かくれて咲く花

~凛として~

愛の夢

2010-12-27 23:49:36 | Weblog


緊張しながら観た、フィギュア全日本選手権

やはり真央ちゃんの演技は、私を泣かす。
SPでトリプルアクセルを跳びにいったところから、感動で泣いてました

あの姿勢が好き。「ラストチャンスに強いという自分を信じて」と、勝負に打って出る。これまで結果が出なかったけど、この試合に照準を絞って練習を重ねてここまで持ってきた、佐藤コーチのおっしゃるとおり「根性がある」。SPのタンゴで、3回目のジャンプが決まった時の真央ちゃんの笑顔がなんともいえなくて、そのあとの伸びやかな演技を見ていると、ああ、こういうのを見せたかったんだなあと分かる。ここに至るまでの「プロセス」があったぶん、感動もひとしお。フリーの「愛の夢」も、可憐でやわらかな演技。真央ちゃん、私はまたあなたが好きになりました

グランプリファイナルでのフリーの演技も素晴らしかったけど、終わったあとのガッツポーズがかっこよかった安藤選手。今回のフリーの後にも、また力強いガッツポーズ。惚れました!!これまでは波があって、見ていると不安になることが多かったけど、今季は演技に裏打ちされた自信のようなものを感じて、自分の力を出し切ったあとの「よし!!」「どうだ!!」というようなガッツポーズには、ある意味「男気」を感じて、こちらも意気に打たれたというか。母が「安藤は上手い」とほめていたのがやっと分かったし、今回は文句なく真央ちゃんよりいい演技だったと思う。SPも曲を変えたばかりなのに、きっちり仕上げてきて。彼女が優勝してよかったなと思うし、世界選手権では公約どおり、3-3を跳んでほしい

村上選手はとにかく勢いがある感じ。もちろんまだ16歳だから、それでいいんだと思うけど、真央ちゃんも安藤選手も、それぞれに「いろいろあった」のを乗り越えたところに、人として惹かれる面がある。このふたりの圧倒的な演技は、もちろんそれまでに重ねてきた練習とキャリアの賜物だけど、やはり一流といわれる人は、その職業に必要な技術だけではなく、人間としてくぐり抜けてきたさまざまな経験が「オーラ」とよばれる雰囲気を身にまとっているのだと思う。

知識を積み重ねたり技術を磨くことへのたゆまぬ努力は当然のこととして(これだけでも十分難しいけど)、そのうえに必要なものが、どんな職業や立場であっても、あるのだと思う。社会人、職業人としてだけではなく、人としての魅力を高めること。そこがその人に対する評価のキーになるというか、魅かれるかどうかなのだと思う。お互いに、その人の「心」を見て、そしてまた見られているのだろうと。

私にとっての2010年(平成22年)を、フィギュアにたとえると。
自分の能力と技量について考えても、トリプルアクセルが跳べるのか、3-3が跳べるのか、あるいはどの種類のジャンプで跳ぶのかの見極め。真央ちゃんにとってのトリプルアクセル、「自分はこれでいく」という軸を見つけて。そして、その技術を磨き、能力と才能の足りない分は努力でカバーすべく、表現力、すなわち人間としての素養を高めることに行き着いた。

真央ちゃんのように、私も跳びたい。そして跳ぶためには、真央ちゃんのように一生懸命、一途に努力することだ。
自分の能力を最大にいかして、安藤選手のように本番で力を出し切って、「よっしゃ!!!」というガッツポーズができるように、跳ぶ。
いい緊張感のなかで、自分の能力をいかし、伸ばしていく。真央ちゃんのように「自分はさらに強くなる」と信じて。

これが私の、2011年(平成23年)に向けての、公約。
真央ちゃんの進化を楽しみにしつつ、私も真央ちゃんのように、可憐に美しく舞い、そして力強く跳ぶ



I Believe in Santa.

2010-12-24 17:59:40 | Weblog


小さい頃、ドラえもんとサンタさんの存在を疑ったことなどなかった
机の引き出しはドラえもんがいつあらわれてもいようにと空っぽにしていたし、畳をめくったら宇宙につながる(のび太の宇宙開拓史)かもしれないと思っていた。

クリスマスにプレゼントをくれてるのはサンタさんではなく、実は親なのであると知ったときの衝撃
学校で友達が当たり前のように話していたのを耳にした。「サンタなんていない」。小学2年生のときだったかな。
「えー、もしかしてうめちゃんいままで信じとったん?」と言われて、何食わぬ顔を装ったけど、「信じてた」どころか「疑ったこともなかった」のだから、天地がひっくり返るような話であった。なのに、お友達はみんなそれを知っていたらしい。私だけが知らなかったようだ。それもショックに輪をかける
そういえば、このあいだはお願いしてたものと違うのもらったな・・・と、少しがっかりしたことの説明がついてしまったことが悲しかった

初めてサンタさんにお手紙を書いたのは、幼稚園のときだった。
あの、お菓子が入っている長靴がほしかった。


     「サンタさんへ ながぐつをください」


と枕元に置いて寝た。そしたら翌朝、目が覚めたら長靴があって大喜びした
サンタさんは私のところにも来てくれるんだと、本気で思っていた。

長じてサンタさんにお手紙を書くこともなくなったけど。
だけどやっぱりサンタさんはいるんだろうとどこかで思っている。
私のところに来てくれなかったのは、世界中の子どもたちに運んで届けないといけないから、忙しかったんだろうと思う。
みんなのところに手が回らないから、お父さんとお母さんに“代行”を頼んでいるのかもしれないし。
サンタさんは、お父さんやお母さんがいない子から順番に心にかけるものだと思うから。
“代行”を頼まれたパパやママたちは、子どもの希望に沿ったり違うものにしたり、それはそれで苦労があるのだと思う。

母は「ながぐつ」がほしいという私のかわいらしい願いをかなえてあげたくて(内心、しめしめ安く済んだと思いつつ)、私が寝てしまったのを見計らって、夜中に買いに行ってくれたらしい。
その翌年は、妹が生まれたりでバタバタしてたからか、マフラーと手袋だったお願いしてたのはなにか違うものだったと思うけど、水色にポンポンが付いている可愛らしいもので、すごく気に入って張り切って毎日学校に巻いて行ったのを覚えている。
それからあとのことは、あまり覚えていない。毎年「注文」していたような気もするし、ほしいものをリクエストするのは誕生日だったような気もするけど、妹はわりと早い段階で気付いたらしく、サンタさんにみんな言及しなくなったような気がする。クリスマスケーキがすごく楽しみで、小さなクリスマスツリーを飾り付けするのも楽しみで。赤とか青の電気がぴかぴか光るのが楽しくて、部屋を暗くして飽きもせずながめてた記憶がある。

先日、電車に乗っていてウトウトして、目が覚めたら前で立っている人の紙袋に


     I Believe in Santa.


と書いてあるのが目に飛び込んできた。

サンタさんはやっぱりいるんだと思った。みんな「いない」と思いこんでいるだけで、思わされているだけで。
いろんな形で、サンタさんからクリスマスには贈り物が届いているのに、サンタさんはあの恰好で、屋根からプレゼントを持ってきて枕元に置いてくれるものだと信じているから、そんなふうな形で届かないサンタさんからのプレゼントには、気が付いてないんだ。

クリスマスじゃなくても、神様からのプレゼントは毎日のように届いている
気付いてないくらいたくさん、神様は私たちに有形無形のプレゼントを日常にそっと忍ばせてくれている。

でも今日はクリスマス・イブ。サンタさんの出番の日
大人になっても、サンタさんにお手紙書いてもいいのかなと思いながら、書いてみる。
「もの」じゃないんだけど、いいのかな。
いやいや、「もの=かたちあるもの」をお願いするのは、なにもサンタさんじゃなくても、物質世界に生きる「人間」に頼めばいいことだ。
サンタさんや神様には、「かたちのないもの」「かたちを取らないもの」こそ願うべきなのかもしれない。

I believe in Santa.
サンタさんはかならず、私のところにも来てくれる。


よいクリスマスを


Here I am

2010-12-21 22:33:49 | Weblog


師匠も走るという、この師走の気ぜわしさ
実際にやらないといけないことがたくさんあるうえ、「忘年会」というネーミングからも醸し出される「年末だぜ飲まなきゃ」みたいな高揚感というかハメ外し感が街に充満していて、さらに急きたてられるような感じがして、必要以上に疲れてしまう。そんなに飲まなきゃやってられないようなこと、忘れたいことがたくさんあるんかいな。必要なこと以外は覚えないと決めているし、忘れたくないことの方がいっぱいあるのにな、と思いながら酔っ払いの皆さん方の横をすり抜ける日々。

今年はどんな一年だったのかと振り返ってみると、トータルとしてはやはり面白いことがたくさんあり、毎日笑いに満ちていたように思う

その一方で、自分の奥に手を突っ込んでしまったというか、書くことに真剣に取り組みはじめたことで、時間の使い方が全然違ってしまった。世界が変わってしまったといっていいほどであり、以前のライフスタイルが思い出せないくらい。書くための時間を捻出するために、まず「大事なこと」を大切にして、そのあとは余裕があれば受けていくという感じ。大好きな運動も、もっと上手になりたいという気持ちでエアロに取り組んできたし、思うところあって水泳も再開。9月から強化中の筋トレの効果も少しずつ出てきたし、目標体重に安定してきた。そして、思索の対極にある時間として、一層運動の時間が大切になった。エアロや筋トレは集中力を、水泳は持久力をつけてくれる。何より水の中を泳ぎながらいろいろと考えたり、ジャグジーの中でぼーっとしたりする時間が、creationの一環というか、こういう「自分を保つ時間」を何より大切にしている。バタバタ、わさわさした状況が続くと、なかなか気持ちが集中できないし、落ち着いてものが書けないから、動と静のバランスを取りつつ、あたらしい冒険を楽しんでいる感じ。

漢字一文字でいうと、「軸」。
自分のなかから浮かび上がってきたというか、もともとあったものが表に出てきた面もあり、それが鍛えられて軸として姿をあらわしたという感じかな。以前よりも輪郭がくっきりとして見える…という言い方だと、アンタはオバケか!!という気がしないでもないけど、ぼんやりとしていた自分の色が、だんだんはっきりとしてきたような気がする。

相変わらず人がこわくて、だけど大切な人たちは本当に愛しくて。
そんなふうに、自分のなかで相反する感情や一面が同居している。それはどの人のなかにもあるんだと思う。
揺れながら、その揺れる思いも味わいながら、だけど歩みだけは止めなかった。そこは、常に前へ前へと進む牡羊
そしていま、ここに立っている。

しかしわれながら、面白い人生だなとしみじみ思う。自分で言うのもなんだけど。
「世間一般」や「標準」なんか当てはまらないというか、そんなのに合わせても意味がないというか、合わせたくもないし合わせる必要もない。
そんなものはある意味超越して、「~しなきゃいけない/おかしい」「これが普通」という世間のさまざまな圧力から自由でいる。それを特別意識しなくても、常にそういう状態であることが普通(私にとっての)になってきた。

脱皮というと、蝉っぽくてなんか違うな。transform。姿を変える、変貌ということばがしっくりくるかな。ヤッターマンでいえば、アイちゃんが服を裏返しに着て変身してヤッターマン2号になる…というたとえがふさわしい、んだろうか。metamorphosis、日本語では「変態」(!!)。つまり、成長していくうちに姿を変えていくということ。さなぎが美しい蝶になる。「うめ」の人生史のなかで、おお、ここでこんなに姿が変わったゾと、あとで試験に出るような、一年を通して“変態”してきたmemorableな時期といえる

まあでも、実際は毎年毎年memorableなんですけどね。
でもことしは“変態”(!!)したという意味で、めもらぶる!!!


シンプルに☆

2010-12-15 21:35:34 | Weblog


ただいま、絶賛“断捨離”実行中

本当に必要なもの、大切なものだけをのこして、あとはもういらない。
処分の際のコツは、「まだ使えるか」とか「まだ着られるか」ではなく、自分が「使うか」「着るか」とのことらしい。自分の感覚との対話。

もう着ないなと思う服、持っていることも忘れているようなものがたくさんある。これは迷わない。
迷うのは、思い入れのあるもの。たとえばお気に入りのスプリングコート。もう着ないんだけど、だけど水玉のアクセントがとてもかわいくてひとめぼれしたから、ずっと手元に置いておいた。でももう着ないのはわかってる。だから思い切って処分。あとアメリカにも連れて行き、アメリカから持って帰ってきたお気に入りのぬいぐるみにも、迷った末、ありがとうを言ってバイバイした。アメリカから連れて帰ってきたぬいぐるみにも、同じようにありがとうを伝えて、バイバイ。ごめんね、この先には一緒に行かれないの、とつぶやいて。

この“査定”は、英語でやる。日本語でやるより、情が入らない。


“you still need this?”


YES/NOでハッキリ答えられるし、ロジカルに合理的に効率的に考えられる英語の良い部分がいかせている気がする。
迷うものは、3回聞く。


“still need this?”

“you sure you still wanna keep this??”

“wouldn't it be such a burden for you to keep this??”


3回自分に問いかければ、だいたいのものは“NO”に行き着きます


アメリカに行った時のことをよく思う。あのときはスーツケースひとつで、旅立った。
どうせ全部持って帰れないんだからものを増やさないようにしようと思いながらも、帰るときには、びっくりするくらいいろんなものが増えていて。友達に譲ったり、最小限持って帰りたいものは船便で送って、またスーツケースひとつで帰国した。

本当は、生活に必要なものはスーツケースひとつに入るくらいで、ちょうどいいんだろうな。

いま自分がどこか違うところへ旅立つとして。
そのときに、このスーツケースひとつに荷物を詰めて持っていきなさい、それ以上は持っていかれませんと言われたとして。
必要なものだけ、大切なものだけを選んで、大事にしまう。
一緒に連れて行きたいもの。自分と一緒にいてほしいものを選ぶ。
本当に必要なもの、大切なものはそんなに多くないとわかる。

なのにこんなに多くのものがあるってどういうことだろう。
自分で買ったり、頂いたりしているうちに、いつの間にか増えていく。捨てていかないと、増える一方。

そんなにたくさんのものに囲まれて暮らせない。もっとシンプルにいきたい。

そう心の底から思ったら、こういう大整理をせざるを得ないような状況がセットされた。
まったく神様はよくご覧になっておられるわと思う

整理しながら、思う。
いつも身軽にいよう。スーツケースひとつでひょいと次のところに移れるくらいに。
スナフキンのように、自由に。
本当に大切なものだけを手元に、身の回りに置いて過ごそう。
大切なものを大切にしよう。

ただそんな、シンプルな気持ち。


Thank you

2010-12-10 23:39:08 | Weblog


ことばを紡ぐよろこび。紡ぎたい、綴りたいという気持ちが湧いてきて、ことばにしようとする。
だけど全部ことばにできるわけじゃない。
考えていることをすべて言語化しようと思ってことばを探しながら書いても、だけどどこか言いたりなかったり、うまく伝えきれなかったり、あとで補足が必要だったり。

文字になっていることばがすべてじゃない。
ことばの選び方や行間からにじみ出る思い、あえてことばに「しない」部分もある。「できない」ことももちろんある。

それでも伝えたいことってなんだろう?
自分の内面に深く静かに息づく思い、心の水面に浮かび上がってはまた姿を隠す思考の引っかかり。
そんな無形のものをたぐり寄せ、紡いでかたちにする作業を、どうして私はしたいと思うんだろう?

ことばにすると野暮になることもある。
何も言わないことは、何も思ってないことではない。

何でも語ってしまおうとするのはうまくない。だけど、何も語ろうとしないのはだめなんだ。

その塩梅を見つけながら、書くのが楽しいのかもしれない。

ひとりごとのような文章も、読んだ人の心に届いて、その感想を送ってくれたら、コミュニケーションになっている。


いつも読んでくれてありがとう

楓の甘み

2010-12-05 21:32:57 | Weblog


妹がカナダへのハネムーンのお土産に買ってきてくれて以来、メープルものにハマっている

定番のメープルシロップは、妹がエクストラライトをチョイスしてくれて、軽やかな甘み。はちみつも好きだけど、メープルシロップはどうしてこんなに口当たりがやわらかいんだろう。小さい頃から、ホットケーキにたっぷりとシロップをかけたいのに、どうしてあんなに小ちゃいサイズしか出してくれないんだろうと「日本サイズ」に不満であったため、アメリカでは念願の「パンケーキに豪快にメープルシロップをかける」ができたため、嬉しかったですねえ。やっぱこれくらいかけないとね、と自分が思う“適量”を日本でやると「かけすぎ」と怒られますが、アメリカだと何の不自然さもない。もちろんバターもたっぷりとただしホイップクリームは要らん、あと5枚も食べきれないから3枚でいいとか、いろいろ細かく注文を聞いてくれるのもうれしい。パンケーキでは断然!!ブルーベリーパンケーキが一等好みです(「断然」と「一等」が共存すると、二重表現かな?でもそれくらい突き抜けて好きなのです

衝撃的だったのが、メープルバター。トーストにたっぷり塗って頂いてみると・・・「!!!!!!」あまりのなめらかな甘さ美味しさに、甘美さ極まってしばし無言に。日本でもなんとか入手できないかと探し回って、cuocaで売っているのを発見し、求めてしまいました。妹が買ってきてくれた方が美味しかったけど、やはり美味おかげで朝食のトースト率が飛躍的に上がってしまいました。朝は5分でも貴重なので、トースト焼いて、バターかジャム塗って…というのは結構時間を食ってしまうのですが、そのために10分早く起きればいいというモチベーションを十分与えてくれるメープルバターでありますクオカでは50gのしか置いてないので(こんな量じゃ全然足りない)、「メープルスプレッド145g」を取り寄せようかと思案中。バターとどう違うんかしら?

それからメープルシュガーも素晴らしい。以前、カナダ在住日本人が「お醤油とメープルシロップは合うんです」と紹介していたのを真似して、かぼちゃと里芋をそれぞれメープルシュガーで煮物にしてみましたが、非常にまろやか。煮物とか炊いたんとかは、どうしても母が作ったものとslightly differentな気が拭えなかったのですが、メープルシュガーを使ったことで、新しい味わいというか、自分オリジナルの味付けというか、もともと自分のなかにある「こういう味」と比べながらどうしても感じてしまう違和感から自由なのがいいですね。母にもメープルシュガーを教えてあげようと思っていますが、かぼちゃや里芋の素材の甘さをいかしながら、ほのかな甘みが口の中に広がり、非常に幸せ感を高めてくれます。ついでに料理が上手くなったような気にさせてくれるところもいいかも

メープルの甘さを味わっていると、北米大陸の雄大な自然、木々の美しさが目の前に広がっていくような、そんなしばしのワープ感があります。自然の甘みはこんなにやさしく、しかも遠く離れた日本のお醤油とも調和する。なんて素晴らしいんだろうメープル!!!しばらくこのマイブームは、続きそうです