かくれて咲く花

~凛として~

試合開始前

2010-10-28 22:27:10 | Weblog


一昨日から、東京は一気に冷え込んできました
このあいだまであんなに暑かったのに、昨日からハーフコートを着ています。ストールをぐりっと巻いて。今日なんか最高気温が11℃ということで、もうタートルですよ本当に、ついこのあいだまで半袖着てたのに!!!この急激なというか劇的な寒暖の差、いやはやなんとも・・・

とはいえ、もう10月も終わりに近づき、今年もあと2カ月をのこすのみ。time really flies!!!
アメリカから帰ってきてもうすぐちょうど10年になるし、なんか節目感もある。というわけで、気温も冬だし、早くも年の瀬気分が高まってきて、今年2010年を振り返ったり、来し方を振り返りつつ、これからどうしたいのかということをつらつらと考えているところです

ものを書くということは、考えていたことをまとめるときもあるけど、書きながら考えがまとまったり、思ってもいなかったところへ導かれるという面白さがある(私の場合はだいたい後者)。今年はどんなことを書いていたのかなと読み返してみると、過去の自分が未来の自分(いまの私)にアドバイスしているような文章がいっぱいある。なるほどそうですねと感心したり、「これがまさに処方箋」みたいな驚きがあったり。自分で書いておきながら変な感じだけど。

全部わかってるんですよ。わかってるの。どうしたいのかも、どうすればいいのかも。
だけどどうしても、踏み出すのが怖い。「もうかなり強くなったし、大丈夫」と思っていても、またスティンキーが現れたら、やっぱりまた姿を消してしまいそうな、消え入ってしまいたい自分がいる。私の中のニンニは、まだ鈴をチリンチリンと鳴らしているような状況で、脚だけはかろうじて見えているというような感じで、すくみあがっている。ムーミンママをはじめ、ムーミンたちがやさしくしてくれても、まだミイのことばにも傷ついてしまう。森の中に遊びに行っても、スティンキーが出てくるかもしれないと思うと、せっかく見えかけていたシルエットも、また消えてしまいそうになる。

ミイの言うように、たたかうことを覚えないと、顔をもつことはできない。
顔を取り戻せるまで、あともう一歩。踏み出さなければならないとわかっている。だけどこわい。何が?傷つくのがこわい。自分の心のとてもやわらかい部分をねらって、イジワルな人たちから攻撃されるのがこわい。もうあんな思いはしたくない。

だけどこれまでの戦闘で受けてきた傷の数々は、経験値を重ねてきたことでもある。ぼうけんを始めたばかりの頃は、フバーハもマホカンタもおぼえてなかったし、炎攻撃に耐性のある「みずのはごろも」も装備していなかった。攻撃力は相変わらずあまりないけど、いまは昔の自分と違う。アメリカに渡って、帰ってきてからは自分がtoo assertiveなんじゃないかと恐れるあまり、ニンニ状態になっていたけど、無防備な状態でまともに攻撃を喰らって「おお!しんでしまうとはなさけない。そなたにもう一度きかいをあたえよう」を繰り返して、レベルアップに努めてきた。なのに、次の町めざして洞窟を攻略するのがこわい。

心がすくみあがりそうになっても、いまはたよりになる仲間もいるし、さらに強力な防具「ひかりのドレス」は、ぼうけんを続けていかなきゃ手に入らない。少々傷ついたとしても、とにかく踏み出さないと始まらない。前に進むには、いつまでも、同じところでぐるぐるとしていることはことはできない。ちょっとづつでもいいから、歩きださないと、新しい呪文も覚えられない。

腹決めて、やらなければいけないことをやらなきゃ。清水から飛び込む覚悟で。

26日付朝日新聞の「逆境をゆく」で紹介されている、たくさんの名言。


「こけたら立ちなはれ」(松下幸之助)

「あきらめたらそこで試合終了だよ」(スラムダンク)


ぐっとくる。なかでもこれがいちばん胸に響いた。


「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気をもった者だけだ」(ロベルト・バッジョ)


「ボールは友達、こわくないよ!!」という翼君のことばを思い出す。いまのニンニ状態の私は、キョウレツなシュートを受けたトラウマから、足がすくんで動けないGK森崎君と同じ状態なのかもしれない。

だけど試合は出なきゃいけない。出ないと上手くならないし、プロへの道は開かれない。
誰も私の代わりにはなれないし、これまで練習もたくさんしてきたんだから。

もうすぐ試合が始まる。始まったら、ベストを尽くすことに集中するだけ。
神様、どうかお守りください


毀誉は他人の主張

2010-10-24 22:56:21 | Weblog


フィギュアNHK杯

新しい真央ちゃんのプログラムが楽しみで、ドキドキしていた
SPの黒い蝶々のような衣装も、フリーでの背中の大きく開いた薄いパープルの衣装も、昨年のマスカレード&鐘と違って、エレガントな印象。スピンもスパイラルも美しく、ステップも難しそうなのを簡単にやってるように見えたけど、目下矯正中というジャンプへの迷いが、素人目にも分かるほど。結果、真央ちゃんのジャンプが決まらない、「真央惨敗」8位に終わるということにスポットが当てられ、そして村上佳奈子ちゃんという新星誕生という、なんとなく予想していた取り上げられ方に。もちろん佳奈子ちゃんもかわいらしいし、フリーはちょっと緊張していたようで残念だったけど、シニアデビュー戦で3位という結果が出たことは嬉しいし、これからが楽しみな選手。だけど、試合後の真央ちゃんの表情を見ていると、ファンとしては真央ちゃんに対する心ない批判が起きることに、やはり胸の痛みを禁じえない。

よければ絶賛され、悪ければ叩かれる。
プロとはそんなものなのかもしれないけど、だけどこの世間の毀誉褒貶に付き合わざるを得ない運命にあるすべての人たちに、心からの尊敬と、エールを送りたいと思う。

本当に人は、他人のことについて、無責任に、好き勝手なことを言うものだ。
フィギュアは素人の私でも、キレイだなとか優雅だなとか、そういう自分が「美しい」と感じる基準というのはある。新体操を見てもシンクロを見ても同じことを思うのだけど、小顔で手足が長くて、すらっとした体型で、体がやわらかくて高い技術を持っていて、上品かつダイナミックな演技をする選手を私は美しいと思う傾向にあるようだ。真央ちゃんにひとめぼれしたのも、あの体のやわらかさをいかした、素晴らしく美しいスピンやスパイラル、そして氷の上で軽やかに舞うようなステップ。それだけで十分魅了されたというのに、さらにすっごいジャンプもできてしまううえ、明るく頑張り屋さんで・・・というのにますます感動してファンになった。だけどうちの母などは真央ちゃんをあまり評価しなくて、スキニー体型を「針金みたい」と評したりするのだけど、母はもっと肉感的な方が好みであるので、それは美的感覚の違いだから仕方ない(→感情的なケンカに発展したこともあるほど)。だけどそういうのも含めて、もう本当に見ている側は好き勝手なことを言う。ジャンプが矯正中であることについても、いまさら基礎から見直すのは遅すぎるだとか、佐藤コーチで大丈夫なのか等々、いろんなことが批判のタネになり、ああでもないこうでもないといろんな言説が流れる。どれが本当なのか私にはわからないけど、結果が出なければ厳しい批判を受け、結果が出たら持ち上げられ、周囲の雑音もかまびすしい。試合はもちろん、試合以外のことについてもいろいろ言われる。私なんて、想像しただけでも神経がやられそうなのに・・・絶不調といわれたシーズン当初から、課題を乗り越え、修正して、さまざまな批判(心ない中傷も含めて)と金メダルを期待する周囲のプレッシャーを、あの細い肩にすべて背負いながら、オリンピックに向けて練習に練習を重ねて、SPでもトリプルアクセル2回成功、フリーでは少しミスはあったけど素晴らしい「鐘」を披露して銀メダルという結果を出した。真央ちゃんの努力と精神力に、改めて尊敬の念を深くする。

最近は私も、ちょっと言われたくらいでへこむことは少なくなったけど。
だけどやっぱり、悪意を向けられるのは気分のいいことではない。こっちに非があったとしても、こっちに非がなかったとしても、とにかく人はいろんなことに難癖を付け、気に入らないとワルクチを言い、うっとおしいことこのうえない人種が世の中には存在する。だけどまったく誰の批判も受けないという人生は存在しない。引きこもって、自分の存在を消してしまわないかぎり、外に出れば誰かに会い、気に入ったり気に入られたり、気に入らなかったり気に入られなかったりするものだ。だから、自分が気に入らない人から「あんたのことが気に入らない」と言われても、ああ自分はこれでいいんだなと安心するようにしている。自分が好きな人からそう言われたら考えるけど、こっちから見て好ましくない人の一方的な要請にこたえることはない。そう思えるようになっても、「ああ私、よく思われてないんだな」と思うところに身を置くと、やっぱり多少はしょんぼりとするものだ。

先日、苦手なプレゼンをやらなければいけなくて、人前でしゃべることが苦手なうえ、うまく考えもまとめきれなくて自分でも「ヘタクソだな」と思い、考え方が違う人たちが多いことも分かって孤立感を味わったけど、尊敬する方が「レポート、よかったよ」とほめてくださったことで、すごく救われたということがあった。多くの人が分かってくれなくてもいい。分かってくれる人が分かってくれている方がずっとうれしい。そして私はやはりしゃべるより書く方が向いているんだ。そんな前向きな気持ちを取り戻し、ちょっと心が温まって、弾んだ気持ちで帰路についた。

真央ちゃんにも、そして多くの尊敬する立場にある人にも、そういうクッションになるような言葉を贈りたいと思う。応援の気持ちを送ることで、無責任な刃物のような言葉や悪意を跳ね返したり、衝撃を和らげることができるといいな。どんな強そうに見えても、誹謗中傷を受けて傷つかない人なんて、世の中にはいないと思うから。


真央ちゃんへ。
試合ごとに完成度が高まり、そして真央ちゃんのベストが出せますように。真央ちゃんの目指す「パーフェクトな演技」を楽しみにしています


ニンニ

2010-10-18 20:17:08 | Weblog


朝、同じようなニュースばっかりでうんざりするとき、TVKをまわす。
8時からハウス世界名作劇場やニルスのふしぎな旅、いまは「楽しいムーミン一家」をやっていて、心あたたまる

ムーミンは愛嬌のある登場人物は知っていても、お話を読んだりアニメを見たりしたことはなかったので、オープニングの歌があまりにも暗いので(「ねえムーミン」ではない)、「朝なんだし、もうちょっと景気のいい曲はないのかね」などと思っていたのだけど、ムーミンの世界の奥深さに気付くと、「ああ、だからこれでいいんだ」と納得している。

このあいだの「ニンニ」という女の子のお話には、深く感じ入るものがあった。
トゥーテッキが連れてきた、あまりにも悲しい思いをしすぎて姿が見えなくなってしまったという、ニンニ。首に付けている鈴をチリンチリンと鳴らして、自分の存在を知らせたり、返事をする。一緒に住んでいるおばさんに、毎日あまりにも皮肉を言われ続け、悲しみのあまり、文字通り「消え入って」しまった。胸がつぶれそうになりながらも、必死で耐えてきた彼女のいたたまれなさ、「わかるなあ」と・・・

ムーミン一家、特にムーミンママがニンニを優しく受け止め、大切にすることで、怯えきっていたニンニの心を暖めていくうち、ニンニは少しづつ姿が見えるようになってくる(ちなみにムーミンママが“おばあちゃまの手帳”に書いてあったという「姿が見えなくなってしまったとき」用の秘伝のお薬をつくってあげたりする。そんな場合の処方箋まで書いてある手帳ってすごいっっ)。ムーミンがニンニと一緒に遊んで、元気が出るようにと心配りをするなか、ニンニは少しづつ元気を取り戻して、顔以外は姿を取り戻す(ママに可愛いお洋服をつくってもらうのも、女の子としてはとってもうれしかったのだと思う)。ところが、やっとみんなと遊べるようになったニンニに、森に住むスティンキーが、かくれんぼをしているニンニに、「いいかくれ場所がある」とだまして、岩の間に閉じ込めてしまう。気が弱すぎて、蚊の鳴くような声しか出なかったニンニは、探しに来たムーミンたちに「ここよ!!」と助けを求める。なかなか大きな声が出なくて、ムーミンが気付かない。必死の思いで、ニンニは叫ぶ。「私はここよ!!助けて!!!」と。ニンニが見つかった安心感と、ニンニが大きな声を出せたことに喜ぶムーミンたち。そして、海に遊びに行ったニンニは、初めて見る海に「海が大きすぎて、広すぎてこわい」としくしく泣き出してしまうが、ムーミンパパがイタズラでママを海に落とそうとするのを、遊びと知らず本気で怒り、お父さんのしっぽに噛み付いて止める。そこではじめてニンニは顔を取り戻す・・・めでたしめでたしというお話。

海を見て泣いてしまうような感受性の鋭いニンニは、おばさんの皮肉を日々まともに受け止めて、心が苛まれるうち、自分が“消えて”いってしまった。それは「気の弱さ」とも言ってしまえるけど、繊細な人は、たとえばミイのようにズバズバと物を言う人のことばに、悪気はないと知っていたとしても、「あんたが早く元気が出るようにと思って言ってるのよ」と言われても、やっぱり傷ついてしまう。それはその人の性質だから、大切にしてあげないといけない。だけどあまりにも傷ついてばかりいたら、本当にどこにも行けなくなってしまうので、ある程度は心に「よろい」を装備し、ドラクエで言う「ぼうぎょ」を固めないといけない。それにはやはりフィールドに出て、モンスターと戦って経験値を積まないと、いつまでたってもレベルは上がらない。そういう最弱キャラは、一番うしろで仲間に守ってもらいながら戦闘に参加し(子どもの世界では「遊び」かな)、徐々に社会性を身に付けないといけない。

幼稚園に上がる前くらいのとき、私はまさにニンニみたいな子だった。当時はまだ妹が生まれてなかったので、母といつも一緒にいて、近所の子どもたちの中にいきなり放り込まれても、どう接していいかわからない。子どもは容赦ないので、やさしい子はいいけど、気の強い子や勝気な子の言動にすくみあがり、子どもだけでなくまわりの大人のちょっとした言葉にびくびくしたり、傷ついたりしたことは、幼心にもキョウレツに印象にのこっていて、いまでも「人が怖い」と消えてしまいたいニンニは私の中にたしかに存在している。我の強い人や、相手のことをおかまいなしに言いたいことを言う人などに出会うと、とにかく「にげる」を選ぶ。それでもこちらが弱いと、まわりこまれてしまい痛い目に遭うので、逃げてばかりではだめだけど、そういう他人の心の芝生にザクザク踏み込んでくる野放図な(→私にとっては苦痛な)人間関係の中にいると、実際消えてしまいたくなるので、ニンニの状況はわかりすぎるほどわかるのであった。

原作には、こんなミイのことばがあるらしい。


  「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」


これは、真実だと思う。
傷つけられるのを恐れて、引っ込んでばかりいると、自分の感情を表に出すことがない。ニンニはママやムーミンたちの優しさで自分の存在を認めてもらい、徐々に姿が見えるようになるけど、声を取り戻したのも、「助けて!!!」と自分が困っていることを必死で伝えたこと、「顔」を取り戻したのも、ムーミンパパがママを海に落とそうとするのに本気で怒ったこと。「怒り」というのは、全身を貫く激しい感情であり、あんまりいつも怒ってばかりだと疲れるけど、怒りの感情すら閉じ込めてしまっていたニンニがそれを取り戻し、顔を回復するというのは、自分の存在や自分の大切な誰かが不当に扱われているという「自尊心の回復」であったのだろう。過剰な自尊心はよろしくないが、自尊心のなさすぎるのも問題がある。こわがりで、だけどそれはやさしすぎるほど感受性が鋭いゆえでもあり、だからこそムーミンママのことを自分のことのように大切に思い、身を挺して守ろうとする。自分の中にひそむ熱さに気付いたニンニは、その自分が受けてきた心痛のゆえに、人の痛みがわかるやさしい子、そして理不尽なことには毅然とした態度ができる子に成長していくと思う。

ちなみにスティンキーは、ムーミンたちにきっちり仕返しされます(「目には目を、歯には歯を」でニンニにしたことと同じことをされる)。幼少期は孤児院で育ったというムーミンパパがニンニと少し距離を置いていていたのは、厳格な環境で育ったからこそ、ママの愛情がいちばんのお薬だと思ったのかもしれない。うーん、ムーミン、実に深い人間洞察に基づいていて、教訓的でもあり、人の感情の機微をすくい上げるような細やかさがある。朝からこんな深遠な子ども向け番組があっていいのだろうか。



chin up!!

2010-10-12 22:43:59 | Weblog


自分の課題に向き合い、やらなければいけないことの多さと大きさに直面
3連休明けにお天気も低気圧という外的要因も加わり、なんだかどよ~んとして出勤した。

基本的には楽天的で、のんきな性質なので、朝を除いては(→低体温・低血圧のため)だいたい一日気分は朗らかなのだけど、こういう低調な気分の日というのはここ近年、一年を通じてあんまりない。めずらしーなあ、と自分でも思いながら、ちょっと壁にぶちあたった感があってしょんぼりしていた。そんなとき、お花を買いに行ったら「バラ祭り」が絶賛開催中で、色とりどりのオールド&モダンローズの数々に、一気に癒されにこにこしながらついでにコンビニに寄ったら、デイリーの矢野引退特集が目に入り、即購入。泣きながら読みましたが、矢野がトレードの悔しさをバネに頑張ってきたこと、チームを思い家族を思いながら、日々本当に努力を重ねたことがいいプレーに結実したことに改めて感銘を受け、とにかく自分も目の前のことからひとつひとつこなしていくしかないと、気持ちがシャンとなりました。これほどの人がこんなに努力しているのに、私のような凡人はひたすら努力する以外にない

突然りんごのコンポートを作りたくなり、りんごをむいていると、なんか無心になってきて。
たくさんやることがあっても、押しつぶされずパニックにならずに、丁寧にこなしていけばいい。そんなふうに、気持ちが落ち着いた

ものを書くということは、「内に向かいつつ外に開く」作業だと思う。
自分が考えることを深く掘り下げていく。あるいは、見たもの聞いたものをどう感じたか、心の水面に映ったものを描写する。すごく奥深くて、どんなに追求しても終わりがなく飽くこともなく、永遠に進化、あるいは深化していく、この文章を綴るという「ものづくり」を、私はとても愛しく思っている。

文章はまるでことばのパズルのようで、無限の組み合わせがある。ひとつひとつことばを紡いでいきながら、世界には数多の言語があるけど、ひらがなカタカナ50文字に加えて、漢字も駆使できる日本語を母語に持ったことは、幸せ極まりない。だけど言語による言い回しの違いも好きだ。アメリカ人の友達が、なにがあったのかは忘れたけど、悲しい気持ちに沈んでいた私に、“pull your chin up”と言ってくれた。「顎を上げて→元気出して」という表現の仕方に、英語の魅力を感じたことを覚えている。たしかに気持ちがふさいでるときは下を向いているもの。

ちょっと気分が低調なときは、chin upして、そして空を見上げるとさらにいい。
たとえ曇りの日でも、おひさまは確かに雲の向こう側にいて、照らしてくれているのだから


本物を、少しだけ。

2010-10-07 23:28:17 | Weblog


『路地恋花』(麻生みこと)を読んだ。登場人物たちの恋愛模様もほのぼのと愛らしく、また人情の機微が心地よく、そして職人さんたちのものづくりの姿勢、“こだわり”の描き方、そして京都の路地という迷い込みそうな(というか、方向オンチの私では到底たどり着けないような)長屋の日常を淡々と、だけどほんのりとした温かみのある距離感で描いていて、大変好ましい。お客さんの希望と要望、そして「なぜ、これをつくってもらいたいのか」→「本当はこうしてほしい」という心の奥の思いを汲み取り、それを作品に反映させていく。もちろんこんなやり方じゃ大量生産は無理。だけど本当にひとつひとつ丁寧に、心をこめて仕上げていく。出来合いのものとは違う、手作りのオーダーメイドの良さは、「こういうのがほしかった」という思いが引き出されて、そしてそれを見事に自分好みのかたちにしてくれたという感動から生まれるのだろうと思う。自分が納得のいく作品をつくるため、ものすごい集中力と妥協のなさをみせる職人さんの心意気というか、心意気なんていう、なんか気負いが入ったようなことばは失礼にあたるような、「変なものは絶対に出さない」という自然なプロ意識というか。こういうのを持っている人に共通する清々しさに憧れるし、またそうありたいと思う。

ゴディバの、たしか広報の人だったと思うけど(ヨーロッパ人)、「私は毎日チョコレートを食べます。ですが、多く食べる必要はありません。本当にいいものであれば、ひと粒で十分満足できます」と言っておられた記事を何かでよんだことがある。自分の売っているものに対する自信と自負心が力強く、また「本当にいいものを一粒」という流儀も素敵。「いいもの」は必ず手をかけたものであるし、時間も作ってくれた人の労力も大きいから値段も張る。そのクオリティが値段と自分の好みに見合っているかを見極めて、「いいもの」を選びたい。たとえばゴディバのショコリキサーは¥560。スタバのクリームブリュレは(トール)¥460。クリームブリュレは結構美味しくて気に入ったけど、なんか値段に釈然としないものを感じた。ショコリキサーと100円しか違わないって・・・個人的意見だけど、スタバやタリーズなんかは、すべての商品が100円高いと思う。ショコリキサーとは300円くらい値段違ってもいいように思うし、アメリカで買ってたときの記憶があるからかもしれないけど、なんかなあといつも思う。甘くないし。ちなみに私はヘーゼルナッツラテを日本でも注文し、「全然甘くないんですけど」と3回突っ返したことがあります。アメリカはもっとバリっとわかる甘さだったのですが、これは帰国直後だったため。3回突っ返して、3回フレーバーを追加してくれてもなお甘くなかったところをみると、シロップの種類が違うのかもと諦めいまは文句もいわずに飲んでますが、時々お砂糖を足してしまいます。身体に悪いと知りつつ

ともあれ「安物買いの銭失い」はしなさんな、「いいもの」を買って大切にしなさい(但し「自分が出せる範囲のお金」で)、と口酸っぱく母に言われた意味が年々よくわかる。何か買おうとするとき、最初は直感で手に取るけど、つい頭でソロバンはじく自分がいる。そのクオリティが値段に見合っているかどうか、それは自分の感覚と好みとをすり合わせ吟味する作業なのでおろそかにできない。そうやって、「いいもの」選んで買い、つくる人たちを大切にしないと、「本物」を生み出してくれる職人さんたちがいなくなっちゃうもの。「ものづくり」の心を失わせてはいけない。「いいもの」をつくり買う方が双方にとってハッピーなのだというのが主流になってほしい。

大事なのは、量じゃなくて質。本当にいいものは、たくさんなくても満足できるもの。抱えきれないほどの「ちょっといいもの」なんかは私はいらない。「本当に自分が気に入っている、いいもの」を、両手で包み込めるぶんだけで十分。本当に大切なものは、そうそうそのへんに転がっているものでもないし、大事に愛おしむことができるのは、両手の掌のなかで精いっぱいだと思うから。


「合わない」

2010-10-03 23:54:24 | Weblog


早くも10月。あっ!!カレンダーめくらなきゃ

さあ、一枚めくったところで書き始めましょ
最近負荷を上げた筋トレの成果を少し感じつつ、もうちょっと伸ばしたいことを先生に相談すると「楽にできるような負荷でやっていては意味がありません。もっともっと!!重いのできるはずですよ」と言われ、いまの限界突破をめざしてがんばっている。エアロビクスの井村雅代(とひそかに呼んでいる)先生も、「まずなりたい身体をイメージすること。そしてあとは努力!!!」とのアドバイス。久々に再開した水泳は、最初はヨタヨタと泳いでいたクロールも、筋トレのおかげか、徐々に伸びてきた感じがする。しかしバタフライに挑戦している母には負ける。でも新しいこと、いろんな分野で始めていきたい気はしている。まあ、今後の挑戦したいことのひとつに置いておくとして。

あんまり大勢の人とまじわるのが苦手なのだけど、自分に関心のあることを勉強しに行った先なら、お友達ができるかなと思って出かけても、ああ、やっぱり・・・合わない

自分が狭量なだけなのかもしれないと思うけど、ああこの人たちと仲間にはなれないなというのは、最初から分かっていたことなのだけど、改めて「やっぱ合わないなあ」と思いながら帰るのは、多少残念なこと。本当に、直感は正しいと言うか、最初に「これは違う」と思ったものや人は、やっぱりだめですね。理由なんか説明つかないんだけど、この人(たち)と仲良くなれそうな気がしないというのは、第一印象で分かっている。でもまあ、そこで勉強することは自分にとって必要なことだから、淡々とやっているけど、なんというか独特の内輪意識が形成されつつあって、絶対にそこには入らないでおこうと、妙な決意が胸のうちに湧いてくる。

だけど私と合わないからといって、別に彼らが悪い人であると言っているのではない。悪い人たちじゃないんですよ(含意:いい人だとも思ってない)。でも別に彼らを否定する気はない。そういう人たちも世の中にはいるんだな、という感じ。むしろ自分に「合わない」ということを認識させてくれることで、自分にとっての居心地のよさや一緒にいて快適な人たちとはどういう人たちなのかということを明確にしてくれる、貴重な存在でもある。自分とは、大切にしているものが違うから合わないのは仕方ない。自分なら踏み込まないな、というところにガンガン入っていくのも入ってこられるのもOKというのは、ある種度量の広い方々なんだろうと思うし、自分なら多少の遠慮が働くな、というところに物おじせずガンガンいけるというのは、ある種の美点とすべき面なのだろうし。ただ好みの問題。私はそういうのは好きじゃない。そこまでは別にいいんだけど、何がいやなのかというと、同種の人間以外をなんとなく排除するような雰囲気を形成していること。こういうとき、自分はその場に一緒にいても、意識は完全に違うところから見ているという感覚がある。「同調」を求められる雰囲気にあって、同調してないから浮いてしまう自分。それをまたどこか冷静に見ている自分がいる。ああ、また入っていけないな、と。

別なところだけど、「イヤでイヤでたまらない」場所に勾留されていたとき、遊びに来てくれた友人が気分転換に連れ出してくれて、「もう、あんたが浮きまくっとったんは一瞬でわかったわ。でもあそこになじんでる方がおかしいし、全然気にすることないわ」と言ってくれた。そのときは友人の心遣いが本当にうれしく、熱く語り合い盛り上がって楽しいひとときを過ごしたのだけど、いったいこの差はなんなんだろうと思った。まるで世界が違うというか、その場所があまりにも重く低いところであればあるほど、「天使の梯子」が降りてきてスッと天上へ連れ出してくれたような感じ。違う場所、自分が安心できる場所があることを知っていれば、「合わない」場所に絡め取られて、そのいたたまれなさに必要以上に心が苛まれることはない。多少悲しい思いをするのは、人間である以上仕方ないけど、まあ別にどおってことはない(→致命的な影響はない)レベルのこと。

なぜなら「合わない」ということにいい悪いはなくて、単に「自分には合わない」だけであって、周りがよくて自分が悪いということではないから。もちろん逆も然りで、自分がよくて周りが悪いということでもない。単に「違う」のだということ、そして「違う」ということに善悪はないということ。その違いをお互いに尊重していれば、平和に共存していられるのに、この世ではその「違い」を許さない雰囲気をつくって弾圧したり、自分が正しい(と思い込んでいる)価値観と違った人を見つけては裁きたがる人がいる。そういう人たちは、「あの人は間違っている」と裁くことで「自分は正しい」と安心を得ようとするのだろう(「許せない」という正義感を、そういうところに投下するのは生産的なことには思えないけど、それは私の価値観だ)。第三者的に見れば、「その人から見たら“間違っている”と見えている」、ということなのだけど、「その世界」にいる人たちはその価値観を共有しているため、「違う」人がその中にあらわれると、その違いを認めると全体の結束というか、価値観が揺らぐから困るから異質・異端を排除しようとするのかもしれないけど、とにかくあの、なんというか井戸からあがってきたばかりの辛気臭いオバケがベチョ~っと取り憑いてくるような、「ここではこうするべき/これが常識→だからそれに合わるのが当然」という脅迫に近い「同調圧力」は、私は体質的に受け付けない。一刻も早くこの場を逃げ出さなくては、と思うことの方が多い気がする。どこへ行っても。

だけど「全体としては水が合わない」と感じるところでも、そのなかで個別に仲良くなれる人もいて、そういうのは本当にうれしい出会い。私の好きな人たちはだいたいみんなそういう感じで仲良くなった人たちだ。砂金を探すような出会いなだけに、しょっちゅうそう大切な人に出会うことはないけど、本当に純金な人たちばかり。circle of friends、というのは私の人生においては当てはまらないことばの一つなのだけど、いろんなところに個別に羽を休める場所がある感じ。そもそもどこかに所属していること、決まった人間関係の中にいることが苦手で、群れるのがイヤだから、「輪」の中に閉じ込められるようで息苦しくなる。いつもどこかへ飛んでいく自由を確保していたい、はぐれ鳥というか自由人な人生、friends are just frineds, no matter where we areという感じ。

合わなきゃ違うところへ飛んでいくまで。安心して羽を休めることができる、大切な人のところへ