ドラクエ5では、4の世界から数百年経ち、天空城が湖の底に沈んでいるのを復活させるというミッションがある。すごく好きなのが、地上のすべてを見通すマスタードラゴンが、天空城から地上の人間たちを眺めて、「人間もなかなかいいものじゃな」と言い残して、こっそり人間界へ潜入して行方不明になっているという設定。4では、人間の若者と恋に落ちた天空人を許さなかった厳格なマスタードラゴンに、いったいどういう心境の変化があったのか??
この現実世界で、いろんなことが起きるたび、落ち込んだり心が折れそうになったりするたび、「人間なんて大キライ
」モードになることがしょっちゅうだけど、このマスタードラゴンの気持ちがなんかわかるのは、普段はあれほど自分勝手で、強欲で嫉妬や憎しみなどにまみれた醜い争いを繰り返している人間たちが、ときたま驚くような美しい行動をとる。たとえば「のび太の鉄人兵団」(ドラえもん映画の中でも屈指の名作!!)で、敵であるリルルを助けようとするのび太の行動を、ロボットのリルルは理解できず、しずかちゃんにたずねる。
リルル「人間のすることってわからない。どうして敵を助けるの」
しずか「
時々理屈に合わないことをするのが人間なのよ」
小学生で既にわかっておられるしずかちゃんのこのセリフ。だけどその「理屈じゃない」ところに人間らしさがあるのですよね。のび太は逃げようとするリルルに、「撃って!!」と言われるが、どうしても撃てない。リルルは「意気地なし!!」と言って、のび太を気絶させて泣きながら去っていくが、この心に打たれて、鉄人兵団の親分たちに「人間は悪い人たちばかりじゃありません」と擁護の演説をする。これは映画「シュリ」で女工作員が、工作した相手に殺されそうになるけど、しかしどうしても相手の男を愛するゆえに撃てないというシーンと並んで、私の心の琴線をかき鳴らす場面
マスタードラゴンにしてもリルルにしても、そういう「理屈にあわないことをする人間」に興味を示し、心を動かされたのだろうと思う。実際人間界にいても、自分でも理屈に合わないことをいっぱいしているし、そこが人間やっていて面白いことでもある。人間には情というか、心という不思議なものがある。うつくしさのレベルにおいて一定の心の状態はあっても、清らかだったり、時々ブラックになったり、多面的でリアクティブで。宝石の原石のような感じなのかもしれない。ところどころキラキラ輝いていたり、まだ磨かないといけないところがあったり。もちろんみずからを律して、感情に揺がれない、温厚な人格者には敬服するけど、やっぱり感情がたくさん動いた方が楽しいし、生きている実感がある。
理屈だけでは、人は動かないし、情というファクターが絡みながら、予想もつかないドラマが起こったりする。「こうすれば、こうなるだろう」みたいな予測可能性が適用されたり適用されなかったり、思わぬ行動に出て、周りは理解不能、本人もなんでそんなことしたのか説明できなかったりと、「全部きれいに」説明できないし、「全部きれいな」行動ばかりじゃない。むしろ、「きれいな」のは少ないのだろうと思うけど、そんな世知辛い世の中で光輝く心のうつくしい人に出会ったり、期待していてもなお期待以上に笑わせてくれる人がいたり、口は悪いけど本心は温かかったり、本当に人間は複雑怪奇な生き物なのだろう。このドラえもんの
名言集にふれるだけで、「人間ってなんていいものなんだろう」と思ってしまうではないか
地上に降りてきたマスタードラゴンは、すっかり人間の世界になじんで、戻ってきて元の姿に戻っても、威厳のある言葉遣いでしゃべるのが面倒くさくなって、ついカジュアルな物言いをして天空人の従者をびっくりさせてしまったり、お茶目な一面を持ち合わせるようになる。大変人間らしいというのか、全知全能の完璧な神より、ギリシャのムチャクチャ人間くさい神様たちの方に激しく親近感を覚えるのと似ている。マスタードラゴンの姿のときはかっこいいのに、世を忍ぶ仮の姿であった「プサンさん」のときはなんか頼りないのにね、なんて主人公の息子(8歳)に言われたりするほどだ。完璧であることが魅力であるのではなく、すこしの欠点と愛嬌がある方が、より好ましかったりするのも人間ならではなのかもしれない。
なにより地上はお酒もご飯も美味しいしね
リルルはロボットだから食べなかったかもしれないけど、「プサンさん」はお酒が非常にお気に召していたようで、祝宴で酔っぱらってご機嫌であった。そこもまた親近感を覚えたりする。
人間やってるのも、そう悪いもんじゃないなあと思う今日この頃でござる