かくれて咲く花

~凛として~

real blessings☆

2013-11-24 16:11:00 | Weblog


物事には時差があるというか、一生懸命努力しているときはなおさら早く結果が出てほしいと願うけど、上達したり試合で勝てるようになってくるまでにはある程度の時間がかかる。「実力」というのはそのようにして地道に蓄えていくものであって、ひとあし跳びにとか、途中のプロセスをどこか省略してその先へたどり着けるとか、そういうのは絶対ないと痛感している。

だけどくじけそうになったり、あきらめかけたりしていると、そんなとき神様は必ず「ごほうび」をくださる。
先日お使いに行く途中で、久しぶりにお会いする方々にごあいさつしながら向かっていたら、「おお、久しぶり。頑張ってる?」と口々にたずねてくださるので、「ええ、なんとか・・・頑張ってます」とやや弱々しく答えると、みんな「大変だと思うけど、頑張ってね」と励ましてくれて。「ほんとに大変だろうと思うけどね」とあえて強調してくださる方もいて、悩み苦しみの真っただ中にいたときは、孤立無援の状況でつらかったけど、「あんななかに一人で放り込まれて、うめさんしんどいだろうなあと思ってました」と言ってくれた後輩や、「あんまりまともに受け止めてたら身が持たないから、力抜くところは抜いてね」とアドバイスをくださった先輩や、そんなに深く話す機会もなかった人や、意外な人までが好意的に受け取ってくれていたことが分かったりという嬉しい驚きのなか、人の情けに弱りかけていた心が温められて。

自分のことだけ考えたら、もう逃げ出したいと何度も思ったけど。
ここまでの道のりは、自分だけの力で進んでこれたわけじゃないから。私を引き上げてくれた人がいて、快く送り出してくれた人たちがいて、そしてやさしく見守ってくれる人たちがいて。そんな人たちのことを考えたら、自分の一存で決めることはできなくて、だけど「もう限界かも」という思いは何度となくこみあげてきて。

こちらは存じ上げない方々から、「あなたいまどこにいるの?」「時々見かけてて、こっちは前から知ってたんだけどね」などと、突然声をかけられることもしばしば。
いまにも泣き出してしまいそうな気持ちでエレベーターを待っていたある日、何気なく会釈をした方が「あなたいつもにこにこしてるよね」と仰って。時々お見かけする方だな、と思ってごあいさつしただけだったのに、しかも消え入りそうな気分の時にそんなこと急に言われて言葉に詰まっていたら、「あなた笑顔がいいよね。いい目をしてるよ。もっと自信持って、頑張りなさいね」と、もったいないお言葉をかけて頂いた。お礼を申し上げながら、ああ、この方は神様の御使いだと気付いた。誰も見ていないと思っていても、こうして必ずどこかで見る人は見ている。ましてもや神様は、いつもすべてをご覧になっておられて、私から笑顔が消えてしまいそうなときを見計らって、こうしてメッセージを届けてくださる。どんなときも、いつも笑っていなさい、と。

お使いに行った先では、むかしから知る気安さにお互いホッとして、いつもの自分に戻って笑わせながら仕事をしつつ、「もう私もちょっと疲れてきたんですけど」とボソッとこぼしたら、帰り際に「疲れるなよ」と笑顔で励ましてくれた。私なんかよりもずっと日々緊張と重圧に耐え、ご自身も相当お疲れのはずなのに、私がつぶやいたひとことを見逃さず、思いやりある言葉をかけてくださるこの方の温かさに改めて感激し、自分がしんどいときでもこうして人にやさしくできる人でありたい、と思った。そして、この方もこの優しさが本当の姿なのにな、と思うと、日々緊張を強いられながら頑張っておられる人たちが、私の顔を見てふと気持ちを緩めることができるよう、笑わせて和ませたいなと思ってこれまでやってきたことは間違いじゃなかったな、とも。

本来の自分を殺して、自分の本質とは全然違う“この場所ではこうあるべき像”になろうと努力したけど、できなかった。“遊び心”と笑いをなくした私なんて、いったい何の価値があるんだろう。cheerfulな自分を消してしまうようなことは、魂の本質を変えてしまうことは、誰にどれだけ強制されても、そんな自然に反することは不可能だ。 お仕事を以前ご一緒した方と久しぶりに飲んだら、「いつもうめさんが笑顔で迎えてくれてたもんね」と、以前の私を思い出させてくれて。報われた感も成長実感もない日々のなかで、自分が何の花か分からなくなっていたけど、しおれそうになる寸前に、いろんな方々からお水をかけて頂いて、咲くべき姿を思い出すことができた。友人知人はもちろんのこと、こんなふうにいろんなところですれ違ってきた方々からも温かいお心を頂いて、私はなんて恵まれているんだろうと思います。

人のなかでいろいろありながらも、結局は人に助けられて生きている。自分だけの力で何でもできるなんて思い上がりもいいとこで、助けを求めること、助けてもらうことを学んだこの一年。頂いたお恵みを、こんどは私が誰かに差し上げることができますように。

大好きで大事な人たちの一人ひとりの顔を思い浮かべて…あなたは私のreal blessingです。出会えたことに感謝しています。いつも本当にありがとう!!!

men and women

2013-11-21 19:34:00 | Weblog


男の人って大変だなあ・・・と思う。
いろんなこと引き受けて、責任とらないといけなくて、どんな批判もひとりで受け止めないといけなくて。ふと弱音を漏らしたりすることがあっても、女性のような“開き直り”(よくも悪くも)がないから、いろんなものを背負っていてほんとに大変なんだろうなあと思うし、「男は強くなければ生きていけない」というハードボイルドな人生はめちゃめちゃかっこいいけど、そのことば通りに生きるのは本当に大変だと思う。

いくら私が「彼女は中身は男だから」と言われたり、女性にしては男気がある、と認定されていても、こらえきれなくて職場でボロボロと涙をこぼしたことも何度もあるし(男がこんなふうに人前で泣いてはいけない)、愛嬌でごまかしていることも多々あるし(笑顔で加点)、女性だからと「大目に見てもらっている」面は絶対あるし、私もそのあたりちょっと甘えを残していることは否定しないし、そして得をしてきたこと多々あるのも事実。いまの仕事も、女性だからという理由だけで就いたわけでは決してないけど、私が女性じゃなかったらきっと違ってただろうな、とは思う。「印象にのこる」という最初の時点で、天地の開きがあったはずだから。

私は仕事でもなんでも“男女平等”とか“男女同権”というのは響きも好きじゃないしありえないと思うし、まったく違うものの間で「同じ」を求めるのはそもそも変な話なんだろうと思っている。まずなにより男性に体力では絶対かなわない。仕事で男性と「同じ待遇」を望むなら、「同じ働き方」をしなければいけない。それができる女性もいるだろうし、できない女性もいるはずであり、女性だからとか男性だからということよりも、その仕事に向いているかどうか、個人の能力ベースで評価され、それぞれがその能力や資質を生かせる場所で暮らしたり働けたらいちばんハッピーなんだろうな、と思う。学生時代に憧れていた職業があったけど、実態を見聞きするうちに「体力的に私には絶対無理だろうな」とあきらめたこともあり、「できること」と「できないこと」というのは、身体的な諸条件に左右されること、すなわち「自分の努力ではどうしようもないこと」があることが分かっているので、男性であっても女性であっても、そこは同じように個人差がもちろんあるんだろうと思っている。だから女性である、という自分では選びようのない理由だけで登用されるのは変な話であり、クオータ制だとか組織や幹部の一定の割合を女性にするとかいう「女性枠」をつくる議論は、個人の資質や能力に合うかどうかという本質的なところを見ずに条件を導入するのは間違ってるんじゃないかと私は思っている。まず能力があり、資質がそのポジションに向いているということが大切なのであって、男性か女性かということは結果的にそのどちらかであるかというくらいの話ではないのかなあ。

母が「世の中の職業をよう見てみ。一流の料理人にしても、サービス業にしても、みんな男でしょ。料理するには、力がいる。サービスも、男の人の方がよう気がつくからきめこまかい。女は男には絶対にかなわない」とよく言っていた。このひと(わが母)は基本的には男女平等論者でありながらも(→人間も動物も植物も皆平等という思想の持ち主でもある)、小さいころからそんなふうに私に言い聞かせて?いた影響があるかどうかはわからないけど、実感として本当にそうだなあと思う。男の人にはかなわないもの。私はあんなふうにつよくないし、どんなに努力してもそうなれない。論理的なものの見方や考え方のスケールの大きさなんかは、生物的違いを痛感するほど、女性である私には到底持ちえないなと尊敬してしまう。

「男は強くなければ」というハードボイルドな生き方には、「だけど優しくなければ生きている資格がない」という続きがある。本当につよくてやさしい、いわゆる「男気」のあるひとは、実はとても繊細で傷つきやすいのだということも、これまで出会ってきた男気あふれる最高に素敵なひとたちから教えてもらった。私なんか絶対かなわない、ほんとにつよくてやさしくて、だからこそ懐深くてびっくりするほど温かくて。こういう本物の男に出会うと、自分が女であることを思い出すというか、そういうひとにはすごく甘えてしまう。なんでかなと思うくらい、すなおに。警戒心が人一倍つよいはずの私が、こんなふうに安心できるのはなんでなのかなと思うと、自分には絶対ないもの、自分が絶対かなわないものを持っているひとだからなんだろうな。

だから男の人はやっぱりすごい、と思うのです。ほんとに。

針。

2013-11-14 20:10:00 | Weblog


「すっかり寒くなりましたねえ」というのがこの頃のあいさつの第一声。寒がりの私は、どのタイミングで寒さレベルに合わせて逐次コートを投入していくか思案している。いまくらいなら、通常はハーフコートを着てもいいくらいだけど、今年はまだ出してない。日中外出するときは、ストールを羽織って出るとちょっと寒いですが、まだコートは着ない。これから続く寒さの長さを考えると、もうちょっと待ちたい気分なので。

お願いしていたお洋服をクリーニング屋さんに取りに行くと、「寒くなりましたねえ」「春と秋がほとんどなかったですよねえ」とごあいさつ。うちの近所のスーパーやクリーニング屋さんは、あんまりマニュアル的じゃなくて、パートの人たちは顔なじみになると結構話しかけてくれる(私も話しかける方ですが)。前も「あら、ここほつれかけてますね。お直し代取られるのもなんだから、私がやっておきますから」とスカートを直してくれたり。昨日も「寒いから、サービスしちゃいます。内緒で」とスタンプを多めに押してくれた。こういう人のぬくもりがあるから、気に入ってこの街にずっと住んでいる。

でもやっぱり東京で住んでいるというだけで、いかに身体に結構な負担ががかかっているかを年々感じます。ちょうど九州とアメリカにそれぞれ移り住んだお友達が東京に来ていて、特にアメリカから一時帰国したHさんは、東京の街の「重たさ」、このストレスに対応するためのメンテナンス費用について共感してくれた(これ、税金控除とかしてもらえないでしょうか・・・)。ちなみに私は毎月1回マッサージ、この5月から週1回針に通っているのですが、たぶん地方に住んでいればこんなの必要ないだろうなあと常々思います。課題の免疫力をなんとかアップさせたくて通い始めた針は本当に素晴らしく、人にすすめて回っているのですが、免疫力その他はまだまだ時間をかけて治療する必要があるとはいえ、長年悩まされていた腰痛がいつのまにか消え、しかもお肌がキレイになるという副作用(?)がうれしい。これまでは「えー針を身体に刺すなんて・・・」と、絶対考えられなかったのですが、いつも間違いのない人を紹介してくれるご夫妻が「いろいろマッサージや整体をためしたけど、針がいちばんいいという結論にたどりついた」と断言されるので、教えてもらって勇気を出して行ってみようと思い、歯医者さんで歯を抜かれる前のような緊張感を漂わせつつ「先生、針は痛いですか?(心の声:痛いのなら帰りたいです)」とたずねると、先生はやさしく「痛くないですよ」と。思いきっておまかせすると、ほんとに痛くなかったのでびっくりして安心して、いまや針を打ってもらいながらスヤスヤ寝ているほど。ただ時々チクっと響くところがあって、あとで「ここが痛かったです」というと、その都度「ああ、このツボですね」と人体図(お人形さん)を見せてくれながら、その理由を教えてくれる。だいたいが「ストレス」だったりするのですが

ストレスというのは、だいたいが職場環境からくるものですが、東京で暮らすストレスは東京と地方の両方に住んだことがないと分かってもらえないかもしれませんが、のびのびとしていたい私にとっては、人が多すぎる東京はそこに身を置いているだけで窮屈なのです。私の身体は本当に正直で、疲れきって駆け込むと針の先生は「今週はなにかあったんですか?」と先生はしっかり見抜いておられる。月1マッサージの先生も、もう2年近くかかっていると、カルテでちゃんと体調を管理してくれているので、夏は冷たいものを摂りすぎないように、冬は身体を冷やさないように等々いろいろアドバイスくださり、ただ「もっと寝てください!!!!!」といつも口酸っぱく言われていても、これだけはなかなか実行できていない。理想は就寝23時、起床6時ですが(→お肌のゴールデンタイム:22~2時)、実態は就寝だいたい1時過ぎ、飲みに行ったりすると2時3時、そして起床は6時すぎという感じです。せめて週1回は12時には寝る日をつくりたいです

あしたは朝会議で早いけど、夕方は針!またしばし東京離れて、どこか出かけたいなあ。それがいちばん、元気になれるかも…

歩き出す。

2013-11-12 19:09:30 | Weblog


ついこのあいだまであんなに暑かったのに、秋をあんまり感じる暇もなく「晩秋」となり、季節はいつのまにか冬に向かっている。
なにから書き始めればいいのかわからないけど、今年2013年は本当にいろいろあったけど、なんとかここまでこられたのは、大切なお友達、大事に思ってくれる人たちが温かく励まし、支えてくれたからでした。

一生懸命頑張ってみたけど、矢折れ力尽き、ボロボロになって倒れてしまったとき、「こんなふうになることが分かっていたら、この道を選んだだろうか」と、正直後悔したこともありました。予想していた以上にというか、予想していなかった道を選んだだけに、自分のまわりで何が起こっているのかも、自分がどこにいるのかさえ分からなくなって。
深い霧に包まれた森に迷い込んで、途方に暮れて涙が止まらなくて、もう立ち上がれない、これ以上歩けないというところまできて、倒れてしまったとき、やさしいおともだちや仲間が心配して助けてくれて。レスキューに駆けつけてくれたみんなは、とりあえず毛布でくるんで、温かいミルクを飲ませてくれて、安全なところで休ませてくれながら、私が自力で立ち上がるのを信じて、優しく見守ってくれました。私の大事な人たちの素晴らしさに改めて尊敬の念を深めるとともに、こんなに人の情けを頂いて、私は本当に幸せだと思います。本当にありがとう。そして、いつか再開するかもとの願いをこめてこちらを訪ねてくださっていた皆さまにも、心より感謝申し上げます。

というわけで、あれやこれやを乗り越えていまに至るわけですが・・・
むかし自分でこんなこと書いているんですよね。読み返すと、なんだ、自分が望んだことだったんじゃないかと
神様は耐えられないほどの試練はお与えにならない、ということはよくよくわかっていながらも、自分でそんなこと書いておきながらも、「もうこれ以上無理です」と泣きを入れてしまった自分が恥ずかしくなります。

すこし前に観に行った「大統領の料理人」という映画は、ミッテラン大統領の専属シェフとしてエリゼ宮にスカウトされた女性のお話。南極まで行かないといけなかった気持ち、すごくわかるなあ・・・私はホッキョクグマのところに行かにゃいかんかもしれんなあと思いながら、自分の境遇と重ね合わせながら観ました。「逆境は、人生のスパイスだよ」と主人公に言う大統領のことばを、「うーん・・・ちょっとtoo spicyだけど確かに」と思えたので、「ああもう大丈夫かな」と自分の心のリハビリ具合も確認できて。喉元過ぎても、本当に熱かったときはその痛みはなかなか取れるものではありませんが、喉元を通っているまさにそのときは、そんなこといくら言われても受け止めきれるものではありませんもの。でもどんなに熱かったとしても、過ぎてしまえばやっぱりそれは「いやいや、あれはほんとに熱かったよね」とあとから振り返るものでもあって。もう二度とあんな熱々はいらん、と思いながらも、上には上があるというか、また必ずいろんな出来事があるのが人生であり、大統領おっしゃるとおり、スパイスのない人生なんて絶対おもしろくないんだろうと思います。辛いのが苦手で、インドカレーなんか食べた日にはすぐおなかこわすような人なのに、人生はかなり唐辛子の数が多いのをオーダーしてしまったようで。

だけどおかげでワインが心からおいしいと思うようになったし、なにより辛いのを食べたあとの甘いものは美味しい!!!
甘いだけでも、苦いだけでも辛いだけでもないですし、この塩梅は人それぞれではありますが、それぞれの人生で神様はうまい具合にお取り計らいくださっておられますし、だからまたがんばろうと思えるのかもしれませんね。

というわけで、また書いてまいりますので、よろしくお願いいたします