンになったというか、お酒が本当に美味しいなあと思うようになりました。ただし日本酒やビールは相変わらずだめなのですが、ワインが結構飲めるようになってきて、母が心配しているとおり、ほっといたらキッチンドランカーになってしまうかもしれないと自分でも心配だったので、精神状態がきつかったときは約束を守って家で飲むのは控えていましたが、最近はまあいいかと解禁してしまいました。実はいまもお友達から「これおいしいよー」と分けてくれたのを飲みながら書いているのですが(→ママには内緒にしといてね、Kちゃん)、先日アメリカからのお土産に頂いたTrader Joe'sの70%カカオチョコレートがとっても合い、いい気分です

世の中的には顰蹙なのかもしれないけど、両親ともに飲む人だし、特に父は仕事でも家でも昼から飲んでいるのが普通だったので、わりと酔いがまわっても顔に出ない特質を利用して、私も時々シードルやワインをランチのときに頼んだりしています。先日のランチ会合でも、そのあと会議があるけどせっかくのフレンチだったので、「一杯だけいただきます」とワインを飲んで、何食わぬ顔をして戻ったり。先月Maryちゃんが来てくれたときは、表参道のFlying Tigerの整理券入手のため朝から並んで、入れるまでのあいだ近くの文房具カフェでなにか食べようということになり、温かいフルーツグラタンを注文すると、「ワインにも合います」と添え書きしてあったので、「じゃあワインください」と朝から飲んでる私にMaryちゃんはびっくりしていましたが、翌日もお昼に青山のファーマーズマーケットをのぞいて、安納芋の焼いもをかじりながらサングリアを頂き至福のひととき。ぽかぽかおひさまの下で飲むのはとっても気持ち良かったです

大好きだった祖父は入院するまでは晩酌を欠かさず、「うめは飲まんのか」といつもたずねてくれて、日本酒が飲めない私はいつもご相伴を断ってさびしそうな顔をさせてしまっていたので、天国でおじいちゃんと一緒にお酒を飲むのが楽しみ。もちろんおじいちゃんは日本酒で私はワインだけど、一緒に飲めるようになったのを喜んでくれるかな。

人生ちょっと酔っぱらってるくらいがちょうどいいかもしれないですね。
そんなふうに言えるくらい、ゆるゆると笑顔で無事に年末を迎えることができたのは奇跡のようで。
人生マンジャーレカンターレアモーレだと思ってきたし、今年前半にこれまでの自分を全否定された反動もあると思うけど、籠の鳥状態から自由を求めて歩き出し、本来の自分を取り戻すプロセスのなかで、酒飲みだけじゃなくいろんなスイッチがオンになってきたような気がします。
こうして書くこと、ことばを紡ぐ喜びも、魂の泉から再び湧き上がってきているのがうれしくて。
封印したり、閉じ込めていたりしていたことがたくさんあったけど、どんどん本来の自分が「ひらいて」いる感じです

おいしいはしあわせ☆

2013-12-19 20:08:40 | Weblog


ことし初めて食べたなかで「あれ、美味しかったなあ・・・」と思い出して幸せになるもの。

浅草食べ歩きで、「絶対食べる!!」と主張して正解だった舟和の芋ようかんソフト。芋ようかん自体も大好きだけど、これは美味しい!!!と思いました。ソフトクリームにちょこっと添えてあるお芋さんの黄金色のおせんべいが美味だったので、即購入。お客様のアイスクリームの付け合せに、さっそく使ってみたり。ソフトクリームといえば、このあいだパスポートを更新しに行ったとき、有楽町の交通会館の北海道物産館の前をうっかり通ってしまい、吸い込まれるように中に入って、気がつけばソフトクリームを頂いてました。三省堂に行くときはよくよく注意するのですが、季節問わず、ここの前は素通りですることができません。でも美味しいからいいことにしてるんですけど
ちなみに仲見世を歩きながらずっと「人形焼が食べたい」と言い続け、食べ歩き向けの焼き立てをハフハフしながら頂きましたが、これも美味しかったです。熱々の幸せ

それから表参道のClinton St.Bakingのブルーベリーパンケーキ
ふかふかで、ブルーベリーもちゃんと入ってて、さらにメープルバターをかけたりなんかするとなおです
ただここは並ばないといけない。参考までに、Megちゃんと行ったときは土曜日で、11時過ぎに並び始めて、そのときは整理券を配ってくれて「13時すぎに戻ってきてください」と言われて、13:20くらいに入店。Maryちゃんと行ったときは日曜日で、9時半過ぎから並んで、1時間くらいしたら入れました。これをどう考えるかはそれぞれの価値判断。テイクアウトもあって、マフィンも美味しかった。エッグベネディクトは、日本で初めて頂いたので比較対象がないのですが、バターミルクビスケットの上にポーチドエッグとベーコン(ハムだったかな?)がのっていて、これに塩気の効いたチーズィなオランデーズソースを(気持ち控えめに)絡めると、ビスケットの甘味とたまごのとろみがフワっと相まって、なかなか美味しかったです。エッグベネディクトのビスケットがしっかりとしているので、お店の方のおすすめではブルーベリーパンケーキ(3枚。減らしたり増やしたりできないのが悲しい)とエッグベネディクト(2個)をシェアするのでちょうどいいとのことで、2回ともこの組み合わせで注文。たしかにちょうどいいです。最初にエッグベネディクトが出てきて、あとにパンケーキがきたのですが、「しょっぱいの→甘いの」がいいか、「甘いの→しょっぱいの」がいいかはこれも好みがあるのかな。Megちゃんは甘いののあとはしょっぱいのがいいとのことでしたが、私はしょっぱいののあとに甘いのがいいので、あれやこれや食べ物談議をするのもまた楽しかったです☆

それから最近お気に入りの、玄米ランチプレートが素晴らしいカフェのココナッツミルクカレー。ちょっと私にはピリッとくる辛さけど、玄米で出してくれるし、なめらかなのにコクがあって美味しい!!!職場からはちょっと離れている隠れ家的な存在で、お散歩も兼ねて、週1回はてくてく歩いては通うようになりました。食後は熱いお番茶をいただくことが多いですが、コーヒーもなかなかで、ミルクは豆乳が選べるのがうれしい。身体のことを考えて炭水化物、特に白ごはんはできる限り控えるようにしているので、パンの研究も前ほどできなくなりましたが、お米を頂くなら玄米が栄養的にもうれしいので、ここはほんとにうれしい発見でした

最近ようやく心の余裕ができてきて、朝グリーンスムージーを作ったりできるようになったのもうれしい。今日はいちごバナナにお菜のスムージー。この頃はちょっと正規の作り方から外れて、ヨーグルトも加えます。洋梨バナナにほうれん草も美味しい組み合わせ。待望のいちごシーズンがやってきたので、あまおう&パセリも作らなきゃだし、もちろんいちごが日課の甘美な陶酔の日々となるでしょう

MegちゃんもMaryちゃんも遠くから来てくれたから、ひさしぶりに会えたうれしさもあって美味しさ倍増だったというのもあると思う。大好きで大事な、一緒にいて安心できるおともだちとお話しながらおいしいものを頂くというのが人生での最高の幸せのひとつ。ふたりとも、私も会いに行きますけど、また東京に遊びに来てね


men and women (part II)

2013-12-16 17:58:27 | Weblog


さらに「男気」について(→part I)。

ハードボイルドな男の「つよさ」と「やさしさ」に加えて、とてもかなわないと私がいつも思うのは、自分が損をすることが分かっていても、それでも男には勝負しないといけない時がある、という場面で受けて立つ心意気。男やなあ・・・と惚れ惚れする瞬間。女の人はよくも悪くも常に損得勘定が働く生き物であるし、男女問わず、人間誰しも負けると分かっているとき、自分が損をすると分かっているのにあえてそれを引き受ける、という選択ができる人はそう多くはいない。だけど誰かがそれをやらなきゃいけない、というときに「俺がやる」という、ある意味“究極のやせ我慢”にしびれる。

なかでも誰かを守る、というのが最高の男気だと思う。

誰かを自分が盾になってかばう。その人をかばうことによって、自分が責められたり批判を受けることがあっても、それでも守る。自分が損をしない範囲で、別な言い方をすれば自分に絶対火の粉が降りかかってこない安全圏内であれば、という“条件付きでの味方”をしてくれる人は多い。だけどそうじゃないとき、私の側に立つことでご自分も返り血を受けるかもしれないのに、というときに、それでも守ってもらったことがある私は、そのときのご恩を一生忘れることができないし、その感動はいまも深く魂に刻み込まれている。私が逆の立場だとしたら、同じようにできただろうかと思うと、とてもできない。ただ心配して見守ることと、そのあと慰めたり励ましたりするくらいしかできなかったと思うから。

助けてもらった御礼を申し上げることができたこともあれば、直接申し上げることかなわずいまも胸にしまうだけのこともあるけど、どちらも私にとっては人生の最高の贈り物で、そのご恩にはどんなに言葉を尽くしても御礼の申し上げようもないほど感謝している。頂き「もの」なら「もの」でお返しできるけど、頂いたのが「心」だから、もうどうすればいいのかわからない。どんな「もの」にもかなわないし、そんな男はもとより助けたからといって恩を着せるようなことはなさらない方だから、「つるのおんがえし」のように羽を抜いて何か織って差し上げたいと思っても、受け取るどころか「そんな羽を抜くなんて、しなくていい。自分を傷付けるのはやめなさい」というようなやさしさをまた頂いてしまう。ただあなたが無事でいてくれたら、それでいいのだと。

こんなシリーズを書きたくなったのは、男気あふれる方々の素晴らしさを絶賛賛美しなきゃいられないほど素敵な男気にふれたり、また涙がでるほどのやさしさを頂いたから。姑のような意地悪イヤミに心が苛まれる日々のなか、この世には人の幸せを願う人と、人の不幸を願う人の二種類いて、気に入らない相手に嫌な思いをさせ、自分の思い通り支配しようとする環境では強烈な孤独感を味わう一方で、一歩そんな暗黒大陸を出れば相手を思いやるやさしさ温かさが普通の人たちが迎えてくれる場所があるという、二極化した世界を同時に見ている感じ。このコントラストがあまりにもハッキリしすぎていて、いいものも変なものも極端な、最上級と最下層を見せて頂いている。前にも書きましたけど(→「白と黒」)、私の場合こんな「すごくいいもの」を経験させてもらう人生だから、その代わり普通の人ならちょっとご遠慮申し上げたいような「すごくひどいの」も経験しないと、帳尻合わないのかもしれないな、とも思っている。

だけどやっぱり「すごくいいもの」は、「すごくひどいの」をチャラにしてお釣りがくるほど美しくて尊くて、幸せな気持ちで心を満たしてくれる。女の人のやさしさももちろん素晴らしくて、いつも助けてもらってるけど、女が絶対にかなわないのがこの男気の世界。包み込まれる温かさ、包容力を体感してしまうと、世界が変わってしまいますもの。

本物の男は、つよくてやさしい。
だから女は憧れ、守ってもらうことに感謝し尊敬する。
これが自然なんだと思っている。

“It's a sign!!”

2013-12-12 22:20:27 | Weblog


師走に入って、ぐぐぐっと冷え込んできましたね
先週末で仕事もひと段落ついたこともあり、気が抜けたのか一年の疲れがここへきてドドッときたようで・・・日曜日あたり、「なんかゾクゾクするなあ、寒いからかなあ」と思っていたら、例によって、また風邪菌に負けつつあります。ああ、もうことしは風邪ひかないで、元気に締めくくりたかったのに・・・

クリスマスも近付いてきたのでなにか飾りたくなって、くまさんサンタのスノーフレイクを出してみた。「めぐり逢えたら(原題:“Sleepless in Seattle”)」で、ジョナが気に入らなかったあれです・・・と言ってわかる方はおられるかしら。お父さんのサムのガールフレンドが出張に出かけるのを空港に見送りに行ったとき、「なにかお土産買ってきてあげましょうか。振るとスノーフレイクがはらはら落ちてくるのはどう?」と聞かれて、「たぶん気に入ると思うよ。ありがとう」とニッコリ笑って断るジョナは、なんでも顔に出る私よりも外交的だと思うけど、内心気に入らないことは十分伝わっていて(彼女の存在自体気に入っていない)、サム(トム・ハンクス)は“He's eight.”とフォローするけど、彼女の作ったお料理の御礼“Thanks for the dinner. I've never seen someone who cooked potatoes like this”は、とても8歳とは思えない、京都人も真っ青になるほどのイヤミだったり。「ユー・ガット・メール」とともに何回観てるかわからないくらいお気に入りの映画なのは、こんなふうに会話の細かいところまでひねりが効いているので、何回観てもあたらしい発見があるから。

だけど脚本を書いたノーラ・エフロンはもうこの世にいない。ことしの春あたりだったと思うけど、訃報に接して初めて、元夫がウォーターゲート事件をスクープした記者だったと知った。“Sleepless in Seattle”と“You've Got Mail”が海を越えてひとりの日本人の心にこんなに響いていて、メグ・ライアンの英語、特にこの素敵な言い回しがたくさんある2本の映画をいちばんお手本にしているのを、天国のノーラはご自分の脚本の影響力をいまならご覧になれるかな。シアトルを旅したときは、3月だったけど雨には降られなくて、Pike Place Marketもたずねたし、ジョナ親子の住むボートハウスも観に行った。カル・リプケンに敬意を表しつつ、アニー(メグ・ライアン)のボルティモアも訪ねましたし!NYに行っても、エンパイアステートビルで「このへんにジョナのバッグがあった」と望遠鏡のところで嬉しくなったり。よく考えると結構いろいろ行ってるなあ。場所がわからなくて行かれなかったけど、メグ・ライアンが住んでいるおうち(You've Got Mail)もとっても可愛らしくて、ああこんなところに住めたらいいなあというロケーションがたくさん使われていて・・・なんてつらつら書いていたらまた観たくなってきましたけど

映画からはいろんな影響を受けてきたけど、ノーラから頂いた最大の贈り物は、私の心にいつもあるYou've Got Mailのキャスリンのセリフ。“No matter what he's done to me, there's no excuse for my behavior.”heがsheの場合もあるけど、相手が自分にどんなことをしたとしても、だからといって自分がその人に対してひどい態度を取っていいということにはならない。でもなかなかできないですね。仕返しをしたりとかはしないしできないけど、どうしてもだめな人には無表情になってしまうとか、冷たい態度になってしまうとか、キャスリンのように言い過ぎてしまったりとか。これはもう人間である以上感情があるから仕方ないとはいえ、ほんとはこういう方々に対してももう少し温かみのある対応ができたらいいなあとは思うけど、内心の感情を表に出さないでおこうとするとなお無表情になってしまうし、言わなきゃいけないことを言えなかったり、相手のことばに反応して言い過ぎてしまったり。なかなか難しいですが、キャスリンのように、自分が間違っていたときは率直に謝る、というのも心がけてはいますが、いつもできるわけではなかったり、反省することばかりです。

もうひとつ心にのこっているのは、めぐり逢えたらの“People who truly loved once are far more likely to love again.”最愛の妻を亡くして、もうあんな“magic”は二度と起こらない、と言うサムに、心配したジョナが「新しい奥さんが必要だと思う」とラジオのトークショーに電話をして、Dr.マーシャが言うセリフ。前にCNNで、ピアーズ・モーガンがジェーン・フォンダに、あなたは恋多き人でしたけど、と前置きして、たしかこういう表現だったと思うけど“How many times have you been truly in love?”とたずねたら、彼女はちょっと考えて“Five times. Too many??”と答えた。本気の恋が人生で5回、というのは多いのかどうかはわからないけど、このときにDr.マーシャのセリフを思い出しながら、素敵だなあと思ったのを覚えている。人は何度でも恋をするし、愛することができる。Dr.マーシャはサムに“Don't answer that”と答えを求めなかったけど、それをラジオで聞いていたアニーと同じく、私も“yes”と、いまなら言えるかな

この世は偶然(accidental)なんかじゃなくて、天の采配、signを信じてますから

Angel of laughter

2013-12-06 19:23:26 | Weblog


緊張しているひとを見ると、笑わせたくなるのは世の常で。
そしてどんなに緊迫した雰囲気であったとしても、面白いことが起こると大笑いしてしまうのが私で。

きょういらしたお客様(とても素敵なジェントルマン)が、ボソッと仰った上品な冗談がとてもツボにはまって、爆笑してしまった。
本来明るい笑い声が響くような場所ではないので、こんなところでこんなに笑う人がいて紳士はちょっと驚かれたかもしれないけど、ご一緒に来られたのがむかしから知る方なので、その気安さもあって(こういうところが親アヒルに怒られる理由でもあったけど)、いつものように笑ってしまった。
そしたらみんな冗談を言い始めて、また大笑いして。
緊張した雰囲気がほぐれて、いやなことを前にして緊張しておられる方々が、ちょっと明るい気持ちで向かって行かれるのを後押し。

再び緊迫した雰囲気のなか、「こんなときだけど、いいですか?」と遠慮がちに入ってこられた突然のお客様。
「こんなときだからこそ、どうぞ」とお迎えして、お通りいただいて。
やりとりで遊べる人はもともと大歓迎だし、こういう場を明るくしていかれる方がおみえになると、こちらの気持ちもぐっと上がる。
お帰りの際にもまたやりとりで遊んでいかれて、cheerfulで響きあえる人はやはり好ましい。

どんなときでも、明るく楽しく。
それを嫌がる人たちや、遊びながら仕事をしたり、なんでも面白がったりしているのに眉をひそめる人たちもこの世にはいるけど、それは彼らの価値観だ。
遊び心をもってやっているのを、不真面目だとかふざけてるとか言う人たちがいたとしても、そう言われたり思われたりしている本人は不真面目なわけでもふざけてるわけでもないんだけど、それはこちらの価値観だ。
明るい笑い声が響くところに天使は引き寄せられて来るというけど、明るく笑っている人が天使ともいえる。
そんなふうに笑いを愛する人のもとには、笑いの神様がまた面白い出来事を運んできてくれる。
深刻な顔をして、しかめっつらしてたって、なーんにも楽しくないし、そんな辛気くさいところに人は寄ってこないもの。
あそこに行くと楽しいな、なんか元気になれるなと思うから、みんな遊びに来るんだよ。

場違いなひとが一人混じっていることで、それでなにが変わるというわけでもないけど。
それでも私みたいなのがそこにいることで、なんかちょっとホッとできる方もいるのであれば、cheerfulなゆるキャラが役に立っている面もあるということで。
それでいいんじゃないかな、と思っている

アヒルの子の冒険

2013-12-04 20:39:00 | Weblog


先月美容院に行ったとき、髪の色をちょっと明るめにしてもらって、かなり気に入っている。
ことしの春、長らくわりとライトなブラウンだったのを、かなりダークなブラウンに変えた理由をご存知の美容師さんは、「もうすこし明るめにしてもらえますか?」という私のお願いに「大丈夫なんですか?」と心配してくれたけど、「いいんです。なんか言われたら、もともとこういう髪の色ですって言います」とキッパリ宣言して、すこし長く重たかった髪を軽く整え、前よりちょっと明るめのブラウンにしてもらって以来、押し付けられていた“あるべき像”を取り払い、本当に自分が心地よいと思うところに落ち着いた感じ。

服装から髪の色を変えてまで、地味というか恐ろしくお堅い環境に合わせようと涙ぐましい努力をしてみたものの、結局私はカラフルすぎて、ねずみ色の単色環境なんかに“溶け込める”わけがなかった。あまりにも異質な物体が入ってきた側も戸惑っただろうけど、あたらしい環境で目立ち過ぎないように、無理やり合わせるよう矯正するよう求められ、それに応えようと頑張った私も、いま冷静に振り返ってみれば、「“自分ではないもの”にならなければ」と思い詰めすぎたかな、という気はする。とにかく毛色が明らかに違い過ぎて、みにくいアヒルの子のような心境で、だけど逆にその努力がかえって異質な面をより際立たせてしまっていたかもしれない、とも。

毛が抜けるほど悩んで(注:実際にはげてしまったわけではありませんが、精神的にはかなりずるむけでした)、アヒルの子はもともとの毛色の違いは「いかんともしがたいものだ」と悟り、変にジタバタして違う色になろうとすることはやめてみた。そうすると、相変わらず「違う色だ」とは引き続き思われてはいるけど、異質な自分を同質集団のなかに無理無理融合させようとするのではなく、水と油に分離するままにまかせていると、それはそれで棲み分けというか、その方がお互いにとって平和であるということがわかってきて。いまも相変わらず浮いてるけど、無理やり矯正してそこに合わせようとしてより一層浮いてしまう気まずさよりも、もともとの自分の毛色のまま自然に浮き上がっている方が精神的に疲れなくて済む、ということにも気付いたことで肩の力も抜け、違う色のアヒルがひとり混じってるな、という事実は同じでも、でもあれは違うところからきたアヒルで、たまたまここにいるだけなのだ、と同質均一横並びのねずみ色文明圏にお住まいの方々から警戒心は消えてしまったわけではないものの、頑張らなくなったぶん“明らかに合ってない”違和感が不必要に生まれなくなったというか。まあドレッシングでもないうえ、混ぜたところで取り合わせが明らかに悪い素材を必死に壜を振って融合させなくてもよかったのかなと、これはまあ終わったから言えることだけど、そんなふうにも思う。ひとの相性を英語ではchemistryと表現するけど、ほんとに人間同士の化学反応というのがぴったりきますね。

毛色違いのアヒルの「場違い」感は、その場所では「場違い」ではあっても、あるところで受け入れられなくとも別のところに行けば同じ自分が愛されていることを知っているので、本来なら「まあ、違うからしょうがないよね」で済んだはずだったのに、今回アヒルの子が苦しんだのは「その場所に合わせなさい」という親アヒルからの強制並びに矯正圧力だった。これまでの“明るいゆるキャラ”は全否定。「合わせられないのはあなたの努力が足りないからだ」と責められ、合わないところに合わせきれるわけがないのだから、心身は消耗する一方だった。

ある時点で陰極まって陽になるというか、変わらないものは仕方ないと割り切るというか、無理して自分を変えることをやめて本来の自分を取り戻したときに、湖に映る自分の姿を見てアヒルの子は「あそこにいる鳥たちとは違うけど、これが自分の姿だ」と心から毛色違いであることを嬉しく思った。どちらが美しいというのではなく、自分と違うものにはなれないし、なりたくもないし、なる必要もない。またその違いを周囲のすべてに認めさせたり、どちらが優れているか競う必要もない。他の人がどうあれ、私は私でしかないし、よく考えると別の色のアヒルになれなくて困ることなんて本質的には何もなかった。親アヒルの言うとおりにできていない、ということ以外は。

親アヒルのもとで過ごしていたアヒルの子は、最近ではひとりで遠くまで出かけていくようになった。籠の鳥だったけど、鍵がかかってないときを見計らって、パタパタと羽を伸ばして飛び方の練習をし始めて。本来の真っ白な姿を、誰に誇るでもなく、ただ忘れかけていた自分の色に戻れたことを喜びながら、大きな空を見上げている。そこが自分の目指すところであり、自由に羽ばたける場所であることを、親離れしたアヒルの子には見えている。地上からは決して見えない風景を見るために、白い翼を広げて飛び立っていくんだと。

歌うように楽しげに、そして自由に。