かくれて咲く花

~凛として~

本能のスイッチ

2011-04-19 21:08:56 | Weblog


震災から1カ月と10日が過ぎ、仕事帰りにスーパーに寄っても牛乳とヨーグルトがあるのに驚きつつ、東京に「当たり前」だった日常が戻ってきているようで、やっぱり前とは全然違う世界にいることを実感している。

ご飯を食べに行っても、周りがみんな原発の話をしている。不安とか心配とか、目には見えないけどそういうのが充満していて、いくら気にしないよう努めても、周りと自分に一線を画そうとしても、長期戦になると気分の波はあるし、気持ちの張りを持続するのは簡単ではない。みんなそうだと思うけど、だいたい1か月過ぎたくらいから、どっと疲れが出てくるのだそうだ。

地震のあと、1キロ太ってしまった。ストレスで食べてるからかな?と思っていたけど、「生存本能じゃないか」という人がいて、そうかもしれないと思った。週末の朝はヨーグルトと牛乳を確保するために早起きして買い出しに行くのが最重要任務になったし、前から食いしん坊ではあったけど、いつも食べ物の心配ばかりしている自分に、私の最大の執着は「食」だと気付いた次第。「おいしいもの」に対してだけでなく、「安心なもの」にもさらに神経質になり、野菜は心配だから愛知以西のものしか買わない。ただし、「とちおとめ」は別。これはもし仮に放射能の影響があったとしてもなお、私はこの苺を愛し食べたいからという愛と食欲に基づく判断。大好きな「とちおとめ」を食べることで寿命が縮まるなら本望だけど、野菜は西日本産を。私は理系はまったくだめなので、放射線量やらなんやらの安全性は、はっきりいってよくわからない。よくわからないから、直感という本能で判断している。もし仮に大丈夫だとしても、ちょっとでもいやだなと思うのであれば、口にしない。そういう「大丈夫かな」と心配しながら食べること自体がストレスになるから。

健康食品を売りにしているお店であっても、東北や北関東産の野菜が置いてある。この判断基準を聞いてみると、「契約農家さんから、国の規制値以下の自主的な検査結果が出ていれば、それをお出ししています。雨が降った日とその翌日は収穫していませんし、大丈夫です」と店員さんは言うけど、お気に入りの「おかか」のふりかけだけ買って帰った。やっぱり本能的に、避けられるものは避けたいと思うから。大丈夫だとか言われても、数値的にも安全とか理論的なことを説明されても、直感で判断する。もちろんこれは私の直感だから、間違っているかもしれないし、自分の責任でそう判断しているだけのこと。だから自分の判断が絶対正しいとは思っていないし、同じように思い考え行動するよう周りにおすすめしてまわっているわけでもない。人によっては「直感的に(も科学的にも)大丈夫」と思っておられる方ももちろんいると思うので、これを読んだからといってその判断を変更される必要はまったくありません。ただ自分の直感に従い、「自分はこう思うから、こうする」というのが私「うめ」のスタンスであり、「他人がそう思い、そうする」という価値判断も尊重したいと思っているので。

震災後・・・じゃないな、震災前からそうなんだけど、この情報過多の時代、いろんな情報があふれ過ぎていて、そういうのにほとほとうんざりしていたのだけど、特にこの震災後、もう疲れ果ててしまったというのが正直な気持ち。自分が知りたいと思って調べたことであっても、誰かが教えてくれたことであっても、日々接する情報の何が正しくて正しくないのかというのは究極的にはわからない。わからないことは悪いわけじゃなくて、自分でいろいろ調べてみて多角的に検討して、自分としてはこれが正しいんじゃないかなという判断をして行動していく自主性がうまれるし、「世の中にはわからないことがたくさんある」と知ることで、もっと勉強しなければと謙虚になる。ただ、この世のどこかに「絶対正しい」答えが存在していると思わないことと、そしてその確たる答えを自分の「外」に求めているうちは、いろんな情報に接するたび振り回されてしまうので、そのあたりは気を付けないといけないけど。すべて「ホンマかいな」と疑ってかかりつつ、「ホントかもしれない」と思っているくらいでちょうどいいと私は思うけど、この塩梅は人それぞれ。「人がこう言っているから」ということに影響を受け過ぎず、参考にしながら自分はこう思う、という立ち位置。それは人に聞くものでなく、自分で考えるなかで確立していくものだと思う。

私なんかがこうしてブログを書いているように、いまでは誰もが世界へ向けて「発信」することができる。誰でも好きなこと書いて発表できるということは、書いている本人は楽しいとか、これまで届かなかった誰かの心へ自分のことばを届けることができるという新しい喜びをもたらしてくれた半面、無責任に書かれたものも大量に流布されているのも事実。それは、なにがしかの「意図」が入っていたり、バイアスがかかっている情報が精査されずに無制限に溢れかえっているということであり、毎日生きているだけで、いくらこちらが見たくも知りたくもなくても、さまざまな情報が目や耳にどんどん飛び込んでくる状況に私たちは身を置いている。無防備でいては、どんどん流されるばかり。自分の「内」をしっかりと護り、「外」から入ってくるものに対する意識的なブロックが必要な時代になったと思う。入ってくるもの、もたらされてくるものにはもちろん有益なものや素晴らしいお導きもあるけど、いちいち全部に対応・反応していたら自分の時間がなくなってしまうし、時々は外界と切り離して自分の頭で考える時間をつくらないと、「自分」がどこにあるのかわからなくなってしまう。1日24時間、1年365日。そのなかで自分がやるべき仕事があり、やりたいことがあるのだから、情報の取捨選択、時間の使い方を自分でしっかりとコントロールしておくことがこれからは一層重要になると思う。「人を見たら泥棒と思え」と言っていいくらい、考える時間を奪っていく「時間泥棒」たちには要注意。

「本能」について書きたかったのに、なんか脱線してしまったけど。
“本能のスイッチ”みたいなのがあるとしたら、この天災によってちょっとギアが入った感じかもしれない。だからより人やものや場所などの雰囲気や「発するもの」に敏感になって、なんだか動物的になった側面も。人に感じる「居心地の良さ」に対する感覚は、ますます鋭敏になってきたし。だから人の「気」を察しすぎて、余計疲れるのかもしれないな。疲れてくると、この「自他の線引き」の意識のバリアが弱まってくるので、リフレッシュは大切、おいしいものも一層大切。なんだけど、体重が増えたのも本能を言い訳にしているような気がして不本意だ。本能の声に耳を澄ましつつ、自己管理はきっちりと。相反するものが、自分のなかに同居している。ああ、人間ってなんて複雑で面白い「いきもの」なんだろう。





ことしの桜

2011-04-13 19:19:31 | Weblog


満開の美しい姿を見せてくれた桜も、少しずつはらはらと花びらで街をピンクに彩りながら、葉桜へと姿を変えていく。東京は桜の木が多いので、わざわざ人の多いお花見などに出かけなくても、街を歩けば、いつもの風景のなかにほんのりとしたピンク色が増えているのに気付き、「あらあなた、桜だったのね」という出会いがあって楽しい。

梅が「凛然」なら、桜は「艶然」と表現されるのだそうだ。年に一度、つややかに咲く桜。おひさまに照らされても、夜桜のライトアップにも、どちらの光を受けても「艶」の舞を見せてくれて。そして短い舞台を終えると、花びらを落としてまた街はもとの風景に戻る。豪華絢爛に咲いていたかと思えば、あっという間に姿を消す桜。あんなに美しいのに、一年でその本当の姿をあらわすのはほんのひととき。そしてまた春がめぐりくるまで、自分が桜の木であると知られるのももしかしたら内心いやなのかもしれないと思うくらい、艶然たるピンク色の花はすっと姿を消す。また来年、この国に住む人たちの前に姿を現すまで、忍者が闇に吸い込まれていくがごとく街に同化し、また何事もなかったかのようないつもの風景に戻る。

ああことしも桜がきれいに咲いてくれたと、しみじみと嬉しかった。
「凛然」の梅と違い、「艶然」たる桜は、人の心を揺さぶる魔術があるのか、普段いつも歩いている道がピンク色に染まるなかを通り抜けていると、心がなんともいえない切なさでいっぱいになって。こんなにきれいなのに。こんなにきれいに咲けるのに、それがあなたの本来の美しさなのに、その美しさはどうしてこんなに期間限定なんだろう。咲いているときは皆がその美しさをたたえ、愛でるのに、散ってしまえば、またみんな桜のことを忘れて、日常に戻っていく。だけど1年365日のうち、10日か2週間くらいをのぞいて、ほとんどの日々は日常に溶け込んでいる。絢爛豪華なイメージと違い、本当はむしろ控えめな花なのかもしれない。

まだ寒さきびしきときに、春の訪れがたしかにこの先にあるということを教えてくれる梅の開花。そして、本格的な春到来を高らかに告げるのが桜。急に花開いたように見えても、一年のあいだ、ずっと準備をしている。日常の風景に溶け込みながら、次の春が来るそのときに、その美しい姿を見せることができるように。突然その姿を見せ始めるから、それまでの風景を一瞬忘れるけど、だけど桜の木はずっとそこにいた。なにもないところから、いきなり姿を現すのではない。ずっとそこにあり続けて、そして一瞬だけ、最も華やかな姿で街を彩る。桜並木を歩いていると、まるで異次元に迷い込んだようで。淡いピンクのやさしい色合いに包みこまれると、これまで流れてきた時間を思い、変わりゆくなかで変わらぬ大切なものが次々と鮮やかに浮かび上がってくる。満開の桜は、人の心の奥にある想いを解き放つ力があるのかもしれない。

誰もいないところで、静けさのなかで、桜との再会の喜びをかみしめる。
ことしも変わらずに、美しく咲いてくれた桜が愛しい。


☆写真はスタバの「さくらシフォンケーキ」と「さくらラテ」。シフォンケーキもラテもかわいいピンク色で、うれしくなる。塩漬けのしょっぱさと、控えめな甘さが程よく溶け合っていて、「洋」のものを身体に取り入れていながら、呼び起こされるのは自分のなかの「和魂」。桜は目にも、お口にも幸せを運ぶ


新旧、進級☆

2011-04-06 20:35:29 | Weblog


4月に入り、3.11以降はフリーズして、身も心も縮こまっていた状態が解きほぐされてきて、少しずつ物事が「動き出した」感じ。待望の桜も、ことしも美しく咲いて満開に「ご飯いこうよ」という話も、ようやく出てくるようになってきた。

新年度を迎え、すべての物事が「あたらしく」なる、日本の春

通い慣れたスポーツクラブも3月末で閉館し、4月から移籍先のクラブに通い始めた。少し場所は家から遠くなったけど、施設もキレイだしいろんなクラスがあって、通うのが楽しくなっている。初日はちょっと緊張してオリエンテーションに出て、なんだか中学から高校に上がったときのことを思い出した。あのときと同じく、「卒業」の感傷にひたるより、「入学」の方に心は向かっていて、「始まり」の方に集中している。ひよこステッパーとしては、ちょっとむずかしいステップのクラスに挑戦をはじめた。“進級”したクラスに、なんとかついていけそうかな、という感触はあるけど、まだまだ努力は必要。「できることだけやってそのレベルにとどまるよりも、ちょっと難しいと思っても、頑張ってついていく努力をしないとね。そうじゃないと、向上がないからね!」と先生にもアドバイスを頂いたし。「ステップが上手くなりたければ筋トレをしてください」と前のクラブの先生にも言われたし、引き続きパンプもがんばろうと思っている。しかしここでも、「パンプは筋トレの導入にしかすぎなくて、本当はそれだけじゃ足りないから、マシントレーニングもやった方がいい。現状維持では筋力は落ちていくだけだし、きれいに引き締めていきたいなら、楽にできるようになった時点で、その都度負荷を上げるようにして、向上を目指してください」とのアドバイスも頂いているし。キーワードは「向上」。努力なくして進歩なし。もっとステップ上手くなりたいとか、きれいに身体を引き締めていきたいとか、いまよりも上のレベル、たどり着きたい目標に向かってがんばっていきたい。まだプールは行けてないけど、水泳のクラスにも入ってみようかな。良く食べてよく運動してよく笑って、心身ともに健康をキープしていこう

ことしは桜に、例年以上に儚さを見ているけど、桜は去年と変わらず、また季節がめぐってきたから咲いている。いつもと変わらない姿。儚いようでいて、なんて揺るぎないんだろう。花冷えの夜道を歩きながら、ふと見上げると、新月から満月へ向かい始めの月が、細く細く、姿をあらわしていた。歩道沿いの桜とその細長い月の光が神秘的で、思わず向けた携帯のカメラではキャッチしきれなかったけど、とても素敵な一瞬だったので、しっかりと目に焼き付けた。夜明け前のような、そんな雰囲気が満ちてきているのを感じている

「これまで」とは違う、「まったくあたらしいなにか」が始まる