かくれて咲く花

~凛として~

さくら咲く☆

2014-03-30 13:57:06 | Weblog

気が付けば桜が咲き始め、3月もおしまいに近づいている

悩んで結論を出したら異動のあれやこれやでバタバタと日々は過ぎ、机を片付けて荷物をまとめて、関係各位にごあいさつ申し上げて、親アヒルにはいちばん言わないといけない、また言いたかった感謝の気持ちをお伝えできてホッとした。しかし「お元気で」と言いながら“今生の別れ感”がいまいちなかったので、またこのひととかかわることになるのだろうか、という嫌な予感はしないでもない。まあ、一応プラムの育ての親だからしかたないけど・・・

ともあれ死ぬほどストレスフルな環境から解放されたことで心は一気に軽くなり、もうストレスからお酒に走ることも甘いものに手を出すこともしなくていいというのは身体にとってもよかったと思っている。これ以上はもう無理だ、と心底思ってたから。

4月から行くところがベストなところなのかというと、それは正直わからない。大丈夫なのか、と心配する声もある。だけど私はもうなによりこのストレスが耐え難かったので、いったん退避というか、そういう場所を提供してくれたことには感謝しているし、そこからまた自分で自分の道をつくっていくだけだと思っている。りっぱに成長して、親アヒルへの恩返しとしたいとも思ってるし、助けてくださった方々へのご恩も胸にしっかりと刻んで、きちんと仕事をすることでご厚情に報いたいと思っている。

そして私「うめ」(プラム)をいつも温かく励まし助けてくれている大好きで大事な人たちに、改めて心よりお礼申し上げます。いつもほんとにほんとにありがとうみんなのヘルプとサポートがあったから、なんとか乗り越えてここまでくることができました

心の翳りが表情に出ていたのに気付いてご心配くださっていたある方は、「あなたはいつも輝いていないといけない人だよ」とおっしゃってくださった。いろんな方々にご心配をおかけしてしまった、ということは本当に情けなく、またそのお心の温かさにも涙が出て、たくさん泣いたぶん、そしてやさしくしてもらったぶん、また笑顔に戻って自分が受けたやさしさ温かさをまわりに循環させていかなきゃ、という気持ちを強めてくれた。

人の悪意の恐ろしさも、知らなかったらやっぱりバランス悪いままだっただろうな、というのも実感。自由やさしさ思いやりは決して当たり前のことではなく、この世を照らす光であり、自分もいつもそんな発光体でいたいと思う。そしてお酒に溺れたり、どんな理由であれ働くことができないなんて弱い人間だからだ、とどこかで思っていたけど、自分だってその一歩手前まであやうくいくところだったことで、精神的に追い詰められたら人間はこんな簡単に転落しうるものなんだ、ということが分かって、自分はなんて傲慢だったんだろうと反省している。

いろんな思いをくぐり抜けてもなお、リルル(@「のび太と鉄人兵団」)のことばどおり「人間は、悪い人たちばかりではありません」と心から言えるのは、もちろん悪い人たちもいっぱいいるけど、その一方でこんなに優しく温かい人たちもいると知っているから。ひとりでもいい人の存在を知っていれば、人間全体を否定することはできない。極端に走ったり、全否定するような人たちは、きっといいお友達がいないんだろうし、悪意に染まり人に意地悪をしたりするような人たちは、間違いなく幸せじゃないんだろう。

去年は桜が咲いていたことも記憶にないくらい心の余裕がなかったけど、ことしは穏やかな気持ちで、咲き始めた桜さんたちに「こんにちは」とあいさつしながら歩いている。2年ぶりの再会、のような感じだけど、1年のうち春の一時期だけ美しく咲き誇るために、見えないところで桜はきちんと栄養をとり、一年のサイクルをこなして備えていたんだものね。だから私「うめ」も、たくさん心に栄養をいただいたんだから、美しく咲かないといけない。

梅も桜も、同じバラ科でございますから


続・アヒルの子の冒険

2014-03-25 20:15:00 | Weblog

前段はこちらを、関連はこちらをご参照ください

このところずっと、アヒルの子プラムは真剣に悩んでいた。

いよいよ親離れすることが決まり、自由になれることが心から嬉しく、これからどこに行こうかなとあたらしい未来をわくわくしながら考えていたところ、「あなたの預け先はもう決まってるから」と親アヒルから申し渡された。プラムは自分で自分の道を決めたかったし、アヒル村よりもっとずっと遠いところへ行こうとずっと思っていたので、「違うところに行ってみたい」と保護者の思惑を断り、羽をパタパタさせて、飛び立つ準備を始めていた。

村を出るまえに、お世話になったひとたちにごあいさつしていかなきゃと、わりと義理堅いところもあるプラムは、むずかしいことをいつもわかりやすく教えてくれた、尊敬するお師匠さまのところに、「実は旅立つことになりました」ということを伝えるため、たずねて行った。お師匠さまはプラムが親アヒルのもとを離れるということはすでにご存知だった。

師「まあおかけなさい。それで、旅立つってどこに行くの」

P「まだ決めてないのですが、この村から出て、違う世界に行きたいと思っています」

師「具体的に行き先は決まってるの」

P「急に家を出ることが決まったので、いま考えているところです」

師「それじゃあ、いったんそのおとうさんの言うところに身を置いて、そこでどこに行くかゆっくり考えればいいじゃない」

P「でもこのままこの世界しか知らないでいいのかという気持ちは、ずっと前からあって・・・」

師「それはわかりますよ。だけどそんな急に飛び出していっても、なかなか世の中はきびしいですよ。あせって決めるよりも、こういうことはじっくり考えて結論を出したほうがいいのではないですか」

P「うう、家でもおなじことを言われているのですが・・・」

お師匠さまがやさしく諭すように、“預けられ先”でやるべきこと、ミッションはこういうことなのですよと説明してくれるうちに、厳格な親アヒルや預かり先の使者から聞いた話とは全然違う内容なので、プラムは「そういうことだったのか、それも面白そうだな」と心が揺れ始めた。

 P「そういうミッションであれば、やってみたいと思います。でもいちどそこへ行くと、またいろいろ絡めとられて出ていく機会と勢いを失ってしまいそうだし、それにいまはやさしい人が面倒をみてくれるかもしれないけど、人が変わったらまたどうなるかわからないですし・・・」

と不安がるプラムに、お師匠さまはまたやさしく、

師「自分はもう少しここにいるし、このアヒル村をなんとかして変えたいと思っているんです。出ていくのはいつでもできます。だけど、変えようとする人がいなくなれば、何も変わらないんですよ」

とおっしゃった。

プラムはお師匠さまのところで学んでいた頃のことを思い出し、いつも熱く語っておられた師の心のうちをよく理解していたので、そのことばは魂に響いた。

そしてなにより、もともとの自分は「この世界をよりよい方向に変えていきたい」という気持ちが強かったことを思い出した。

親アヒルにあれもだめこれもだめと言われ続け、そしてこれまでのやり方を変えるなんてトンデモナイという超閉鎖的村社会の厚い壁にぶつかり、毛色が違いすぎて孤立感を深めていくうちに、「変えよう」なんていう気持ちはどこかへ行ってしまっていたけど、アヒル村にも毛色違いや変種のような姿をしたのも数は少ないけどいるし、お師匠さまだってほかのアヒルとは全然違うことにプラムは改めて気が付いた。忘れかけていた本当の自分の心と姿が、思いやり深い師のまなざしを受けて、またはっきりとあらわになってみえてきた。

お師匠さまは「まだ決めるまで時間はあるんだから、もうすこし考えてごらん。ほかの世界に行くのもいいけど、この村を変えるほうが、ずっとおもしろいかもしれないよ」と、決して親アヒルのように決めつけたり一方的に押し付けたりせず、迷うプラムの心を大切にしながら、やさしく語りかけてくれた。

プラムは複雑だった。お世話になった大好きなお師匠さまの温かい心におこたえしたい、なにより「この村を変えたい」という師の思いのお手伝いがしたいという気持ちに迷いはない。だけど預けられ先での扱いが心配だった。そこへ行っても本当に大丈夫なんだろうか。またいじめられたり、ひどい目に遭ったりするんじゃないかなど、不安は尽きない。一方で「ほかの世界を見てみたい」という強い気持ちも変わらずあって、違う世界の鳥たちに会うたび、アヒル村しか知らないプラムは自分のものの見方や考え方が偏っていることに気付かされ、いろんなあたらしい発見があるのが楽しくて、いつも違う世界を見てまわることに憧れていた。アヒル村によく仕事でくる鳥さんに相談すると、「もちろん違う世界に行くのもいいよ。でもプラムがそこにいないと分からない、そこでしかできないことがたくさんあるんだよ。それはこちらの世界に来たらよく分かるし、もしかしたらこちらの世界は面白くないと感じるかもしれないよ」と言う。

ますます悩み深まり、考えすぎて毛が抜けそうになっていたプラムに、“預かり先”から再度連絡があり、「師匠もおとうさんも心配していたよ。あなたの将来を思えば、ここにしばらくいたほうがいいんじゃないかな。いつか違う世界に行くのもいいけど、いまはここでがんばっていれば、必ず道は拓けるから大丈夫だよ」と言ってきてくれた。多くの人が自分を心配し、配慮のうえに預け先も決められていたことを理解したプラムは、いま勇んでほかの世界に飛び出して行ったりして、この方々の思いを無下にすることはできないという思いのうえに、お師匠さまの温かさが届く距離でいられるうちは、このミッションをやってみよう、と心は決まった。

やると決めたら、仕事はきっちりやる。ミッションが明確であるほど、集中して取り組む。それがプラム。それに、ぴよぴよと勉強してきたことと今回のミッションが直結していることにも不思議な気持ちだった。別に誰に言うでもなく心に定めてやっているテーマなのに、なんで分かったのかな、というかやはり神様は見てくださっているんだな、と思うようなミッションを与えられたことは、とても自然な流れに思えたことも背中を後押しした。

遠くへ旅出とうとしていたプラムを心配していたおともだちも、報告に訪れたプラムが明るい顔をしているのを見て安心して、「おうちは引っ越しても、これからもまた一緒に遊べるね」と喜んでくれている。いろんなことがあったけど、こんなにまもられていて、そしてやさしくしてくれる仲間もいる。住み慣れた村をてくてく歩きながら、こんなにみんなやさしくしてくれて、自分は本当に恵まれていて幸せだとしみじみ思い、悲しいからではなく、人の情けが身にしみて、プラムは涙が止まらなかった。 

飛び立つ時期は延期になったけど、前よりもずっと自由に羽をのばして過ごせる場所での「あたらしい冒険」は、きっと楽しいものになる!!とプラムは確信している。

 


春一番!

2014-03-18 17:59:06 | Weblog

東京は本日、春一番が吹きました

ああ、いよいよ春がやってくるんだなあ・・・と日に日にうれしくなる、春生まれの「うめ」でございます

昨日、可愛らしい袴姿の女子大生をあちこちで見かけて、そうか、卒業式の時期なんだなと気付く。世間的には年度末で気忙しく、学生さんたちにとっては卒業という節目を迎え、社会人も異動や転勤があるので、春は別れと出会いの季節

この梅ブログを始めて6年になり、この間いろいろあったなあ・・・と思い返していたところ、私にも「卒業」が訪れた。天の介入が入った、としか思えないタイミング。もうこれ以上、心身ともに負担に耐えるのはいよいよ限界かな、と感じているときに、やっぱり神様はいつも見てくださっているし、耐えられないほどの試練はお与えにならないということを実感している。最終的にどうなるかは調整中だけど、私の心はもう決まっていて、まだもう少し先だと思っていた“卒業”が思いがけず早まって、驚きの一方で、心底ホッとしているというのが正直な心境で。

身体がおかしくなるほど変な環境にいて、「変だ」とわかっているのにこれ以上自分を傷つけてまで同じ場所にとどまっていることはできない。

「ここから出ても、どこにも行くところはないよ」「ほかのところに行っても、受け入れてくれるとはかぎらないよ」--ずっとそういうふうに言われ続けて、そうなのかなと思っていたけど、アヒルの子が少し成長して、羽の色や姿がいよいよ周りと際立って違ってきてしまうと、ここを出て同じ姿かたちの鳥たちといっしょにいたほうが幸せなんじゃないかと思い始めて、いつ飛び立とうかと空を見上げていた。

それが、いまなんだと思う。

成長したら、これまで着ていたお洋服もサイズが合わなくなる。それを無理やり着て、窮屈な思いをして、身も心も縮こまっていたら、本当に飛べなくなってしまう。

卒業するときには、いやな思いをしたことを含めて感謝できるようになっていたい、と思っていた。もちろん心にひっかかることや、思い出すのもしんどいこともあるけど、それもすべて自分の糧となるものであったし、これを通過しなければいまの自分がなかったと考えると、もういちどこの冒険をやりますか?と聞かれたら、ちょっと考えるけどやっぱり「やります」と答える。できるようになるまで、何度でもやる。いまここまで来れたのは、この道を通ってきたからだと思うし、たどり着いたいまの自分に誇りを持っているから。

いつ終わるかわからないときは苦しかったけど、出口がはっきりと見えると、いろんなこともやさしく思えるようになり、こういう気持ちで卒業を迎えることができることは本当にうれしいし、よかった。最後の仕事は、感謝の想いを伝えることだと思っていたから。

考えてみればこのブログを書き始めた時から、外に出たいとずっと思っていたんだった。6年越しに、ようやく状況が整いつつあるというのも感慨深い。どんなに願っても動けなかったけど、動くときは、ほんとにものすごい勢いで動くものであり、「人生の変わり目はだいたいにおいて、向こうからあなたを選びます。あなたが選ぶことはほとんどありません。ほんとに。」という村上春樹氏のことばはまさに「ほんとに。」という感じ。

そして座右の銘のアンのことばどおり、曲がり角を曲がった先になにがあるかはわからないけど、きっと「いちばんいいもの」があるんだと思っている


3月の光☆

2014-03-12 19:46:03 | Weblog

3月に入って、風は冷たかったけど、陽の光にはたしかに春を感じる今日この頃

昨日は2011年の東日本大震災から3年。あのとき中学生だった子は、ことし高校を卒業する。あの魂を揺さぶる答辞を読み上げた梶原君も高校生となって、ことしはどんな思いでこの春を迎えているのだろうと思う。

震災で亡くなられた方々、被害に遭われた方々、そのご家族へのお祈りを捧げながら、「ピエタ」が心に浮かんできた。理不尽と、深い哀しみ。十字架に磔にされたイエスさまと、愛するわが子を失ったマリアさまのお気持ちを想像すると、きっとたくさん「なぜ」と思われたんだろうと思う。悲しみや口惜しさと戦いながら、それでも運命を呪ったり天を恨むでもなく、一生懸命前を向いて進んで行こうとする梶原君の姿は気高く美しい。そして、イエスさまを抱きとめるマリアさまの姿にも胸打たれる。マリアさまの心のうちの深い哀しみが、絶望ではなく慈愛へと昇華するのは、「誰がわが子を殺したのか」とか「なぜこんなことを天はなさるのか」とか、そういう原因を追求して誰かを責めるのではなく、愛するわが子の身体を抱きとめるのと同じように、ただ現実に起きてしまった出来事をそのまま受けとめておられるからなのかな。理不尽な目に遭うと、思わず私は天を仰ぐけど、マリアさまはじっとわが子に目を注いでおられる。「なぜ」という思いはあっても、ただ抱きとめる=受容する。みんなそれぞれいろんな目に遭い、それぞれの哀しみが心のなかにあふれているときに、その出来事と哀しみにどんな態度で臨めばいいのか。梶原君と、マリアさまは、自分もこうありたい、と思わせてくれるあり方を示してくれている。

そして最も難しく、しかしだからこそいまもなお私にとってはすこし遠い存在であるイエスさまの生きざま。一切の言い訳もなさらず、むしろ自分を磔に追い込んだ人々の上に幸せを願いながら天に帰られた。イエスさまがご自分の命と引き換えに教えてくださった、魂をかけた壮絶な「ゆるし」と「愛」。人間、見たこともないものにはなれないけど、もし少しでもイエスさまのように、理不尽な目に遭っても品格と愛を忘れずにいることができたら、それを見た人がなにか感じることがあるかもしれない(感じない人は一生感じないと思うけど)。Christlike、ということばの意味を深くかみしめながら、どんなひどい目に遭ったとしても、なんとか踏みとどまって、誇りと愛を失わずに振る舞っていたいと思う。ほんとにほんとに難しいことだけど。

3.11の日に、そんなことを思いました。地上がheavenになるように、意志をもって生きなきゃいけないと、改めて心に誓いつつ。。。


3月の雪

2014-03-07 19:04:32 | Weblog

3月に入っても、東京はまだまだ寒さが続いております。三寒四温で、これから日に日にあたたかくなっていくのが待ち遠しい今日この頃

2年前の秋に体調を崩して以来、運動をやめざるを得なくなって、だけど健康のためにもなるべく歩く(一日一万歩以上)と決めていることもあるのですが、あちらこちらへと移動が多い毎日なので、てくてくと歩き回っている「うめ」でございます。

今日は遅いランチになってしまい、食後のコーヒーを頂きながらフーとひといきついていたら外を見ると雪が降っている。予想外でもあり、雪が降るとなんかワクワクしてしまって、帰りは雪がハラハラ舞う中を歩くのも乙でございました(ちょと寒かったですが)

“3月の雪”には、思い出がある。

2001年の早春。ある人が、お店の外へ出たら雪が舞い降りているのに気付いて、「3月の雪か。めずらしいな」とおっしゃったのが、すごく心にのこっている。なんかそれが「月さま、雨が・・・」「春雨じゃ、濡れていこう」の雪バージョンみたいで、ゾクっとするほどかっこよくって。それからしばらくして激動のドラマが始まり、いまにつながるとても大切なターニングポイントの一年となった。今日、雪が舞っているのを見て、そのときと同じような感覚になったんですよね。なんかあのときみたいな感じだな、と。

ということで、なんかこれからすごいことが始まるような気がしております。すごく楽しい“戦い”が。

波乱の予感に、私「うめ」は、ええ、もちろんワクワクしているところでございます


March comes like...

2014-03-01 16:21:57 | Weblog

ところどころ雪がのこっていた東京は、2月のおわりに4月上旬の春の陽気

2月は風邪インフルに見舞われ、その後も咳が続いてずっと具合が良くならなかったので早くあたたかくならないかなあと、春が来るのが心底待ち遠しい日々でしたが、このところ日差しのなかには既に春の訪れを感じていましたが、こうしてひとあし先に?ごあいさつに来てくれますと、季節は確かに春に向かっていて、これからは日に日にあたたかくなっていくんだと確認できて嬉しくなります「もうあと少しのがまんですよ」と、春の天使がお知らせにきてくれたような陽気でした

しかしこの風邪インフルはかなりしつこくて、ちょっと動くとまたすぐ具合が悪くなる・・・というのの繰り返しで、なかなか体調が戻らなくてしんどかったのですが、マッサージの先生に「そりゃインフルエンザだったんですから、身体はかなり、思っている以上に消耗していますよ。体内では、ウイルスとの大戦争が起こってたようなものですから、戦ってくれた身体に感謝しないと!!!」とご指摘を受け、ずいぶん寝てたからかなり休んだつもりになっていましたが、「体の内側では大戦争が起こっていた」という上手いたとえに感心しつつ、「うめ」国の戦力(免疫力)を考えても、敵(ウイルス)の侵入は許してしまったけど事前のflu shotで多少の防御壁は築いておいたこと、そしてくまさん先生による早期発見&空爆(吸引投薬)により敵の戦力を削いだこともあり、なんとかインフル軍を撃退することはできましたが、体内ではウイルスだけではなく、わが国の多くの免疫兵士たちも死屍累々であったことが、実際見てきたわけじゃないけど想像できます。「うめ」軍の戦力は決して盤石とはいえないのに、強敵・風邪インフル軍と戦い抜き、激戦の末なんとかこの“2014如月の戦い”に勝利をおさめてくれたこの身体が、より愛しくなります。いつも無理させてごめんね&ありがとうね

ちなみに「うめ」国政府発表によりますと・・・「うめ」国の“戦力”は自衛のために必要最小限の能力を有する部隊であって(Self Defense Force)、仮に“戦闘行為”が発生する場合はあくまで自国を防衛するためのものであって、周囲の国々へ先制攻撃を仕掛ける等の意図はまったくありません。これはウイルス等身体的な打撃を受けた場合のみならず、悪意やイヤミ等精神的なダメージを狙った攻撃に対しても、この「うめ」国自衛方針が変わるものではございません。ただ、友好国が攻撃を受けた(あるいは受ける可能性がある)場合におきましては、駆け付け救護や早期警戒情報の共有、空爆等、「うめ」国が保有する“戦力”のうち、わが国並びに友好国の平和と安全確保に資すると判断した場合、最高指揮官(「うめ」国内閣総理大臣)の判断により、これを提供することは“自国の平和と安全にかかわる事態”として、適時適切な行動をとることは必要であると考えております。

「うめ」国総理は、国是たる「自由・フェアネス・多様性の尊重」という価値観を共有している国家との友情を大切にしておりますからね

この際なのでちょっと触れておきたいのですが、このブログでは人間関係についてあれやこれやと綴ってきたこともあって、私なんかよりももっとずっと苦しい思いをされておられる方や、つらい境遇にいらっしゃる方が、なにかに引っかかってここをおたずねしてくださったのかな、ということを、時々お寄せくださるコメントなどから感じておりました。私「うめ」も、この世知辛い地上でいろんな思いはしてまいりましたが、人間やってると本当にいろんなことがありますし、自分が置かれている状況なんかよりもずっと苦しい思いをしておられる方は世の中にたくさんいるんだ、ということを忘れてはいけないなと反省いたします。たまたまここへたどり着いてこられた方だけでなく、つらい思いをしておられる方々(小さな子どもたちは特に)が、一日も早く元気に幸せに過ごすことができるようになりますようにと祈らずにはいられません

私「うめ」は、いろいろあってしんどいときはひたすら「無」になってドラクエをやったりする以外にも、今日書いたような、自分を主権独立国家、周りの人間関係を国際関係と見立てて、外交と同じように考えることは状況を客観的に捉える訓練にもなり、心も救われることが多いので、もし社会科学系がお好きな方は、こういう方法もご参考になればと思います。でもほんとに辛いときは「トムとジェリー」を観ても笑えなかったくらいでしたし(→how seriousであったことか)、なかなか頭では分かっていても、心に渦巻く曇りで気持ちも沈んでしまったりしますから、こんなふうに“遊べる”ということは、それだけ心の余裕が生まれた(深刻な状況は過ぎている)ということでもあって。とはいえいまも、ちゃんとまばたきして息をする以外、ほぼすべてのスイッチをオフにして心を守っていないと結構しんどい状況にあったりもします。それは一日のうちで限られた時間ではあっても、やはり心の澱というのは溜まっていきますので意識してメンテナンスをかけてはいるのですが、こういう対処の仕方(心のシャットダウン)は、自分の心が氷のようになってしまっているからなんだろうか、と自問することもあります。本当に心が凍り付いてしまってはいけないけど、だけどきちんと守るべきは守らないと身体がもたないのも事実なので、ドラクエ的にいえば、「ぼうぎょ」に徹するところは徹して、そしてレベルアップのために外へ戦いに出て行くというのがいま私にできる精一杯のことなのかな、と思っているのですが。

真央ちゃんのことばどおり、誰も自分と代わってもらえるわけじゃないし、自分の運命は自分で引き受けて、乗り越えていくしかない。それぞれが、それぞれの「自分との戦い」において、それぞれ置かれた状況のなかで大変なのだと思います。自分はそういうことは絶対しない、と思うことを毎日見たり聞いたりされたりするのは大変なストレスではありますが、人は自分がされてきたこと、特に「自分がいやな思いをさせられたから、同じことを他の人にしてやろう」と考えてやる人たちは、残念だけど実際世の中にたくさんいるのも事実ということも知りました。たとえば姑にいびられたからとか、先輩にいじめられたから、自分が同じ立場になったときは、同じことをしてやろうと思って嫁や後輩にいやな思いをさせるとかね。だけどそういう“負の連鎖”は誰かがどこかで断ち切らないといけないと思うんです。自分がいやな思いをしたからこそ、こんな思いはほかの人にはさせたくない、自分はそういうことは絶対しないと思わせてくれる環境は、しんどいけどやはり世の中のいろんな側面を学べた。キョウレツな苦痛は伴いますが、そういう経験ができたことに、感謝の思いは持っていたいとは思っています。

私が大切にしている人たちはみんな、尊敬や信頼、思いやりややさしさをベースにしたあたたかな友情が通い合う素晴らしい方々ばかりですし、しかしそんな人たちだけで世の中が構成されているわけではないということもさすがに分かってきましたし。だけどまあ、世の中の多様性(負の側面)はもううんざりするほど見せてもらったから、もっと「ええもん」が見たい、というのが正直な気持ちでもあってもちろん自分も至らないところはたくさんあるから自己反省も怠ってはならないのですが、信頼も尊敬もできないような人たちに対しても、「こういう世界もある」ということを教えてくれてありがとう、というふうに思いつつ、でもあんなふうに仕返しや意趣返し、イヤミや当てこすりなど、私にはやっぱりできないな、としみじみ思います。できないというか、そもそもそんなことすることは恥ずかしいことであり、「やられたらやり返す」という発想が自分のなかにないということに加えて、結局のところそんなことにエネルギーを使うのはアホらしい、ということに尽きるんですけどね。彼ら(=ダークソウルズ)はそういうことに命かけていて無限に仕掛けてきますから、あっち側からの攻撃に終わりはないので、まともに相対してたらこっちは疲れ果ててしまうだけですもの。

でも状況を冷静に観察できるようになってくると、人の「意図」を見抜けばたいしたことはない。なぜなら人は自分のなかにあるものしか口に出さないし、人の行動はその人の内面の反映そのものであるから。これは本当に見ていても面白いほど人はこの通りに動きますね。だから誰かが何か言ってきたとして、人を傷つけようとして言ったりやったりしていることは、そのままその人が同じことをされたら傷つくからやってるんだろうな、と分かってくる。「ああ、この人はそういうことをされると自分が傷つくから、ほかの人も同じように傷つくと思ってやってきてるんだなあ」と、いい悪いの判断を抜きにして眺めるような感じでいると、まああんまり見てて楽しいものではありませんが、彼らは無意識のうちに自分の「意図」と「弱点」を同時にさらけ出している、ということが分かります。なんてご親切なというか、「かしこさ」のレベルもよくわかるというか。決して理解はできませんが、なんでそんなことするのかな、という疑問への回答にはなるというか。

だからといって、彼らの弱点が分かったとしても、それを突くようなことをわざわざ言ったりやったりして彼らと同じ土俵に乗ってやることなんかありません。自分にへばり付いてきた泥はちゃんと落として(毎日洗濯が大変ですけどね)、世の中にはそういう人たちがいるんだなあ、と流せるようになればこっちのものです。これをにこやかにできればいちばんいいのですが、私はまだまだ修行が足りないので、顔はすごく無表情(-_-)ですが、心のなかではそういう観察眼でもって対応するようにしています。無表情でいること=冷たい、と思っていたのですが、「顔に出さない」のは「感情を悟られない」という武器にもなるんだな、ということも最近の発見。何を言われてもやられても無表情でノーリアクションを貫いていると、こちらの反応を期待してやってくる側としては、期待外れというか、ある種の気持ち悪さがあるのかもしれません

でも彼らはしつこいから、「あきらめて攻撃してこなくなる」ということはありませんけどね。こちらがいくら彼らに関心を払わなくても、彼らはこちらに関心を持っていろいろやってくる。これは私が最近到達した結論ですが、“ものすごい悪意”に対しては、「超然主義」は通用しません。もう自分の存在そのものが憎まれている、というところではね。自分に理由があろうとなかろうと、誰かを排除しようとするのは、“その人の存在により自分の立場が脅かされている”という恐怖心の裏返しなので、だからこそ彼らは全力でやってくるわけです。無事その人を排除したからといって、自分の価値が高まるということではないにもかかわらず、なぜそんなことに時間とエネルギーを投下するのかというと、その人がいなくなれば、相対的に自分の価値が(上がらなくても)下がることはないと信じているという、ほとんど“おめでたい思い込み”で構成されている世界がこの世にはあるということなんでしょうね。この世には別の世界もたくさん存在しているということを知っていれば、そんな狭い世界のなかで目くそ鼻くそを笑うような(excuse my language)違いを摘発糾弾することに躍起になることもないのに、と私なんかは思うのですが、「自分の所属している場所が世界のすべて」と信じている“ムラ社会”においては、よそ者(“違う価値観”を持つ人)は彼ら(“ムラ”所属住民)にとっては許しがたい悪であり、全力で排除にかかる、というのは大いなる学びでした。現状維持こそ彼らにとっては“至上の善”であり、ましてや“改善”を図るなどというのは迷惑でしかない、ということも。

もうこれは自分個人の資質の問題を越えている部分があるので、仕方ないと割り切るよりないと思うに至ったのですが、まあしかしその時間と労力を自分の向上のために使えばいいのにという思いはありますが、まあ忙しくてそんな時間はないんでしょうね・・・というか、逆によほど時間に余裕がおありでなければそんなことする暇はなさそうな気がしますが、他人との比較のなかにしか自分を認識できない方々は、永久にその無限ループのなかで進んでいかれるだけなんだろうな、と考えると、それぞれの生きざまはすべてその人の選択によって形成されているに過ぎない、ということがよくわかります。持って生まれた性質は多少あるにしても、すべては自分が選んでやってきた結果ですから、まわりがどうあろうとも、私は私が信じて大切にしている価値観に基づいて人生を送り、その生きざまでもって“お返し”する、それが“恩返し”となれば一番いい、と思っています。もちろんその評価はそれぞれのご判断、すけど。

なんか読んでくれている人を励ますようなことを、と思って書き始めたら、思わぬところから魂に火がついてしまいましたが こんなふうに、自分の魂を“着火”させてくれる人の存在というのは本当にpreciousで、やはり人は人のなかでしか生きられない、ということもまた思い知ります。

ともあれ今日から3月。春に向けて、ぐんぐんと新芽が伸びていくように冬のあいだに培ったことを美しい花として咲かせることができるようにがんばっていきましょうね