かくれて咲く花

~凛として~

毎日が宝石

2012-05-29 22:17:02 | Weblog


久しぶりに書けるようになったと喜んでいたら、あっというまに1カ月経っていた。
やらなきゃいけないことが毎日たくさんあって、だけど「やらなきゃいけないこと」がすなわち「やりたいこと」であることがほとんどだから、毎日一生懸命で、そして幸せだなあと思います。この世に生きていることがしみじみと嬉しい、生きていれば嫌でも目にせざるを得ない変な人や醜いもの、汚らわしさを一掃して地球一周してお釣りがくるくらい美しいものを見せて頂いて、心の宝箱に大切にしまっておきたい宝石を毎日見つけているような、そんな日々。

「宝石」といっても、私にとって至上の輝きを放つものであっても、他の人から見ればただの石ころにしか過ぎないのかもしれないし、価値を見出すところが違うから、私の心の宝箱のなかをのぞいたとしても、なーんだ、ガラクタばっかりじゃないかと言う人もいるかもしれない。だけどそれで全然構わない。人がキレイだからと認めたから宝石なのではないから。私がこの世で本当に美しいと感じ、心を動かされ、大切に胸にしまっている数々の宝石は、私の魂に一つひとつ刻み込んでいるものだから、誰も奪い去ることはできないし、また誰に見せるものでもない。テレビを見なくなってもうすぐ1年が経ち、一応新聞は目を通すけど、世の中で流行っているものだとかなんだかとか、「価値あるもの」の認定を「テレビで言ってたから」とか「雑誌に書いてあったから」とか外部任せにせず、自分で全部決めている。「世の中が“いい”と言っているもの」ではなく、「自分にとって“いい”もの」「自分にとって価値あるもの」の感覚を研ぎ澄ましていくと、世の中に氾濫している情報はあくまで「ご参考」程度のものであり、自分の外にある価値観に自分が支配されることがなくなる。すなわち、「これでいいのかな?」と自分の行動について周りの承認をいちいち求めなくなるということ。自分が幸せだとかこれが心底好きだということについて、他人の承認や認定は前提や必要条件ではない。「私はこれが好き」「私はこれがあるから幸せ」で自己完結している。

たとえば私は苺が大好きで、この冬も体調が悪いながらもしっかりと毎日毎日飽きることなく、シーズンが終わるまで食べ続けた。とにかく苺が好きでたまらない。それだけ。私にとっては苺は最高に美味しい果物で、口にするたびとろけそうになるほど幸せで、あの赤いひと粒ひと粒が愛しくてならない。昨年末から続けているグリーンスムージーも、ちょっといいことがあると苺を1パック大胆に使って、自分のごほうびに“いちごスペシャル”作ったりしていた。ちなみに私はずっと「とちおとめ」派でしたが、今シーズンからきっぱりと永遠の別れを告げた後は「さがほのか」への愛に生きていましたが、なかなかコンスタントに手に入らなかったので、致し方なく「あまおう」「あきひめ」、ごく稀に「女峰」を頂いておりました。「ひのしずく」も美味しかったな。「あまおう」を好きな人は多いと思うけど、私には酸味が少し強く感じられてあまり好みじゃない。「ほのか」はその名のとおりほのかに甘酸っぱくて、この苺の苺たる所以、最大の魅力である「甘酸っぱさ」が初めて口にしたとき以来、私の心をつかんで離さない・・・などと書いていると来年の再会まで待ちきれなくなってしまうのだけど、この苺シーズン、すなわち毎年12月~4月の間は、儀式のように日々苺への愛を捧げつつその恵みにあずかっている。だけど「あまおう」はそのまま頂くにはあまり好みじゃないけど、グリーンスムージーには「あまおう」がいいんですよ。しかもそのままでは絶対食べられないパセリと合わせて、バナナを入れると少し甘みととろみが加わってなお素晴らしくなる。まだセロリを使う勇気はないけど、このグリーンスムージーのおかげで、パセリをたくさん摂れるようになりました。苺バナナのほかにも、パセリはグレープフルーツとパイナップルも素晴らしく合います。この場合は、バナナは入れない方が美味しいと思う。私がいちばん好きな組み合わせは、菊菜とグレープフルーツ。オレンジかパイナップルを合わせることが多いかな。水菜とリンゴもシャキシャキ感の取り合わせが実に素晴らしく、こちらはオレンジとキウイとともに。冬場は毎日お蜜柑を2個とかガンガン使っていたので、手が真っ黄色になっていることをMちゃんに指摘されたり。オレンジに変えたら、そんなに目立たなくなったけど。あのときは自分でも「うわっ」と思うくらい黄色かった→なあ、Mちゃん

食べ物のことになると話がぐんぐんそれていくのは、ブランク後も変わっていないようで。
苺にしてもグリーンスムージーにしても、「私にとっては美味しい」という例であって、他のひとも同じように美味しく思うかどうかは分からないし、葉野菜を入れることに抵抗がある人もいれば、あんな怪しげな色の飲み物をごくごく飲めるなんて信じられないという人もいるだろう。だけどそれで構わない。要は万人が「美味しい」だとか「いい」とかいうものはないのであって、「自分が幸せになるほど美味しい」という感覚は自分だけのものであり、別に人に決めてもらうものではない。帰り途だから時々寄るけど、渋谷に新しくできたヒカリエをのぞくと、「渋谷限定」とか、「関東初出店」とか、それが美味しいのかどうかとか、そのお店が地方では老舗なのか最近できたものなのかよく分からないけど、「テレビで紹介されていた」というものには必ず行列ができている。私はジョエル・ロブションのパンだけは試してみたくて、平日の仕事帰り、まあもうこの時間だから全粒粉のクロワッサンだけでも残ってたらいいなとお店に向かうと、ほんとにそれしか残ってなくて、あとは売り切れ。なんでも朝からものすごい行列らしくて、お会計にも「最後尾」とプラカードを掲げた店員さんがいて整理しないといけないほどで。クロワッサンをふたつ求めて並んだけど、たかだかパン買うのにここまでしなきゃいけないのかなという素朴な疑問は拭えず。ほかのところもぐるっと見てまわったけど、ものの「値打ち」について考えされられました。「話題になってるから」「テレビで紹介されたから」「ヒカリエ限定の品だから」とかいうのを全部抜きにしてそれぞれのお店、商品を虚心坦懐に見てまわったら、そう必死になって並ばないといけないようなものってほとんどないと私は感じました。ロブションのパン屋さんは日本初だからまあ行列になるのも分からなくもないけど(確かに美味しかったし)、あとはまあ他のところでも買えるしねとか、京都とかいくつかの地方からお店がいくつか出店されてるけど、歴史と伝統を背負ってというよりは目新しさを追求しておられるように見受けられてあまり魅力を感じなかったり、とにかく「消費」が前面に出ているという点ではまことに東京らしいという気はします。なにか買わなきゃいけないような気にさせられるというか、すべてが消費行動を前提に動いているというか。東京だけじゃなくて日本、世界もそうなんだろうけど、なんかもうこういう流れっていつまで続くのかなとしみじみ思いました。

連休中にセザンヌ展が見たくて国立新美術館に出かけたら、すごい行列。こりゃだめだとあきらめ、じゃあご飯でも食べて別な場所へ、と豚しゃぶめざして行くとお昼前には既に行列。撤退してひょこっと入った近くのアメリカンダイナーのサンドウィッチが美味しかったので救われ&幸せでしたが、人々の「ガツガツ感」に気圧されて、ものすごくぐったりしました。美術展なんかにたまに出かけるといつも思うのですが、絵をゆっくり見るというのは、特に人気のある・・・というより「話題になっている」ものだと、ほぼ不可能。すごい人の流れにギュウギュウになりながら、その流れに沿って人とひとの間からちょっと見ることができるだけで、芸術「鑑賞」なんかとは程遠い世界。来場者を観察していると、「美しいものを見たい、芸術に触れたい」という欲求というよりも、「話題になっているものを見ておかなきゃ」「これがあの有名な○○の絵」とか、そういう方々が8割くらいなんじゃないかと感じる。もちろん私だって芸術を理解しているわけでもなく、ミーハーな気持ちも多少なくはないけど、だけど美術館に足を運ぶのは「美しいものが見たい、素晴らしい精神が生み出した作品に触れたい」という“欲望”に基づいた行動であって、ただ「あの展覧会に行ってきた」「有名ななにかを見てきた」というアリバイ作りとは言わないまでも、芸術鑑賞にそういう消費行動的な動機で来られている方々の多さには、摩訶不思議な気がします。そういう方々はだいたい展示のなかの「ハイライト」の前で陣取り、その後ショップでお土産を買いあさっておられる傾向があるように思います。全員がそうだとは言わないけど。あの一種のさもしさというか、ある意味ハイエナのような群れはいったい何なんだろうという疑問が年々強まり、せっかく東京で暮らしていて文化芸術に触れられる機会に恵まれているにもかかわらず、ああ観に行きたいなあと思っても平日は仕事の身では、休日の混雑を考えるとためらってしまう。そう考えると、いよいよ何のために東京で暮らしてるんだということになってしまうんだけど。

グリーンスムージーは、身体のことを考えて、少しでも免疫力がアップすればと思って始めたので、本を買ってきて基本的にはそのとおりに作っていました。ただしお水はなるべく入れずに(フルーツとお野菜をできるだけそのままの味わいで摂りたいので)。食前食後は40分あけるとか、人参やキャベツはだめだとか、ハチミツや牛乳・豆乳は入れない等々いろいろ制約というかルールがあって、そうなのかなと思って律義にまもって作っていましたが、「グリーンスムージーを毎日作って飲んでいる」という人が「私は本は一切読んでません。だから人参もキャベツも豆乳も使います。もちろん色んな研究の結果、そういう決まりがたくさんあるんでしょうけど、普通に毎日の食事のなかでキャベツや人参も食べるし、そのあと果物も食べて、そしておなかの中で問題なく消化されるのに、どうしてスムージーになると『混ぜちゃいけない』となるんでしょうね?」と。「もちろん食べ合わせもあるし、胃腸の強さなんかは人によって違いますけど、あんまり捉われて自由じゃないよりも、楽しんで頂くのがいちばん身体にいいと思う」と仰るのに、なるほどその通りだと納得し、「これが絶対正しいスムージー作り」と思いこんでいた自分に気づかされ、ああ、いつのまにかすっかり「枠」にガッチリ捉われていた・・・と目からウロコがポロポロ。日々何に気を付けてるかって、「どんな情報も鵜呑みにはしない」ということを十二分に心がけているのに、グリーンスムージーでは本の著者の言われたとおりで疑いもしなかった。健康にかかわることなのに、いや、だからこそこの罠にはまってしまってたなあと、素晴らしい気付きを得ました。身体が弱ってるときは、藁にもすがる思いだったから。「こうしなきゃいけない」という「思い込み」は心や生活に歪みを生じるので、気付けてよかった。「世にあふれる情報や世間の価値観なんかに流されない」ということをいかに気を付けていても、こうして不意に心の隙を突かれるものなんですね。「自分は大丈夫」などという過信は絶対に禁物、いかに気を付けているつもりであっても、なお心しておかなきゃいけないという教訓を得ました。

そんなふうに多少揺らいでも、心の宝石箱をのぞくと、その輝きが自分の価値観を照らしだしてくれる。美しい生きざま。人の心の温かさ、厳しさに裏打ちされた優しさやただしさ。物質的なものではない、すべて人間の精神や行動が生み出した美の結晶。お金では買えない、「消費」とは対極にある、心の豊かさ。私にとっては、それが真実豊かな世界であり、いま私はここで生きている。